2020年8月30日 主日礼拝「福音の主題」

本日の聖書箇所

ローマ人への手紙1章16〜17節

説教題

「福音の主題」

今週の聖句

なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。

ローマ人への手紙1章17a節

訳してみましょう。

2225 Your smile could be a message of cheer from God to a needy soul.
2226 God’s training is designed to grow us in faith.

礼拝式順序

開 祷
讃美歌  3番「あめつちの」
主の祈り 564番「天にまします」
使徒信条 566番「我は天地の」
讃美歌  280番「わがみののぞみは」
聖 書  ローマ人への手紙1章16〜17節
説 教  「福音の主題」佐藤伝道師
讃美歌  495番「イエスよこの身を」
献 金  547番「いまささぐる」
頌 栄  541番「父、み子、みたまの」
祝 祷  北村牧師


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説教「福音の主題」

ローマ人への手紙1章8〜15節

佐藤伝道師

 先週、米ウィスコンシン州で黒人男性が背後から警官に銃撃されるという事件が起こりました。スポーツ界でもテニスの大坂なおみ選手が試合ボイコットを表明したり、プロバスケットボールの選手会が試合のボイコットを表明したりと、方々で抗議の声が上がり、プラカードを持った大規模な抗議デモも行われました。香港では民主化デモが続いていますが、多くの人々が参加し、香港国家安全維持法違反の名の下に指導者的立場の人が逮捕されたり、先日はアップルデイリーという香港の民主派の新聞社の創業者が逮捕されるということが起こりました。多くの人がお互いに何かを守るために戦っています。地球規模でもコロナに対する戦いが続いています。この戦いというのは、自分が大事にしているものを守るためのものでしょう。皆お互いに、自分が大事だと考えるものを守るために戦っています。正義、主張、権力、平和、平等、自由、愛、健康、家族、お金だと言う人もいるでしょう。いやいや、信仰だと言う人もいるでしょう。人それぞれ大事にしているものは違います。しかしここで、私たち人間は何を本当に一番大事にしているのだろうかと考えさせられます。何を守るために戦うのだろうかと考えさせられます。

 私たち人間にとって一番大事なことは、やはり「生きる」「いのち」ということではないでしょうか。

 ただ「生きる」「いのち」と一言で言っても、そこに含まれる意味は単純ではありません。身体的に生きる、生命維持はもちろんのこと、聖書も言っていますが、人間は肉体と魂(霊)をもってひとつとされています。ギリシア思想の肉体と魂は分離するという考えが何となく定着していますが、聖書は肉体と魂は決して分離できないものと教えています。体と心は一つなのです。霊的な心が死んでしまっていては、もはや生きているとは言えないのではないかと、聖書は問うのかもしれません。イエス様は「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある」(マタイ44)と仰っています。

 私たちは「生きる」ために、肉体も魂も「生きる」ということを一番大事にしていて、そのために全力を尽くして毎日戦っていると言って良いのではないかと思います。そして聖書もまた、この「生きる」「いのち」ということを最も重要なこととしています。

 ところで、ヘブル語の「魂(ネフェシュ)」という語には色々な意味があります。「魂」「霊」「いのち」「精神」。そして面白いことに、もともとの意味は「喉」なのです。魂に飢え渇きを覚えるとか、霊的に渇いているとか私たちは時に言いますが、喉が関係しているのでしょうか。肉体と魂はひとつだということなのでしょうか。言葉というものは実に奥深いと思われないでしょうか。

 先週は、「私たちは御子イエス・キリストに関する福音を通して『あなたは生きていて良い』『生きて良いのだ』と宣言された者たちである」と申し上げました。しかしその宣言も、私たちがしっかりと受け取らなければ自分のものとはなりません。宝くじが当たったとして、その当選番号が発表されているのに自分のくじを確かめようともせず、ただ何となく持っているだけでは、せっかくの信じられないほどのラッキーは自分のものとなりません。まさか、自分が当たっていると分かっていても、「そんなこと信じられない」と自分とは関係ないと放っておく人はいないでしょう。

