2021年7月11日 主日礼拝「神の子とされて」

礼拝式順序

礼拝前賛美
報 告

【ここからライブ配信】10時50分頃〜↑↑↑
開 祷
讃美歌  73番「くすしきかみ」1節と3節
主の祈り 564番「天にまします」(参照
使徒信条 566番「我は天地の」(参照
讃美歌  87A番「めぐみのひかりは」1節と4節
聖 書  ローマ人への手紙8章12〜17節
説 教  「神の子とされて」佐藤伝道師
讃美歌  294番「みめぐみゆたけき」1節と4節
献 金  547番「いまささぐる」
頌 栄  541番「父、み子、みたまの」
祝 祷

本日の聖書箇所

ローマ人への手紙8章12〜17節

説教題

「神の子とされて」

今週の聖句

神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。

ローマ人への手紙8章14節

訳してみましょう

2110 We do not want you to be uninformed about those who sleep in death, so that you do not grieve like the rest of mankind, who have no hope. (ⅠThessalonians 4:13)

2111 How has loss marked your life? How does Jesus provide the help and hope you need?

説教「神の子とされて」

ローマ人への手紙8章12〜17節

 お祈りを致します。
 天の父なる神さま、御名を崇め心から賛美致します。今日まで守られ、導かれておりますことを覚えて感謝致します。多くの恵みをいただきつつも、すべてのことには気付けずに、不信仰な者、感謝の足りない者であったことをお赦しください。私たちはこの世にあって、つい目の前のことばかりに目を奪われ、手足を奪われ、私たちの目を天に向けること、私たちの手を天に差しのばすことを忘れがちな者です。自分の力に頼ろうとしてしまいがちな者です。そしてそのことによって失敗しがちな者です。そのような私たちを、愛と恵みによって、みことばを与えようと、この礼拝に招いてくださり感謝致します。このひととき、世の喧噪、また私たち自身の内にある思い煩いから聖別してくださって、心を静め、ひたすらに主のみことばを待ち望み、あなたを霊と真をもって礼拝する者としてくださいますようにお守りください。聖霊様が満ちていてくださり、この時をご支配くださいますようにお願い致します。神さまが語られるみことばによって力づけられ、喜びに満たされて、この会堂を後にして、それぞれの遣わされる場所場所へと送り出してくださいますようにお願いを致します。感謝しお委ねして、私たちの救い主キリスト・イエス様の御名によってお祈り致します。アーメン。

 前回は、「今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」という、ローマ書8章1節の力強い宣言に聞きました。キリストを信じ、キリストに属する者としていただいた私たちですが、未だに日々罪との戦い、そこでの惨めな自分の姿を覚える私たちでもあります。けれども聖書は力強く宣言するのです。「今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません」と。

 今、神さまの愛が注がれて、御霊が注がれて私たちの内に住んでいてくださる。決して離れ去ることはない。ですから、たとえ過去に消せないような酷い過ちを犯したとしても、たとえ今、どれほど罪を繰り返してしまっても、したいと思う善を行えず、したくない悪を行ってしまうような不甲斐ない私であったとしても、神さまのただ恵みと憐れみによって与えられている御霊の原理・法則によって、御霊がすべてを支配し、神さまの私たちに対するお心、愛がすべてを覆ってくださり、力をもって、権威をもって、私たちに罪の赦しを宣言してくださるのです。私たちの罪を赦すため、私たちを罪の深みから救い出すために、神さまの大切な御ひとり子であるイエス・キリストを地上に降らせ、地の深みまで遣わされ、私たちの罪の代償として十字架に架けられるほどの私たちに対するその愛を原動力にして、私たちの内で権威をもって宣言してくださるのです。足を踏み外して罪の深みに転げ落ちてしまった罪の穴の底の方までイエス様が来てくださって、釘跡の残る手を差し伸べて「子よ、あなたの罪は赦された。起き上がってここから行きなさい」(マル25,11)と宣言してくださるのです。その眼差しはどのようなものだと思われるでしょうか。慈しみ深いお方、友なるお方、私たちの心の嘆きを包まず打ち明けたとしても、私たちの弱さを知って憐れんでくださる、慰め、労ってくださるお方。感謝です。これ以上のない喜びです。まさに福音です。福音は神さまの宣言なのです。

