2021年4月11日 主日礼拝「恵みの支配」

本日の聖書箇所

創世記13章1〜18節

説教題

「恵みの支配」

今週の聖句

そこで、アブラムは天幕を移して、ヘブロンにあるマムレの樫の木のそばに来て住んだ。そして、そこに主のために祭壇を築いた。

創世記13章18節

訳してみましょう

2084 Many are the plans in person’s heart, but it is the Lord’s purpose that prevails.

2085 God, I believe You’re in control of everything. Help me to live wisely in this world, committing all may plans to You.

礼拝式順序

開 祷
讃美歌  352番「あめなるよろこび」
主の祈り 564番「天にまします」(参照
使徒信条 566番「我は天地の」(参照
讃美歌  354番「かいぬしわが主よ」
聖 書  創世記13章1〜18節
説 教  「恵みの支配」佐藤伝道師
讃美歌  494番「わがゆくみち」
献 金  547番「いまささぐる」
頌 栄  541番「父、み子、みたまの」
祝 祷


動画はこちら 

https://youtu.be/ZmGd2-R-2Fc

説教「恵みの支配」

創世記13章1〜18節

 先日政府が「選択制週休3日制」の普及を前向きに進める考えを示しました。数年前からも「働き方改革」の一環として、政府は会社員の副業や兼業を推進しています。少し前では考えられないことです。労働者が労働時間外の時間をどのように利用するかは、基本的には労働者の自由であるからというのです。育児や介護、闘病など、生活と仕事の両立を図るということから見ると、多様な働き方ができる環境が整えられるのは良いことなのかもしれません。自由な時間をレクリエーションや自分磨きに使うことも、副業など経済活動に使うことも自由です。週休3日制は働く側にとっては自由度が増して、働きやすい、易しい制度となるのかもしれません。けれども「選択制」であるのです。選択制週休3日制は、休日が増える分、単純に所得が減ることになります。ある企業では80%減になるそうです。あるいは給料はそのままで、一日の労働時間を増やす企業もあるようです。週休3日制を選ぶのか選ばないのか。選択を迫られる時、人は考えさせられ、どうしても迷わされるものだと思います。
 ある方がこう言ってました。「企業によっては制度を悪用しかねない。この際だからと一気にリストラを進めたり、正社員を雇用せずに非正規社員の拡大につながりかねない」と。また副業に関しても、いかにも美味しそうな、うまい話しを持ちかけて人を騙そうとする人が恐らく出てくるのではないでしょうか。自分が利益を得るために誰かに損害を被らせる。自分が勝つために誰かが排除させる。自分が喜ぶために他の誰かを悲しませる。残念ながらこれが神の国からは程遠い、今の世の中の現状でしょう。それが当たり前のようになっている世の中です。いまだ罪と死が支配している世の中。その中から私たちはイエス・キリストを信じ、恵みの賜物として神さまとの平和をいただきました。しかし依然として罪と死の支配の中で、神さまに背こうとする勢力の中に生きています。そこにはどうしても迷いや戦いがあるのです。

 先週はイースター礼拝を献げましたけれども、その前の受難日に、私はひとつのことを示されました。ホサナと叫びイエス様を王として迎え入れた群衆。その同じ口がイエス様を十字架に付けろと叫びました。マタイの福音書27章20節を見ますと、「祭司長、長老たちは、イエスを死刑にするよう、群衆を説きつけた」、新共同訳では「説得した」と記されていました。群衆は説得されたのです。このところで、私は前回取り上げました、エデンの園でアダムとエバを惑わした蛇のことを思い起こしました。人がどちらかを選び取る時に、惑わすもの、本来は良いはずのものをねじ曲げて聞かせる「惑わす声」というものが、この時から今に至るまでずっと聞こえているのだということを覚えたのです。

13章1節        それで、アブラムは、エジプトを出て、ネゲブに上った。彼と、妻のサライと、すべての所有物と、ロトもいっしょであった。
13章2節        アブラムは家畜と銀と金とに非常に富んでいた。