 福音の宣言、私たちにとって本当に喜ばしい嬉しい知らせである宣言もまた、信じて受け取らなければ何にもなりません。「生きる」ことに対する飢え渇きを埋めるために、私たちはいつまでも、毎日毎日戦わなければならなくなってしまいます。また世の多くの人たちは、福音の宣言を知らされていないゆえに、知らされていたとしても、自分のこととして受け取っていないために、私たちよりももっと苦しい思いの中、迷いの中、毎日毎日魂の飢え渇きを覚えて戦っているのではないでしょうか。そのような方々を見て、私たちは福音を知らされた者として、自分のうちにだけ福音をとどめていられないはずです。先週も申し上げましたが、福音の宣言によって救われた私たちは、パウロのように神さまに対する感謝を返しきれない負債とも感じられるほどの大きな喜びの体験をしましたし、今もしていて、これからもしていくからです。

 さて、パウロの最大の関心事は「福音」だということを、パウロの挨拶のとことから確認しました。福音は御子に関する福音だということでした。そしてその福音とは、私たちがこの世で現実的に生かされるものであり、また次の世でも生かされるものであるし、そうでなければならいということでした。

 今日の聖書箇所はった2節のみです。しかしこの2節こそ、ローマ書全体のテーマです。パウロは論文のひとつの形式のように、これまでの序論の中のひとまずの結論として、福音のテーマ、そしてローマ書全体のテーマをここで提示し、続けて丁寧に述べようとしています。それは福音の最重要テーマであるイエス・キリストの十字架と復活を信じることによる救い。そしてその救いをいかにして自分のものとして受け取って幸いに生きて行くかということだと思います。

1章16節   私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。
1章17節   なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。

 パウロはなぜ、このような確信に満ちた宣言ができたのでしょうか。それはパウロの人生を通して、みことばと祈りと黙想の中で、主が聖霊を通してパウロに示されたからなのです。聖霊のスポットライトによってパッと照らし出されるようにして、示されるようにして見出したのです。そしてパウロは、それを自分のものとしてしっかりと聞き、確信に至ってしっかり受け取ったのです。どのように確信に至り、どのようにして受け取ったのでしょうか。

 皆さんは、パウロはあの劇的な回心の直後から、すぐに主に召された使徒として大活躍したと思われているでしょうか。実はパウロは、主に使徒として召されてから実に16年もの間、寝かされていたようです。

 ガラテヤ書1章11節をご覧ください。ここにはパウロの証しが記されています。11〜12節は、パウロが宣べ伝えた福音がどういった性質のものであるかを説明しています。続く13〜14節は、今日のローマ書1章16節でパウロが「私は福音を恥とは思いません」と言っていますが、パウロ自身こそが、かつて福音を恥としていたことを証ししています。ユダヤ教徒、律法に厳格なパリサイ人であったパウロにとって、イエス様が弟子たちに、群衆たちに語られた数々の教えは憎むべき、滅ぼすべき迫害の対照である異端でした。また当時、救い主について語る宗教はいくらでもありましたが、ナザレの大工の子イエスというような人物が救い主であると説く宗教は他にありませんでした。ましてその救い主が恥ずべき十字架に架けられて死んでしまった人物であるということは、全く問題外、馬鹿げたことと言うべきことでした。ところがある日、そのパウロがダマスコの途上で復活のイエス様と出会い、その主によって召されたのです。

 それからすぐにパウロは、使徒のいるエルサレムではなく、彼を教える先輩使徒が誰もいないアラビヤの荒野に行きました。そこで3年間、たった一人、神さまと交わり、みことばを黙想し、ダマスコの途上での復活の主との出会い、召しについて、その意味を、これまでの知識とか人生の出来事ひとつひとつに聖書のみことばをすり合わせるようにして確認していったのでしょう。これはこういうことなのか。あれはこういうことだったのか。そこで復活のイエス・キリスト、聖霊の啓示によってはっきりと目が開かれるように福音の意味が分かったのです。その福音とは、自分がこれまで熱心に学び信じ仕えてきた律法と預言書、つまり聖書(旧約聖書)にすでに書かれていたことを啓示によって見出したのです。啓示というのは、ベールが取り除かれて、それまでぼんやりしていたものがはっきりと現れるといったものです。パウロは目からウロコが落ちるという経験をかつてしましたが、この時は二度目の目からウロコ事件とでも言えるでしょうか。

