2020年6月21日 主日礼拝「信仰の道」

本日の聖書箇所

ヨハネの手紙第一2章18〜29節

説教題

「信仰の道」

今週の聖句

あなたがたは、初めから聞いたことを、自分たちのうちにとどまらせなさい。もし初めから聞いたことがとどまっているなら、あなたがたも御子および御父のうちにとどまるのです。

ヨハネの手紙第一2章24節

訳してみましょう。

2205 All lives matter Jesus died for us all.
2206 Commitment to God goes hand in hand with commitment to His church.

礼拝式順序

開 祷
讃美歌  352番「あめなるよろこび」
主の祈り 564番「天にまします」
使徒信条 566番「我は天地の」
讃美歌  501番「いのちのみことば」
聖 書  ヨハネの手紙第一2章18〜29節
説 教  「信仰の道」佐藤伝道師
讃美歌  294番「みめぐみゆたけき」
献 金  547番「いまささぐる」
頌 栄  541番「父、み子、みたまの」
祝 祷

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説教「信仰の道」

佐藤伝道師

 先週は「神の民の誕生」について見ました。本朝はその神の民が歩む「信仰の道」について見てまいりたいと思います。

 神の民、信仰の道。それを聞いて皆さんは何かイメージされるでしょうか。私にはひとつのイメージが浮かんできます。それは出エジプトを果たしたイスラエルの民が約束の地を目指して荒野の旅路を、また異教の地の真ん中を整然と列をなして進む姿です。そこでまた別のイメージと重なったのですが、それはこの時期、毎年行われている「マーチ・フォー・ジーザス」です。私たちが主を賛美しながら街を歩くあの姿が、荒野を旅する、異教の地の真ん中を、約束の地を目指して進んで行く神の民の姿と重なりました。

 出エジプト記を見ますと、出エジプトを遂げた民の中には、在留異国人や奴隷が多く含まれていたことが分かります(出1237-38)。彼らはモーセの呼びかけを聞いてイスラエルの民の中に留まって、イスラエルの民とともに約束の地へと向かって行きました。その中のある一部の人たちは後に問題を起こすわけですが、一部の人たちは、きっとイスラエルの民とともに旅をする、生活を共にする中で色々なことを経験して、同じ救いのプロセスを踏んでいって、本当の意味で神の民の中に留まった、同じ信仰に留まった人たちもいたのではないかと思うのです。

 マーチ・フォー・ジーザスではないのですが、クリスマスの時期には毎年キャロリングが行われます。去年か一昨年のキャロリングでした。私たちが歌う讃美歌を聞いて一人のノンクリスチャンの男性が賛美の輪に加わって下さいました。讃美歌には神さまのみことばと、信仰の体験によるたくさんの教え、信仰告白、証しがあります。それを聞いてその輪に加わった男性が一人いたというのは素晴らしいことだと思います。私たちは約束の地を一心に目指してまっすぐ進んで行く。その中で色々な体験を通して神さまへの賛美が内側から自然と湧いてくる。その賛美の声、私たちの生きた信仰告白を聞いて周りの人々が神の民の群れへと加えられて行くのです。

 「歌いつつ歩まん、この世の旅路を ハレルヤ、ハレルヤ」と私たちは賛美しますが、私たちはこの世の旅路を信仰をもって歩んでいます。今歩んでいるこの世の旅路こそ、主を讃える道、信仰による喜びの道、勝利の道です。私たちはこの信仰の道をどのように歩んで行くべきでしょうか。

 本朝与えられましたみことばは、ヨハネの手紙第一2章18節からですが、その冒頭で「小さい者たちよ。今は終わりの時です」と呼びかけられています。今の終わりの時の中で、約束の地を目指して歩む信仰の道を、神の民としてどのように歩んで行ったら良いのか。そのことを今朝は見てまいりたいと思います。

 お祈りを致します。

 天の父なる神さま、御名を崇め賛美致します。本朝もともどもに御前に召し出され、みことばをいただく恵み、幸いに感謝致します。このひととき、どうぞ聖霊様がお一人おひとりに臨んでくださって、それぞれにお語りくださいますようにお願い致します。霊的な知恵、理解力を与えて下さって、神さまのみこころを深く知ることができますように。私たちの救い主、キリスト・イエス様の御名によってお祈り致します。アーメン。

