2020年8月23日 主日礼拝「生かす福音」

本日の聖書箇所

ローマ人への手紙1章8〜15節

説教題

「生かす福音」

今週の聖句

ですから、私としては、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を伝えたいのです。

ローマ人への手紙1章15節

訳してみましょう。

2223 If we take care of our character, our reputation will take care of itself! —Moody
2224 The highest motive for obeying God is the desire to please God.

礼拝式順序

開 祷
讃美歌  2番「いざやともに」
主の祈り 564番「天にまします」
使徒信条 566番「我は天地の」
讃美歌  183番「主のみたまくだりまし」
聖 書  ローマ人への手紙1章8〜15節
説 教  「生かす福音」佐藤伝道師
讃美歌  224番「勝利の主イエスの」
献 金  547番「いまささぐる」
頌 栄  541番「父、み子、みたまの」
祝 祷


讃美歌2番「いざやともに」
讃美歌183番「主のみたまくだりまし」
讃美歌224番「勝利の主イエスの

音声はこちら

動画はこちら

説教「生かす福音」

ローマ人への手紙1章8〜15節

佐藤伝道師

 先週は冒頭で「終戦の日」を覚えて「平和の証人」について一言申し上げましたが、それに関連して1つのテレビ番組を見ました。それは第二次世界大戦中、ユダヤ人の大量虐殺が行われたアウシュビッツ強制収容所のガス室跡の地中から謎のメモが見つかって、それが75年の時を経て最新技術により解読されたというものでした。そのメモというのは、ユダヤ人をガス室へ誘導する役割や死体処理などを担った「ゾンダーコマンド」と呼ばれた人たちによるものでした。そのメモによって、アウシュビッツの中で、いかに悲惨なことが起こっていたかが明らかにされたのです。

 ゾンダーコマンドのメンバーというのは、殺されて行くユダヤ人の同胞、同じユダヤ人でした。彼らは同胞の虐殺に手を貸したのです。そこには当然、私たちには到底理解できない、どうしようもない事情があったことでしょう。従わなければ自分が殺されてしまう、でも仲間を裏切ることになってしまう。

 しかし彼ら自身が証言しているのは「何としても生きたかった」というものでした。同胞に、同胞の小さな子どもにまで「裏切り者」と呼ばれた男たち。

 やがて解放の時を迎えるのですが、殆どのゾンダーコマンドたちは口封じのために殺されていく中、一人、逃げのびたメンバーがいました。彼は解放後に結婚をし、家族を持ちその生涯を終えました。その娘という人がインタビューされていたのですが、娘は自分の父親がゾンダーコマンドであったことを、そのメモが見つかるまで知らなかったのだそうです。彼はその事実をひた隠しに隠して生きてきたのです。彼はどんな思いで生きてきたのだろうかと考えると切なくなりました。きっと負い目を感じ、自分を責め、誰にもその苦悩を打ち明けられず苦しみ、それでも生きたのでしょう。

 そこで思い出されたのが、最近読んだシスターの渡辺和子さんのエッセーでした。そこにはこのようにありました。

「その人を生かすものとは、いったい何なのだろう。私はそれは、『自分が生きていて良いのだ』という確信、自分が生きることに対しての肯定ではないかと思っている。それなしに、いかなる地位も財産も家庭も空しく思え、反対に、それさえあればいかに貧しくとも、生活が苦しくても、一人きりの生活であっても、人間は生きられると思うのである。」

 そこで三浦綾子さんの「氷点」の主人公、陽子を取り上げるのですが、彼女は明るくて太陽のような子でした。しかしある日のこと、自分が今の養い親の子ではなく、実は、殺人犯の子であると聞かされて自殺を図るのでした。そして渡辺和子さんは続けて言います。

「いったん自分が『呪われた存在』と分かった時、名声も偉業も、現在の恵まれた境遇も、いかに無力なことか。それほどまでに人間一人ひとりにとって、自分が『生きていて良い』という確信は必要なのだとも言える」。