 「それで」とありますが、この辺の事情は12章にあります。アブラムは神さまから約束をいただき、神さまと神さまの約束を信じ、神さまの命に従って約束の地を目指して生まれ故郷を出て行きました。そしてカナンの地に入りました。その地にはカナン人が住んでいました。そこで主がアブラムに現れて「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える」と言われました。アブラムは主のために、そこに祭壇を築き、主の御名によって祈りました。そしてネゲブへと入りました。
 ネゲブに滞在している間にとてもひどい飢饉がありました。アブラムは食べるにも事欠くようになり、エジプトへ下ることを決断しました。飢饉の時に食物が豊富にあるエジプトに下ることは、人間として当然の行動であるかもしれません。恐らく周囲の人々、カナン人などは当然のようにエジプトに食物を求めて下ったことでしょう。それがアブラムにとって惑わす声となりました。主によって召されたアブラムは皆と同じ行動をすべきだったのでしょうか。アブラムはまず第一に主のみこころを求めるべきだったのではないでしょうか。その結果としてカナンの地にとどまることが主のみこころであれば、アブラムはその地において生きて行くことができたはずです。またもし、主のみこころがエジプトに下ることになったとすれば、アブラムは主に信頼してエジプトに下ったはずでしょう。そうしたなら、アブラムは主の守りを信じることができて、この後に見るような愚かな策略に頼って、窮地に追い込まれてしまうことはなかったのではないでしょうか。

 アブラムは美しい妻サライを自分の妹だと嘘をつきました。それはまるで根拠のない恐れだったのかもしれませんが、サライが美人であるゆえに、アブラムの妻だと分かると自分は殺されてしまうのではないかと恐れたのです。サライを妹だとすれば、アブラムはサライの兄だということでいのちが助かるだけでなく、優遇されるだろうと考えたのです。
 また、アブラムはいつまでもエジプトに滞在するつもりはなかったようです。「しばらく滞在するために、下って行った」と記されています。「ほんの少しの間だけだから」「これくらいのことならば」。そんな言い訳のような声が聞こえてこないでしょうか。それは事態を深刻なものにしてしまう危険なものなのです。根拠のない恐れ、悪知恵。そしてこの時、アブラムは主に祈っていませんでした。祭壇を築いた、主の御名によって祈ったとは記されていません。信仰がマンネリ化していたためだったのでしょうか。アブラムは主の導きよりも、周囲の人々の行動に倣い、また自分の思いで行動したのです。それはアブラムに蛇のように忍び寄り、主に召されたアブラムの決定を惑わすものでした。

 しかし不思議なことに、そのようなことがありながらも、アブラムはエジプトの地で財産を増やしました。パロはアブラムに騙されたことを知りながらも、アブラムと妻サライ、そしてすべての財産と共に送り出したのです。本来なら王を騙して、王家に大災害をもたらしたアブラムを、パロは殺してしまうことだって出来たでしょう。しかし主はアブラムを憐れんでいのちを守ってくださっただけでなく、財産をも増やしてくださったのです。このような不思議と思われるような経緯があって、13章2節の通り、アブラムは家畜と銀と金とに非常に富んでいました。

13章3節        彼はネゲブから旅を続けて、ベテルまで、すなわち、ベテルとアイの間で、初めに天幕を張った所まで来た。
13章4節        そこは彼が以前に築いた祭壇の場所である。その所でアブラムは、主の御名によって祈った。

 アブラムはネゲブから旅を続けてベテルまで来ました。そこは「最初に築いた祭壇」があった場所でした。アブラムはそこで「主の御名によって」祈りました。エジプト滞在中、アブラムは主の御名によって祈ったということは記されていないので、この時久しぶりに祈ったのでしょう。そして信仰の原点に立ち返ったのです。信仰の原点に立ち返ったというだけでなく、アブラムはこの痛くてつらい、恥ずかしい経験を通して、自分の弱さ、罪深さを示されたことでしょう。それと同時に、ご自身の計画を実行され成し遂げようとされる主の熱心と、主の憐れみ、守りを経験させられて、信仰の前進の時ともなったようです。

【ローマ人への手紙】
8章28節        神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。

 このみことばは、イエス・キリストを信じ、賜物として神との平和を頂いている者にとって、一見不幸と見えることもやがては益となる、というような表面的なことを語っているよりももっと深く、私たちがキリストに似るために、父なる神さまを心から信頼し、十字架に至るまで従順な者となるために、私たちの信仰を前進させて、信仰の賜物、無償のプレゼントとして私たちをさらに祝福してくださろうと、主はすべてのことを用いて私たちを砕き、悔い改めへと導かれ、そして聖めてくださるのだということを意味しているのです。まさに主がアブラムにされたことは、このみことばの通りだったのではないでしょうか。

