2021年6月20日 主日礼拝「本当にみじめな私」

礼拝式順序

礼拝前賛美
報 告

【ここからライブ配信】10時50分頃〜↑↑↑
開 祷
讃美歌  84番「かみにたより」1節と4節
主の祈り 564番「天にまします」(参照
使徒信条 566番「我は天地の」(参照
讃美歌  517番「われに来よと主はいま」1節と3節
聖 書  ローマ人への手紙7章13〜25節
説 教  「本当にみじめな私」佐藤伝道師
讃美歌  524番「イエス君みすくいに」1節と4節
献 金  547番「いまささぐる」
頌 栄  541番「父、み子、みたまの」
祝 祷

本日の聖書箇所

ローマ人への手紙7章13〜25節

説教題

「本当にみじめな私」

今週の聖句

私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。

ローマ人への手紙7章24節

訳してみましょう

2104 Jesus often with drew to lonely places and prayed. (Luke5:16)

2105 Thank You for the reminder, Father, of my need for time to spent with you. I need Your grace and strength to renew my often-weary soul.


説教「本当にみじめな私」

ローマ人への手紙7章13〜25節

 お祈り致します。
 天の父なる神さま、尊い御名を崇め賛美致します。私たちを今日まで守り、恵みの内に歩ませてくださり感謝致します。聖く生きたいと願いつつも、歩を進めるごとに罪や汚れが増し加わる。そのような私たちですが、ただ恵みによって、イエス・キリストの十字架と復活による罪の赦しを信じる信仰によって、主との平和が与えられ、私たちに主の恵みが多く注がれていることを今朝改めて覚えて感謝致します。こうして恵みによって礼拝に招かれ、主のみことばの前に、主の前にへりくだって立つ私たち一人ひとりに、みことばを祝福してお与えください。聖霊様が満ちていてくださって、今日それぞれの心にお語りください。神さまの御声を聞き、対話し、心の内にどうぞ御霊の実を結ばせていただき、それぞれの任された場所へとあなたによって力強く、喜びに満ちて遣わされて行くことができますようにお願いを致します。語るこの者の上にも聖霊様が臨んでください。この者の奉仕をも全能なる御力をもって聖めてお用いくださいますことを信じ、感謝致します。ひとときをすべてお委ねし、主キリスト・イエス様の御名によってお祈りを致します。アーメン。

 前回はローマ書7章1〜12節を見ました。パウロは、たとい律法が罪に利用されることがあっても、罪と律法を同一視したり、同じカテゴリーのように考えたりしてはならないと言いました。律法は神さまの私たちに対する御心の現れ、私たちにいのちを与えるためのもの。律法は罪なのか。絶対にそんなことはない。パウロは律法を弁護して、罪を告発しました。そして「ですから、律法は聖なるものであり、戒めも聖であり、正しく、また良いものなのです」(ロマ712)と丁寧に強調しました。

 本朝は続く13節からです。

7章13節      では、この良いものが、私に死をもたらしたのでしょうか。絶対にそんなことはありません。それはむしろ、罪なのです。罪は、この良いもので私に死をもたらすことによって、罪として明らかにされ、戒めによって、極度に罪深いものとなりました。

 ここからパウロはまた一つの反論、疑問、訴えを予想し論じて行きます。それは「良いもの、つまり善である律法が私たちに死をもたらしたのか」というものです。パウロは強くそれを否定します。「絶対にそんなことはありません」。律法の弁護、罪の告発は続きます。

 確かに私たちはこの世にあっては死に定められています。その死をもたらしたのは、死をもたらすのは決して律法ではありません。それはほかでもなく、罪です。すでにローマ書でも何度も語られています。5章12節では「ちょうどひとりの人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして死が全人類に広がった」と。6章23節でも「罪から来る報酬は死です」と。
 ですから私たちに死をもたらすのは律法ではなく罪だということははっきりしています。私たちが憎むべきものは神さまの律法ではなく罪です。その憎むべき罪が、律法を、戒めを利用して私たちを試みる罪であり、そしてその罪は「限りなく邪悪なものであること」が示されたのだとパウロは言っています。