 私たちはこの「生きていて良い」という宣言を、福音を通して神さまからいただいた者たちではないでしょうか。

 先週のみことばを振り返りますが、ローマ1章2〜4節。

1章2節        この福音は、神がその預言者たちをとおして、聖書において前から約束されたもので、
1章3節        御子に関することです。

 私たちの神さまは、私たちに「あなたは生きていて良いのだ、生きて良いのだ」という宣言をなさるために、神の御子イエス・キリストをこの世にお送りくださいました。イエス様は私たちの罪、負い目を身代わりに負ってくださり、十字架に架けられ死んでくださった。よみがえってくださった。そのことによって私たちの罪は帳消しにされ、死刑宣告されるはずの私たちに大逆転無罪が宣告された。「あなたは生きて良いのだ」と私たちに、この私に向かって仰ってくださいました。ただイエス・キリストが成し遂げてくださった赦しのみわざのゆえに「あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」と、私の生きていることを喜んでくださっているのです。それは過去一度限りの宣言ではありません。「わたしはあなたを見捨てない」と、今も復活されて天の神の右の座におられ、私たちに聖霊を送り、私たちを守り、私たちとともに歩んでくださっています。

 罪赦され、救われた後も、今も、これからも、実際のこの世での生活の中で色々な弱さを覚える私たちは、常にこの「あなたは生きていて良いのだ、生きて良いのだ」という御声を必要としているのではないでしょうか。神さまは愛をもってその必要を満たしてくださっています。聖霊を通して常にこの御声を私たちに聞かせ、生きる力、希望を与えてくださり、次々と襲ってくる苦難や悩み、迷いの中にあっても、こうして生かされているのではないでしょうか。

 また、私たちはお互いに、「あなたは生きていて良いのだ、生きて良いのだ」と認め合うこと、励まし合うことも大切なことです。それらは私たちにとって本当に必要なものでしょう。

 それは私たちばかりではありません。私たちが救われる以前、私たちが赦しの宣言を必要としていたように、私たちの周りにいるすべての人も必要としているものなのです。

1章8節        まず第一に、あなたがたすべてのために、私はイエス・キリストによって私の神に感謝します。それは、あなたがたの信仰が全世界に言い伝えられているからです。

 先週は1章の2節から6節は本筋であるあいさつから「神の福音」と言った途端に、パウロは感動を抑えられなくなって脱線してしまった部分であること、しかも1節から7節までは一気に、一切の区切り無しに書かれたところを見ました。そこからパウロの福音に対する息づかい、熱い思いを感じ取りましたけれども、今日の箇所もその熱い真っ直ぐな思いは隠されていないようです。

 「まず第一に」と、パウロの頭の中には順序立てて伝えようとしていた計画のようなものがあったようですが、「感謝」を口にした途端、もう心が一杯になってしまったのでしょうか、第二、第三がどこかに吹っ飛んでしまっています。パウロの神の福音に対する一途な情熱のようなものが伝わってきます。このように見ると、ローマ書の印象が変わってくるのは私だけでしょうか? ローマ書はパウロの天才的な、難しい言葉を用いながらも、ある意味、単純で真っ直ぐなのかもしれません。パウロを突き動かしている情熱が伝わってくるのです。それはパウロ自身を生かした、そしてパウロを生かしている「御子に関する神の福音」に対する大きすぎる感謝、喜びによるのでしょう。

 さて、パウロはローマの教会に関しては、何に感謝しているかと言いますと、ローマの教会の信仰が全世界に言い伝えられているからでした。

 パウロはこのローマの教会についての知らせを、コリントで会ったユダヤ人のアクラとプリスキラから詳しく伝え聞いたようです。二人はこの時、ローマのクラウデオ帝が出した「すべてのユダヤ人をローマから退去させるように」との命令によってコリントの町に来ていました(使徒181−2)。

 皇帝崇拝、皇帝を神と崇める、「おまえの主は誰か」と問われたら「皇帝である」と答えなければ投獄、殺されてしまうようなローマ世界において、神のみを主と告白する者たちは迫害の対照でした。ですから当時のローマの教会というのは大きな一つの組織ではなく、いくつもの小さな家の教会、地下教会でした。

 そのような首都ローマにイエス・キリストを主と告白する信仰が確立している。神の民が存在している。教会がある。生きている、信仰にとどまっている、神さまに守られている。

