2020年11月29日 主日礼拝「闇の中の光」

本日の聖書箇所

ローマ人への手紙3章9〜20節

説教題

「闇の中の光」

今週の聖句

それは、すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服するためです。

ローマ人への手紙3章19b節

訳してみましょう。

2048 No life is more secure than a life surrendered to God.
2049 The Bible is the bread of life, and it never gets stale.

礼拝式順序

開 祷
讃美歌  494番「わがゆくみち」
主の祈り 564番「天にまします」(参照
使徒信条 566番「我は天地の」(参照
讃美歌  97番「あさひはのぼりて」
聖 書  ローマ人への手紙3章9〜20節
説 教  「闇の中の光」佐藤伝道師
讃美歌  112番「もろびとこぞりて」
献 金  547番「いまささぐる」
頌 栄  541番「父、み子、みたまの」
祝 祷


動画はこちら 

https://youtu.be/xiE44gLJb6Q

説教「闇の中の光」

ローマ人への手紙3章9〜20節

佐藤伝道師

 今年もアドヴェントを迎えました。待降節です。

 「教会公文書」というものがありまして、その中で待降節について公式な見解が述べられています。「待降節は二重の特質をもつ。それはまず、神の子の第一の来臨を追憶する降誕の祭典のための準備期間であり、また同時に、その追憶を通して、終末におけるキリストの第二の来臨の待望へと心を向ける期間でもある。この二つの理由から、待降節は愛と喜びに包まれた待望の時であることが明らかになってくる」。アドヴェントは、イエス様が最初にこの世に来られたことに思いを馳せるクリスマスという行事のための準備期間であると同時に、クリスマスを通して終末のイエス様の再臨を待ち望むことへと心を向ける期間で、愛と喜びに包まれた待望の時、です。

 教会暦というものもご存じかと思いますが、キリスト教会では昔から、一年間のカレンダーを、イエス様のご生涯をめぐることがらを中心に制定してきました。定められる日などは、東方正教会やローマ・カトリック教会、またプロテスタントの諸教派などによってそれぞれの特色がありますが、伝統的な教会が大切にしている教会暦(教会のこよみ)の考え方によれば、待降節(アドヴェント)から一年が始まることになっています。先週私たちは年末の大掃除をしましたが、今日は何か新年を迎えたような感じもします。それで最初の讃美歌は494番にしました。

 ところで、カトリック教会では、アドヴェントの第一主日、つまり新年最初の礼拝に朗読される福音書が3年サイクルで3つ決められています。

【A年】マタイの福音書24章37〜44節「人の子はノアの人同じように実現する。畑に男が二人、一人は取られ一人は残される。臼を引いている女が二人、一人は取られ一人は残される。目を覚まして用意していなさい」
【B年】マルコの福音書13章33〜37節「家の主人がいつ戻るか分からない。目を覚ましていなさい」
【C年】ルカの福音書21章25〜28節、34〜36節「心が放蕩や深酒や生活の思い煩いで押しつぶされていて、その日が罠のように、突然あなたがたに臨む。よく気をつけていなさい。いつも目を覚まして祈っていなさい」

 このように、毎年毎年、一年の始まりには「目を覚ましていなさい、よく気をつけていなさい」。これらの箇所がアドヴェント初日に語られるのです。

 確かに、イエス様は「この日に生まれるよ」などと、あらかじめどこかに定められてはいませんでした。いつもの日常の繰り返しの中で、突然その日は訪れたのです。それも「ひっそりと、世界の片隅の、むさい馬小屋に」。救い主の誕生に気付いたのは、あの羊飼いたちでした。夜の真っ暗なところで野宿していた羊飼いたち。特定の住所も持てず、動物相手ですから休みもなく、つまり礼拝も守れずに、でも面倒を見ていた羊というのは、人々が祭壇にいけにえとして献げるための特別な羊だったようです。弱い立場で、今のように人権などと声高に主張することもできず、大変な仕事を押しつけられていたようなもの。複雑な思いをもって夜空を見上げていたことでしょう。ちなみに、心理学的に、人というのは究極的な苦難、理不尽な状況の中に置かれた時に何をするかというと、その原因が自分にあるのではないか、自分が悪かったのではないか、と考えるそうです。羊飼いもそうだったのかもしれません。そんな彼らこそ救いを今か今かと待ち望んでいたのではないでしょうか。神さまから目を逸らさなかった。そんな彼らに救い主誕生という大きな喜びの知らせが届きました。そんな彼らだからこそ、救い主がこの世にお生まれになったという大きな喜び、でも小さな出来事を見出せた。それは神さまの恵みであり、また必然だったのではないでしょうか。

