2021年8月8日 主日礼拝「勝利の確信」

礼拝式順序

礼拝前賛美
報 告

【ここからライブ配信】10時50分頃〜↑↑↑
開 祷
讃美歌  9番「ちからの主を」1節と4節
主の祈り 564番「天にまします」(参照
使徒信条 566番「我は天地の」(参照
讃美歌  303番「めぐみのみちかい」1節と3節
聖 書  ローマ人への手紙8章31〜39節
説 教  「勝利の確信」佐藤伝道師
讃美歌  385番「うたがい迷いの」1節と4節
献 金  547番「いまささぐる」
頌 栄  541番「父、み子、みたまの」
祝 祷

本日の聖書箇所

ローマ人への手紙8章31〜39節

説教題

「勝利の確信」

今週の聖句

しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。

ローマ人への手紙8章37節

訳してみましょう

2118 Let justice roll on like a river, righteousness like a never-failing steam!

2119 Heavenly Father, if I’m left to myself, I’ll likely play it safe, stay comfortable, keep quiet. But I know that You might ask something different. Help me discern what to do to honor You.

説教「勝利の確信」

ローマ人への手紙8章31〜39節

 お祈りを致します。
 天の父なる神さま、御名を崇め賛美いたします。今日まで私たちを守り、力づけ、歩ませてくださり、今朝も神さまの御前へと導いてくださいましたことを覚えて心から感謝いたします。続くコロナ禍にあって、また様々な事情によってこの場に集えない兄弟姉妹もおられますが、それぞれの場で、それぞれの形によって、主に礼拝を献げられます恵みを感謝いたします。どうぞお一人おひとりが霊とまことをもってあなたを拝することができますようにお守りください。主がすべてをご支配くださって、賜るみことばを通して深く交わり、益々深く主を知ること、益々深く主を愛すること、主の愛を知り、その応答としての悔い改めへと導いてくださいますようにお願いを致します。罪赦された確信をいただき、聖められて、愛と力と喜びに満たされて、またここから主によってそれぞれの場所へと遣わしてくださいますようにお願いを致します。語るこの者の上にも臨んでくださり、主が直接にそれぞれの耳に、霊に、心にお語りくださいますようにお願いを致します。すでに祈られました司会者の祈り、そしてそれぞれの祈りに合わせて、感謝し一切をお委ねし、主キリスト・イエス様の御名によってお祈りを致します。アーメン。

 前回に続いてオリンピックに関しての話題なのですが、今日をもって東京オリンピックはすべての競技日程を終えて閉幕します。世界中のトップアスリートたちが一堂に会した訳ですが、この「一堂に会する」という言い方に、私はおやおや?と思いました。この意味は、ある目的のために大勢の人が一つの場所に集まることです。ところで、教会を数える時に、何と数えるかご存じでしょうか。教会は「一堂、二堂」と数えます。ちなみにお寺は一軒、一寺(いちじ)、一宇(いちう)、一山(いちさん)と数え、神社は一社(いちしゃ)と数えます。そうなると「一堂に会する」は「教会に集まる」と解釈して良いのではないでしょうか。奇しくもパウロは信仰者の地上での歩みを「栄冠を受けるための競技・レースあるいは訓練」、また信仰者を「アスリート」に喩えています。オリンピックは4年に一度、一堂に会しますが、私たちは一週間に一度、神さまを礼拝するために一堂に会します。一週間の道のりを終えてここに目的をもって集います。もちろん兄弟姉妹が競い合うわけではありません。オリンピックでもお互いの健闘を称え合う姿はとても良いと思いますが、イエス様は言われました。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハ1334)。またパウロはこのように勧めています。「互いに励まし合い、互いに徳を高め合いなさい」(Ⅰテサ511)。「詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝しなさい。キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい」(エペ519-21)。オリンピックは平和の祭典とも言われます。私たちの礼拝は、神さまとの平和をいただいたことを覚える平和の祭典です。一週間の歩み、訓練を終えて一堂に会して神さまに礼拝を献げる。詩と賛美と霊の歌と感謝とをもって持たれる平和の祭典。そんなことを覚えました。