 私はここでお隣の国を覚えます。かつては東洋のエルサレムとまで呼ばれていた都が、独裁者によって一変しました。そこでは今、政府の迫害に怯えながらも少なくとも30万人ものクリスチャンが必死に信仰を守っていると言われています。正確な人数は判明していませんが、そのうちの多くが極秘の内に教会に通っており、政府による迫害の中をなんとか信仰生活を送っています。教会が守られている。信仰がまもられている。クリスチャンの命が守られている。それを聞くと私たちは叱咤激励されるのではないでしょうか。また感謝な思いが湧いてくるのではないでしょうか。感謝な思いは、クリスチャンであるならば神さまに向けられるでしょう。クリスチャンであるならば、自分が褒められるよりも神さまが讃えられることの方が何よりも優る喜びでしょう。パウロの「私の神に感謝します」は最高の褒め言葉だったのではないでしょうか。そして何よりも、生きにくい世での信仰ゆえの労苦、恐れゆえの失敗もあったでしょうが、そういった労苦が自分たちの知らないところで伝えられ、知られていた、認められていたという事実は、何とローマのクリスチャンを慰め励ますものだっただろうかと思います。

1章9節        私が御子の福音を宣べ伝えつつ霊をもって仕えている神があかししてくださることですが、私はあなたがたのことを思わぬ時はなく、
1章10節      いつも祈りのたびごとに、神のみこころによって、何とかして、今度はついに道が開かれて、あなたがたのところに行けるようにと願っています。

 一度も会ったことのないローマの教会に対して、神さまを証人に立てて、あなたがたのことを、いつも絶えず覚えています、祈っていますということを伝えています。

 私は新潟にいた頃、色々な集会に出るたびに、良く見ず知らずの人から「佐藤さん、いつも祈っていますよ。ご家族のみなさんはいかがですか」と声をかけられました。神学生としてあちこちの集会で証しをさせていただいていて、みなさんは私の顔をご存じだったのでしょうが、私は相手の顔も名前も知りません。思いもよらず「祈っていますよ、ご家族のみなさんはいかがですか」と声を掛けられて、私も、私ばかりでなく家族も覚えられていたのだと思い、私は本当に慰められ励まされました。また学院には県の内外の教会から「何月何日の祈祷会で、学院のために祈りました」という簡単な一文と、祈ってくださった方々の署名が添えられたハガキが届いていました。もちろん私はその教会のことも、祈り署名してくださった方々の顔も知りません。

 あなたを覚えています。祈っています。あなたの労苦を知っています。認めています。そして神さまに感謝していますよ。実際に相手の方を覚え、相手に伝えることは大切なことなのだと思わされました。

1章11節      私があなたがたに会いたいと切に望むのは、御霊の賜物をいくらかでもあなたがたに分けて、あなたがたを強くしたいからです。
1章12節      というよりも、あなたがたの間にいて、あなたがたと私との互いの信仰によって、ともに励ましを受けたいのです。

 パウロがローマに行きたい、ローマに行って同じ信仰の兄弟姉妹と会いたいと願ったのはこのためでした。これからの神さまのご計画である世界宣教に向けて、その重要な拠点となるであろうローマのキリスト者一人ひとりが聖霊の賜物、無償のプレゼントをしっかり受け取って、まず自身の信仰を正しく確立すること。そのようにして教会がますます強化されること。使徒としてパウロは、この点でローマの教会のために貢献したいと願いました。そのためなら自分に与えられているものはなんでも差し出したい。パウロがこの世に生まれ育ち、劇的な回心を経験し、そして今に至る自分の人生すべてを通して学んだ知識とか経験とかそういったすべてのもの、またその中から聖霊によって教えられ、ただ恵みによって与えられた霊的な賜物、パウロは続く手紙の中で「私の福音」とまで言っていますが(ロマ216他)、自分の信仰理解を分かち合うことによってローマの教会を教え、強くしたい。その思いがここに記されているわけです。

 特に考えさせられることは、「あなたがたと私との互いの信仰によって、ともに励ましを受けたいのです」ということです。

 あなたがたと私、互いに別々の信仰があるのでしょうか。パウロは聖書の別のところで「主はひとり、信仰は一つ」と言っています。しかし、育った環境、信仰が培われてきた背景、それぞれの経験や感情というものは皆が皆同じでは無く、聖霊はそれぞれに信仰の実、賜物、信仰の証しをそれぞれに相応しく与えてくださっています。それがパウロが言う「私の福音、あなたの福音」「あなたがたの信仰、私の信仰」なのでしょう。それらを互いに分かち合う中で新しい気付きがあったりするのです。パウロのような人でさえ、さらに信仰が増し加えられることを期待しているのです。パウロは「自分がすでに捕らえたなどとは考えていない」と言いました。教え教えられたい、励まし励まされたい。パウロの願うところはそうのような、ある意味で単純で、真っ直ぐなものなのではないかと思います。そのようにして教会は健全に建て上げられて行くものだと思います。