 続く5節からは、富、豊かさ故に生じた問題が記されています。富、豊かさは本来神さまの祝福であり、良いもののはずです。それが争いのもととなってしまいました。貧しい時には互いに助け合っていたのに、互いが豊かになって来ると争いが起こることがあります。罪が支配する世で起こることです。アブラムとロトの場合もそうでした。その背後にも、やはり忍び寄り、惑わすものの存在がうかがえるのではないでしょうか。アブラムとロトたちはカナン人とペリジ人が多くいる地の中に住んでいました。そこで争いが生じてしまったのです。親類同士、主の民の中に争いや分裂が生じてしまう。それは証しになりません。異邦人の間で、物笑いの種になってしまいます。神との平和をいただいている主の民は、主の民同士で争って良いのでしょうか。それは神さまを信じていない人々に、大きな躓きを与えることになってしまわないでしょうか。私たちも考えさせられるところであると思います。

 しかし祈りの中で信仰の原点に返ったアブラム、自分の弱さや罪深さを示され、同時に主の熱心と憐れみを経験し、信仰が前に進められたアブラムは、その解決を信仰により神さまに委ねました。ロトに選択を振っているように見えますが、アブラムはきっとロトとともに、信仰による解決を願ったのではないかと思います。

13章9節        全地はあなたの前にあるではないか。私から別れてくれないか。もしあなたが左に行けば、私は右に行こう。もしあなたが右に行けば、私は左に行こう。」
13章10節      ロトが目を上げてヨルダンの低地全体を見渡すと、主がソドムとゴモラを滅ぼされる以前であったので、その地はツォアルのほうに至るまで、主の園のように、またエジプトの地のように、どこもよく潤っていた。
13章11節      それで、ロトはそのヨルダンの低地全体を選び取り、その後、東のほうに移動した。こうして彼らは互いに別れた。
13章12節      アブラムはカナンの地に住んだが、ロトは低地の町々に住んで、ソドムの近くまで天幕を張った。
13章13節      ところが、ソドムの人々はよこしまな者で、主に対しては非常な罪人であった。

 ロトは自分の目に見えるところにより判断し、ヨルダンの低地を選び取り、その町々に住みました。蛇が目にも美味しそうな実を人に見せて誘惑したあの場面が、ここでも思い起こされるのではないでしょうか。10節、そして13節は、この後の創世記14章、また19章に記されているロトの身に降りかかる災難を予感させます。

13章14節      ロトがアブラムと別れて後、主はアブラムに仰せられた。「さあ、目を上げて、あなたがいる所から北と南、東と西を見渡しなさい。

 ここで神さまが語られました。アブラムに主の声が聞こえたのです。アブラムの生涯をたどってみると、節目節目に神さまが語られているところを見ます。神さまがそのみことばによって命令と約束の声を聞かせてくださいました。アブラムがウルを出発する時、カランを出発する時、カナンの地に入った時、信仰をもって約束の地を選び取りロトと別れた後、なかなか子どもが与えられず不信仰に陥りそうになった時、アブラムが99歳になっていよいよ人間的には子どもを産むことが不可能と思えるようになった時、そして約束の子イサクを信仰によってささげた時。このように神さまは、そのたびごとにご自身の約束を確認し、御声を聞かせてくださいました。そのいずれの時も、アブラムが神さまに依り頼んでいた時、祈りの中であったことも覚えておきたいところです。

 また、ここで主はアブラムに「さあ、目を上げて見渡しなさい」と言われました。ロトもまた目を上げて見渡しました。しかし自分の欲望の目をもって見渡すのと、主のみことばに促されて信仰の目を上げて見渡すのとでは大きな差が生じてしまうのです。

13章15節      わたしは、あなたが見渡しているこの地全部を、永久にあなたとあなたの子孫とに与えよう。
13章16節      わたしは、あなたの子孫を地のちりのようにならせる。もし人が地のちりを数えることができれば、あなたの子孫をも数えることができよう。
13章17節      立って、その地を縦と横に歩き回りなさい。わたしがあなたに、その地を与えるのだから。」

 このように神さまはアブラムを祝福されました。

 ところで、ここで考えてみたいことは、アブラムは右に行ったのか、左に行ったのかは分かりませんが、例えば右に行ったから祝福されたのでしょうか。もし左に行ったのなら祝福されなかったのでしょうか。皆さんはどう思われますか。

 私は、アブラムがたとえ右ではなく左に行ったとしても、きっと神さまは祝福してくださったと思います。
 14節で主は、アブラムが出て行ったその先で語られました。そこから目を上げるようにと。また、エジプト下りの時の出来事がその証拠ではないでしょうか。アブラムはあの時、主の御声に聞かず選択に失敗したのかもしれません。私たちには失敗したように見えます。けれどもアブラムは主のご介入によって命拾いしました。本来ならばパロによって命さえ奪われても致し方ないアブラムであったのに、主はアブラムを憐れんで命を守ってくださいました。そればかりでなく財産が増し加えられるという信じられない不思議な祝福に与っているのです。

