2021年3月28日 主日礼拝「選びなさい」

礼拝前賛美

礼拝前賛美/新聖歌453「ガリラヤ湖の岸にて」、新聖歌221「ああ主の瞳」、新聖歌222「罪の深みに」

本日の聖書箇所

ローマ人への手紙5章20〜21節

説教題

「選びなさい」

今週の聖句

しゅろの木の枝を取って、出迎えのために出て行った。そして大声で叫んだ。「ホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に。」

ヨハネの福音書12章13節

訳してみましょう

2080 From the lips of children and infants you, Lord, have called forth your praise.

2081 How do the daily distractions and discontent of others draw your focus away from the Lord? What will help you to keep your eyes on Jesus?

礼拝式順序

開 祷
讃美歌  124番「みくにをもみくらをも」
主の祈り 564番「天にまします」(参照
使徒信条 566番「我は天地の」(参照
讃美歌  129番「あがないぬしに」
聖 書  ローマ人への手紙5章20節〜21節
説 教  「選びなさい」佐藤伝道師
讃美歌  515番「十字架の血に」
献 金  547番「いまささぐる」
頌 栄  541番「父、み子、みたまの」
祝 祷


動画はこちら 

https://youtu.be/Sj_K7r6aqLY

説教「選びなさい」

ローマ人への手紙5章20〜21節

 皆さんは今、どうして日本に住んでいるのでしょうか。日本人だから。確かにそうかもしれません。けれども外国に住もうと思えば住めるのではないでしょうか。また日本には47都道府県、その中には1,724の市区町村があるそうですが、どうして私たちは今ここに住んでいるのでしょうか。そこに生まれたからでしょうか。あるいは転勤とか、結婚とか、そのような事情によってでしょうか。けれども私たちはどこに住んでも良いはずです。子どもたちの友だち家族の中に、この長野市に転勤してきて、環境も良くて住みやすいということで、何の縁もない長野に家を建ててしまったという方もおられます。自分が良いと思う所に住むことは許されているし、誰からも強制されることもない、その判断とか選択は各自に任されているのです。一つ所にとどまりたくないと、旅することを選択するのも自由です。
 住むところばかりではありません。何事においても私たちには自由が与えられています。私たちはプログラミングされたロボットではないからです。ちゃんと理性が備わっていて、感情があって、それで色々なことを自分で自由に決められるのです。問題はその自由をどのように用いるかです。

 私たちは今朝、自由な選択によって日曜日の午前中を聖別して、神さまに礼拝を献げるのだと自分で心に決めてここに集っています。神さまは礼拝に招いてくださっています。しかしその招きを強制することはなさいません。私たちが他の何よりも神さまを優先し、自由な意志決定で神さまを愛することを求めてくださっておられるからです。私たちに、愛し愛されるという、作られたものではなく本物の生きた関係を求めてくださっているからです。考えてみると、それは本当に喜ばしい恵みではないでしょうか。何も考えることも赦されず、何も考えることなしに、何か自動的に礼拝に集う。そこに神さまの私たちに対する愛も、私たちの神さまに対する愛も感じられないと思います。私たちは神さまを愛し、神さまに愛されている。真に神さまとの平和な関係に入れられている。今、そのような恵みに感謝して、またその恵みを期待して求めて、私たちは今朝も主に礼拝を献げましょう。皆さんお一人お一人に、主の恵みと祝福が豊かに注がれ満たされますことをお祈りします。

 天の父なる神さま、御名を崇め賛美致します。今朝もこうして、私たちを礼拝に招いてくださり感謝いたします。様々な都合によってこの場に集えない方々もおられますが、その心は御前にあることと思います。インターネットを通じて、また時間を聖別することによってあなたに礼拝を献げられるお一人お一人を祝福してください。幸いにして集えました私たちも、ひたすらに主に心を向け、みことばに聞き、邪魔をする様々なことからお守りくださり、主を霊とまことをもって礼拝することができますようにお願いを致します。この礼拝が主に喜ばれ、受け入れられる礼拝となりますよう導いてください。受難節を過ごしてまいりました。今朝から受難週を過ごしてまいります。この時をふさわしく過ごすことができますように導いてください。感謝して救い主キリスト・イエス様の御名によってお祈り致します。アーメン。