1章13節      兄弟たち。ぜひ知っておいていただきたい。私はあなたがたの中でも、ほかの国の人々の中で得たと同じように、いくらかの実を得ようと思って、何度もあなたがたのところに行こうとしたのですが、今なお妨げられているのです。

 自分は無関心や怠惰で出発を遅らせているのではない。何度も行こうとしている。行きたいのはやまやまなのだけれども、不可抗力によって今は行けないのだと言っています。

 パウロはすでに幾度もローマに行こうと試みましたが、未だに成功していませんでした。おそらく数年前からローマに行こうとしていたものと思われます。テサロニケやコリント、またはエペソからローマに行くという、あらゆるルートや日程を計画したようですが、その都度、何らかの理由で実現していなかったのです。しかしパウロは諦めていません。10節では、このことについていつも祈っていること、また祈りのたびごとに神の御心を求めて切に祈り続けていることが分かります。何とかしてローマに行きたい。ローマに行ってあなたがたを強くしたい。その情熱はどこから来ていたのでしょうか。

1章14節      私は、ギリシヤ人にも未開人にも、知識のある人にも知識のない人にも、返さなければならない負債を負っています。
1章15節      ですから、私としては、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を伝えたいのです。

 パウロをこれほどまでに突き動かしていたものは、パウロ自身のうちにある強烈な「負い目」、「負債意識」でした。「返さなければならない負債を負っている」と訳されていますが、直訳では単純に「私は債務者です」となっています。借りたものは返さなくてはなりません。律法の専門家でもあったパウロですから、この点では自分に対する厳しい考えを持っていたのかもしれません。

 この負い目、負債意識はどこから来ていたのでしょうか。パウロがイエス様に出会って救われる以前の姿、教会を迫害する者であった時の自分に対する後悔から生じる負い目意識なのでしょうか。

 パウロの抱えている負債意識は、こんな死ぬべき自分をも救ってくださった、赦してくださった神さまの愛、イエス・キリストの十字架、犠牲を通して「あなたは生きていて良いのだ」「生きて良いのだ」と言われる、神さまの大きすぎる愛、自分を真に生かすイエス・キリストの十字架と復活に表される福音、良い知らせ、赦しの宣言に対するものなのでしょう。しかもその宣言をいただくために、パウロは何か努力をしたわけではありませんでした。かえってイエス様に逆らい、イエス様を迫害していたのです。そのパウロにただ神さまの恵みによって、思し召しによって、与えられるに相応しくないものに与えてくださった赦しの宣言。それはパウロにとって決して返しきることのできない、大きな大きな負債、借金となりました。

 それは「感謝」と言っても良いのかもしれませんが、でもやはり「負債」だと言った方がパウロにとって、またこの私たちにとっても真実に近いのではないでしょうか。神さまの愛に応えずにいられない、その愛に恩返しせずにはいられなくなるのです。パウロにとって、その恩返しというものが「神の福音」を世界の果てにまで宣べ伝えるという、熱い思いでした。

 「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」 (Ⅱコリント5:17)とありますが、聖霊は一人の人が救われる時、その人の心を全く新しくすると共に、新しく伝道への熱心を増し加えてくださるようです。私たちが救われて、誰かに福音を伝えたい、愛するあの人に救われて欲しい、何とか証しをしたいと願うのはそのためです。

 そしてパウロはこの時、感謝と祈りの中で聖霊によって示されたことが「ぜひローマに行って福音を伝えたい」という熱い思いでした。

 ここで一つの疑問が生じます。彼らに福音を伝えたいというのは、彼らがまだ福音を知らないということなのでしょうか。それとも、パウロが彼らの信仰を認めていないということなのでしょうか。結論から言うと、そのいずれでもありません。パウロは、彼らが神に愛され、聖徒として召され、イエス・キリストのものとなったと言っていますし、彼らの信仰のゆえに神さまに感謝しています。ですから彼らの福音と信仰を認めているのです。先ほども申しましたが「私の福音」また「あなたがたの信仰、私の信仰」です。

