2020年10月11日 主日礼拝「さばき主なる神」

本日の聖書箇所

ローマ人への手紙2章1〜11節

説教題

「さばき主なる神」

今週の聖句

神にはえこひいきなどはないからです。

ローマ人への手紙2章11節

訳してみましょう。

2036 The only limit to God’s grace is the limit we put it.
2037 You can be confident about tomorrow if you walk with God today.

礼拝式順序

開 祷
讃美歌  6番「われら主を」
主の祈り 564番「天にまします」(参照
使徒信条 566番「我は天地の」(参照
讃美歌  324番「主イエスはすくいを」
聖 書  ローマ人への手紙2章1〜11節
説 教  「さばき主なる神」
讃美歌  239番「さまよう人々」
献 金  547番「いまささぐる」
頌 栄  541番「父、み子、みたまの」
祝 祷


動画はこちら

https://youtu.be/jqTOeE4xB2s

説教「さばき主なる神」

ローマ人への手紙2章1〜11節

佐藤伝道師

 テニスの大坂なおみ選手、皆さんよくご存じかと思いますが、先日彼女のインタビューを聞いて驚きました。彼女は今年の全米オープンという大きなテニスの大会で優勝したわけですが、その優勝インタビューの中での一言でした。大坂選手は大会が開幕した8月末から、「マスクでメッセージを伝える」と宣言していました。そのマスクには、アメリカで警察の人種差別的な暴力の被害に遭った黒人犠牲者たちの名前が書かれていました。優勝インタビューの中でインタビュアーがこう質問しました。「あなたはマスクを通してどんなメッセージを伝えることができましたか?」。それに対しての答えはこうでした。「あなたが私のマスクを見て何を感じたか、何を受け取ったか。私はそちらの方に興味がある」。すごいなぁと思いました。まだ23歳という若い女性が、こんなしっかりした意見を持っていることに、本当に驚いたのです。
 それと同時に、50歳の私は、自分の子どものような年齢の彼女から教えられ、考えさせられました。聖書のみことばは神さまからのメッセージ。私はそこから自分自身に向けられたメッセージとしてしっかり受け取っているだろうか。聖書には神さまが語られたおことば、イエス様が語られたおことばはもちろんのこと、様々なことが記されています。たくさんの出来事、歴史とか事件とか、罪人の姿も描かれていますが、それらはすべて、私自身に向けられた神さまのメッセージであるということ。それらすべてを通して「あなたは何を感じたか、あなたは何を受け取ったか。他の誰でもない、あなたはどうか」。そのように神さまは聖書のみことばを通して私に常に問うてくださっているのだということを、私は改めて覚えたのです。

 本朝からまたローマ書に戻り2章へと進んでまいります。ローマ書は1章16節から「私は福音を恥としません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人に救いをもたらす神の力です。福音には神の義が啓示されていて、信仰に始まり信仰に進ませるからです。『義人は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです」。こうして本論部分が始まっていますが、パウロはまず異邦人の罪を指摘することから始めています。そして2章に入ると今度は異邦人以外の人の罪が指摘されていきます。さらにしばらく、私たちはパウロの厳しい容赦ない罪の指摘の言葉を聞かなければなりません。ですから素直に心を開いて聞くことが難しいと感じるかもしれません。しかしそこから、聖書は私たちに何を語り、何を伝えようとしているのか、それをしっかりと受け取らせていただきたいと願います。本朝も神さまからのみことばを通して、神さまの祝福をしっかりと受け取りたいと願います。一言お祈りを致します。

 天の父なる神さま、御名を崇め心から賛美致します。本朝もこのようにして私たちを御前に集めてくださり、みことばを与えてくださることに感謝致します。聖霊様が豊かに臨んでくださり、みことばを祝福してお与えください。お一人お一人に主が直接にお語りくださいますようにお願い致します。語るこの者の上にもどうぞ臨んでくださいますようにお願いを致します。救い主キリスト・イエス様のお名前を通してお祈り致します。アーメン。

2章1節   ですから、すべて他人をさばく人よ。あなたに弁解の余地はありません。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めています。さばくあなたが、それと同じことを行っているからです。