 本朝はアドヴェント第一主日ではありますが、私たちはいつもの日常、先週の続き、ローマ書3章を続けて見てまいりたいと思います。いつも通りの礼拝を献げてまいりましょう。そして目を覚まして、注意して、みことばより祝福をいただきましょう。お祈りを致します。

 天の父なる神さま、御名を崇め心から賛美致します。今年もアドヴェントを迎えることができました。これまでの歩みが守られ、そして導かれて来ましたことを心から感謝致します。本朝の礼拝をもって、これまでの歩みを振り返りつつ、神さま、そして神さまの恵み、与えられている福音を覚えて心から感謝する者としてくださいますように、どうぞみことばを祝福してお与えください。聖霊様が臨んでくださり、天からの知恵と理解力をくださいますようにお願いを致します。御心を正しく理解できますようにお守りください。感謝して救い主キリスト・イエス様の御名によってお祈り致します。アーメン。

 先週は、ローマ書3章1節で「では、ユダヤ人のすぐれたところは、いったい何ですか」との問いに、パウロは続く2節で「それは、あらゆる点から見て、大いにあります」と答えていました。ところが今日の9節では、同じような質問「私たちは他の者にまさっているのでしょうか」に、「決してそうではありません」と結論しています。何か矛盾しているように感じます。

 しかし2節では、神さまによって選ばれたユダヤ人、また神さまに信頼されて、いろいろなおことば、約束が委ねられたユダヤ人。神さまによって選ばれた故に、神さまはその選び、約束に対して真実であられ、その真実をただ恵み、憐れみによって不真実であった彼らに注ぎ続けてくださった。そんなユダヤ人の特権のことを言っているのに対して、9節では、ユダヤ人の道徳的、倫理的状態のことを言っているのです。3章1〜8節でパウロは神さまの真実について確認するように語りました。そろそろ救いが語られても良いのでは。ところが9節からは「私たちは前に、ユダヤ人もギリシヤ人も、すべての人が罪の下にあると責めたのです」と言っている通り、再び元の議論に戻っているのです。まだ続くのか。まだ罪の言及が、責めが続くのか。もう分かったから。私もそう思ってしまいます。そんな思いをよそに、パウロはまだ罪を語り続けます。続けるだけではなく、さらに罪の意味を広げていくのです。広げながらも、逆にさらに狭いところに、暗い所へと読者を追い込んでいくようです。

 どのように広げ追い込んでいくのかと言いますと、実はパウロは、この9節で初めて「罪」という語を使いました。いやいや、これまで何度も「罪」と言ってきたではないかと思われるでしょうが、これまで使われていた罪とは、また違う単語を使っています。今までの罪は、律法を犯すといった法的な意味の語、また律法の要求に応えられない過ち、やり損じといった意味の語を使ってきました。そしてここで初めて登場する「罪」とは、罪の存在、罪の力、そういった意味の語なのです。あの罪、この罪といった一つ一つ数え上げるような罪ではなく、「ユダヤ人もギリシヤ人も、すべての人が罪の下にある」。すべての人が罪の存在、罪が及ぼす力に支配されている。すべての人は否応なく、気付いていなくとも逃れられない「罪の奴隷である」ということです。パウロは頭のてっぺんから足のつま先まで、完全に罪に支配され奴隷となっている人間の姿を、さすがパウロです、「次のように書いてあるとおり」と、旧約聖書のあちらこちらを自由に引用しながら赤裸々に描写します。