 パウロがここで言う福音とは、ローマという異邦人の地での福音。もちろん「主はひとり、信仰は一つ」です。福音は一つです。しかしその福音は、ローマという皇帝を神とする異教の地でもなお、信仰者を真に生かす福音でなければなりません。どこかかけ離れた異国の宗教ではない。死ぬ間際になって初めて効力を発揮する福音ではない。福音はその地と毎日の生活に密着すべきもの、毎日の生活の中で生きる勇気を与えるものでなければならないのです。決して信仰によってあきらめるのではありません。ただ恵みによって与えられる霊的な賜物、無償のプレゼントである信仰は、福音は、日々の私たちを強くするものでなければなりません。

 ツァラアトを癒やされ、救われたナアマン将軍の悩みは何だったでしょう。「私が国に帰って、私の主君がリンモン、偶像の神殿に入って、そこでひれ伏すために私の手を頼みにします。それで私もリンモンの神殿でひれ伏さなければならないのです。私がリンモンの神殿でひれ伏すとき、どうか、主がこのことについてしもべをお赦しくださいますように」。預言者エリシャは答えました。「安心して行きなさい」。

 「ただ信じて」、「安心して行きなさい」、「あなたは生きて良いのだ」、「あなたの信仰ゆえの労苦は覚えられている」。これこそパウロがローマの教会に伝えたかった福音だったのではないでしょうか。この世で主を第一とすることの難しさ、戦い、そしてどうしようもできない人の弱さ。しかしその中で、人の努力ではない、日々、神の恵みによって救われる、「生きて良いのだ」と宣言される。パウロがローマ書を通してローマ教会に、また私たちに伝えようとしているのは、まさにこのことでもあったと思うのです。

 私たちは、イエス・キリストの十字架の福音によって救われ、すべての罪が赦され、「生きて良いのだ」との宣言を聞いた者です。今も聞き続けているものたちです。そしてその喜びは、神さまに対する返しきれない感謝、負債となり、今日のパウロのように神を愛し、隣人を愛し、そして福音伝道へとかりたてる熱い思いであるはずです。

 そこで私自身、考えさせられるのです。私はパウロのように、神さまに対する感謝を負債とまで感じるほどのものだろうか。

 この時のパウロを動かしたもの、それは「ぜひローマに福音を伝えたい」、「福音のためなら何でも」というものでした。しかしそれは、パウロが自分で立てた目標でも、自分で抱いた願いでもありませんでした。

 「私はあなたがたのことを思わぬ時はなく、いつも祈りのたびごとに」という9節から10節にかけてのことばは、使徒の働き19章で、祈りの中、御霊によって示され、「私はそこに行ってから、ローマも見なければならない」と言ったパウロ自身のことばを思い出させます。その時から、ローマ行きの思いはパウロの日ごとの祈りの中で次第に強くなって行きました。聖霊の導きと祈りは切り離せないものであることが分かります。ですから私たちはまず祈るべきでしょう。さらにその祈りは、8節にもあるように、まず第一に、イエス・キリストによって私の神に感謝することから始めなければなりません。パウロの祈りは、何度も計画が妨げられる中にあっても、不満をまくし立てるのではなく、感謝しました。そして感謝の祈りの中で願いが芽ばえ、その願いがいよいよ大きく、切なるものとなっていきました。それは私たちの手本ではないでしょうか。

 私たちは「ぜひ福音を伝えたい」「福音のためなら何でも」という思いによって動かされているでしょうか。こんな罪人の私が神さまの愛によって、主イエス・キリストの十字架の身代わりという大きな犠牲を通して救われた。赦された。新しいいのちを与えられて、生きる目的、喜びを知った。新しく生きるものとされた。だからこそ今度は、神を愛し、隣人を愛し、悲しむ人に、渇く人に、悩む人に、望みを失いかけている人に、赦しの宣言を、福音を、「あなたは生きて良いのだ」という知らせを伝えたい、生きる勇気を何としても伝えたいと願われる神さまの御心、この愛によって遣わされてまいりましょう。パウロのように、感謝して、祈るたびに召命の対照を聖霊によって示していただきましょう。ある人は会社に、家庭に、学校に、教会に、地域に、海外に、大人に、子どもに。聖霊は祈りの中で一人ひとりの召命の対照を示してくださるでしょう。そして召命を成し遂げるための力をも与えていただき、使命に努めて参りましょう。私たちは神さまの恵みによって福音のために選び分けられ、使徒として召されたキリスト・イエスのしもべです。そのためにも、まず私たち自身が、ローマ書を通してもパウロが伝えようとしている福音によって強められ、励まされ、整えられてまいりましょう。

長野聖書教会の話題やお知らせをお届けします。

コメントを残す