2章18節      小さい者たちよ。今は終わりの時です。あなたがたが反キリストの来ることを聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現れています。それによって、今が終わりの時であることがわかります。

 今は終わりの時だと言ってます。この「時」というのは、神さまの時です。

 神さまの時というものは決して目的無しに流れているのではありません。また同じ事の繰り返しでもありません。確かに聖書を辿ると、人間が失敗して、神さまによって赦されて、そしてまた失敗してと、そんな同じことの繰り返しのような歴史が描かれていますが、時というものは、永遠に変わることのない神さまが定められた「神の国の完成」という目的に向かって確実に進んでいるのです。

 そして「今は終わりの時」。今は最終段階に入っています。なぜそれが分かるのでしょうか。

 イエス様は言われました。教会の玄関の横にはいちじくの木がありますけれども、「いちじくの木の枝が柔らかくなって、葉っぱが出てくると、夏の近いことが分かるでしょう。それと同じように、あなたがたは前兆によって今が終わりの時であることが分かるのです」(マタ2432)。

 私たちも気付いているはずです。反キリスト、つまり偽キリスト、私たち神の民を惑わす様々なものの出現というしるしが世の中に色々と現れてきていて、それを私たちはひしひしと「感じている」のではないでしょうか。

2章19節      彼らは私たちの中から出て行きましたが、もともと私たちの仲間ではなかったのです。もし私たちの仲間であったのなら、私たちといっしょにとどまっていたことでしょう。しかし、そうなったのは、彼らがみな私たちの仲間でなかったことが明らかにされるためなのです。

 「もともと私たちの仲間ではなかった」と厳しく言われてしまった人たちは、私たちの中から出て行ってしまった人たちでした。

 ここで「私たちの仲間」とありますが、教会は何をもって「仲間」となるのでしょうか。ただ親しいだけでは教会とは言えません。どんなに親しいからといって、それで神の民となるのではないのです。神の民、教会は神さまの声を聞いて集められた人たちで、同じ信仰を告白する仲間でしょう。私たちの中から出て行った人たちは、同じ信仰告白の中にとどまっていられなかった人たちです。

 実際にこの手紙が記された1世紀末から21世紀の現代まで、イエス・キリストの名を語る異端であるとかが世にたくさん現れて来ていて、そのほとんどは教会の中から起こって来ましたし、起こってきています。ですから、きょう主が再臨されてもなんら不思議はない終わりの時がずっと続いているのです。

 その信仰の旅の道を阻むもの、神の民の群れから迷い出させようとする存在、反キリスト、偽キリストの存在が、いつの時代であっても常にあって、私たちはいつもその危険と隣り合わせなのです。

 聖書は物事や出来事の背後にあるサタン、悪霊の存在を常に警告しています。私たちは信仰の道から私たちを迷い出させようとする霊的な存在にこそ気をつけなければなりません。

 しかし安心してください。聖書は次のように約束しています。

2章20節    あなたがたには聖なる方からのそそぎの油があるので、だれでも知識を持っています。(新改訳2017では「あなたがたには聖なる方からの注ぎの油があるので、みな真理を知っています」となっています。)

2章21節    このように書いてきたのは、あなたがたが真理を知らないからではなく、真理を知っているからであり、また、偽りはすべて真理から出てはいないからです。

 ヨハネは、読者が真理を知っているので、反キリストを見分ける力をすでに持っているのだと言っています。聖なる方からの注ぎの油。それはつまり、信仰告白と洗礼を通して、イエス・キリストを救い主と信じるすべての人に注がれている聖霊のことです。私たちの内には聖霊が住まわれているので、全員が福音の真理を知っているのだと力強く宣言しています。

 ここで記されている「知る」ですが、聖書では殆どのところで「知る」というのは体験的に知る、理性的に知るの意味で用いられていますが、ここでは別のギリシャ語が使われていて、「直感的に知る」「感覚器官(見る・聞く・触る・味わう・臭いを嗅ぐなどの感覚)を通じて見分ける・捕らえる」という意味の「知る」が用いられています。私たちは聖霊によって私たちを惑わす様々な出来事の中で、聞こえてくる色々な声の中で直感的に反キリストを見分けることができる。信仰の道の途上にあって、このことは是非覚えておくべきことだと思います。その確信によって神さまの声を聞き分けていきましょう。