3章10節      それは、次のように書いてあるとおりです。
「義人はいない。ひとりもいない。
3章11節      悟りのある人はいない。神を求める人はいない。
3章12節      すべての人が迷い出て、
みな、ともに無益な者となった。
善を行う人はいない。ひとりもいない。」

 欄外に引照付きの新改訳聖書をお持ちの方はそこにある通り、10〜12節は詩篇14編1〜3節からの引用です。

【詩篇】
14篇1節      愚か者は心の中で、「神はいない」と言っている。
彼らは腐っており、忌まわしい事を行っている。
善を行う者はいない。
14編2節      主は天から人の子らを見下ろして、神を尋ね求める、悟りのある者がいるかどうかをご覧になった。
14編3節      彼らはみな、離れて行き、だれもかれも腐り果てている。
善を行う者はいない。ひとりもいない。

 神さまは天の高い所からご覧になって、「善を行う者はいない。ひとりもいない」と判断されました。地に住む人間同士であったなら、私はあの人よりもましだとか、私はあの人に比べたら善人だなどということもあるかもしれません。しかし天の高い所から神さまが見るならば、みんなどんぐりの背比べ。すべての人が善を行っていない、善を行えない状態であると見ているのです。

 みんながみんな、「神さまなんていない」と言っている。「神さまなんているものか」と腐っているのです。人が腐る時とはどんな時でしょう。うまく行かない時、苦難の時ではないでしょうか。コロナ禍の今でしょうか。

 ローマ書では「すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった」とありますが、先日、竹下兄から頂戴しました別訳の聖書をみましたら「みな迷い出て、みな腐り果てた」となっていました。気になって原語を調べて見ましたら、確かに「無益」は「腐る」とも訳せる語でした。しかも面白いことに、その定義として「あたかも腐って酸っぱくなってしまった牛乳のように、何の役にも立たない無価値な存在となる」となっていました。なるほどと思わされました。腐って酸っぱくなった牛乳。それはヨーグルトではないでしょうか。ヨーグルトは身体に益となる食べ物です。しかしそれは適切に発酵された場合でしょう。何もかもうまく行かない時、苦難の時、それでも神さまから目を離さずに、その苦難の意味をじっくり考えるならば、神さまに取り扱われつつであるならば、それはあたかも発酵されるように、熟成されるように用いられて、その人は益となる人、苦難から益を受け取る人となるでしょう。しかし「神さまなんているものか」と、神さまを見失い、神さまの元から迷い出てしまうなら、ただの腐った牛乳。ただの腐った人間になってしまう。酸っぱくて、神さまと人に害を与える存在となってしまう。そんなことを示されました。

 ローマ書3章に戻って13節からは、そんな神から離れて無益な存在となった人間が描写されます。

3章13節      「彼らののどは、開いた墓であり、彼らはその舌で欺く。」
「彼らのくちびるの舌には、まむしの毒があり、」
3章14節      「彼らの口は、のろいと苦さで満ちている。」
3章15節      「彼らの足は血を流すのに速く、
3章16節      彼らの道には破壊と悲惨がある。
3章17節      また、彼らは平和の道を知らない。」

