2021年8月22日 主日礼拝「変わらない約束」

礼拝式順序

礼拝前賛美
報 告

【ここからライブ配信】10時50分頃〜↑↑↑
開 祷
讃美歌  15番「我らのみかみは」1節と5節
主の祈り 564番「天にまします」(参照
使徒信条 566番「我は天地の」(参照
讃美歌  249番「われつみびとの」1節と4節
聖 書  ローマ人への手紙9章6〜13節
説 教  「変わらない約束」佐藤伝道師
讃美歌  284番「主のとうときみことばは」1節と4節
献 金  547番「いまささぐる」
頌 栄  541番「父、み子、みたまの」
祝 祷

本日の聖書箇所

ローマ人への手紙9章6〜13節

説教題

「変わらない約束」

今週の聖句

「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」と書かれているとおりです。

ローマ人への手紙9章13節

訳してみましょう

2122 (Satan said)”The Lord delivered me into your hands, but you did not kill me”

2123 Jesus, lover of our enemies, may I seek justice Your way.

説教「変わらない約束」

ローマ人への手紙9章6〜13節

 お祈りを致します。
 天の父なる神さま、御名を崇め賛美致します。過ぐる一週間も、変わらずに私たちを守り、導いてくださいましたことを覚えて感謝致します。今、全地全能の主なる神さまがイエス・キリストを通して私たちのすべての罪を赦し、私たちを聖めてくださり、このように御前に集められ、進み出ることを許されているそのことを覚えて感謝致します。この幸いをもって心からの礼拝をお献げできますようお守りください。この場を聖霊様が満ちていてくださって、悪しき力から守り、ひたすらに神さまを愛し、信頼し、神さまの語られるみことばに聞き従うことができますようにお守りください。しかし私たちは悩む者、貧しい者たちです。どうぞ憐れんでください。主の憐れみによって、私たちにいのちのみことばを賜りますようにお願いを致します。そうしてまた共々に、みことばに教えられ、養われ、それぞれの場所へと遣わされて行き、その所でみことばに生きることができますようにお願いを致します。語るこの者をお守りください。主キリスト・イエス様の御名によってお祈り致します。アーメン。

 前回は同胞イスラエル民族に対するパウロの深い愛、本当に大切に思う心、嘆き、祈りを見ました。今日のところでは、パウロはそのイスラエル民族の現実の姿を見て、大いに悩む様子が見て取れるような気がします。

 イスラエル民族というのは、神さまによって救いに選ばれた特別な民族でした。それなのにパウロが目にしている彼らの現実はどうだろうか。彼らは神さまが送られた救い主キリストを十字架にかけて殺すことさえしてしまった。なおキリストを、福音を頑なに拒んでいる。それはつまり神さまを拒んでいることです。ついに神さまはパウロを異邦人へと遣わされてしまった。神さまは本当に彼らユダヤ人を見捨ててしまわれたのだろうか。神さまの裁きはなすがままにされることでした。彼らは見放されてしまったのか。救われるどころか、今や神さまの怒りと裁きの対象とされてしまったのだろうか。イスラエルを救いに選んでくださった、あの神さまの約束、ご計画はなかったことにされてしまったのだろうか。ここでパウロは大いに悩んでいるのです。

 ところで、9章から11章までは何か独立した段落のようであると前回申し上げましたが、ある先生がこのような指摘をされていました。この9章から11章の間で、パウロが旧約聖書を引用している部分が全体の約3分の1を占めるのだそうです。そして次のようにも言われています。「パウロはここで、切なるうめきを持ちながら旧約聖書を読んでいる。それはどうも、手紙を書く前に回答を持っていて、その回答をどうやったら皆に分かってもらえるだろうかと、次から次へと事細かに説いているというよりも、むしろ書きながら考え、語りながらまた考えるというタイプの段落ではないかという気がいたします」。これは9章から11章を読む上で心に留めておきたい指摘だと思います。つまりパウロは切なる呻きを持ちながら旧約聖書に問い、食らいつくように、神さまに挑むようにして、自分の持っている旧約聖書についての知識を総動員しながら、目の前の矛盾、不条理、疑問に対する答えを見出そうとしているということなのではないでしょうか。これは私たちが聖書を読み、みことばから神さまの御心を知りたいと切に願うところと重なるもの、重ねるべき態度だと思わされます。