 そして2章22節。

2章22節    偽り者とは、イエスがキリストであることを否定する者でなくてだれでしょう。御父と御子を否認する者、それが反キリストです。

2章23節    だれでも御子を否認する者は、御父を持たず、御子を告白する者は、御父をも持っているのです。

 教会が長年告白し、その告白によってキリストをかしらとする教会、キリストによって導かれている神の民とされている、その信仰告白を今一度しっかりと確認し、自分自身に「毎日」「いつも」照らし合わせて行きましょう。何か間違っていないだろうか、間違った考え、曲げられた真理が神の声となって聞こえてきてはいないか。今、聞こえてくる声は本当に神さまの声なのか、しっかり自己点検してまいりましょう。その判定基準は、「イエスがキリスト、私の救い主であるという事を否定する、疑うもの」のことです。

 さて、ここで信仰告白について少し見たいと思います。信仰告白、私たちが信仰告白に用いている使徒信条とは何か。それは神の民が神の民であるために立つべき信仰の土台のことです。信仰の基礎です。使徒信条を見てみると、シンプルだけれども私たちの信仰ズバリそのものを告白しているではないですか。

 教会の歴史は常に反キリスト、偽キリスト、異端との戦いの歴史でもありました。その戦いの中で、正当と異端とをはっきりと区別するために、教会が立つべき信仰の土台、信仰の指針を定めて、それを公に発表する必要がありました。そこで発表されたのが「信条」「信仰告白」です。使徒信条を大切にしていきましょう。

 戦う相手は時代により、また個々の教会によって様々です。例えばコリント教会は道徳的な問題がありました。ガラテヤは救いの問題、テサロニケはキリストの再臨問題が論争の中心でした。ペテロの手紙では苦難の問題が強く打ち出されていますし、そして今日のヨハネが取り扱っているのは、エペソを中心とする小アジヤの教会の中に起こっていたキリスト論でした。キリストとは誰か。それは教会が教会として立ち、歩み続けるための真理の根幹、根本にかかわる大きな問題でした。そこに信仰告白はとても重要となります。また、教会がそれぞれ色々な問題があったのと同じように、神の民である私たち一人ひとりの歩みの中にも、それぞれに違った信仰の戦いがあります。そこでヨハネは勧めるのです。

2章24節    あなたがたは、初めから聞いたことを、自分たちのうちにとどまらせなさい。もし初めから聞いたことがとどまっているなら、あなたがたも御子および御父のうちにとどまるのです。

2章25節    それがキリストご自身の私たちにお与えになった約束であって、永遠のいのちです。

 初めから聞いている正しい信仰告白、基本の「き」にとどまるようにと勧めています。そこにとどまっているならば私たちはイエス様と父なる神さまのうちにとどまることになります。それが私たちの救い主、私たちをご自身の十字架のみわざによって義とされたキリストの約束してくださったもの、「わたしにとどまっているなら、最後の最後、神の国の完成にいたるまで、滅びることのないようにあなたのいのちを守り、導こう」という確かな約束。契約書に聖霊による判子が押された破られることのない約束。つまり永遠のいのちを得ることなのです。

 「小さい者たちよ。今は終わりの時です」と書き始められた、その内容の目的が記されています。

2章26節    私は、あなたがたを惑わそうとする人たちについて以上のことを書いて来ました。

 ヨハネは、あなたがた、神の民を惑わそうとする人たちについて以上のことを書いてきたのだと言っています。

 聖書の中で、神の民はいつも、旧約のはるか昔から新約の現代に至るまで、常に約束の地を目指して、あるいはどこか目的地を目指して信仰の道を歩いています。前進しています。そしてその道の途中ではいつも試みられ、惑わされ、そして信仰の戦いをしています。その繰り返しのような出来事が聖書の初めから終わりまで記されています。そして今はその終わりの時。ますます戦いは激しくなるでしょう。

 みことばの光ではルカの福音書を見ていますが、先日はルカの福音書8章で、向こう岸を目指して舟で湖を渡ろうとしいる弟子たちの姿を描いています。その途中、突風が吹き下ろして弟子たちは死にそうになりました。イエス様は風と荒波を叱りつけられました。すると風も波もおさまりました。この時イエス様が叱りつけられたのは自然現象に対してだったのでしょうか。そうではありません。イエス様は何かに対して叱られる時は、いつもその背後にいる私たちを惑わす霊的な存在、行く手を阻もうとするサタンの働きを見ているのです。