 前回見たところは、簡潔に言ってしまうならば、私たちは以前、文字通り間違いなく罪人であったけれども、私たちは今、文字通り間違いなく義人であるのだということでした。そのことを論証するために、ひとりの人アダムの違反と、ひとりのイエス・キリストの十字架と復活、また「恵み」と「違反」の影響力を比べて論じ、「ちょうどひとりの人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、ひとりの従順によって多くの人が義人とされるのです」というみことば、約束をいただきました。そのことから、およそ2000年前に外国で起こったイエス・キリストの十字架と復活は、今を生きるこの私のためだったのだと。この私に、神との平和を恵みによって、賜物として与えるためであったのだと。文字通り罪人であった私は今、イエス・キリストの十字架と復活によってすべての罪が赦されて、神さまの怒りが宥められて、神さまとの真の平和な関係を頂いている、文字通り義人、神さまが「あなたは全部良い」「あなたは私が喜ぶ存在だ」と仰ってくださっている。
 また、かつては罪と死がこの私の上に君臨し、支配していたけれども、今はイエス・キリストがこの私を支配しておられる。私を罪と死から救い出すために、実に十字架の死にまで従順に従われた愛と恵みに満ちた柔和な王、力ある主イエス・キリストが、私の主として私を支配してくださっている。君臨しておられる。イエス・キリストを通して永遠のいのちが与えられ、そのいのちが今の私の人生を支配し守り導いているのだ。そのことに賛成するかしないか、信じるか信じないか、そして王として、私の主として受け入れるか受け入れないか。幸いな支配、平和な支配を望むのか望まないのか、その選択も任せられるところだったのではないでしょうか。

 このことは本当に私たちを考えさせるものであったと思います。信じられないほどの大きな恵み、そのみことば、約束に賛成するかしないか、信じるか信じないか、受け入れるか受け入れないか。実にかつての私たちを真剣に悩ませ、考えさせ、そして「どちらか選びなさい」と、主が私たちに選択を任せられたところだったのではないでしょうか。ここに集われているということは、皆さんは真剣に考え、きちんと選択をされたのでしょう。それは今も、日々の色々な出来事を通して何度も考えさせ、選択を任せられているところでもあると思います。その自分の選択を、日々確実に自分のものとされておられるでしょうか。自分は当然のように知っているし、もう信じているしと、そんな風にしてしまってはいないでしょうか。受難週を迎える今、キリストが苦しまれたのは実にこの私のためであったのだと、改めて深く考える時であると思います。

 私たちが考えに考えて、悩んで悩んで、ようやく導き出した結論は確信となるでしょう。そしてその確信は、その後の歩みに影響を及ぼすものとなるのです。大きな差にもなり得ます。

 ところで、罪というのは一体どこから来たのでしょうか。

 前回見たところでは、創世記においてアダムによって罪が世界に入ったと言われました。神さまが創造されたものなのでしょうか。人間が罪を犯すために。そんなことあり得るのだろうか。その時、誘惑するために登場してきた蛇って何ものなのでしょう。人間と会話しているけれども、他の動物とも会話できたのだろうか。分からないことだらけです。しかしはっきりしていることは、アダムによって罪が世界に入って来たと言われていることです。その罪というのは、神さまの戒めに背いて善悪の知識の木からその実を取って食べて、それによって神さまとの関係が破れてしまった。それは神さまに背を向けて、自分勝手な道に進み出て行ってしまうことになりました。「罪とは何か」を表す代表的なみことば、イザヤ書53章ではこのように言われています。「私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った」。その時、アダムは神さまとの約束を守るという選択もありました。けれども蛇による誘惑があって、アダムは考えさせられたのです。結果、アダムは駄目な方を選び取ってしまいました。

 このように、神さまによって聖く造られた者がどうして罪に墜ちることができたのでしょうか。それは神さまが人間に与えられた「自由意思」というものが問題だったのです。神さまは人間を理性的な存在として創造されました。親が子を愛するように、子が親を愛するように、親が子を、子が親を尊重するように、そんな愛し愛される、尊重し合う関係を望まれて、そのような存在として人間を創造されました。ロボットのように、ご自分を無条件に愛するようにプログラミングして、機械的に自動的に愛されるなどということは望まれませんでした。力で押さえつけて、それしかできないという自由のないところでは、本物の愛は生まれません。神さまは人間からの自由な愛、本物の愛を欲したのです。

 ある神学者がこのような興味深いことを言っています。「神は人間からの自由な愛を欲した。それゆえ神は賭けをしたと言える」と。

 誰も負けを決め込んで賭けをする人などいないでしょう。神さまは人間を信頼し、きっと愛を選択するだろうと期待しておられたのではないでしょうか。しかし人間はその神さまの愛と期待を裏切ってしまったのです。神さまの愛と信頼に応えられなかったのです。神さまの愛のご支配を望まずに、その支配から出て行くことを選択してしまったのです。