 それから3年後にパウロはエルサレムに行きました。そこでの出来事は使徒の働き9章に記されていますが、霊に燃え、さぁこれから福音のために働こうとしたところ、パウロは弟子たちに拒絶され仲間に入れてもらえませんでした。しかもパウロを殺そうとするユダヤ人による計画が判明して、他の仲間たちが「お前は自分の国へ帰れ」とパウロを故郷のタルソへと帰してしまったのです。激動のエルサレム滞在はわずか15日間でした。ですから他の先輩の使徒たちからじっくり教えを受ける機会はなかったようです。さらにその15日の間で、パウロはみじめな思いをし、また挫折を味わいました。さらに、その思いのまま、13年後にバルナバがパウロを捜し出すまで、故郷タルソで過ごしました。その間もずっと、挫折と孤独、失望の中で神さまと交わり、みことばを黙想し、聖書のみことばは自分とどんな関係があるのかを重ね合わせるようにして確認していったのでしょう。そこでも、御子イエス・キリストに関する福音、十字架の死と復活による救いは、実はそれまで自分が学んで来た旧約聖書全体に隠されていた事実であったことが、ますます明らかにされていったという経験をしたのではないでしょうか。そしてそこから、バルナバとともに1年間の伝道旅行に出て、そこでかつて自分が恥としていたけれども、今は確信に変わったイエス・キリストの福音を語ったところ、それを聞いた多くの異邦人が救われていったのを目の当たりにしました。それでパウロは大胆に言ったのでしょう。

【ガラテヤ書】
1章11節   兄弟たちよ。私はあなたがたに知らせましょう。私が宣べ伝えた福音は、人間によるものではありません。
1章12節   私はそれを人間からは受けなかったし、また教えられもしませんでした。ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです。

 それゆえに、パウロはローマ書1章16〜17節で、パウロが語る福音は、他の先輩使徒から教えられたものでもなく、ましてや自分が考えたものでもない、ただイエス・キリストの啓示によって与えられたものであるので、間違いなく神さまによるものであると確信をもって宣言することができたのです。それゆえに私たちも、確信をもって受け取ることができるのです。

1章16節   私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。

 原語に忠実に訳すならば、新改訳2017年版が良いと思います。

1章16節   私は福音を恥と【しません】。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人【に】救いを【もたらす】神の力です。

 「恥と思わない」が「恥としない」となりました。これはとても大事なところだと思います。福音を恥としないのは、自分の心の持ち様であったり、感情の問題ではないからです。また、福音は「信じるすべての人【に】救いを【もたらす】神の力だ」となっていますが、「もたらす」とは、「生じさせる」とか「持ち込まれる」といった意味です。救いは福音によってもたらされるものです。福音によって神の力によって与えられるのです。人のいかなる力によって得るのではありません。これがパウロが16年間で復活のイエス・キリスト、聖霊よって示され、神さまによって与えられた結論でした。

 私たち現代人は、何か積極的、活動的であることこそが良いこと、そうあるべきだと思うところがあると思います。確かにそれは良い面もあります。現代人は自然に対して積極的に働きかけ、自然を征服し、支配し、巨大な文明を建設しました。社会に対しても、ただ受け身なのではなく、社会に働きかけ、社会を良くしようするという積極性を発揮するようになってきました。デモのように社会の不正に声を上げること。それは確かに良い面です。しかし同時に、人間は受け身の存在であることを忘れがちになってはいないでしょうか。雨にしてみても、人間の力で雨を降らすことはできません。降ってくる雨をただ受けるだけです。日照りが続いて困っている時に雨が降れば、恵みの雨だと喜ぶのです。雨が降りすぎると災害となりますが、人間はその前に為す術がありません。そのように私たち現代人は、積極性を持ちながらも、自然とか何か人間の力が及ばない大きなものに対してはただ受け身の存在であることを忘れがちであると思います。そして何よりも、神さまに対しては、救いに対しては、私たち人間はただ受け身の存在でしかありえないのです。救いは信じて受け入れるしかないのです。そうでなければ、「ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシヤ人は知恵を追求します」(Ⅰコリ122)とありますけれど、いつまでもユダヤ人のようにしるしを要求し続け、ギリシヤ人のように知恵を要求し続けることになってしまいます。救われるため、生きるための苦しい戦いが永遠に続いてしまうことになってしまいます。