 それは今の実際の私たちにとっても身近な戦いです。例えば礼拝に行こうとすると邪魔が入る。落ち着いて聖書を読もうとすると邪魔が入る。お祈りしようとすると雑音が聞こえてきてしまう。実は霊的な世界に生きている私たち、そして霊的なことに対する反対の力は、単なる自然現象によるものだと言い切れるでしょうか。

 その行く手を阻もうとするもの、惑わす声。それらは今の終わりの時、益々強く、益々巧みに神の民を攻撃してくるのです。神の民をその共同体から、また信仰から迷い出させようと、直接手を下すのではなく、巧みに罪へと誘(いざな)おうとするのです。人間が自らの足で罪の方向へと歩き出させようとする。それがサタンのやり方。そして罪の結果は、群れから迷い出て、神さまとの関係の断絶となって、永遠の滅び、死となるのです。

○私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。(イザ536

○さて、あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者であり、かつては、それ らの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました。私たちもみな、不従順の子らの中にあって、かつては自分の肉の欲のままに生き、肉と心の望むことを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。(エペ21-3

 この聖書箇所は、人間の罪を表現する代表的なみことばです。人間の罪とは、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって進んで行くこと。自分の肉の欲のままに生きどこかに向かって自分の望むままに歩いて行くことです。そしてその結果は神さまとの関係の断絶。滅び。死。

 イザヤ書では神の民が羊にたとえられています。そして荒野において、羊がその群れからはぐれ迷い出ることは、弱い羊にとっては即、死を意味します。群れから離れ、関係が断絶し、滅んで行く。滅ぶとは段々と朽ちるようにして消えて行ってしまうことです。

 しかし、神さまは私たちが滅ぶことを望まれません。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ316

 私たちが滅ぶことのないように、ひとり子であるイエス様をお与えくださいました。そして私たちの罪の身代わりとなって、十字架に架かられ罪の代価を支払って買い戻してくださいました。そのことをただ信じるならば私たちは義とされる。永遠の滅びから救われて永遠のいのちが与えられるのです。それほどまでに私たちは愛されている。尊ばれている。ただ感謝ではないですか。

 真のキリスト教信仰は、一言で言えば感動の宗教と言えるかもしれません。異端や仏教など他の宗教では修行などの行いが求められたり、自分で考えて考えて、ようやく救いを自分の力で掴み取ろうとするものではありません。神さまが私たちの救いのためにすべてを成し遂げてくださった、その救いのみわざをただ信じて受け取り、感動して、応答する。神さまの私たちに対する愛に心から感動して、心から神さまを愛するようになる。自分の身も魂もみなささげなければならないという気持ちになって、正しく生きようとかいう応答の生活が生まれてくるのではないでしょうか。

 この手紙を書いた同じヨハネが、ヨハネの福音書でイエス様が言われたおことばを証言しています。「神のわざを行うためには、私は何をすべきでしょうか」と問う者に対してイエス様は答えられました。「神が遣わした者をあなたがたが信じることである」(ヨハ628-29)。

 私たちクリスチャンが唯一すべき業とは、神が遣わしたイエス・キリストを信じ、そのイエス・キリストのことば、声にとどまることです。神は私たちに完璧になれと命じられたのではありません。心といのちを尽くして神を愛し、みことばに、神にとどまり続けて、今、すでに目の前に続いている約束の地、天国に向かう道を最後まで守られて、導かれて、そこで祝福を受けるようにと命じられるのです。

 「とどまる」とは、ヨハネが好んで用いる特徴的な語で、また信仰においては重要な語となっています。別の箇所では「泊まる、宿泊する」と訳されており、「住んでいる、ともに生活している」という意味もあります。生活しているとは、私たちが実際に家族で生活しているように、親しい人格的な交わりがあるということ。愛に基づく色々なやり取りがあるということです。そして「とどまる」ことの中には、「ためし」「見抜き」最終的に「勝利を得る」ことも含まれています。

2章27節    あなたがたの場合は、キリストから受けたそそぎの油があなたがたのうちにとどまっています。それで、だれからも教えを受ける必要がありません。彼の油がすべてのことについてあなたがたを教えるように、−−その教えは真理であって偽りではありません−−また、その油があなたがたに教えたとおりに、あなたがたはキリストのうちにとどまるのです。