 最高、これ以上望めないような最良の環境のもとにありながらアダムは罪を犯してしまいました。なので前回、私たちはアダムの子孫、血によって罪の性質を引き継いでしまったのだというところを見たのですが、わざわざ血縁関係を持ち出さなくとも、恐らくすべての人類は同じ確実性をもって、自由な意志によって罪を犯したのではないかと思います。色々乱れている世に生きている私たちだったらなおさら、もしたとえ神さまがこの私のために最良の環境を与えてくださっているとしても、私たちは神さまを疑い、アダムと同じ罪を犯してしまう者であると思います。実際そうではないでしょうか。今が最善なんだよと言われても、果たして何%くらい信じられるでしょうか。そんなはずはないと、自分が考える最善はもっと良い状況のはずだと疑ってしまうのではないでしょうか。

 神さまに背を向けて、どんどん自分勝手な道に向かって行ってしまう人間。神さまは決して諦めてしまわれた訳ではありませんでした。ずっと御手を伸べて、人間の自由な意志による愛の選択、いのちの選択を求めてくださっていたのです。その中で、モーセの律法が与えられました。

5章20節      律法が入って来たのは、違反が増し加わるためです。しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。

 ここで「律法が入ってきた」という表現は面白いもので、ガラテヤ書2章4節の「忍び込んだ偽兄弟」の「忍び込んだ」というのと同じ表現です。

 律法はもともといのちを与えるために与えられたものだったはずです。神さまが約束された最良の地においてより良く生きて行くために与えてくださったものでした。また同時に、神さまの愛と信頼が込められたものでもありました。何度か取り上げていますが、十戒は文法的にこのように訳せるのです。「わたしはあなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。これほどの経験をして、あなたがたは神の民であることを悟らされたあなたがたであるなら、あなたには、わたしのほかに、ほかの神々はないであろう。自分のために、偶像を造らないであろう」。

 律法は神さまへの愛と信頼を促すためのものでした。律法を通して神さまは、「だから、わたしを愛しなさい、わたしを信頼しなさい」と、この時も御手を伸べて、人間の自由な意志による愛の選択を求めてくださっていたのではないでしょうか。ところが、アダムのもとに蛇が忍び込んできたように、本来良いはずであったもの、神さまのみことば、約束を利用して誘惑されたのです。律法が偽教師のようになって忍び込んで来たのです。律法の意味を曲げて、神さまのイスラエルの民への愛と信頼を疑うものとし、イスラエルの民の神さまへの愛と信頼を不確かなものにしてしまったのです。誰がしたのでしょうか。どこからともなく現れて、人間の言葉を話す蛇のような不思議な存在でしょうか。けれども最終的には神さまの愛と信頼に応えられなかった、人間の選択によったのではないでしょうか。ここでもアダムと同じように、アダムの罪を引き継いで、人間が神さまの愛と信頼に応えられない選択をしてしまったと言えるのではないでしょうか。

 それでもやはり、神さまは決して諦めてしまわれた訳ではありませんでした。不真実な者をも愛される真実な神さまは、ずっとその御手を伸べて、人間の自由な意志による愛の選択を求めてくださっていたのです。神さまは愛と全能なる御力をもって、律法さえも、人間の誤り、罪さえも用いて、すべての人を救い主イエス・キリストのもとへと導こうとされたのです。あなたがたは律法を完全に守り行うことによって義とされようとしているけれども、それでは決して義とされることはないよと。かえって次から次へとその律法によって自分たちの罪が示されるだけでしょうと。そして救い主イエス・キリストのもとへ導かれ、あなたは是非ともこの救い主イエス・キリストを通して、いのちを選び取るように、ご自身との平和な関係、恵みの支配、死ではなくいのちの支配のもとに入るようにと招いてくださったのです。わたしが計画し用意した義とされるこの道しかないのだけれども、どうするか、と。

 ですからパウロは大胆に言うのです。「律法が入って来たのは、違反が増し加わるためです」と。このテーマはパウロがローマ書の7章7節以下で扱っているので、その時に改めて考えたいと思いますが、先に少しだけ触れますと、パウロはこう言っています。「それでは、どういうことになりますか。律法は罪なのでしょうか。絶対にそんなことはありません。ただ、律法によらないでは、私は罪を知ることがなかったでしょう」。そしてさらに大胆に宣言するのです。「しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました」。