 「他人をさばく人」、「あなた」とパウロは呼びかけています。その相手の正体は誰なのでしょうか。

 パウロはいつも全人類をユダヤ人と異邦人の二つに分けており、それによってすべての人間を取り扱おうとします。1章では異邦人を取扱いました。そして2章からはもう一方のユダヤ人を取り扱うのです。しかしこのユダヤ人はある特定のユダヤ人を指しているのではなく、パウロが頭の中で想定しているユダヤ人です。ユダヤ人的な人と言っても良いのかもしれません。

 ローマ書1章の後半18節から、パウロは異邦人のことを「彼ら」と呼んで、彼ら「『異邦人』の罪」について徹底的に言及しました。彼らは神がおられることを知っていながら、真の神を神としてあがめず、感謝もせず、愚かにも神を人間や、鳥、獣、這うものに似たかたちと替えてしまった。そこで神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡してしまわれた。そのために見なさい、異邦人が暮らす世界、この世は性の乱れを始めとして、すべての秩序が乱れて悲惨なことになっているではないか。罪に満ちてしまっている。神さまに背を向け自分勝手に生きてきたことの当然の報いをあなたがたは受けているのだ。あらゆる不義、悪、貪欲、悪意に満ち、ねたみ、殺意、争い、欺き、悪巧みにまみれているではないか。人々はみな陰口を言い、人を中傷し、神を憎み、人を侮り、高ぶり、大言壮語し、悪事を企み、親に逆らい、浅はかで、不誠実で、情け知らずで、無慈悲で。彼らは、そのような行いをする者たちが死に値するという神の定めを知りながら、自らそれを行っているだけでなく、それを行う者たちに同意もしている。拍手喝采、賛同している。まことに神の律法に背く、罪に満ちた悲惨な世だ。

 このようにパウロは痛烈に異邦人の罪を指摘しました。そしてパウロの頭の中には異邦人の罪を痛烈に指摘するパウロの言葉を聞き、そして実際に罪によって汚れ、乱れてしまったこの世の状態を見て、「まさにパウロの言う通り、そうだ、そうだ、アーメン!」と頷き、異邦人を断罪し、異邦人のせいにしているユダヤ人。また「これらの罪は、律法を守り神に仕え、神に特別に扱われている自分には関係がない」と思い上がっているユダヤ人が想定されていました。パウロはそんなユダヤ人に矛先を向け直して、「あなたは他の誰よりも決して優れてはいないのだ」と、これまた痛烈に批判します。あなたも同じ罪人であると容赦なく批判するのです。そしてここでパウロがユダヤ人の罪として一番最初に上げるのが「すべて他人をさばく」という態度でした。

 「ですから、すべて他人をさばく人よ。あなたに弁解の余地はありません」。このパウロの言葉を聞いて、私たちは何を感じるでしょうか。私たちのうちにも、確かに「他人をさばいてしまう」という罪深い性質が根深くあるのだということにハッと気付かされるのではないでしょうか。そして神さまの深い憐れみを受けて、あの悲惨な中から救われた異邦人であった私たちが、いつのまにかどこかユダヤ人的な人間の立場に、他人をさばく側に立ってしまっているのではないか、そんな思いが湧いてこないでしょうか。

 パウロは「さばいてはいけません」と、他人の過ちを見過ごすようにとか、間違っていることを間違っていると言わないようにと言っているのではありません。それは神さまの正義に反することです。そうではなく、自分のことを棚に上げて他人をさばく態度。他人を裁くことによって自分の正しさを主張しようとする態度。そのことを問題としているのです。聖書のみことばを聞いても、聖書の中の罪人に対する裁きを知っても、それを自分に対する語りかけとして受け取らずに、他者に向けた言葉として、これはこの人のこと、これはあの人のことと、自分ではない他人をさばく道具として用いてしまう。冒頭でお話ししました大坂なおみ選手のマスクもそうです。マスクに書かれた犠牲者の名前を見て、ひどい世の中だとか、あんな酷いことをした人は許せないと思う。これは間違っていると声を上げることは正しいことです。しかし「人の振り見てわが振り直せ」ではないですが、私たちはそこから何かを感じ、受け取り、自らに重ね合わせなければならないのではないでしょうか。こんなひどい世の中を構成しているのが自分自身であること。自分自身にも偏見とか差別の心があることに気付いて、私も私がさばいている他人とまるで同じではないかと。そして神さまの前に素直になって悔い改めるべきでしょう。私たちが世の人々よりも何か一段上から見下ろしている、自分とは関係ないとしているなら、それはただ他人をさばいているだけの自分、神さまの座に自分を置いて、自分を偶像の神として、真の神さまをどこかに追いやってしまうことになります。そのようにして、私たちは、他人をさばくことによって自分自身を罪に定めることになります。他人をさばく私たちが、同じ罪を犯していることに気付かずに、ゆえに悔い改めることも出来ずに、同じ罪を懲りずにいつまでも犯し続けていくことになってしまいます。