 私たちの内には,キリストから受けたそそぎの油、聖霊がとどまっています。その聖霊が、罪へと誘い神の民の群れから、また真の信仰から迷い出させようとするたくさんの声が聞こえてくる中で、すべて真理を教えてくださいます。

 私たちの周りにはたくさんの反キリスト、偽キリストが満ちています。それが真理であるかのような声が満ちています。何かに迷ったら、スマホを取り出して調べて見ればたくさんの答えがすぐに出て来ます。私たちはその中から自分の好む答えを選択することもできてしまいます。しかしその声は、本当に、永遠のいのちへと導く声、羊飼いなるイエス様の声なのか。それとも永遠の滅び、死へと誘う声なのか。私たちを死へと誘う存在は、光の御使いを装うのです。

 しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。(ヨハネ1426)。

 ここにイエス様ご自身の確かな約束があります。しかしここに重要な注意点があります。聖霊はすべてを教え、すべてのことを思い起こさせてくださる。思い起こさせてくださるのは、イエス様のことば。神の民の群れを率いる羊飼いなるイエス様の声です。聖霊はイエス様が語られなかったことは語らないし、何か付け加えることもないのです。ですから私たちは毎日、主にとどまっていなければなりません。主とともに生活し、親しい交わりをもって声を聞いていなければならないのです。そうでないと声を聞き分けられないし、聞き逃してしまうこともあるからです。

2章28節    そこで、子どもたちよ。キリストのうちにとどまっていなさい。それは、キリストが現れるとき、私たちが信頼を持ち、その来臨のときに、御前で恥じ入るということのないためです。

 今は終わりの時。いよいよ神の国の完成の時を迎えようとしています。主は約束通り再臨されます。その再臨がいつ起こるのかは分かりませんが、クリスチャンとは、もしかしたら今日、主が再臨されると思いながら生きる者でしょう。それは希望であり期待です。そして正しく生きようとする動機ともなるのです。それはキリストの内にとどまることによって正しい信仰告白を守り通すことであり、また神の愛を受けて正しく応答する生き方でもあるでしょう。

2章29節    もしあなたがたが、神は正しい方であると知っているなら、儀を行う者がみな神から生まれたこともわかるはずです。

 神が正しい方であれば、神から生まれた神の民も正しい行いをするという真理が示されています。私たちの今のすべての行いは、神さまの愛に対する正しい応答となっているでしょうか。義なる神さまが私たちに求めておられる義とは、神が遣わしたイエス・キリストを信じること。キリストのみことば、声にとどまり、キリストのうちにとどまることです。そして私たちは、神の民として、共同体としてキリストのうちにとどまっていることも忘れてはなりません。同じ主の御声を聞き、その声に従う群れです。神の民として、ともに約束の地を目指して信仰の道を歩んでいる共同体です。

 神の救いを得たことは、その救いの意味の深さを知っていく歩みの第一歩でもあり、罪を捨て、聖められ、神に助けられながら神の導きに従って行く人生の中で、イエスに似た者とされていきながら、天の御国の幸いにあずかる日々、そのような信仰の道を歩くことへと導き入れられたことです。悲惨な出来事があったり、希望が断たれたかのように思えるときも、神さまにとどまり続けるならそこから新しいことをなしてくださる。どんな状況においても神に依り頼み、最後まで忍耐をもって神に従い続け、神の祝福を受けようではありませんか。何が起こっても神の恵みの中にいることを信じ、信仰によって歩んで行く中でいよいよ聖められ、新しく造りかえられて行き、終わりの時、約束の地に辿り着いた時に、私たちは主の前に恥じることなく立つことができるのです。

 「歌いつつ歩まん、この世の旅路を」。希望をもって、喜びをもって、生活の中に信仰告白を、また祈りでもある賛美を絶やさずに、私たちの目的地、天のエルサレムを目指して、信仰の道をともに歩んでまいりましょう。

 お祈り致します。

 天の父なる神さま、御名を崇め心から賛美致します。みことばを感謝します。今日からのそれぞれの歩みが守られますように。主の御声のみに聞き従ってまいります。世の様々な惑わす声からお守りください。主キリスト・イエス様の御名によってお祈り致します。アーメン。

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