 カギ括弧で括られていますが、実に色々なところから引っ張ってきています。是非あとで見ていただければと思います。

 心、頭でしょうか、頭で「神などいるものか」と考え、次に口へと移ります。その口から出る言葉は、開いた墓から出てくるもの。パレスチナ地方のお墓というもは、自然の岩をくりぬいて作った横穴式のもので、死体や遺品を埋葬すると、入口に石の戸を立てかけておくだけのものだったようです。それで地震などによって石の戸は簡単にはずれやすく、その結果、見るもおぞましい光景があらわになり、周囲に腐敗した臭気が立ちこめる、なんてこともあったようです。腐った人の心はその墓のよう。イエス様は言われました。「まむしのすえたち。おまえたち悪い者に、どうして良いことが言えましょう。心に満ちていることを口が話すのです。悪い人は、悪い蔵から悪い物を取り出すものです」(マタ1234−35)。まむしのすえたちが語るその言葉には、嘘偽り、騙し、毒がある。人を祝福する言葉はなく、呪いの言葉、祝福とは相反する苦々しい言葉に満ちている。まむしの毒は噛まれたらたちまち死に追いやるものです。しかし腐ってしまった人間の言葉にはそれ以上の猛毒があって、人はその言葉によって互いに傷つけ合っている。確かに、最初は些細な口げんか、揉め事。やがてそれが世界中の人々を巻き込む戦争にまで及ぶこともある。人間の歴史は戦争の歴史でもあると言われます。争いはいつも私たちの身近にあります。破壊と悲惨があります。争いによる破壊と悲惨だけでなく、最近では疫病による破壊と悲惨が加わってしまいました。

 自分らしく生きる。個人の自由を謳歌することが素晴らしいことのように言われていますが、よくよく見るなら、ただの利己主義、自分一人の利益ばかりを追求する世の中となってしまっているように思います。そんな利己的な世の中で、真の平和は実現するのでしょうか。彼らは平和の道を知らない。誰もかれも無益な者となってしまった。みな迷い出て腐り果ててしまった、罪の奴隷となってしまっている人間の姿です。

3章18節      「彼らの目の前には、神に対する恐れがない。」

 ここは詩篇36篇1節からの引用です。「罪は悪者の心の中に語りかける。彼の目の前には、神に対する恐れがない」。ここでも「罪」が人格的な力ある存在であることが分かります。その「彼」と呼ばれている罪の目の前には、神に対する恐れがない。神さまに対して恐れがない、刑罰を恐れる恐怖だけでなく、神さまに対する畏敬の念、尊敬がない。そのような罪という存在の奴隷となっている。パウロはこれこそがこの世の、人間同士の、あるいは神さまと私との関係において、嘘偽り、破壊と悲惨の根本的な原因であると言っています。

 ここで、ハイデルベルク信仰問答からも問うてもらいたいと思います。ハイデルベルク信仰問答は、信仰を正しく整理したものであり、信徒教育に用いられるものです。その信仰問答にこのようにあります。

問い「喜びに満ちて生き、また死ぬために、あなたはどれだけのことを知る必要がありますか」
答え「三つのことです。第一に、どれほど私の罪と悲惨が大きいか、第二に、どうすればあらゆる罪と悲惨から救われるか、第三に、どのようにこの救いに対して神に感謝すべきか、ということです」

 まさにこの第一から第三の順番の通りに、ローマ書は書かれています。今はまだ第一の段階でしょうか。さらに問いは続きます。

問い「何によって、あなたは自分の悲惨さに気付きますか」
答え「神の律法によってです」

問い「神の律法は、私たちに何を求めていますか」
答え「それについてキリストは、マタイの福音書22章で次のように要約して教えておられます。【『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くしてあなたの神である主を愛せよ』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛せよ』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。】」

問い「あなたはこれらすべてのことを完全に行うことができますか」

 皆さんは何と答えられるでしょうか。

答え「できません。なぜなら、私は神と自分の隣人を憎む方へと生まれつき心が傾いているからです」

 イエス様は言われました。「最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです」(マタ2540)。「この最も小さい者たちのひとりにしなかったのは、わたしにしなかったのです」(マタ2545)。

 先日、朝の通勤時間帯に車を運転していて、横道から割り込んできた車についイラッとしました。仕方なく道を譲ったのですが、少ししてからバックミラー越しに手を振ってくるのです。その人は娘の友だちのママさんでした。譲っておいて良かったと思いました。そんな風に、つい誰かを自然に嫌ったり、言葉や態度で傷つけたり、騙し、裏切り、争い、無視したり、時には良いことをしてみても結局は人から良く見られたいなんていう利己主義的なところがあるのではないか。相手の人にしたこと、しなかったことは神さまに対してしたこと、しなかったこと。そんなことを考えると、本当に私は神さまも、隣人をも愛せないんだな。本当に神さまを恐れ尊敬しているなら、誰かにムカついたりしないよね。そんなことに気付かされるのです。

