2021年2月21日 主日礼拝「信仰による義」

本日の聖書箇所

ローマ人への手紙4章17〜25節

説教題

「信仰による義」

今週の聖句

このことは、彼が信じた神、すなわち死者を生かし、無いものを有るもののようにお呼びになる方の御前で、そうなのです。

ローマ人への手紙4章17節

訳してみましょう

2070 For by one offering He has perfected for all time those who are sanctified.

2071 A mature relationship with God brings freedom and joy.

礼拝式順序

開 祷
讃美歌  7番「主のみいつと」(※今週の讃美歌
主の祈り 564番「天にまします」(参照
使徒信条 566番「我は天地の」(参照
讃美歌  280番「わが身ののぞみは」(※今週の讃美歌
聖 書  ローマ人への手紙4章17節〜25節
説 教  「信仰による義」佐藤伝道師
讃美歌  427番「月日のながれ」(※今週の讃美歌
献 金  547番「いまささぐる」(※今週の讃美歌
頌 栄  541番「父、み子、みたまの」(※今週の讃美歌
祝 祷


動画はこちら 

https://youtu.be/6EMMyK0RBz4

説教「信仰による義」

ローマ書4章17〜25節

 今朝もこうして皆さんと礼拝に集い、ご一緒に主の祈りを祈り、使徒信条を唱えて同じ信仰告白の上に立てる幸いを感謝致します。

 先週の水曜日から「レント」が始まりました。プロテスタント教会の一部では「受難節」とも呼ばれる期間です。受難節の最後には「受難週」と呼ばれる一週間があります。イースター前の最後の日曜日から受難週は始まるのですが、その日はイエス様のエルサレム入城を群衆が棕櫚の枝を手に歓迎したという聖書の記述から「パームサンデー(棕櫚の日曜日)」と呼ばれます。聖書の記述通り、パームサンデーからイエス様の十字架へと進んで行き、そしてイエス様が復活された日曜日の朝を迎えます。教会暦ではイエス様の復活の朝を記念する日として「イースター(プロテスタントでは復活日、カトリックでは復活祭)」と呼ばれていますが、ウィキペディアでイースターの項目を見てみましたら、「キリスト教で最も重要な祭り」というふうに説明されていました。

 「キリスト教とはキリストです」。使徒信条は西方教会(私たちプロテスタント教会、カトリック教会、聖公会)が告白する信仰告白ですが、その使徒信条を見ますと、まことにこのことが分かります。イエス・キリストに関する事柄が多くの分量を占めており、その中でも最後の一週間、そして復活、昇天の出来事が多くの分量を占めていることがわかるのではないでしょうか。「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に上り、全能の父なる神の右に座したまえり」。多くの分量を占めているこの信仰告白こそ、私たちの信仰、私たちの希望、確信において重要なのだということを表していると思います。聖霊が与えられ、このキリストを信じ、罪ゆるされ、神の子とされ、それ故に最終的な神の裁きを恐れることなく、身体のよみがえり、永遠のいのちを信じると告白し、最後にアーメンと言う。その信仰に支えられて生かされていく。本当に幸いな私たちであると思わされます。

 そんな幸いに感謝し、恵み豊かな主の祝福を祈り求め、今朝も主に栄光を帰す礼拝を献げましょう。お祈り致します。

 天の父なる神さま、御名を崇め心から賛美いたします。過ぐる一週間も私たちを守り導いてくださったことを覚えて感謝致します。神さまの私たちに対する愛と信頼、注いでくださった恵みに背くところがありますならば、主よ、憐れみのうちに、その全能なる御力によってお赦しください。このひととき、私たちに主との平和と、心に平安を与えてくださって、心からみことばに聞き、霊とまことをもって主を拝することができますようにお守りください。キリスト・イエス様の御名によってお祈り致します。アーメン。

 「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず」。私たちは今朝もそのように信仰を告白しました。

 私たちの信じる神さまは、天地の造り主なるお方。無からすべてを創造された、真に全能、不可能なことなど何もない、何でもお出来になるお方。そのような全能なる神さまは、同時に私たちの「父」でもあるのです。讃美歌の歌詞にもありますが、「わが子の上に幸あれと、思うは親の心なり」と。父なる神さまはご自身の子に対する完全な愛をお持ちの方。「天におられます、私たちの父よ」と祈りますが、全能なる神さまが私たちのお父さんであるからこそ、神さまの御心が一番良いのだという全くの信頼、期待をもって、大胆に恐れなく「あなたの御心がなりますように」と心から祈ることが出来るのではないでしょうか。