 私に死をもたらす罪。戒めによって明らかにされた罪の邪悪さ。その罪とは神さまに背こうとする力です。神さまに背を向けて、欲望のままに自分勝手な道を行こうとする性質です。本当は神さまの御心を行いたいのに行わない、神さまの言いつけを守りたいのに守らないようにする力。この堕落した忌まわしい性質を持つ罪は、私のうちに住みついていると言うのです。そしてそれは私に惨めさをもたらすと言うのです。

 さて、これまでは過去形で語られることが多かったのですが、14節からは現在形が用いられていることが分かります。
 実は、今日の箇所、13節から25節のところは、再生したキリスト者、救われた者の体験なのか、それとも救われていない未信者の体験かと、解釈を巡って大きく2つに分かれてきたところなのです。けれども先ほども申し上げました通り、14節からは現在時制が用いられており、パウロが現在の経験を語っていると考えるのが自然ではないでしょうか。またパウロは「私たちは・・・知っています」と言っていますが、自分の経験を読者と共通の体験として示しているのではないかと思います。そしてこの箇所全体を通して聞こえて来る声というのは、まさに私たちの声と重なるものではないでしょうか。そしてその声というのは、キリスト・イエスにあって義とされた人間の力強くて勇ましい戦いの声、勝利に喜ぶ声ではなく、実にみじめな罪の奴隷のうめき声です。人間の悲惨な奴隷状態が描かれているのです。心の底から出てくるうめき声が聞こえて来るのです。どうでしょう。それはそのまま、私たちの正直な姿、そして私たちの嘘偽りのないうめき声ではないでしょうか。

7章14節      私たちは、律法が霊的なものであることを知っています。しかし、私は罪ある人間であり、売られて罪の下にある者です。

 律法は霊的なもの。律法は神さまが私たちが滅びることなく、活き活きと生きられるために与えてくださったものです。永遠のいのちを与えるために与えてくださった本当に良いものです。霊的なもの。私たちを生かすもの。永遠のいのちへと導くもの。それは具体的にはガラテヤ書に記されている「御霊の実」を見ると分かりやすいのではないでしょうか。

【ガラテヤ書】
5章22節      しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、
5章23節      柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。

 どうでしょうか、すべて律法、戒めというのは、これらの御霊の実を結ぶため、永遠のいのちを得る方向へと、私たちを導くものではないでしょうか。神さまを愛すること。隣人を自分自身のように愛すること。殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽りの証言をしてはならない。欲しがってはならないとか。労働に関して。弱い者、貧しい者を顧みること。食べ物に関すること。すべて律法、戒めは御霊の実、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制、これらの実を結ぶように私たちを導くものだということが分かるのではないでしょうか。神さまの御心通り、永遠のいのちを得る生き方へと導く霊的なもの、まことに聖く、良いものです。

 パウロは「私たちは、このように律法が霊的なものであることを知っているのだけれども、しかし、私は罪ある人間であり、売られて罪の下にある者です」と言います。ここの「私は罪ある人間であり」というところを、新改訳2017の新しい訳では「私は肉的な者であり」と訳し直されています。私は肉的な者。売られて罪の下にあって、そこからどうやっても逃れられない者。ガラテヤ書5章をもう一度ご覧ください。22節から少し戻って19節から。

【ガラテヤ書】
5章19節      肉の行いは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、
5章20節      偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、
5章21節      ねたみ、酩酊、遊興、そういった類(るい)のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ行っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。

 私たちはここに記されている肉の行いそのままを行ってはいないかもしれません。けれども、すべてに心惹かれるものがあるのではないでしょうか。傾きやすい者ではないでしょうか。うかうかしていたら、難なく引きずり込まれてしまうものでしょう。
 そして私たちはこのようなイエス様の声を聞いて知っている者たちです。「昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。『ばか者』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます」(マタイ521-22)。また、「『姦淫してはならない』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです」(マタイ527-28)。