 この信じられない出来事が、恵みの支配によるものです。神さまを信じ、イエス・キリストをただ信じ、そしてその恵みの賜物として神さまとの平和をいただいている者には、このように恵みが支配するのです。私たちはイエス・キリストを信じる信仰によって、すでに恵みの支配の下にあるのですから、私たちは行く先々どこにおいても、アブラムと同じ恵み、信じられない祝福を受ける者とされているのです。信じられるでしょうか。「そんなうまい話し」と思われるでしょうか。それは誰の声ですか。

 支配というものは元々、支え配慮されるというものでした。エデンの園で神さまが被造物を養われた、あの麗しい、愛と憐れみに満ちた支配。ところが人は罪を犯し、その支配の形を変えてしまいました。人は自らの力で、権力とか相手を威圧するような力で押さえ込もうとする。しかし神さまの支配はそうではありません。私たちを支え配慮される支配。恵みの支配。その支配が私たちの人生の旅路全体を覆っているのです。

 それならばロトはどうなのだろうか。ロトは間違った選択をした故に祝福されなかったのでしょうか。14章、18-19章を見ると、確かにロトは災難に遭いました。しかし良く見ると、それらはロト個人に対する裁きではないようです。ソドム、またソドムとゴモラの偶像礼拝と酷い不品行に対する主の裁きに、ロトが巻き込まれてしまったような感じにも見えます。その裁きの中から、ロトは救い出されています。その地に対する主の裁きを通して、ロトは学び取らなければならなかったことはあったでしょう。アブラムのように辛い経験、恵みの経験を通して自分の弱さ、罪深さ、そして主の憐れみを知り、信仰の原点に立ち返り、さらに信仰の前進を求められていたのではないでしょうか。

13章18節      そこで、アブラムは天幕を移して、ヘブロンにあるマムレの樫の木のそばに来て住んだ。そして、そこに主のための祭壇を築いた。

 神さまはアブラムを祝福されました。そしてアブラムは主の命に従順に従い、立って、立ち上がって、信仰をもってその場から立ち上がり前進しました。そしてそこに主のための祭壇を築きました。そのヘブロンという地もまた、異邦人が多く住んでいた地でした。後に妻のサライ(その時は改名されてサラ)が死ぬのですが、彼女の墓地を取得するために、その地の人々の間に座って、落ち着いて、争うことなく、立派に交渉しました。それもまた証しとなったのではないでしょうか。それはアブラムがその地で主のための祭壇を築いていたから、主に信頼し、祈っていたからなのではないでしょうか。
 ところがロトはまた少し違いました。ペテロの手紙第二2章7〜8節を見ますと、聖書はロトもまた「義人」であると紹介しています。「無節操な者たちの好色なふるまいによって悩まされていた義人ロトを救い出されました。というのは、この義人は、彼らの間に住んでいましたが、不法な行いを見聞きして、日々その正しい心を痛めていたからです」と。アブラムとこのロトとの違いは何でしょう。それは祭壇を築いたかどうかというところです。神さまに祈ったかどうかということです。ロトは義人でした。けれどもロトは町の繁栄に心を奪われて、その生活の仕方によって大きな影響を受けていってしまったのです。やがてソドムに住むようになり、ついにソドムの門のところに座るようになってしまいました。アブラムは立ち上がったのに対し、ロトは14章で救われたにもかかわらず、そこから立ち上がらずソドムの町に止まり、ついに門のところに座る者とまでなってしまいました。門のところとは、当時は都市の生活の中心であって、人々は用事がなくてもそこにたむろしておしゃべりを楽しんでいたという所です。その後19章で再び主の裁きに巻き込まれてしまいました。それでもまた再び神の御手によって救い出されています。このように見ると、ロトもまた祝福された、顧みられた人と言って良いのではないでしょうか。しかしアブラムとロトの間には、何か大きな差が生じてしまったことは確かです。
 私たちはアブラムとロトとの間にある違いに目を向けることによって学び取れることがあるのではないでしょうか。私たちが見習うべきことを知ることができるのではないでしょうか。