 私たちが全能の神さまを父と呼べる幸い。神さまをお父さんと呼べるのは、すでにご承知の通り、私たちがイエス・キリストを通して神さまの子とされているということです。ローマ書は罪の悲惨さ、「義人はいない、すべての人は罪人」としてこれでもかと述べてきました。そんな罪人、そんな私たちが神さまの子とされた。神さまに愛され、神さまを愛し、神さまに信頼されて、神さまを信頼して生きることが出来る。愛し愛され、信頼し信頼され。そのような幸いな関係にされている。また、どんな状況にあっても神さまの最善の御心を示してください、御心がなるようにと、最善の結果を期待して何も恐れることなく祈ることができる。それは神さまが全能なお方であり、また父であられるからです。そして実際に神さまは私たちを守り導くために最善の御心をなしてくださいます。なぜなら、神さまが私たちを約束の神の国に至るまで責任を持って守り導いてくださると約束してくださったからです。この幸い、この恵みはどのようにして与えられるのでしょうか。それはこれまで見て来ました通り、割礼ではない、律法でもない、信仰によってということでした。割礼のある者にも、割礼のない者にも、律法を持つ者にも、持たない者にも、すべての者の父、信仰の父、手本とされたアブラハム。そのアブラハムの信仰、アブラハムに約束された神さまに対する信仰の姿勢こそが、唯一私たちを義とする、神さまの子とすることが可能なのなのだと聖書は教えます。

 ローマ書は4章9〜12節で「信仰と割礼」について、13〜16節では「信仰と律法」について語られました。アブラハムが信仰によって義と認められ、約束が与えられたのは、割礼よりも14年前、律法が与えられたよりも430年も前であったこと。だから当然、義とされるためには割礼も律法が条件ではなく、義とされるために最も重要で絶対に必要なこと、根本的なことは「神さまを信じる」ということでした。それが「信仰義認」と呼ばれる、私たちプロテスタント教会が立ちもし、倒れもする大切な教理です。

 今朝与えられましたみことばは、4章17〜25節ですが、パウロは17〜22節でアブラハムの信仰について具体的に説明し、23〜25節で旧約時代のアブラハムの信仰を、新約時代の私たちの信仰とつなげます。

4章17節   このことは、彼が信じた神、すなわち死者を生かし、無いものを有るもののようにお呼びになる方の御前で、そうなのです。

 アブラハムの信仰は、一口で言って「死者を生かし、無いものを有るもののようにお呼びになる神」に対する信仰でした。

 「無いものを有るもののようにお呼びになる神」。そう聞いて私たちは何を思い起こすでしょうか。それは創世記1章、聖書の一番最初からの創造のみわざではないでしょうか。地は茫漠として何もなかった。無でした。神さまが仰せられた。するとこの天地万物、光も闇も、天、空、海、地、その中に生きるすべてのものが創造されたのです。神さまの全能な力、不可能な事はなにもない信じられないような御力によって。皆さんはこの聖書の一番最初に記されていることを信じておられますか。

 では「死者を生かす神」。そう聞いて私たちは何を思い起こすでしょうか。キリストの復活でしょう。また終わりの日、神の国が完成する時に起こる死者の復活でしょう。これもまた神さまの全能な力、不可能な事はなにもない信じられないような御力によって起こったこと、起こることです。どうでしょうか、皆さんは福音書の最後に記されているこのこと、また聖書の最後の黙示録に記されているこのことを信じておられますか。もっと言うならば、聖書の最初から最後まで、信じておられますか。

 神さまはその全能な御力によって不信仰な者、罪人を義としてくださったのです。罪に死んでいた私たちに新しい永遠のいのちを与え、再び生きる者としてくださった。造り変えられたのです。聖書で「造られた」と言う時、それはcreation:創造という意味の語が使われます。全く新しいものを生み出す、無からの創造を意味しています。私たちは信仰によって全く新しく創造された者だと言って良いでしょう。私たちは新生した、新しく生まれた者たちです。人間には信じられないこのことが、神さまを信じる者には起こるのです。神さまを信じた私たちに起こったのです。神さまを信じて、神さまに義とされて、新しい永遠のいのちが与えられて、神の国に至るまで最初から最後までこのいのちによって守り導かれている。恵みの中に生かされている。