 「福音は、すべて信じる人に救い(永遠のいのち)をもたらす神の力である」。そうはっきり主張できる理由として、17節があります。

1章17節   なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて

 福音のうちに神の義が啓示されているとある「神の義」。それはどういった意味なのでしょうか。二つの意味に取れます。ひとつは「神の義」神の正しさ、正義というもの。もうひとつは、「神が与えられる義」です。これらが福音のうちに啓示されているというのです。

 ひとつめの「神の義」。神の正しさ、正義。それは実は、すべての人間が神さまに求めている、望んでいるものではないでしょうか。先週の黒人銃撃事件に対するデモ行進の中で、「JUSTICE(正義)、PEACE(平和)」この二つの言葉が大きく書かれたプラカードを、天に向けて高々と掲げている人の姿が映し出されました。私たちの住んでいるこの世界は実に混乱した世界です。正しいことが行われない世界です。どんなことでも筋が通って、正義が行われるのであれば混乱はないはずです。ところが、正しいことが必ずしも成功しないで、正しくないことがまかり通る世の中です。その時に、人間が頼みにしていることは、神さまが正しい者を救ってくださる、ということではないでしょうか。悪はいつか必ず裁かれる、今はこうであっても、神さまは必ず正しいさばきを行ってくださるに違いないと信じたいのです。「神さまがいるならどうしてこんなことが起こるのか」と良く言われますが、そこに込められている期待は、「神さまは善人にはきちんと報いてくださるはずだ」ということではないでしょうか。それが人が神さまに求める正義というものではないかと思います。そしてその神さまの正義、正しい裁き「正しい人は救われる」は、福音の中にはっきりと啓示されているのです。しかし決して忘れてはいけないこと、それは「神の目から見て、正しい人は一人もいない」ということです。それならどうすれば良いのか。その答えとなるのが二つ目の「神が与えられる義」です。

 神さまがその正しさを行うにはどうしたらよいのでしょうか。その最も簡単な方法は、正しくない者、罪ある者を完全に滅ぼしてしまうことです。例えば旧約聖書創世記のノアの話はどうでしょう。神に背く者たち全員が洪水で滅ぼされてしまいました。しかし神さまのことばを信じて従ったノアとその家族だけが生き残りました。ここからも、神の福音は、神が預言者たちを通して、聖書において前から約束されたものであったことが分かります。旧約の時代から「正しい人は信仰によって生きる」という理念があったことが分かります。そのことを言いたくて、パウロは今日の箇所で「義人は信仰によって生きる」という旧約聖書のハバクク書2章4節から引用したのでしょう。

 イエス・キリストがこの世に来られ、神の福音は御子に関する福音となりました。神の義が御子に関する福音において啓示された、人間の考えではない、人間が想像もしなかったことを神さまが明らかに分かるように示してくださったのです。聖書の言葉を借りるならば、「聖書の中の聖書」と呼ばれるヨハネの福音書3章16節でしょうか。

【ヨハネの福音書】
3章16節   神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
3章17節   神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。
3章18節   御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。

 神さまが御子イエス・キリストを遣わされて、十字架につけることによって人間の罪を赦された。神の義、正しさを行うために、正しくない者をみな滅ぼしてしまうのではなくて、正しくない人間のために、神さまがそのひとり子イエス・キリストに、人間を正しくない人間にする原因そのものである「罪」というものを身代わりに負わせられ、死なせることによって、人間が背負っていた罪を取り除いてくださり、「だからあなたは生きて良いのだ」と、人間を生きることができるものとしてくださいました。このようにして人間を義とされた、正しい人間としてくださったのです。これが「神が与えられる義」です。

 神の義というものは、本当に不思議な形で表されました。人間の考えではない、人間が想像もしなかった形で表されました。人間が神に求めている神の義、正義が行われる時、それは人間の不正に対するさばきとなって現れると思うのが人間の普通の考えでしょう。それが人間が神に要求する正義でしょう。それが裁きではなく救いとして表されたのです。神の義は、神の正義は、神の恵み、与えられるに相応しくない者に「与えられる」義であることが示されます。これこそ「すべての人が罪人である」とされる私たちにとって、福音、良い知らせ、喜ばしい知らせでなくて何でしょうか。