 私たちはこのことを聞いて知っているので、イエス様の戒めはまことに霊的で良いものであることを知っているので、私たちは呻(うめ)くのです。自分の姿とか生き方を見て苦しいのです。愛したいのに愛せない。赦したいのに赦せない。心に聞こえてくるのは、あの人、この人を裁いてしまう声。そんなことしたくないのに。してはならないと分かっているのに。そのような自覚のある私たちであるから、ローマ書7章15節からの敗北のみじめなうめき声が、私たち自身の声となるのです。

7章15節      私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行っているからです。
7章16節      もし自分のしたくないことをしているとすれば、律法は良いものであることを認めているわけです。
7章17節      ですから、それを行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住みついている罪なのです。

 パウロは、まことに聖であり良いものである律法を認めて、律法の意図すること、神さまの御心を自分の願いとして持ちながらも、決してそれに達することのできない自分、また人間の絶望的な状態を描いています。律法は良いものと認めながら、自分のしたくないことをどうしてもしてしまう私たちほどみじめな者はないのではないでしょうか。

 パウロは17節で言います。「それを行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住みついている罪なのです」。とても有名なこの一節ですが、これは決して責任逃れのことばではありません。エデンの園の蛇のそそのかしによって、アダムは失敗をし、結果、罪がこの世界に入ってきた。人間の内に罪が入って来た。罪が不法侵入してきた。忍び込んで来て不法に居座る、立てこもる、住みつく罪。この罪の前になすすべを知らない人間の無力さを表現したものなのです。

 18節からは14〜17節の内容を繰り返します。

7章18節      私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。
7章19節      私は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行っています。
7章20節      もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行っているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。

 18節で「私のうち」と言ってから、さらに慎重に「私の肉のうち」と言い直しているのに目が留まります。
 14節から17節、そして18節から20節と繰り返されて強調されることは、善をしたいといつも願っている私の思い、霊、心。それなのに自分でしたいと思う善を行わないで、かえってしたくない悪を行っている私の肉。聖書は人間の霊と肉はひとつであって、分かつことはできないものとしています。ですから葛藤があり、戦いがある。そしてここで描かれているのは、みじめな私の敗北の姿。自分の肉が罪に敗北する姿をなすすべもなく見守らなければならない私のもどかしさ。このような哀れな人間の状態を見て、パウロはもう一度「それを行っているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です」と繰り返して告白せざるを得ないのです。

7章21節      そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見出すのです。
7章22節      すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、
7章23節      私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。

 「律法」と「法則」は原文では同じ語が用いられており、訳し分けるのに難しさを覚えるのですが、口語訳では「からだの中にある罪の法則のとりこにしているのが分かります」と訳されています。こちらの方が理解しやすいのかもしれません。

 パウロは原理、法則を見出しました。私たちも見出します。罪を前にしてなすすべを知らない、私自身の無力さ。罪によって引き裂かれ、戦いを挑まれ、そして敗北していく私という人間の悲惨な姿、原理、法則を見出すのではないでしょうか。救われて、勝利を確信して戦いを続ける信仰者の力強くて勇ましい姿とは、およそかけ離れた私の姿を見出すのではないでしょうか。それが嘘偽りのない私の姿です。そしてパウロとともに、次の呻きのような告白へと導かれるのです。