 この信じられないほどの恵みですが、聖書は「神の御前でそうなのです」と言います。神さまの評価によってそうなのです。これは何と幸いなことなのでしょうか。他人や自分自身が今の私たちを見て下す判断とか評価ではないのです。神さまの目から見ての判断とか評価なのです。あんな状況にあるあの人がとか、こんな自分であるのにとか、諦めそうになる状況、そのようなことは関係なく、神さまが今の私たちを義としてくださっている。喜んでくださっている。何と言う幸い、慰め、励ましでしょうか。

4章18節   彼は望みえないときに望みを抱いて信じました。それは、「あなたの子孫はこのようになる」と言われていたとおりに、彼があらゆる国の人々の父となるためでした。

 神さまがアブラハムに、「あなたの子孫は、このようになる」と語られたとき、アブラハムはそれが自分に期待できるものではないことをよく知っていました。それは物理的に不可能なことであり、そんな期待など随分前に捨てていたからです。人間的な見方をすれば、全く希望がない状態に置かれながらも、アブラハムは全能の神さま、奇跡さえ起こせる神さまに希望の根拠を置いていました。けれども事態がすべて理想的に運んだわけではありませんでした。アブラハムは子孫に関する神さまの約束がどのような形で実現するのか分かりませんでした。自分の妻サラは不妊の女でした。それで当時の習慣に従って、自分の家のどれを跡継ぎにしようと考えました(創153)。ところが神さまは、この方法によってアブラハムが約束の子孫を持つことを禁じられました。そして暗闇の中、それは絶望の中だったのでしょうか、神さまはアブラハムに空を見上げさせました。そこで神さまは星を見せてこう言われました。「あなたの子孫はこのようになる」。このことばを信じることによって、アブラハムは「あらゆる国の人々の父」となりました。ユダヤ人にとって祖先となっただけでなく、人間的な力や試みがすべて打ち砕かれていくような中で、望み得ない時に望みを置く、そのように神さまを信じる信仰を与えられたすべての者の父となったのです。

 19節からは、17-18節で述べたことの具体的な説明です。

4章19節   アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱まりませんでした。
4章20節   彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、
4章21節   神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。

 アブラハムが望めなかったのは、その時すでに100歳の老人となっており、子どもを生めない状態だったからです。生殖機能に関して言えば、アブラハムのからだはすでに死んだも同然でした。それだけではありません。妻のサラもすでに90歳になっていて、妊娠などできない、胎の死んだ状態になっていました。それでもアブラハムの信仰は弱まっていませんでした。アブラハムは不信仰によって神さまの約束を疑うことをしませんでした。むしろ信仰によって強められ、神さまに栄光を帰したのです。

 私たちも、絶体絶命のピンチの時にこそ、私たちの信仰が強まることを知っているのではないでしょうか。神さまに希望を置いて、依り頼んで、からみつくようにして祈るのではないでしょうか。祈るということは、神さまがおられることと、神さまが報いてくださることとを信じているからです。新共同訳では「栄光を帰した」というところを、「神を賛美しました」と訳されています。神さまを堅く信じて、感謝と賛美と栄光をささげたのです。私たちもそうのように神さまを堅く信じて、依り頼んで祈って、祈りの最後には、たとえその時解決は見なくとも、信仰によって感謝と賛美を主におささげできる者でありたいと思わされます。信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。アブラハムを含めた昔の人々はこの信仰によって称賛されました(ヘブル111−2)。

 アブラハムが望めないにも関わらず望むことができた、神さまを賛美できた理由は、神さまには「約束したことを実行する力がある」と確信したからでした。つまり、アブラハムの望みの根拠が自分の中には無い、すべて、全部、全く神さまにあったということです。ただ神さまに依り頼んだのです。

 アブラハムは「死者を生かし、無いものを有るものとして召される」全能の創造主であられる神さまを信じました。神さまがアブラハムの死んだ体と妻の死んだ胎を生かして、約束されたとおりに星の数のように多くの子孫を与えられると堅く信じました。神さまに対する信仰の上に、堅く立ったのです。

 「堅く信じた」という語は、私たちの一番短い信仰告白である「アーメン」に繋がる語です。「アブラハムは神を信じた」。この「信じた」がヘブル語で「アーマン」、後の「アーメン」です。その意味はもともと「確認する」とか「倒れないように支える」という意味があります。アブラハムは絶望の中、空を見上げて星を数え、神さまの約束を信じました。約束を確認しました。そしてその約束によって自分自身が倒れないように支えられたのです。この場面はとても印象的です。