2章2節   私たちは、そのようなことを行っている人々に下る神のさばきが正しいことを知っています。

 悪人には必ず神のさばきが下る。いや下るはずだ。下されるべきである。私たちはそのように、神さまに完全な正義を求め、正義の実現を祈り求めているのではないでしょうか。

2章3節   そのようなことをしている人々をさばきながら、自分で同じことをしている人よ。あなたは、自分は神のさばきを免れるのだとでも思っているのですか。

 イエス様はマタイの福音書5章21節からのところで言われました。

 「昔の人々に対して、『殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に対して怒る者は、だれでもさばきを受けなければなりません。」またこうも言われました。「『姦淫してはならない』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。情欲をいだいて女を見る者はだれでも、心の中ですでに姦淫を犯したのであり、やはりさばきを受けなければならない」。

 神さまは天の高い所から私たち人間をご覧になっています。高い所から見たら高いビルも平屋の家も大差がありません。そのように、天からご覧になる神さまの目から見て、私たちの罪に高い低い、大小はないのです。斜に構えて上から見たり、横から見たりはなさいません。公正に、えこひいきすることなく、偏り見ることなく、真上からご覧になるのです。私はあの人ほど悪いことはしてないだろう、だから大丈夫ということには決してなりません。

 「そのようなことをしている人々をさばきながら、自分で同じことをしている人よ。あなたは、自分は神のさばきを免れるのだとでも思っているのですか」。その答えは「免れることはできない」です。たとえ神さまの選びの民であるユダヤ人であっても免れることはできません。

2章4節   それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか。

 ユダヤ人は、なぜ自分たちは神のさばきを免れると考えてしまったのでしょうか。それは、神が自分たちには「豊かな慈しみと忍耐と寛容」を与えてくださると考えたからです。自分たちは神さまに愛されている特別な人種だと考えていたのでしょう。しかしパウロはここで「神の慈しみ深さがあなたを『悔い改めに導く』」のだと言います。ユダヤ人が異邦人よりすぐれているので慈しみを施されるのではなく、ユダヤ人の状態が非常に悪いので、回復の機会を与えるために神さまは忍耐しておられるという意味です。神さまがさばきを控えておられるのは、神さまの一方的な慈愛と忍耐と寛容のため。私たちが罪を犯さず、正しい人間であるからではなく、私たちが罪人であり、その私たちが悔い改めるために与えられている猶予期間です。恵みの機会が与えられているということです。ところが、ユダヤ人はこのことを知らず、神の忍耐を間違って理解して、自分たちに都合良く考えてしまいました。

 「私たちは神の民である」「私たちは神の御大切である」。そのような選民意識は、良い方向に作用するならば、聖く生きて行くことを助けるものとなるでしょう。しかし、悪い方向に作用してしまうと、「私たちはあなたがたとは違う」という間違った優越感を抱かせます。ユダヤ人は後者です。ユダヤ人は「私たちは神に選ばれた民だから、異邦人であるあなたがたとは根本的に違う。あなたがたは神を信じもせず、神のみこころに従おうともしないために、怒りのさばきを受けるけれども、私たちは神を信じ、神のみこころに従っているから、怒りのさばきを受けることはない」という優越感と自信を持っていました。そんな彼らに、パウロは「そうではない。あなたがたユダヤ人も、基本的に異邦人と異なるところがないではないか。同じ悪を行っているため、悔い改めないならば、悔い改めるために与えられている神さまの慈愛と忍耐と寛容を軽んじるならば、異邦人のように怒りのさばきを受けるのだ」と明言しました。