 そのようにしてパウロが語る今日の箇所での第一声はこうでした。

9章6a節      しかし、神のみことばが無効になったわけではありません。……

 パウロはすでにここで答えを述べているようです。「しかし、神のみことばが無効になったわけではない」と。この「無効」という原語を見てみますと、「落ちる」「地に落ちる」となっていました。そして新改訳聖書の欄外には旧約聖書の民数記が引かれています。民数記の23章19節です。

【民数記】
23章19節   神は人間ではなく、偽りを言うことがない。人の子ではなく、悔いることがない。神は言われたことを、なさらないだろうか。約束されたことを成し遂げられないだろうか。

 また私たちはパウロには及ばないにしても、他にもいくつかのみことば、神さまの言われたことを思い起こすと思います。例えばイザヤ書などどうでしょうか。

【イザヤ書】
40章8節      草はしおれ、花は散る。しかし、私たちの神のことばは永遠に立つ。」

 また、

55章9節      天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。
55章10節   雨や雪は、天から降って、もとに戻らず、地を潤して物を生えさせ、芽を出させて、種蒔く人に種を与え、食べる人にパンを与える。
55章11節   そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、わたしのところに、空しく帰って来ることはない。それは、わたしが望むことを成し遂げ、わたしが言い送ったことを成功させる。

 他にもたくさんあるかと思いますが、神さまご自身のみことばが証ししている通り、神さまは一度言われたことにはどこまでも責任を持ち、最後まで変更されたり無効にしたりすることはないお方です。私たちはこのような神さまを信じている、神さまのみことばを信じる信仰によって救われているのです。日々望みがあるのです。

9章6b節      ……なぜなら、イスラエルから出る者がみな、イスラエルなのではなく、
9章7節        アブラハムから出たからといって、すべてが子どもなのではなく、「イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる」のだからです。

 ここだけを読んでしまうと、分かるようで分からない言葉です。これはパウロの目の前にいるイスラエル民族は本物のイスラエル民族ではない。だから神さまがイスラエルを放っておかれることに、神さまには何の違反もないのだと言いたいのでしょうか。そうではありません。

 「神のみことば」とは、4〜5節で語られている通り、神さまがイスラエルに与えられた恵みと慈しみに満ちた数々のみことば、神さまが語られた救いの約束、契約のことです。それら神さまの口から出たみことば、約束、契約はなおも有効。無効とされていない、地に落ちることはない。神さまはイスラエルに対してなおも真実であられるのだということを強調して言いたいのです。

9章8節        すなわち、肉の子どもがそのまま神の子どもではなく、約束の子どもが子孫とみなされるのです。
9章9節        約束のみことばはこうです。「私は来年の今ごろ来ます。そして、サラは男の子を産みます。」

 神の子どもとされた者はただの肉の子どもなのではない、約束の子どもなのだと。約束のこどもが子孫とみなされて、祝福を受け継ぐ者とされているのだと。

 「約束のこども」。この「約束」と訳されている語ですが、他に「召し」「呼び招く」とも訳せる語なのです。これは誰が神の子どもなのか、神さまの祝福を受け継ぐ子孫なのかという点において、とても重要な意味を持つと思います。誰がした約束でしょうか。誰が召し、誰が呼び招いたのでしょうか。神さまです。神さまの約束のみことば、召しのみことばはこうでした。「私は来年の今ごろ来ます。そして、サラは男の子を産みます」。皆さんご承知の通り、これは創世記18章の出来事です。時間の都合もありますから今日は見ませんが、是非読み返していただきたいと思います。「来年の今ごろ」。直訳すると「この時刻に」となります。神さまの約束は、「来年のちょうどこの時刻に」と言って約束されるのです。このことばには、神さまの計画、予定、事前決定、目的と、それが成し遂げられる約束には、絶対に間違いがない、寸分の狂いもないという神さまの保証なのです。サラは「そんなことがあり得ようか」と心の中で笑ってしまいました。神さまの約束、召し、救いというのは「こんな私が」と思わず笑ってしまうほどの奇跡なのです。一方的であり、思わず笑ってしまうほどの恵みなのです。しかもそれは絶対に間違いがないのです。