 その時のアブラハムの気持ちが私たちには分かるのかもしれません。望みが絶たれて呆然と、全身に力が入らないような、背筋は丸くなって、両手はだらんと両側に垂れ下がって、倒れそうになりながら空を見上げるしかない。天を仰ぐしかない。そんな状況の中で神さまの約束のみことばを聞いたのではないでしょうか。私たちはその約束のみことばにすがり、倒れないように、自分をしっかりと支えるのです。その時、私たちに何ができるかというと、ただ天を仰ぐだけ、天を仰いで天におられる神さまを信じるのみ。これが信仰でしょう。それは私たちが救われた時に知った信仰でしょう。またその後の歩みの中でも味わった信仰かもしれません。神さまの約束を信じる信仰。それは私たちがこの世で生きるにあたっていつも経験しているもので、私たちにも分かるものなのではないでしょうか。

4章22節   だからこそ、それが彼の義とみなされたのです。
4章23節   しかし、「彼の義とみなされた」と書いてあるのは、ただ彼のためでなく、
4章24節   また私たちのためです。すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、その信仰を義とみなされるのです。

 ところで、神さまは人を義とするために、時代ごとに別個のことを求めて来られました。アダムとエバはどうでしょう。「禁断の実を食べると死ぬ」という神さまのことばを信じ続けることで義とされ続けました。ノアはどうでしょう。雨が必ず降ることを信じるように求められました。モーセ以降はどうでしょう。動物の血によって自分たちの罪が赦されることを信じるように求められました。イスラエルの人たちは、どの歴史の中でも神さまの約束を信じ、その信仰に基づいて行動することで義とされてきたのです。

 では、現在の私たちには、私たちが義とされるために何を求めておられるのでしょうか。

 「私たちの主イエス・キリストを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、その信仰を義とみなされるのです。」

 旧約時代に生きたアブラハムの信仰は、「死者を生かす神」を信じる信仰でした。新約時代に生きる私たちの信仰は、「主イエスを死者の中からよみがえらせた方」である神を信じる信仰です。

 アブラハムは、自らの肉体が死んだも同様であるのに、その自分によって子孫を得させると言われた神を信じました。キリスト教信仰においては、キリストをよみがえらせる神を信じるのです。

4章25節   主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。

 ここで私たちの信仰が簡潔に、力強く、しかも厳かにまとめられています。私たちは、この聖書のみことば、神さまのみことば、約束に「アーメン」と答えるのです。この約束を堅く信じるのです。今の私は神さまに本当に義とされているのだろうか。今の私の状況を見てどうだろう。他人はどのように見ているのだろう。たとえ望みが絶たれたように思える中であっても、25節のみことばを「アーメン」と確認して、認めて、信じることによって堅く立ち、私たちは倒れないように支えられるのです。イエス・キリストは私たちの罪のために十字架にかけられ死なれた。陰府にくだられた。完全に間違いなく死なれた。そして実際によみがえられました。よみがえられたので、私たちは義と認められるのです。私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。私たちはその事実を「アーメン」と確認し、堅く信じ、このアーメンによって倒れないように支えられるのです。

 イエス様は私たちの贖いとなられるために十字架につけられました。いのちという罪の代価を支払って、私たちを罪の奴隷から解放してくださいました。なだめの供え物となられるために十字架に屠られ、苦しまれ、血を流してくださいました。それによって神さまの私たちに対する怒りが宥められ、私たちは神さまとの関係において何のわだかまりもない真の和解、平和な関係をいただいたのです。イエス様の十字架の死、よみにくだられて真に死なれたことは、神さまがイエス様という贖い、宥めの供え物を受け入れてくださったことを証しするものです。そしてイエス様は3日目によみがえられました。よみがえられて天に上られ、神の右に座し、聖霊を私たちに送ってくださいました。「誰でも聖霊によるのでなければ、イエスは主ですと言うことはできません」。イエス様が復活して天に上り、聖霊を私たちに送ってくださることによって、私たちはイエス・キリストを主と信じることができているのです。この礼拝において、また日々の礼拝、みことばの前にへりくだる時において、聖霊が私たちにイエス様の言われたこと、なさったこと、その意味すべてを思い起こさせ、教えてくださることによって、私たちはますますイエス様を知り、イエス様に出会い、信仰が起こされれるように導かれるのです。そして私たちのその信仰が「主イエスを死者の中からよみがえらせた方」、創造主なる全能の父なる神さまに向かう時、私たちの信仰が私たちを義とするのです。この信仰によって私たちは神さまによって義とされて、神さまに喜ばれる存在として生かされていくのです。