 ユダヤ人のように、クリスチャンの間で選民意識が悪い方向に作用するのを見るのはとても残念なことです。

2章5節   ところが、あなたは、かたくなさと悔い改めのない心のゆえに、御怒りの日、すなわち、神の正しいさばきの現れる日の御怒りを自分のために積み上げているのです。

 間違った選民意識のゆえに、自分の罪に気付かない、気付こうとしない。そんなかたくなさ、悔い改めのない、悔い改めようとしない、悔い改められない心のゆえに、そのような心に比例して、人は自らの上に神さまの御怒りをどんどん、どんどん積み上げてしまうことになるという事実が語られています。その御怒りは、御怒りの日、つまり神さまがイエス・キリストを通してさばかれる日。この日に、悪いことを行った者たちには「神の正しいさばき」と「怒り」が下されます。

2章6節   神は、ひとりひとりに、その人の行いに従って報いをお与えになります。

 ここでの「行い」というのは、一つ一つの行為だけでなく、人の一生をも指す言葉です。「神のさばき」「怒り」と聞いてからの「その人の行いに従って報いをお与えになる」とのみことば。私たちはともすると、「報い」に対して否定的な思いを抱きがちですが、実はここに福音の希望、光があるのではないでしょうか。

 北村先生の天国の福音の中でも述べられていましたが、聖書には「すべての人には一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」とあります(ヘブ927)。神が一人ひとりの行いに応じて報われるのです。

 この世では世の法にそってさばかれますが、今、元官僚が起こした池袋暴走事故で話題になっていますけれども、身分や出身、また、賄賂などによっても、同じ罪を犯しても異なる罰が与えられることがあります。「地獄の沙汰も金次第」と昔から言われていますが、罪の世では常にそのようなことが行われている。さらには、弁護士次第で結果が変わることもあります。また、どんなに正しくさばこうとしても、事実をすべて明らかにすることには限界があり、明らかになっている証拠だけをもって判断するしかないので、しかもその証拠、証言さえも嘘か本当か分からない。ですから世の裁判が完全であることは不可能でしょう。

 しかし、神さまはすべてご存じなお方です。私たちが生まれてこの方、行ったこと、思ったこと、話したことのすべてをご存じです。そればかりでなく、ご自分の書物として記録しておられます。どこに記録してあるのかと言うと、黙示録20章12節を見ると分かりますが、

【黙示録】
20章12節  また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行いに応じてさばかれた。

 神さまは私たちの一生の行いを記録しておられる数々の書物をお持ちなのです。その書物の記録によって正しく公平にさばかれるのです。私たちはこの書の記録の前に、だれも弁明できません。

 しかし忘れてはならないことは、神さまから報いを受けるその報いには、大変良い報いもあるのだということです。そして神さまは、私たちすべての人に良い報いを与えたいのだと切に願われているのです。

2章7節   忍耐をもって善を行い、栄光と誉れと不滅のものとを求める者には、永遠のいのちを与え、
2章8節   党派心を持ち、真理に従わないで不義に従う者には、怒りと憤りを下されるのです。
2章9節   患難と苦悩とは、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、悪を行うすべての者の上に下り、
2章10節 栄光と誉れと平和は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、善を行うすべての者の上にあります。
2章11節 神にはえこひいきなどはないからです。

 7〜10節は、「神はひとりひとりに、その人の行いに従って報いをお与えになります」との原則が、悪を行う者と善を行う者にそれぞれ適用されていることを示しています。この箇所の目的は、神の審判にはえこひいきがないことをユダヤ人に示そうとすることにあります。ですからここは、行いによる救いを教えているのではありません。「人は、律法の行いによってではなく、キリストを信じる信仰によって義とされる」こととも矛盾しません。

 1章5節のところで以前にも触れましたが、「信仰の従順」のように、パウロによると「信仰」と「従順(従順の行い)」はまるでコインの両面のようで、切っても切れない関係です。従順の行いと関わりのない信仰はないですし、信仰と関わりのない従順の行いもあり得ません。信仰は必ず従順の行いへとつながり、従順の行いは必ず信仰から生まれるものでしょう。それでパウロは信仰と従順をほぼ同じ意味で使っているのでしょう。つまり、「その人の行いに応じて」は、本質的には「その人の信仰に応じて」と大きな違いがないということです。