3章19節      さて、私たちは、律法の言うことはみな、律法の下にある人々に対して言われていることを知っています。それは、すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服するためです。
3章20節      なぜなら、律法を行うことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。

 律法を知る私たちが律法を守れないというのなら、律法を知らない人たちはなおのこと律法を守れない。それならばもう、すべての人は、黙って神さまのさばきに服すしかない。つまりですから、すべての人は、律法を守る、神さまの命じるところをすべて守り実行するという「方法」によっては、神さまの前に正しい者とされることは絶対に不可能だということです。

 そしてその律法というのは、「神と隣人とを愛しなさい」というもの。しかしその律法の要求に応えようとする時に、かえって完全に応えることのできない惨めな自分の姿をまじまじと突きつけられる。かえって罪の意識が生じるのですと、パウロは言っています。その通りだと私たちは答えるでしょう。

 パウロは私たちに、罪の認識を徹底してさせようとしました。何の言い訳もできほどに、どん底に落とすように。深い淵に、暗やみに落とすように。何故なのでしょうか。

 実はパウロは、この手紙の最初からずっと福音を語っているのではないでしょうか。混じりけのない本物の福音、混じりけのない本物の喜びを語っているのではないかと思うのです。

 パウロは手紙の書き出しでこのように言っています。「ですから、私としては、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を伝えたいのです。私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です」(ロマ115−16)。福音を伝えたい。喜びの知らせを伝えたい。あなたを愛し、あなたに救いを得させる神の力である福音をあなたに伝えたい。溢れる情熱をもって書き始めたパウロの手紙でした。パウロは早く福音を、喜びの知らせを、神さまの愛を語りたかったのかもしれません。しかしその前に、罪について徹底的に教えなければならなかったのです。

 パウロの論法として、まず罪とは何かということを教えて、その上で、その救いは何かと語るという方法も考えられますが、しかしパウロとしては、人間に救いを与えるのに、まず、どこに救いが必要なのかを教えなければならなかったのでしょう。単に罪について語って、その上で救いを語るのではなく、救いを与えるためには、その救いが何のためにあるかを語っているのではないでしょうか。微妙な違いですが、とても重要なところだと思います。私たちも誰かに福音を伝える時に倣うべきものと思います。

 パウロは別の手紙でこのように言っています。「『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた』ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです」(Ⅰテモ115)。ここで言われている通り、キリストがこの世に来られたのは、罪人を救うためでした。それが、聖書全体が私たちに告げているところです。羊飼いのところに現れた天使たちが告げたことでした。私たちが初めに聞き、そして信じた福音というものは、人間を罪から救うためにあるのです。

 確かに福音によって救われた人たちが幸福になり、健康になり、豊かになり、生きる力を得た。それは2000年の教会の歴史が開かししているとおりです。しかし、キリストが来られたのは、罪人を救うためであったことを見逃してはならないと思うのです。このことがおろそかになると、キリストの福音が罪から人間を救うということが、どんなに貴いことであるかが分からなくなってしまう。クリスマスの喜びが何かただのお祭りのようになってしまう。それでローマ書、1章18節から3章20節までのところで、力を尽くして、人間の罪はどういうものであるか、ということをとことん語るのです。何の言い訳もできほどに、どん底に落とすように、暗やみに落とすように罪を教えるのです。罪をとことん自覚させようとするのです。何故なら、そこでしか私たちは神さまに出会えないからです。そこでしか、神さまが差し出される無償の愛を、赦しを、救いを、何の疑いもなく、心からの感謝をもって、心から感動して思わずごめんなさいと言って受け取ることができないからです。