 さて、今日の箇所に入ります。

8章31節      では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。

 このように始まりました今日の箇所ですが、ここはこれまで見て来ましたローマ書の5章から8章全体の締めくくりのところとなっています。5章に入ったのが今年の2月の終わりでしたので、随分前のことになりますので、5章の始めはどんなだったかを少し振り返ってみましょう。

5章1節        ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。
5章2節        またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。
5章3節        そればかりでなはなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、
5章4節        忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。
5章5節        この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。

 もちろんこれは私たちに与えられている約束であり、私たちの確信でもあります。けれども、この地上での生涯を歩む上で様々な弱さを覚える私たち信仰者の切実な願いと言いますか、この信仰によって生かしてくださいというような、切実な祈りのようにも響いて来ないでしょうか。なぜなら、今日の8章35節に記されていますが、患難、苦しみ、迫害、飢え、裸、危険、剣、そのようなものを実際に経験してきた伝道者、主から異邦人への証し人として立てられたパウロ自身を通してこのみことばが記されているわけで、それは同じ主によって選ばれ、隣人の中に証し人として立てられている私たちの経験とまるでかけ離れてはいないからでしょう。しかし今日の箇所でパウロは、完全な勝利の確信を得て、その勝利の喜びを論理的な説明というよりは感情をこめた賛美のようにしてうたっています。まさに詩(詩篇)と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美している。すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神さまに感謝しているのです。強がりでしょうか。そうではありません。確信です。このパウロの勝利の確信、そして確信から出る心の底からの叫び、霊の叫び、喜び、賛美、感謝を、御霊によって、信仰によって私たちのものとさせていただきたいと願わされます。

 私たちのこの地上の歩みは、前回見ました通り「聖化」の歩みです。聖化なんて難しい言葉ですが、それは「現在進行形の救い」のことです。過去のある時点で救われた私たちが、今現在、経験するすべてのことを通してますますイエス様に似た者とされていっていることです。イエス様は地上の生涯において、常に神さまを証しし、みことばやご自分の生き様をもって、実に十字架に至るまで神さまの栄光を現しました。最初から最後まで、十字架のみわざが成し遂げられたその時まで、人に攻撃されたり、私たちと同じように罪の誘惑にさらされました。罪との激しい戦いがありました。けれどもイエス様は勝利されました。あらゆる誘惑、罪に打ち勝たれました。最後まで神さまを愛し抜き、人を愛し抜きました。私たちはこの地上の生涯で起こる様々な出来事を通して、そのほとんどは神さまと私との関係の中で起こる様々な出来事、また私と隣人との関係の中で起こる様々な出来事を通して、このイエス様にますます似た者とされていっているのです。聖化の歩みをしているのです。そしてその先の未来に、完全にイエス様と同じ栄光の姿に変えられるという「栄化」が約束されているのです。「栄化」とは未来形の救いです。終わりの時、イエス様が再臨されて神の国が完成されるときに完成する未来の救いです。私たちがしみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとさせられて神さまの御前に立つことができる(エペ527)その時まで、私たちの味方である神さまは私たちを守って導いてくださいます。イエス様を信じる者に御霊を注がれ、神さまの愛を注がれ、父なる神さまの支配、支え、配慮の中に私たちを置いてくださって、全能なる神さまがすべてを益と変えてくださって守り導いてくださいます。神さまが私たちの味方。だからこの世のなにものも私たちに敵対できるものはない。これほど心強いことはないのではないでしょうか。その心を強くできる根拠はどこにあるのでしょうか。どこから生きる勇気、確信を得て、活き活きと生きられるのでしょうか。私たち自身の実際の姿、行いに目を向けてもそれらは決して得られません。

8章32節      私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。

 神さまが私たちの味方であることは、何よりもまず「ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された」という点に現れています。