 神さまは、神さまを信じる私たちを義としてくださいました。喜ばしい存在としてくださいました。造り変えてくださったのです。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」(Ⅱコリ517)。それはもう、全く新しい創造です。今の自分を見て、そのことが信じられるでしょうか。前とちっとも変わっていないじゃないかと思われることもあるでしょう。しかし神さまの死者を生かす力、無から天地万物を創造された力、その全能の力によってそうなのです。私たちはイエス・キリストにあって、神さまを天の父と呼ぶことが赦されています。それは私たちが神の子とされたということでしょう。

 私は昨日、妻の親友で私の友人でもある人を家に招いて、その人の誕生日をお祝いしました。それは別の話として、私たちは誕生日をお祝いします。特に我が子の誕生を祝う時にはまた格別な思いがあるのではないでしょうか。なぜ祝うのでしょうか。それはその人の存在、我が子の存在自体が喜ばしいからではないでしょうか。

 聖書の一番最初、創世記に戻りますが、神さまは天地万物をまったくの無から創造され、6日目にその完成を見て言われました。「非常に良かった」。この「良かった」と言われているところには、ヘブル語で「トーヴ」という語が使われています。これは機能的に良かった、完璧ということではなく、「喜ばしい」というニュアンスを持っています。トーヴという語は他の箇所では、「美しい」とか「かわいい」「愛らしい」とも訳されています。

 神さまは神さまによって全く新しく造り変えられた、新しく創造された私たちをみて「見よ、それは非常に良かった」と仰ってくださるのです。「喜ばしい、かわいい、愛らしい」と仰ってくださるのです。信じられないほどの恵みです。しかし信じてください。神さまは全能なお方だからです。

 「義とされる」とは、そういうことなのではないでしょうか。私たちが機能的に完璧ではなくても、喜ばしいとしてくださる。喜ばしい存在、かわいい存在として養ってくださる。よちよち歩きで危なっかしい、放っておけば迷子になってしまう。成長すればわがままを言うし、困らせることもある。時には父の厳しさをもって間違いを正されることもあるでしょう。でもかわいい。存在が喜ばしい。親の無償の愛によって私たちを日々養い、成長させ、約束の御国に至るまで責任をもって守り導いてくださいます。約束の御国に至るまでの道中にも、神さまはたくさんの約束をしてくださっていることでしょう。皆さんは今、何を約束されていますか。健康でしょうか、家族の救いでしょうか、生活が守られることでしょうか。神さまは全能の力によって、また父の心をもって約束を必ず成し遂げてくださいます。御国に至るまで必ず守り導いてくださる約束があるからです。その約束に聖霊という証印が押されているからです。罪赦されて神の子とされた、創造された、全く新しく生み出された。その目に見えない霊的な出来事のしるしとして、洗礼という恵みが与えられています。その洗礼の恵みに与る方々が多く私たちの家族や隣人の中から起こされることを祈ります。

 このように、何の功績も力もない者に与えられた恵みを覚えるならば、私たちはただ感謝して、ただ神さまにへりくだるのみ、ただへりくだるしか出来ないのではないでしょうか。日々神さまの恵み、私たちは義とされていること、子とされていることを堅く信じ、神さまの約束を疑うようなことはせず、かえって信仰が強められていく。それが神さまに栄光を帰すことになる、神さまを賛美することになる、神さまが喜ばれることになるのです。

 しかし時に私たちは、信仰さえも行いとしてしまう危険があります。信仰さえも条件としてしまう危険があります。無償の愛、見返りを求めない愛を注がれている私たちは、無償の信仰、見返りを求めない信仰、あるいは良い行いを父なる神さまにお献げしてまいりましょう。父なる神さまを見上げ、父なる神さまの約束を信じ、約束してくださる父なる神さまを信じて歩んでまいりましょう。御国に至るまで、父なる神さまの愛の内に歩んでいける幸いを感謝しましょう。私たちは信仰により、神さまの全能の力によって新しく創造された者、神さまの御前で「非常に良かった、喜ばしい者」とされているからです。

 お祈りを致します。

 天の父なる神さま、御名を崇め賛美致します。みことばを感謝いたします。私たちは信仰によって義とされています。信仰によって神さまの子とされ、喜ばしい者とされている、その恵み、幸いを心から感謝いたします。神さまが喜び、受け入れてくださるアブラハムの信仰をもって、これからの日々、御国に入る日に至るまで歩んで行くことができますよう、なお守り導いてください。神さまの約束を堅く信じ、いろいろな出来事の中で神さまに栄光を帰すことができる日々となりますようにお守りください。私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるためによみがえられた私たちの主、キリスト・イエス様の御名によってお祈り致します。アーメン。

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