 これほどまでの恵みに満ちた宣言をいただいて、私たちは何もしないで良いものなのでしょうか。これまで律法の行いではないと散々言われてきましたが、それは救われるための条件ではないということでした。それが条件であるならば、誰一人救われることはないからです。ただ恵みによって、信仰によって私たちは救われたのです。

 ところが、パウロは8節で「神を喜ばせることができません」と言っていますが、ただ恵みによって、信仰によって救われた私たちが、私たちの方から神さまを喜ばせたいと願うことは間違っているのでしょうか。神の御霊が、イエス様を通して「子よ」と呼んでくださる神さまの愛、子を思う親心が注がれて、心にいつも満ちている私たちであるならば、恩返ししたいと思うのが当然ではないかと思ってしまうのは私だけでしょうか。神さまの愛に応えたいと思うのが、大きな愛を受けた者の、何か自然な姿なのではないかと思うのです。讃美歌に「主はいのちを与えませり、その死によりてぞ我は生きぬ、我何をなして主にむくいし」というものがありますが、この讃美歌はドイツのギャラリーでイエス様の十字架が描かれた絵画を前にして感銘を受けて書かれた歌詞だと言われています。主の愛に触れた私たちの心の底からは、このような賛美が湧き上がってくるのではないでしょうか。

 愛とは犠牲です。神さまの愛は犠牲です。その神さまの愛に何をして応えたら良いのだろうか。

 神さまの愛は恵みです。一方的な憐れみです。しかしそういったものは、私たちを消極的な、ただ受け身だけの生き方へと導くものではないでしょう。パウロはローマ書8章12-13節でとても重要なこと、救われた者の神さまに対する感謝、神さまを愛する思いから湧き出てくるはずの、もっと積極的な生き方を教えています。そして7章での「みじめな私」、つまり、からだに残る罪の性質に、どのように対処するかに取り組んでいます。

 ここでもう一度確かめておきたいことは、前回も申し上げましたが、ローマ書8章には、原語では命令形は一つも出て来ないということ。神さまからの命令は一つもないのです。

8章12節        ですから、兄弟たち。私たちは、肉に従って歩む責任を、肉に対して負ってはいません。
8章13節        もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行いを殺すなら、あなたがたは生きるのです。

 新しい訳である新改訳2017では、もっと明確に、言語に忠実に、もっと積極的に訳し直されています。

【新改訳2017】
8章12節        ですから、兄弟たちよ、私たちには義務があります。肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません。
8章13節        もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬことになります。しかし、もし御霊によってからだの行いを殺すなら、あなたがたは生きます。

 「兄弟たちよ、私たちには義務があります」ときっぱり言うのです。そしてそれは、肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません。それは私たちがどうしてもしなければならないことではないのです。私たちはかつて肉の要求に従うしかなかった罪の奴隷でした。けれども今、イエス・キリストの十字架と復活によって、罪に対しては完全に死に、神さまに対しては生きる者とされています。罪の悲惨な奴隷状態から解放されて、今は神さまの愛に支えられ、配慮されている、幸いな神さまのご支配の中に移されて生かされているのです。しかし、13節には「からだの行い」とあります。コロサイ人への手紙をお開きください。コロサイ3章5節にはこのように記されています。

【コロサイ人への手紙】
3章5節          ですから、地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。
3章6節          このようなことのために、神の怒りが下るのです。

 「からだの行い」というのは、コロサイ人への手紙3章5節では「地上のからだの諸部分」、つまり信仰者の中に残っている罪の性質、その行いのことを言っています。不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼり、貪欲。これらを愛し、これらに仕える、これらの奴隷と自らなってしまうならば、神さまの怒りが下り、あなたがたは死ぬことになります、と。イエス様のいのちをもってまでして、私たちにいのちを与えるために十字架で血を流し苦しまれた、それほどまでして私たちを生かしてくださった神さま。その神さまは、私たちが死ぬことなど決して御心ではありません。どれほど悲しまれることでしょうか。