 私たちは常に正しい方を選び取っていくことはできないと思います。惑わすものを見たり、惑わす声を聞いたりすることもあるからです。もし1回でも間違った方を選んでしまって、それでもう神さまに祝福されないのだとしたらどうでしょう。1発でアウトとされてしまうとしたら。私たちは絶対に約束の地、神の国に入れられることはないでしょう。しかしイエス・キリストを信じ、恵みの賜物として神さまとの平和をいただいている私たちは、神の国に入れられることが約束されているのです。その約束が成し遂げられるために、神さまは私たちがどの道にあっても介入してくださり、守り、導いてくださいます。神さまの恵みの支配が、弱く間違えやすい私たちが進んで行くどの道にあっても、信じられないほどの祝福を与えてくださり、守り導いてくださるのです。

 ジャンケンで100連勝する確率をご存知でしょうか。126穣(じょう)7650杼(じょ)6002垓(がい)2823京(けい)8993兆0375億6641万0752分の1だそうです。天文学的数字です。地の塵の数、天の星の数ほどのようなものです。神さまはアブラムに地の塵の数を数えられるかと、天の星の数を数えなさいと言われましたけれども、神さまはこれほどまでに、この私を祝福してくださるのです。前回ローマ書5章の最後で見ました、パウロが言うところの、「罪が増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。それは、罪が死によって支配したように、恵みが、私たちの主イエス・キリストにより、義の賜物によって支配し、永遠のいのちを得させるためなのです」(ロマ520-21)。

 神さまは何か運命論的に私たちを扱うのではありません。右か左か、白か黒かで私たちを扱われません。恵みの支配、恵みによって支え、配慮してくださることによって私たちを扱い、治めてくださるのです。その祝福を存分に味わい、喜ぶ者でありたいと思われないでしょうか。そのために何をすべきなのでしょう。いや、神さまは私たちに何も強く指示はされないのかもしれません。私たちが自ら、自発的にすべきこと。イエス・キリストの十字架と復活を通して示された、この私に対するあれほどの愛、憐れみ、恵みを経験した私であるならば、何をもって神さまに応えることができるのでしょうか。それこそ、アブラムが祭壇を築き、主の前に祈った。その姿に教えられるのではないでしょうか。アブラムは祭壇を築き、そこで祈りをささげました。祈りとは主のみことばへの応答であり、同時に自分の弱さの告白でもあります。自らの砕かれたたましい、悔いた心。主はそのような献げものを喜んで受け入れてくださるのです。

 アブラムとロトと同じ、全地を見渡せる高い所に立っていることを想像してみてください。私たちはどこへ行くこともできます。どこを選ぶのでしょうか。私たちが私たちを導いてくださるお方に信頼しているならば、答えは簡単です。どこへでも行きたいところを選ぶのです。もちろん決断をするとき、主と親しく交わりをしていることが重要です。主が思いを導いてくださること、行動をみちびいてくださることを信頼し、そして決断することです。決断したら進んで行くのです。わくわくしながら、喜んで進むのです。自分の選んだ地点に到着したなら、そこで何を見るでしょうか。主がそこに立っておられるのです。主はその御腕を大きく広げて、そこで祝福を用意して待っていてくださるのです。これが主を信じ、恵みの賜物として神さまとの平和な関係をいただき、そして恵みによって支配されている者の喜ばしい姿です。恵みの支配。本当に感謝なことではないでしょうか。

 そして次週はローマ書に戻り、ローマ書は6章へと入って行きますが、その冒頭にパウロはこのように私たちに問いかけます。「それでは、どういうことになりますか。恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか」。その問いかけを最後に覚えつつ、この新たな週も幸いの中を歩ませていただきましょう。そしてたくさんの祝福を経験し、砕かれた悔いた心をもって、日々主の御前に進み出させていただきましょう。

 お祈りを致します。

 天の父なる神さま、御名を崇め心から賛美致します。みことばを感謝します。みことばを通し、神さまの恵みの支配がどれほど素晴らしく、喜ばしく、感謝なことであるかというところを見ました。そして私たちには、イエス・キリストを信じる者には恵みが支配してくださるのだという約束、そして永遠のいのちがすでに与えられており、そのいのちはどんなことがあろうと守られ、やがて神の国、天の御国に入れられるのだというその約束を見ることができました。私たちは日々、この世にあって祭壇を築き、祈り、その中で約束を信じ、自らの弱さを告白し、これからの歩みも恵みの支配のうちを喜んで歩ませていただく者とされていますから感謝します。感謝と喜びをもって、また今日からも信仰をもって歩んでまいりますから守り導いてください。感謝して救い主キリスト・イエス様の御名によってお祈り致します。アーメン。

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