9章10節      このことだけでなく、私たちの父イサクひとりによってみごもったリベカのこともあります。
9章11節      その子どもたちは、まだ生まれてもおらず、善も悪も行わないうちに、神の選びの計画の確かさが、行いにはよらず、召してくださる方によるようにと、
9章12節      「兄は弟に仕える」と彼女に告げられたのです。

 イスラエル民族を真の神の民としたのは、神さまの約束、一方的な召しによるものでした。また一方的に召し出されたことによるということは、神さまによって選ばれたということにもよるのです。ここでは神さまの約束、召し、選び、それらがどこまでも確かであることについて述べられています。

 アブラハム、イサクと語りながら、パウロの頭には次に、そうだ、神さまの選びが確かなことについては、リベカの身に起こったことが証ししているではないかとはっきりと示されたのでしょう。アブラハムの場合、イサクは正妻サラの子であり、イシュマエルが女奴隷の子であったという、選びの上で出生の条件の違いが問題になります。けれどもイサクの子どもたち、つまりエサウとヤコブについては、一人の妻リベカが全く同時に胎内に宿した双子であって、エサウとヤコブを分かつものは何一つありませんでした。ところが神さまは、二人が生まれる前に一方を選ばれたのです。しかもその選びは、ふたりが「まだ生まれてもおらず、善も悪も行わないうちに」なされました。それは当然、「行いによらない」と言われるべきものです。一方が他方より善良であったり、信仰深かったからというのではないのです。神さまの選びというのは、全くの神さまの主権、何ものにも影響されない、何ものにも支配されない、神さまの全くの自由による選びです。新改訳では「神の選びの計画の確かさ」と訳していますが、原語を直訳すると「神の選びの計画が存続するため」というふうになっています。この時「兄は弟に仕える」と神さまが告げられたのは、神さまが全く事前にヤコブを選ばれることを決定していたものであるのだから、選ばれたという決定は存続するのだと。その人の今の状態、行いとか状況によって変更されたり廃棄されたりはしないことを証明するものであると、パウロは強調しているのです。

 また、神さまの選びの確かさ、どのようなことがあっても、どのような現実であったとしても、決して変わることがない、ずっと有効であって決して無効にされないということが「行いにはよらず、召してくださる方による」のであるという点にあることも見逃してはならないと思います。
 「行いによらない」ということは、言い換えるとどういうことになるでしょうか。敵であった者を愛するということではないでしょうか。神さまに対して不誠実な者を、神さまは愛し続けてくださる、それでも大切にしてくださるということではないでしょうか。罪人を、不敬虔な者を、反抗的で、神さまを無視して自分勝手に滅びの方向へと進んでいってしまっている者を赦そう、わたしのもとに帰れと、目も心も手も差し伸べ続けてくださる。そして何かのタイミングで、ほとんどの場合それは試練の中でしょう。神さまに背を向けて、自分勝手な道に出て行き、そこで苦しい思いをしている時でしょう。そこで助けて欲しいと、本当に自分は幸せになりたいのだと、神さまの差し伸べられている御手がかすかに見えて、神さまにすがりたい、神さまのもとに帰りたいと思った瞬間に、期待した瞬間に、即座に神さまの方から駆け寄ってくださって、「わたしの愛する子」と腕の中に抱き寄せて口づけしてくださる。そういうことではないでしょうか。

 召してくださる方による、約束してくださる方による。決して人の行いによるものではない。これこそ、神さまの選びの計画の確かさです。神さまの選びがいつまでも有効であることの理由です。私たちの側に選ばれる理由が全くないからこそ、私たちは神さまに選ばれているということを信頼できるのです。また、あの人に選ばれる理由が見当たらないからといって、選ばれていないということではないとも言えるでしょう。