 こんな光景が思い浮かびます。父なる神さまは、子である私を目の前に置き、私の目をじっと見つめるようにして無言で何かを問いかけるのです。はじめは私は目を逸らして、色々言い訳をする。それでも神さまはただ黙って、憐れみの眼差しで問いかけるのです。私たちの言い訳が尽きた時、すべての口が塞がれたとき、私は父なる神さまの真実の愛、憐れみ、慈しみをただ信頼して、「ごめんなさい」と懐に飛び込むでしょう。神さまはそれを待っておられる。赦しを与えたいと、寛容と忍耐、慈しみと愛とをもって待ってくださっている。

 日本の戦後の代表的なキリスト教学者であり牧師でもある森有正という方がこのように言われました。「人間というものは、どうしても人に知らせることのできない心の片隅を持っております。醜い考えがありますし、また秘密の考えがあります。またひそやかな欲望がありますし、恥がありますし、どうも他人にしらせることのできないある心の片隅というものがあり、人はそういう場所で神さまにお目にかかる。そこでしか神さまにお目にかかる場所は人間にはないのです」と。

 確かに私たちも自分の胸に手を当てて、心と向き合い、そのずっと奥の方をのぞき込むときに、どうしようもない自分の醜さ、欲深さ、闇の深さに愕然とする。誰にも見せられない自分の姿を、過去を、まざまざと見せつけられます。そこで罪を認識することもあるでしょう。しかし本当に私たちが決定的に「私は罪人だ」「罪の奴隷なのだ」と認識するのは、神さまが与えられた律法、イエス様が「神と隣人とを愛しなさい」と要約された律法に自分を照らし合わせた時である。その時、私たちは何の言い訳もできない、誰かのせいにもできない。口が塞がれるのだと、聖書は言っています。そこで神さまにお目にかかる。いや、神さまはずっと目の前におられた。私の目がハッと覚まされた時、目の前に父なる神さまがおられることに気付くのです。

 神さまの私たちに対する愛、思いをしっかりと受け取りましょう。私たちに対する愛、思いは、クリスマスに込められています。御子キリストが私たちのためにこの世に降られた。クリスマスに込められた神さまの本当の思いを、本当の喜びをもって受け取るために、私たちは私たちの心に向き合うことへと今朝、招かれているのではないでしょうか。自分の胸に手を当ててみる。じっくり向き合う。それは簡単な作業ではないでしょう。辛い作業となるでしょう。しばらくの間、暗やみに落とされるように思うかもしれません。しかしそれも今日という待降節、教会暦では新しい一年の始まりとされている日にふさわしいことなのかもしれません。冒頭に申しました教会公文書にもありましたけれども、「待降節は愛と喜びに包まれた待望の時である」とある通り、実は喜びに包まれた待望の時なのです。待つ時というものは、楽しみでもありますが、苦しい時でもあります。しかしその時、あのクリスマスの晩、暗やみの中でも目を覚まし、忠実に仕事をし、星空を見上げ神さまの救いを待ち望んでいたあの羊飼いたちのように、腐らずに、目を覚まして、神さまを恐れ、また神さまの真実、愛から決して目を離さずに、この時を過ごしましょう。そして本当のクリスマスの喜び、福音の喜び、救いの喜びをまた新たに受け取り、新しい一年を喜びをもって歩み出しましょう。福音の招き、新たな喜びの歩みへの招きは、アドヴェントを迎えた今日、みことばを通して私たちに向けて差し出されたのではないでしょうか。

 お祈りを致します。

 天の父なる神さま、御名を崇め賛美致します。みことばを感謝致します。アドヴェントを迎えた今日からの歩みが、混じりけのない、本物の希望と喜びに満ちたものとなりますように、私たちの思いと行動を守り導いてください。そして今年も、喜びと希望に満ちたクリスマスを迎えられますように。そのための待ち望みの期間としてふさわしく過ごせますように、私たちの霊と肉とを健やかにお守りくださいますようにお願いを致します。救い主キリスト・イエス様の御名によってお祈り致します。アーメン。

長野聖書教会の話題やお知らせをお届けします。

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