 創世記22章あたりの出来事です。愛するイサクを祭壇に犠牲としてささげようとしたアブラハムに対して、神さまは言われました。「あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ『惜しまないで』わたしにささげた」(創2212)。「惜しむ」というのは、あるものに執着して、これを犠牲にすることを強くためらうことです。神さまにとって、そのひとり子を人間の罪のために、この私の罪のために十字架につけることは、耐えられないほどの苦しみでした。「死に渡された」という語は「見放された」という意味です。何度か見ましたが、この「見放された」というのは、神さまのさばきを表すことばです。神さまは私たちのために、この私の罪の解決のために、罪に苦しむこの私を憐れんでくださり、苦しい結果をもたらす罪の奴隷状態から解放してくださるために、また神さまの罪ある故に持っておられた私に対する怒りを宥めるために、怒りを完全になくして私との完全な平和な関係を取り戻すために、私を義とするために、ご自身の子としてくださり、完全な父と子の関係を結ばれるために、親心を惜しみなく注がれるために、御子を惜しまないでさばかれ、見放されたのです。そこに神さまの犠牲があり、そこに私たちに対する神さまの絶対の愛があるのです。神さまはそれほどまでに私たちを愛しておられるので、御子といっしょにすべてのものを恵みとして与えてくださるのです。その御子イエス様が父なる神さまの御心をこのように教えてくださっています。「あなたがたも、自分の子がパンを下さいと言うときに、だれが石を与えるでしょう。また、子が魚を下さいと言うのに、誰が蛇を与えるでしょう。してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられる『あなたがたの父』が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう」(マタ79-11)。聖化、健在進行形の救いの中で神さまが与えてくださるすべてのもの、それは私たちにとって恵みであり、私たちにとってすべて良いものであるのです。栄化、未来の救いの完成、将来私たちに与えられる栄光のために、神さまがすべてを益として用いてくださるものです。後にルカの福音書を書いたルカは、この良いものを「聖霊」と言い直しています。イエス様は十字架にかけられ死なれ、復活されて天の父なる神さまの右の座に着かれました。そして約束のもう一人の助け主、聖霊を送ってくださいました。弟子たちが一堂に会して心を一つにして祈っていた。その祈りは、それまで自分たちが誇っていた主イエス様が十字架にかけられ死んでしまって、人々に注がれる視線とか評判とかがどうしようもなく怖くて、孤独で、不安で、心の底からの助けを求める叫びだったことでしょう。その時、聖霊・御霊が弟子たちに注がれました。そして弟子たちは力を得たのです。主の証し人となったのです。御霊が注がれて、御霊によって神さまの愛が本当に分かったからです。神さまの絶対の愛が分かって、信じることができたからです。神さまの絶対の愛を信じ切ること。それが信仰です。私たちに与えられているすべての良いものの中で最上のもの。それは私たちの内に注がれ宿っておられる聖霊・御霊であり、御霊によって与えられる神さまと隣人とを愛し切ることができる信仰でしょう。「神の国とその義とをまず第一に求めなさい」(マタ633)。「御国を来たらせ給え」。神の国とはすべての人が互いに愛し合い、誰一人としてないがしろにされることなく活き活きと生きられる国です。その神の国と、神さまとの平和な関係とをまず第一に求めなさいと言われる。それは神さまと隣人を愛し抜く信仰がなくして可能でしょうか。しかしそのような愛は、また信仰はもともと私たちにはありません。御霊にとりなしていただいて、イエス様を通して、御霊を通して与えていただくほかないのです。そうするならば、それに加えてすべてが与えられる、備えられる、心配ご無用とイエス様は言われたのです。

8章33節      神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。
8章34節      罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。

 私たちが神さまを選んだのではないのです。私たちが神さまを愛したのではないのです。ここにも私たちの救いの確かさがあります。私たちは神さまによって知られ、神さまによって愛され、神さまによって選ばれました。その神さまご自身が私たちを義と認めてくださるのです。