 ところで、11節の原語を調べていてなるほどと思わされるところがあったのでお分かちさせていただきます。「選び」という言葉には、選び出す、たくさんの中から選び出すという意味があって、それが「神による選択」というはっきりとした意味を持つ言葉になっています。
 そして「計画」ですが、これは目的、事前決定、設定するという意味があって、他に「供えのパン」という意味も持っています。多くのパンの中から神さまのものとされる供えのパンとされる目的を持つパンが事前決定されている、設定されている。誰かが偶然手にしたパンかもしれません。けれどもそこには神さまの摂理が働かれていることを私たちは信じるのではないでしょうか。
 そして「約束」。先にも申しましたが、約束には他に「召し」という意味があります。ギリシャ語では「ἐπαγγελία」(エパンゲリア)です。どこか福音、良い知らせを意味する「εὐαγγέλιον」(ユーアンゲリオン・エバンゲリオン)に似ていないでしょうか。私のヘブル語の先生はヘブライ大学と大学院で言語学を学ばれた先生なのですが、その先生によると似ている言葉同士というものはやはり何かしらの関係があるということでした。ですから神さまの約束というのは、福音、良い知らせなのです。そして神さまの約束、召しというのは、福音、良い知らせによってなされるのです。初めに福音が届けられたのは誰だったでしょう。イエス様が地上に来られ、「神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と語られたのはイスラエルの民でした。その福音が今や世界中に届けられています。そして私たちのところにも届きました。まさに私たちは神さまの確かなご計画の中、事前決定の中、私たちの行いによらず、神さまによって、神さまのみことばによって、福音によって救いが約束され、召されて、選ばれて、神さまのものとされているのです。霊的イスラエル人、真の神の民、祝福を受け継ぐ神のこども、約束の子孫とされているのです。

9章13節      「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」と書いてあるとおりです。

 旧約聖書の創世記から思い巡らし、語っていたパウロは、ここで突然のように新しい旧約聖書の箇所を引用しました。「『わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ』と書いてあるとおりです」。これは旧約聖書マラキ書からの引用です。イスラエル人であるならば、マラキ書のこのたった1句でピンと来たはずです。

【マラキ書】
1章1節        宣告。マラキを通してイスラエルにあった主のことば。
1章2節        「わたしはあなたがたを愛している」と主は仰せられる。あなたがたは言う。「どのように、あなたが私たちを愛されたのですか」と。「エサウはヤコブの兄ではなかったか。———主の御告げ——— わたしはヤコブを愛した。
1章3節        わたしはエサウを憎み、彼の山を荒れ果てた地とし、彼の継いだ地を荒野のジャッカルのものとした。」

 このみことばが語られた背景はこうです。イスラエルの民が捕囚から帰還してはや100年、神殿の再建工事が完了してから80年以上も経過していました。けれどもイスラエルの民の生活、取り巻く環境は依然として苦しいものであり、良くなる兆しも見つかりませんでした。そのような中、イスラエルの民の神さまに対する信仰は全くなくなってはいませんでしたが、神さまに対する感謝の思いは冷め、礼拝は形式的なものとなり、律法も軽く見られていた、そのような雰囲気が漂っていました。そこに主のことばがありました。「わたしはあなたがたを愛している」。民は答えました。「どのように、あなたが私たちを愛されたのですか」。こんな状況で、こんな現実の中にあって、神さまあなたはどのように私たちを愛されたと言うのでしょうか」。神さまに対する不満、疑いの心を、柔らかな口調ではありますがぶつけています。そこで神さまは仰いました。「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」と。

 注意したいのは、愛する、憎むというのは全くそのままの意味ではなく、ヘブル的表現として愛するに対して憎むという風に使われる者です。チェーン式の欄外の説明によると「憎むというのはより少ない愛のことで、拒絶する程度の意」と説明されています。拒絶もかなり衝撃的な言葉ですが、そもそも人間が神さまを拒絶しているのです。拒絶する者をも神さまの方法で愛してくださるのが神さまです。

 「わたしはあなたがたを愛している」。民は答えました。「どのように、あなたが私たちを愛されたのですか。こんな状況で、神さまにまるで拒絶されているかに見えるこのような現実の中にあって、神さまあなたはどのように私たちを愛されたと言うのか」。「わたしはヤコブを愛した」。