7章24節      私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。

 ここには徹底的に打ちのめされた私がいるのです。自分では解決できないことを嘆くのです。誰がこの死に定められたからだから、私を救い出してくれるのかと叫ぶのです。

 しかしどうしてこのような叫びが私たちの中から出て来るのでしょう。それは私たちが救われているからです。福音を知らされて、神さまの御心の素晴らしさ、神さまの私たちに対する愛を、憐れみを知っているからです。あのルカ15章の放蕩息子が私たちを喩ているように、罪に汚れ、汚くて臭くてボロボロになった息子を無条件に迎え入れて、抱きしめて、口づけしてやまない神さまの愛。あなたはわたしの愛する子だと言って、はばかることなく罪に汚れた私を受け止めてくれる神さまの父の愛。私たちはこの愛を自分の身に起こったこととして知っている者。この神さまの愛に応えたいと心から願っているのに、まったく応えられない私。そんな自分に惨めさを感じ、苦しめば苦しむほど、私たちは救われているのだという証しです。神さまのものとされていることの証明です。自分の無力さ、惨めさを味わえば味わうほど私たちの心には一層の父なる神さまへの思い、やがて私たちを天の御国で迎えてくださる父なる神さまの愛が迫ってくるのです。救いの完成を心から求める祈りが出てくるのです。

 私たちはこの矛盾と戦っているでしょうか。苦しんでいるでしょうか。敗北を感じ、惨めさを感じているでしょうか。そうであるならば、ご一緒に25節を告白しましょう。

7章25節      私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。

 「こうして律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係となったのです」(ガラ324)。律法によって己の無力さが知らされて、自分の力では克服することができないことを悟る時、やっと人は心から神さまに祈ることができるのでしょう。ただ救い主キリストを求めるほかなくなるのです。こうして律法は、神さまの御心を成し遂げるのです。私たちをキリストにある永遠のいのちへと導くのです。「私は本当にみじめな人間です」と嘆いたことがあるなら、「本当にみじめな私」と愕然としたことがあるならば、それは幸いへの第一歩であったし、さらに幸いへの第一歩となるのです。

【詩篇】
51篇17節   神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。

 神さまは私たちの敗北をさげすまれません。敗北のうめき声を祝福して受け入れてくださいます。用いてくださるお方です。そんな神さまのお心、砕かれた者に対する神さまの約束が聖書のいたるところに記されています。

【イザヤ書】
57章15節   わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである。
66章2節      わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ。

 他にもたくさんあると思います。神さまは、いつも砕かれて、へりくだる者、自分の無力さを嘆き、敗北を認める者とともに住んでくださいます。そのような者に御霊が注がれ、親心が私たちを包むのです。ダビデ然り、聖書はそのことを証ししています。

 イエス・キリストを信じて救われた者、キリストの者とされた人は、もはや罪人ではなく、罪の支配の下にはいません。恵みの下にいるのです。しかし、終末において完全な贖いがなされるまでの間、罪との戦いは続くのです。試みる者の声、神さまに背かせようとする力が挑んでくるのです。「心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えている」自分がいるのです。それが正直に自分を見つめる時に見えてくる私です。それゆえ、罪を侮ったり、自己過信に陥って、今日の箇所のパウロのことばを自分とは無関係なものとして読むことのないようにしたいものです。聖書のうめき声を、私たち自らの心からの嘆き、救いの叫びとして、今の時を神さまによって守られ、生かされてまいりましょう。聖霊が私たちを執り成してくださっています。すでに神さまは私たちの弱さもすべてご存知の上で、私たちを抱きしめてくださっています。受け止めてくださっています。イエス・キリストにある神との平和をいただいている者にとって、その事実は決して変わることはありません。この恵みの中を、父なる神さまの親心を信じ、そして主にすべて依り頼んで歩んでまいりましょう。

 お祈りを致します。
 天の父なる神さま、御名を崇め賛美致します。みことばを感謝いたします。今日は罪に対する無力さを覚える者の嘆き、うめきの声を聞きました。それはまさに私の声であることを覚えます。罪との戦いは続きます。しかしイエス様はこの罪に勝利するために死なれ、そして死に勝利されるためによみがえられました。イエス様を信じる私たちは、この勝利に与っている者です。決して自分の強さや力ではないことを覚えます。自分を過信することなく、いつもイエス様から目を離さずに、聖霊に満たされて、主の恵みに、神さまの親心に信頼して歩む者でいさせてください。感謝して救い主キリスト・イエス様の御名によってお祈り致します。アーメン

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