 「神が義と認めてくださるのです」。ここを直訳すると「義とされた方は神です」となります。神さまご自身が私たちを義とされるのであって、これをだれが再び告訴することができるでしょうか。お前はダメだ、お前は救われていない、お前はみじめな罪人だと告発できるでしょうか。だれも、何ものも神さまによって義とされた私たちを再び罪に定めることはできません。有罪の判決を下すことはできません。それは私たち自身の今の姿を見れば明らかなように、決して私たちに全く罪や弱さや足りなさがないとか、私たちが完全であるということではありません。復活して神の右の座に座しておられる偉大な弁護士であるイエス様が、わたしたちのために弁護していてくださるからです。偉大な弁護士であるイエス様は、かつて私たちが弱かったとき、罪人であったときに、そんな私たちのために死んでくださったお方です。それほどまでの愛を示してくださったお方が、私たちの祈りを聞いてくださり、私たちが祈れない時も御霊ご自身が言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださるそのとりなしの祈りを受けてくださり、イエス様は今も私たちの味方となって弁護してくださっているのです。私たちはこのお方の愛を、そしてこのお方を通して私たちに対する絶対の愛を示してくださった神さまを、全面的に信頼して良いのです。自分の力ではなく、御霊に依り頼み、神さまの愛にのみ依り頼むことを神さまは望んでおられます。神さまが私たちに御霊を注がれ、ご自身の愛を、愛のない私たちの心に注いでくださいました。その神さまの愛から決して離れてはならないと、アダムのように罪の誘惑に負け、神さまの愛に背を向けて出て行ってしまって、行き着く先は死、滅び、その道に再び歩き出してはならないと、神さまはそう望んでおられるのです。

 続く35節から、パウロの思いは愛へと集中して行き、ことばの調子も次第に高くなり、感情が込められた詩となり歌となり、将来の救いの完成に対する確固たる望みの告白、そして賛美へと至って行きます。

8章35節      私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですが、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。

 神さまによって異邦人への証し人として立てられたパウロの実際の体験です。患難、苦しみ、迫害、飢え、裸、危険、剣。すべて私たちをキリストの愛から引き離すのには十分な力をもっています。

8章36節      「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとおりです。

 ここは詩篇44篇22節からの引用です。パウロの体験はまた、旧約の時代に神の民として選ばれたイスラエルの民の経験でもありました。昔、イスラエルの民は苦難の中でこう言いました。「主は私を見捨てた。主は私を忘れた」(イザ4914)と。けれども神さまはこのように答えられました。「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない」(イザ4915)と。旧約の神の民の叫びは私たちの叫びです。その叫びに答えられる神さまは、今も私たちの神さまで、その御心は決して変わることはありません。神さまはご自分の約束、ご自分の民、ご自分の子としてくださった私たちを決して忘れません。

 私たちは神さまに忘れられてしまったのかと思うことはあります。周りの人が自分よりも元気で幸せそうだったり、成功していたり、裕福だったり、そう見えるからです。私たちは神さまに忘れられてしまったのか。しかし実際は違います。神さまの思いやりとご配慮は、我が子を抱く母の自然な愛を超越しています。苦しみの中にいる人にこそ、その苦しみを心で知り憐れみをもって理解してくださる神さまは目を留められ、心砕いておられます。親心を注がれておられます。見捨てられたとか、忘れられたとか言う前に、私たちは神さまが御子イエス・キリストを通して何をしてくださったかを思い出しましょう。

8章37節      しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。

 私たちは神さまに愛されている。すべてに勝利する。その確信の根拠を自分の内に見つけようとするならば失望します。敗北します。けれども、みことばにある通り、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。

 もう一度ローマ書5章の始めを確認してみましょう。

5章3節        そればかりでなはなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、
5章4節        忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品で意が希望を生み出すと知っているからです。
5章5節        この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。
5章6節        私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。
5章7節        正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。
5章8節        しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。
5章9節        ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。
5章10節      もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。
5章11節      そればかりでなく、私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を大いに喜んでいるのです。

 冒頭にも申し上げましたが、今日の箇所はローマ書5章から8章全体の締めくくりです。今週のどこかで、ぜひ5章から8章を味わい直してみていただくのも良いかもしれません。この後の38節のパウロの確信が、いよいよ迫ってくるものとなると思います。

8章38節      私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、
8章39節      高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。