 私たちの本当の義務、本当にしなければならないことは、生きることです。活き活きと生きることです。そのために、御霊によって、からだの行いを殺すことです。私たちの力では、からだの行い、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、むさぼりを殺すことはできません。けれども御霊に依り頼むならば、御霊は私たちのからだの行いを殺すことができます。御霊は罪を切り取る剣をもっておられます。けれども私自身がその罪を切り取りたいと願うときにのみ、御霊はそのことをしてくださるのです。その御霊とは、私たちに注がれた神さまの愛です。父の愛です。親心です。神さまの愛には大きな大きな力があるのです。この力ある神さまの愛に依り頼むことです。私たちの内に、肉の欲、からだの行い、悪い思いが起こって来た時、御霊に依り頼むのです。神さまの愛を思い起こすのです。イエス様の語られたみことばを、イエス様の十字架を思い起こすのです。その時、私たちは肉の行い、罪、神さまに背こうとする力に勝利することができるのです。愛には力があるのです。

 ところで、13節の「あなたがたは」という語に目が留まります。「あなたがたは死ぬのです」、「あなたがたは生きるのです」。「あなたは死ぬ、あなたは生きる」のではないのです。これは「あなたがたは互いに死ぬことになる、互いに生きることになる」とも受け取れるのではないでしょうか。

8章14節        神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。

 「神のこども」とはどのような人なのでしょう。イエス様は山上の垂訓の中でこのように言われています。「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから」(マタ59)。

 良く十字架の形についてこのように言われることがあります。十字架の縦棒は天と地、神さまと人との関係を結ぶもの。そして十字架の横棒は人と人との関係を結ぶもの。神さまと人との平和な関係、そして人と人との平和な関係を表す。それが十字架である。

 またイエス様は言われました。

【マタイの福音書】
22章35節      そして、彼らのうちのひとりの律法の専門家が、イエスをためそうとして、尋ねた。
22章36節      「先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」
22章37節      そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』
22章38節      これがたいせつな第一の戒めです。
22章39節      『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。
22章40節      律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」

 愛で結ばれた、犠牲で結ばれた神さまと人との平和な関係。そして愛で結ばれる、犠牲で結ばれる人と人との平和な関係。

 前回も取り上げましたが、イエス様はこのようにも言われました。「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハ1334)。律法の専門家であるパウロも教えています。「律法の全体は、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という一語をもって全うされるのです」(ガラ514)。

 なぜここでは神さまを愛することが言われていないのでしょうか。

 それは、私たちの神さまへの愛は、隣人を愛すること、この地上で人間同士が互いに愛し合うことにおいて真価を問われるからではないでしょうか。

【マタイの福音書】
5章44節        しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。
5章45節        それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも雨を降らせてくださるからです。
5章46節        自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。取税人でも、同じことをしているではありませんか。
5章47節        また、自分の兄弟にだけあいさつしたからいって、どれだけまさったことをしたのでしょう。異邦人でも同じことをするではありませんか。
5章48節        だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。

 私を愛してくださる神さまを愛することは比較的簡単なのかもしれません。けれども、隣人、特に私を憎む人、敵と思ってしまう人を心から愛することに、どれほど難しさを覚えるでしょうか。「自分の敵を愛しなさい。迫害する者のために祈りなさい。それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです」。自分の都合や感情を後回しにして、自分の大切な時間を他人のために使うこと。祈ることもそうでしょう。このことによってこそ、私たちの神さまに対する愛の真価が問われるのだと言われているのではないでしょうか。神さまの私たちに対する愛は完全です。その完全な愛は、すべての人に注がれているのです。それなのに、私たちが互いに傷つけあっているとするなら、私たちがそれぞれからだの行い、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、むさぼりによって相手を傷つけ、損害を与えてしまっているとするならば、神さまの愛に全く応えていることにはならないでしょう。