 パウロはガラテヤ書3章24節で、律法とは「私たちをキリストに導くための養育係」だと言っています。養育係とは、その家で子どもの生活と道徳を担当した奴隷、しもべのことです。本当は偉そうで恐ろしい、力で押さえつけようとするような権力のある教師ではないのです。律法とは実は、私たちをキリストに導くために私たちに仕えるしもべなのです。救いの御手を伸べておられるキリストの御前に連れて行くしもべなのです。イエス様が「わたしが来たのは人に仕えられるためではなく、仕えるために来たのだ」と言われたのと同じように、「律法が来たのは人に仕えられるためではなく、仕えるために来た」のです。

 そんなことを黙想していましたら、一つの場面を思い起こしました。それは、ヨハネの福音書8章のところでの、姦淫の場で捕らえられたひとりの女性に起こった出来事でした。律法学者とパリサイ人が、モーセの律法に従って、姦淫の罪を犯した者は殺されなければならないと主張したとき、イエス様はそれを否定なさいませんでした。石を投げなさいと言われたのです。女の人はそれは恐ろしかったことでしょう。生きた心地がしなかったのではないでしょうか。けれども最終的にイエス様は、その女の人に罪の赦しを宣言されました。「わたしもあなたにさばきを下さない。行きなさい。これからは、決して罪を犯してはなりません」と、新しい人生、新しいいのちへと送り出されたのです。この出来事は、イエス様の地上の働きの典型的なものなのではないでしょうか。イエス様が聖霊を通して今もなしておられる働きそのものではないでしょうか。イエス様は律法を通して罪の自覚をお与えになり、そしてご自分の行動を通して恵みを示された、示されるのです。

5章20節      律法が入って来たのは、違反が増し加わるためです。しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。

 律法は私たちに罪を示すものとなってしまいましたが、けれどもそのような律法さえも主は用いられるのです。律法によって私たちに罪を示し、罪の自覚をお与えになり、しかし罪の自覚が増し加わるところに、主の恵みはさらに満ちあふれるのです。

 20節の「律法が入って来たのは、違反が増し加わるためです」、この違反という語は、「間違えてしまったひと足、不法侵入」という意味を持つ語です。アダムは最高の環境の中でも罪を犯してしまったのですから、私たちなどなおさらです。その違反は不法侵入してきたものです。これはしてはだめと言われると、とたんにそこに思いが忍び込んできて、思いがだけだと言われることに引き寄せられていく。そんな人間の罪の現実。その罪を律法が刺激するのです。けれども律法に示される正義は私たちを救ってくれません。私たちを救うのは、神さまの愛、そして赦しなのです。礼拝前賛美では本当に良い賛美を選んでいただきました。これも主のお導きでしょう。「愛なり、愛なり、救いうるは愛なり」と主を賛美しました。律法に刺激され、罪の意識に苛(さいな)まれて、罪の深みに溺れる私たちに、主は釘跡の残る御手を伸べてくださり、恵みがいっぱいに溢れる御手を伸べて「この手にすがり、安きを得よ、平和を得よ、恵みを受けよ、赦しと永遠のいのちを受けよ、そしてあなたは永遠までわたしをあなたの神とせよ」と、日々、愛をもって迫り続けてくださっているのでしょう。

5章21節      それは、罪が死によって支配したように、恵みが、私たちの主イエス・キリストにより、義の賜物によって支配し、永遠のいのちを得させるためなのです。

 今や、私たちはイエス・キリストが苦しまれた十字架での犠牲と、また復活に表されている神さまの愛によって、赦しによって、満ちあふれるほどの恵みによって支配されているのです。神さまとの平和な関係の中で、イエス・キリストを王、主として、そのご支配の中で喜んで生きる者とされているのです。しかし、そのご支配を喜んで受け入れるか、ご支配の中にとどまるかどうかは、やはり私たちに任されているのです。神さまは強制されないのです。自由な意志によって、考えて悩んで、確信して、私たちが本当に神さまを愛し、信頼することを待ち望んでおられるのです。私たちの確信、そして確信による選択は、その後の私たちの歩みに大きな影響を生み出すからです。

 今日は「棕櫚の日曜日・パームサンデー」です。およそ2000年前のこの日、群衆はイエス様を王としてお迎えしました。ヨハネの福音書12章12節にその出来事が記されています。

【ヨハネの福音書】
12章12節   その翌日、祭りに来ていた大ぜいの人の群れは、イエスがエルサレムに来ようとしておられると聞いて、
12章13節   しゅろの木の枝を取って、出迎えのために出て行った。そして大声で叫んだ。「ホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に。」