1章17節   なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。

 「その義」とは、これまで見てきた通り、「正しい者は救われる」という神の正義、「神が与えられる」という神の義です。義と救いは同義です。そしてそれはただ恵みによるもの、自分自身では成し遂げること、得ることのできない神の義、救いを、御子イエス・キリストが代わりに成し遂げてくださった。人間は受け身の存在であることを忘れてはならないと申しましたが、私たちが救われるために、救われて生きるためには、この大きな神の愛、恵みを信仰によって自分のものとして受け取る道しか残されていません。いや、その道こそ、神さまが私たちを愛する愛によって備えてくださったものです。私たちが感謝して神が与えてくださる義を自分のものとして真実に受け取るならば、私たちは救われる、生きるものとされるのです。救いは信仰に始まり信仰に進ませ、そして信仰に至る。救いは終始一貫、イエス・キリスト、福音を信じる信仰によるのです。

 「義人は信仰によって生きる」。ここで聖書が私たちに伝えたいことは、イエス・キリストの十字架と復活を信じる信仰によって義とされた者、神さまによって正しいとされた者、「信じる者は救われる」という信じられないような神の恵み、与えられるに相応しくない者に神さまから与えられる義をただ信仰によって受け取った者こそが生きることができるということでしょう。また冒頭でも申しました通り、「生きる」とはただ身体的に生きるだけではありません。私たちが信じて、救われて、体も心も生きること、この世で長生きするというようなことだけではなくて、その生涯を充実した生活、生きがいを感じて生きる生活、喜びを持って生き続けるというのが「生きる」ということです。そして「生きる」ということは、そのいのちが永遠に続く、イエス・キリストを信じ救われた時に与えられた「永遠のいのち」、これをもって今から天国に至るまで、天国に入った後も、そして最終的に神の御国が完成し、そこで永遠に住まう、そのすべてにおいて「喜んで生きる」ことです。

 イエス・キリストの十字架と復活という福音を信じる信仰によって義とされた者こそが救われて生きる。これこそパウロが、と申しますか、イエス・キリストによってパウロに示された啓示を通して神さまが、この後ローマ書全体を通してじっくりと教えようとしている中心的な主題です。

 幸いにも、皆さんはすでに福音を信じて受け入れておられる方々です。しかし、「私は完全に救われている、毎日何の問題もなく、私の心には何の不安もなく喜びしかない」と言える人は、私も含めていないと思います。どこか魂に飢え渇きを覚えているかもしれません。

 たった一語にすれば「信仰義認」。私たちには耳慣れた言葉かもしれません。しかしそれを本当に自分のものとすることにはかなり難しさを覚えるというのが正直なところではないでしょうか。自分は捉えたと思ったけれどまた後戻り。喜んで生きながら悩んでしまう。そんな繰り返しのようなものかもしれません。でもそれは仕方のないことなのかもしれません。あのパウロでさえ16年もかかって捉えたのです。しかもまだ完全に捉えたなどと思っていないとも言っています。

 イエス・キリストの福音を信じる者は神から義と認められて救われる。これが神の定めてくださった救いの方法でした。私たちはあの時、その福音を信じて救われた者たち。そして今、ますます信じつつある、救われつつある。やがて御国でイエス・キリストを目の前にして完全に信じ救われる。私たちは今、「ますます信じつつある」の中を生かされている者なのです。

 信仰というのは、救いを自分のものであると信じて受け取ることです。信じるとは信用することです。信用して、信頼して、寄りすがることです。自分に自信がある人は本当に信頼することはできません。自分の貧しさ、弱さ、罪深さを知った者でなければ、信頼することはできません。罪をゆるされたいと思う者でなければ、救いを信じることはできません。私たちは日々、この混乱した世の中に生きながら、パウロのようにみことばと祈りと黙想をもって神さまと交わり、みことばを一つ一つ私たちの人生とその中の出来事にすり合わせるようにして確認してまいりましょう。私たちにとって耳が痛い、厳しいことになるかもしれません。しかしその先に神さまの素晴らしい祝福があることを覚えてまいりましょう。

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