 しかし、先ほども申しました通り、私たちの力では、からだの行いを殺すことはできません。けれども御霊に依り頼むならば、御霊は私たちのからだの行いを殺すことができるのです。私たちがからだの行いを殺したいと願うときに、御霊はそのことをしてくださるのです。その御霊とは、私たちに注がれ、そして私たちの内に宿っておられる神さまの愛を教えてくださいます。イエス様が語られたみことばを思い起こさせてくださいます。からだの行いに負けそうな時、御霊に依り頼みましょう。神さまの愛を思い起こさせていただきましょう。イエス様の語られたみことばを、イエス様の十字架に表された愛を思い起こさせていただきましょう。そして神さまの私たちに対する愛を信じる力によって、神さまの私たちに対する愛を信じる者はだれでも、人と人との平和を作り出す者、神と人との平和を作り出す者、そして神の子どもとされるのです。

 ですから、神さまの完全な愛が注がれ実現した私たちの義務とは、私たちがすべきこととして科せられていることとは、御霊に依り頼み、御霊に導かれ、そして神の子どもとされることなのです。

8章15節        あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます。

 私たちに義務がある。しかしそれは再び恐怖に陥れるような、奴隷に対する、奴隷に科せられた義務ではありません。私たちを神さまの子としてくださるための、まことに幸いな義務なのです。

 私たちには、私たちを神さまご自身の子としてくださる御霊が注がれています。それはパウロが弱さを覚えるテモテに宛てた手紙の中にこう記されています。「神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です」(Ⅱテモ17)。私たちにはこの霊が注がれているので、たとえ私たちが肉によって、いまだ私たちのうちに残る肉の思い、肉の行いによって失敗したり、何度も落胆して倒れたとしても、私たちは私たちに注がれた御霊によって神さまの愛を信じることができるし、父なる神さまの愛、親心に信頼して、寄りかかるようにして「アバ、父よ」と呼び求めることができる者とすでにされているのです。

 すでに知られている通り、「アバ」はイエス様が父なる神さまに祈る時に用いられたアラム語です。ユダヤ人の家庭では小さな子どもが父親を呼ぶときの幼児語です。「アバ、父よ」、「天の父なる神さま」。私たちは困難を覚える時こそ、幼子のように神さまに祈るのではないでしょうか。我が家の子どもたちはテスト中にお腹が痛くなった時に「神さま〜」とつい祈ったそうです。それこそ、私たちの心に、神さまの子どもとされていると言う確信を与えるものです。「父なる神さま」と祈るごとに、神さまの子どもとされたという確信がしっかりと根付くのです。

8章16節        私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。

 私たちは困難な中でこそ、肉の思い、肉の行いに失敗したり、落胆して倒れた時こそ、神さまの親心に寄りすがる者です。そして御霊は、私たちの声にならない心の呻きを執り成してくださっています。アバ、父よと、叫び求めずにはいられない。それが私たちが神の子どもとされていることの証し、証拠です。

8章17節        もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。

 私たちは神さまの子どもとされました。神さまの子という身分が与えられました。それには当然のように、法的な権利が伴うのです。それは「相続人」ということばで表されます。

 相続人とされた私たちは、何を相続すると言うのでしょうか。それは「神の国」です。その神の国とは、神さまがすべて支配する国です。その国とはどのような世界なのでしょうか。それは、神さまと人、人と人との完全な平和が実現した世界です。

 同盟教団の理事長を務められた広瀬薫先生という方がおられるのですが、先生は漫画のワンピースが大好きで、ワンピースから福音を語る先生でもあります。その先生が、国家晩餐祈祷会という場でされたメッセージの中で、神の国についてこのように言われていたことが、神の国を思う時にいつも私の心に思い浮かびます。このように言われました。

 「神の国とはどういう所でしょうか。神の国は『神の支配』のことだと解説されるのが普通ですが、分かりやすく言えば、『神さまが創造したこの世界の全てが、御心の通り本来の姿に活かされている所』だと、私は表現しています。神の国は喜びの国です。ポイントは、『皆が』『活かされて』『喜んでいる世界』ということです。今の世界の問題は、皆が活かされて喜ぶようにはなっていないことです。どうなっているかというと、誰かが喜ぶために他の誰かが悲しんでいます。誰かが活かされるために他の誰かが殺されています。誰かが勝つために誰かが排除されています。それは神の国ではありません。神の国は、皆が、活かされて、喜んでいるところです」。