 人々はイエス様を王として迎えました。一度はイエス様の支配を喜びました。受け入れました。それなのにわずか数日の間で「十字架につけろ!」と同じ口が叫んだのです。人々はイエス様に支配されない方を選び取ってしまったのです。それは自分たちが望んでいた王ではなかったから。自分たちが望んでいた結果になりそうになかったからでした。私たちは自分の思い通りにいかない時、誰を十字架につけろと叫ぶでしょうか。誰を選ぶでしょう。主でしょうか、自分自身でしょうか。

 主は御手を伸べて、いのちを得よと言われます。わたしを主とせよ、十字架を負ってわたしに従いなさいと。しかしそれは強制ではありません。私たちに選択させることは、もしかしたら賭けなのかもしれません。私たちに対する愛と信頼をもって、ご自身に対する愛と信頼を信じて。イエス・キリストを通してこれほどの恵みを経験したあなたであるなら、きっとわたしの支配を喜んで選び取るであろうと。けれども私はこう思うのです。もし私がイエス・キリストを十字架につけろと叫んでしまうとしたら、主はきっと十字架に進まれるのではないだろうか。屠られる羊のように、黙って十字架に進まれるのではないだろうか。それほどまでに真剣に、いのちを賭けてまでもこの私を愛し、信頼してくださっている柔和な王、主を、私はどうして再び十字架に付けることができるでしょうか。

 キリストにあって神との平和を、恵みによって、賜物として与えられている私たちには、神の御国に入ることがすでに許されており、その行き先は変更されることはないでしょう。神の国に入ってこの地上の生涯を振り返ってみると、神さまに守られ、愛され、罪の増し加わったところに、確かに恵みも満ちあふれていたことを見るでしょう。これまでの苦労が報われることを知るでしょう。あの時、あんな苦労をしたけれども、苦労して本当に良かったと思わず言ってしまうほど喜べる時が約束されているのです。そんな素晴らしい神の国が約束されていますけれども、今、私たちはこの地上で何を選択し、どこに向かって進んでいるでしょうか。誰を王とするのか、誰の支配を喜ぶのか。また行き先、方向について迷う必要のないことで迷っていたりしていないでしょうか。神の国は主なる神さまがご支配なさるところです。主なる神さまが王として君臨しておられるところです。であるならば、私たちが主イエス・キリストを王として「ホサナ、今救ってください!」と叫びお迎えしたここも、神の国です。完全な神の国は終わりの日に完成するのですが、ここも素晴らしい神の国なのです。イエス・キリストを信じ、永遠のいのちがすでに与えられており、その永遠のいのちをもって今もすでに、神さまの恵みと愛に満ちた神の国の一端を生かされているのです。その延長線上を歩いて行った先に、完成された神の国があるのです。

 地上の生涯を歩い行く中で、様々な選択は私たちに委ねられています。それは永遠からの神さまがお決めになっておられることです。「あなたはわたしを愛するか。あなたはわたしを信頼するか」。この世の日々、様々な出来事の中で、私たちを愛し、信頼し、そのように問いかけておられる主、釘跡の残る手を、恵みがいっぱいに溢れる主の手、差し伸べておられる主のその手にすがり、心から主を愛し、信頼し、そして幸いなこれからを歩ませていただきましょう。また、まだ柔和な王、イエス・キリストを主として受け入れておられない方々には、救いがどれほど素晴らしいものかを経験している私たちは、どうぞこのお方を選び取ってくださいと、主と同じ柔和さと真剣さをもって勧める者でありたいと思います。終わりの日は近づき、神の国も近づいているからです。

 お祈り致します。

 天の父なる神さま、御名を崇め賛美致します。みことばを感謝致します。今日は棕櫚の日曜日を覚えつつ、続けてローマ書から示されました。私たちすべて神さまによって造られた者には、神さまの目が注がれており、愛、恵み、赦し、いのち、それら本当に素晴らしいものが差し伸べられております。傷んだ葦を折ることもなく、くすぶる灯心を消すこともない主。主は柔和さと真剣さをもって、切迫感をもって日々、私たちに選択を任せておられます。どうぞ私たちがあなたとの素晴らしい関係を選び取っていく毎日でありますように。十字架につけろとの叫びが聞こえてくる時には、どうぞ聖霊によって正しい判断ができますようにお守りください。私たちの今日からの歩みも、あなたから与えられた永遠のいのちをもって、何の疑いもなく神の国に続くその道を歩み続けられますように導いてください。主キリスト・イエス様の御名によってお祈り致します。アーメン。

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