 どんな被造物も、つまり神さま以外のなにものも、キリストにある神の愛から私たちを引き離すことはできない、決して敗北することはないという確信の告白です。

 ところで、8章37節の「圧倒的な勝利者」とありますが、原語を見ますとこのようになっています。「私は征服者以上の者であり、力強く勝ちます」。この世においてキリスト者を脅かし、その支配下に置こうとする悪しき力が考えられていることは明らかなのです。39節の「高さも、深さも」というのは当時の占星術、占いの用語で、それと共にその背後にある悪しき霊的存在の支配が意味されているのでしょう。同じように「今あるものも、後にくるものも」は歴史的な意味の現在と未来を示しているのではなく、現在と未来をそれぞれ支配する悪しき霊のことを言っているのでしょう。「死も、いのちも」という表現も、通常の生と死ということ以上に、人の死、霊的な死、活き活きと喜んで生きられない、困難の中、苦しさの中で神さまとの関係から迷い出させて滅びに至らせようとする悪しき霊の支配のことを言っているのでしょう。悪しき霊の働きは、現代においてはすでに空想話のようになったのでしょうか。そうではありません。聖書ははっきりとこう言っているのです。「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗闇の世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです」(エペ612)。また何よりも神さまご自身も霊なるお方です。私たちの心も、感情も霊です。正に私たちの戦いは霊的なものです。心や感情や、霊的に、巧みに挑まれる戦いです。そんな戦いが満ちるこの世で、私たちはどうしたらパウロの勝利の確信を同じく告白できるのでしょうか。その根拠は神さまの私たちを愛する愛です。神さまがご自身の愛をもって、聖化の道、現在進行形の救いの道を守り、未来の救いの完成、栄化に至るまで私たちを確実に勝利へと導いてくださる。私たちの確信の源泉は自分ではなく神さまの愛。私たちに勝利を与えてくださる神さまです。

 しかし実際には、苦難の中で心が弱くなり、神さまの愛を信じ切れない私たちを、悪霊はあらゆる策を講じて罪に定めようとします。苦しみを増し加えようとします。けれどもそのような時も弁護してくださるイエス様のゆえに、何も案ずる必要はありません。どんな時でも神さまの私たちへの愛は絶対に変わらないと、聖書は教えます。それなのに、私たち自身が神さまの愛にとどまることを拒んで、神さまから離れてしまうことがよくあるのです。それでは元も子もありません。

 私たちが一週間の歩みを終えて、新しい一週間の歩みを始めようとする時に、このように一堂に会して神さまを礼拝することは、本当に大切なことです。一堂に会して、互いに神さまにこれほどまでに愛されていることを確認し、互いに愛し合い、互いに励まし合い、互いに徳を高め合う。詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美する。兄弟姉妹ともどもに、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神さまに感謝する。私たちが本当に戦うべき相手に勝利させていただくためには、これらのことが本当に大切だと思わされます。主は私たちを愛されました。私一人を愛してくださり、同時に教会を愛しておられます。教会はキリストのからだです。一箇所が傷ついているならば、全体が傷ついているのです。今、苦しみの中におられる方を覚えます。戦っておられる方々を覚えます。教会に一堂に会せない方々を覚えます。私たちはそのような方たちのことを覚え、実際に何らかの形で愛し、語り、励ます者とさせていただきましょう。そのような愛も、神さまに求めるならば与えられるでしょう。コロナ禍にあって一堂に会することが難しくなっている教会もあります。コロナが終息されるように愛をもって祈りましょう。そして私たちが、教会が、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとさせられて神さまの御前に一堂に会することができる(エペ527)その時まで、互いに励まし合い、互いに整えられ、神さまの愛にとどまり、神さまの愛によって、御霊によって導かれてまいりたいと願います。

 また、愛に満たされ整えられた私たちはまた、この世の人々の間に遣わされてまいります。そこで御霊に依り頼み、神さまの栄光を現してまいりましょう。

 お祈りを致します。
 天の父なる神さま、御名を崇め賛美いたします。みことばを感謝いたします。今日は5章から8章までの締めくくりの箇所であり、語り尽くせないことが多いですが、それこそ語り尽くせないほどの神さまの愛を、聖霊様を通して私たちに注いでくださいますようにお願いを致します。その大きな愛を私たちを前進させる力としてくださり、この新たな週も御霊に導かれて勝利の道を歩んで行くことができますようお守りください。一週間のわざ、訓練を終えて、また共々に御前に一堂に会することができますようお守りください。主キリスト・イエス様の御名によってお祈り致します。アーメン。

長野聖書教会の話題やお知らせをお届けします。

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