 私たちの一生の行い、心の思い、話した言葉の一つ一つすべてが記録されている。その記録の内容は、それら一つ一つに信仰があったか、悔い改めがあったかということではないでしょうか。後にパウロは同じローマ書の中で明らかにしています。

3章23節 すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、
3章24節 ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。

 すべての人は罪人。私たちはつい人をさばいてしまうような者。根深く罪が染みついてしまっている者です。そのままで神さまに正しいと認めていただける人は誰一人としていません。しかし唯一、正しいと認めていただける方法。それはただ神の恵みにより、キリスト・イエスの十字架による贖いのゆえに、です。私たちの一生の行いを記録する数々の書物の中に、「いのちの書」があります。私たちが自らの罪、神さまに背いてきたその罪を悔い改め、キリスト・イエスの十字架の贖い、福音を信じて受け入れた瞬間に、私たちはただ神さまの恵みによって罪赦され、私たちの名前は直ちに「いのちの書」に記されます。いのちの書に名が記されている人は、必ず天の御国に入ることができるでしょう。しかし、神さまはご自身の数々の記録の書をも開かれて、これらの書物に書きしるされているところに従って、私たちの行いをさばかれるのです。そこにはえこひいきはありません。私はそこで何も恥ずかしいところなどないと、神さまの前に堂々と立っていられるか。私はきっと赤面してしまうでしょう。

 神さまのさばきには、ユダヤ人も異邦人も区別はありません。「神にはえこひいきなどはないからです」。どんな時でも耐え忍んで信仰にとどまり、善を行って、光栄とほまれとを求める人には、それがどういう人であれ、ユダヤ人であっても、異邦人であっても、その報いとして永遠のいのちが与えられる。私たちがどのような者であっても、信仰をもって一歩一歩、神さまを信じ、神さまを仰ぎつつ日々を歩んで行くならば、このような素晴らしい報いが与えられます。このような神さまに感謝しつつ歩んでまいりましょう。

 しかし、神さまに感謝しつつ、神さまの愛を軽んじてはなりません。神さまがさばきを控えておられるからといって、神さまの慈愛と忍耐と寛容を馬鹿にしてはならないのです。神さまの愛を軽んじて、私たちが自分の罪を知ろうともしない、認めようともしない、悔い改めないならば、私たちのかたくなさと悔い改めのない心のゆえに、御怒りの日、すなわち、神の正しいさばきの現れる日の御怒りを自分のために確実に積み上げられていくからです。

 愛の神さまは決して人に軽んじられるようなお方ではありません。党派心を持ち、真理に従わないで不義に従う者には、怒りと憤りを下される。患難と苦悩とは、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、悪を行うすべての者の上に下ることをも忘れてはなりません。神さまは恐れられるべきお方でもあるのです。

 パウロは4節で「神の慈愛があなたを悔い改めに導く」と言い、神さまはやはり愛なる神さまであることに注目させています。私たちは神さまの恐ろしいさばきに対して悔い改めるのではなく、神さまの慈愛、神さまのすばらしさに向かってはじめて悔い改めることができるのではないでしょうか。神さまの慈愛が私たちの人生を導いてくださっています。そして私たちを一人も滅ぼしたくないと願われる愛なる神さまは、私たちがいつも自分を低くし、どんな罪をも認め、素直に悔い改め、イエス・キリストの十字架に依り頼みつつこの世の生涯を送り、そして神さまの正しいさばきの現れる日には、数々の記録の書の前で、私たちが恥じることなく御前に立ち、私たちとの晴れやかで喜ばしい会見を望んでおられることでしょう。

 この神さまの愛に応え、そして敬虔な恐れを持って、私たちはこれからも、主のみことばに素直に聞き、素直に罪を認め、悔い改めて、信仰をもって一歩一歩、主を信じ、天におられる主を仰ぎつつ日々を歩んでまいりましょう。天の御国で、神さまの前に何も恥じることなく、大きな喜びをもって立つことができるために用意されているこの地上での人生という猶予期間を、ふさわしく歩んで行こうではありませんか。

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