 私たちは主の祈りの中で、「御国を来たらせ給え」と祈ります。これは私たちの死んだ後のことを祈っているのではないと思います。私たちが生きているこの世に、この地上に、御国を来たらせ給え、神の国を実現してくださいという、神の子どもとされた者の切なる祈りではないでしょうか。神の国とは程遠いこの地上で、苦難にあえいで、罪に嘆いて、その中で必死に祈り求める祈りではないでしょうか。なぜこの世界で苦難にあえぐのか、罪に嘆くのか。神の子どもとされているからです。神の国の相続人とされていて、素晴らしい神の国を待ち望んでいるからです。御国を来たらせ給え、神の国を実現してください。神さまの愛を受け、神さまを愛し、神さまのご支配を求める私たち、神さまの子とされ、父なる神さまの栄光が現されることを望む者とされている私たちは、イエス様のこの祈りをも共にしなければならないのではないでしょうか。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分で分からないのです」(ルカ2334)。

 神さまの御心である、神さまと人との平和、人と人との平和の実現。神の国の実現。そのために、誰かが始めなければならないのです。誰かが始めなければ何も起こらないからです。誰が始めるのでしょうか。誰がその義務を負っているのでしょうか。任されているのでしょうか。神の愛を受け、神の子とされた私たちです。私たちを、教会を神さまが信頼してくださって、任されておられるのです。

 イエス様は使徒たちに言われました。「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります」(使徒18)。神の国は私から、私のすぐそばから広がっていくのです。私から、そして教会から広がっていくのです。私が愛し、兄弟姉妹が愛し合い、まだ救われていない隣人を愛していく。自分を犠牲にしていく。肉の行いを殺していく。何か訓練のように、訓練されて少しずつ愛する力が強くされて行き、肉の行いを殺していく。その苦しみと何度も犯してしまう失敗を伴う困難な作業は、私たちの内に注がれた御霊によって導かれて、守られて、そして成し遂げられるのです。私たちの内に宿っておられる神さまの愛、親心によって導かれ、守られ、成し遂げられるのです。

 私たちがこの地上で体を持って生きている限り、私たちは何度も失敗することでしょう。心を痛めることでしょう。恵みによって神の子どもとされているからです。何度も失敗し、何度も心を痛め、何度も「アバ、父よ」と、神さまに立ち返ることができます。憐れみによって神の子どもとされているからです。

 私たちは日ごとに、朝ごとに、「私は御霊と共に歩むことを決心します。私の内側から罪深い肉の性質が芽を出す度に、御霊によってそれを殺します」と、祈り求める者でありたいと願わされます。私たちがそのことを願う時に、御霊はそのことをしてくださいます。私たちの注がれている父なる神さまの愛が教えられて、イエス様のみことばが思い起こされて、罪に勝利し、神を愛する者、隣人を愛する者へと変えられ、平和を作り出す者、神の子どもとますますされていくのです。神の子どもとされたいと心から願う者に、神さまは御力を現してくださいます。日々新しく、力と愛と慎みの霊を注いでくださいます。「父なる神さま」と祈るごとに、御霊に、神さまの愛に依り頼んで、教えられ、私は神の子とされているのだという確信をいただいて、そして力づけられてまいりましょう。

 お祈りを致します。
 天の父なる神さま、御名を崇め賛美いたします。みことばを感謝いたします。与えられたみことばによって、この新たな週も喜びと力に溢れて歩んで行けるようお守りください。「主はその御目をもって全地を隅々まで見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力を現してくださるのです」。主よ、あなたを愛します。あなたが愛してくださっています。愛によって結ばれ、心一つとされて、神さまの守りと祝福の中を行くこの地上での歩みとなりますように導いてください。救い主キリスト・イエス様の御名によってお祈り致します。アーメン。

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