 ヤコブは野心家で、策略家で、目的のためには手段を選ばない、横着な人。名前の通り神を押しのける者でした。父イサクが年老いて、目がかすんで見えなくなったのにつけ込んで、父を欺き、その祝福を兄から横取りした。良心というものがあるのかと疑わせるほどにずるい人。巧みに、狡猾に自分の財産を増やした。けれども神さまは、「兄は弟に仕える」という言い方で神さまご自身がヤコブを選ばれたことに対して、どこまでも真実であられました。「ヤコブを愛した」と。このヤコブが驚くべき変化が与えられて、選民イスラエルの始祖とされ、神の人として仰がれるようになったのは、ただ神さまの選び、計画、約束の確かさによるものでした。神さまがヤコブをずっと愛され、守り、導き、供えのパンとしていてくださった。神さまのものとして選んでおられ、用いてくださったのです。ヤコブの選びは神さまの自由な恵みによるものでした。その恵みは、今私たちにも注がれています。そしてあなたが今どのような者であり、あなたを取り囲む現実がどのようなものであっても、神さまの選び、計画、約束、召しは決して変わらないのだと、パウロは強調しているのです。パウロはこの後のローマ書で「神の賜物と召命は、取り消されることがない」と、力強く証ししています。私たちはこの神さまのみことばに励まされましょう。

 パウロは神さまの選び、そしてその選びは神さまの主権によって、他のなにものにも支配されない自由、力によってなされるものであることを強調して語りました。しかしこの「選び」とか「計画・予定」という言葉は誤解されやすいものでもあります。教会の歴史の中でも誤解や間違った受け取り方がされました。例えば、「神さまがすでに救われるべき人を選んでいるのだから、人が福音を伝えることには意味がない」とか、「この人は救いに選ばれている、あの人は選ばれていない」と決めつけてしまったり。それは本来の神さまの心とはかけ離れた考えです。
 そして神さまの選びも、また約束も、計画も、つまりは「神さまの御心」と言えるものかと思います。この「神さまの御心」というのは、ある意味「殺し文句」となってしまう危険なものではないでしょうか。苦難の中、途方に暮れている誰かに「神さまの御心だから」などと使って良いものではありません。神さまの御心を簡単に持ち出すと、人は薄っぺらい愛や慰めを語りやすくなります。

 コロナ禍にあって、先日は自宅で療養中の妊婦さんが陣痛を起こして、受け入れ先の病院が見つからずに自宅で出産し、赤ちゃんが亡くなってしまったというとても辛いことが起こりました。命の選別などという恐ろしいワードも言われてきています。災害が起こったり、政権が変わり恐れや不安、実際の危険にさらされている人、いのちが奪われてしまった人。あの人が生きて、あの人の命が奪われるのは何故なのか。あの人は幸せで、あの人はなぜ苦しい状況の中に置かれ続けているのか。私たちには答えられません。その人に対して「御心だから」などとは決して語ることはできません。私たちには語ることのできること、語らなければならない言葉がある一方で、語ることのできないこと、語ってはならない言葉もあるのです。その上で、あえて語ることが許される言葉、語らなければならない言葉があるとするなれば、絞り出すようにして出てくるただこの一言ではないでしょうか。「神のことばが無効になったわけではない」「神のことばは地に落ちることがない」。

 私たちは、神さまのみことばの上にあぐらをかいたり、神さまのみことばを諦めの理由にしてしまったり、神さまの口から出るみことばを間違って受け取ってしまったり、誰かを傷つけてしまうことのないように、御霊に依り頼み、神さまの愛を信じていきたいと思います。神さまを心から慕い求め、神さまのみことばを待ち望み、神さまに心から憐れみを請い願いながら、自分自身のために祈り、そして隣人のために祈ってまいりましょう。「神のことばが無効になったわけではない」。このみことばを、確かな約束をしっかり握りしめてまいりましょう。「神のことばが無効になったわけではない」。このことに疑いを抱いてしまう時は、ローマ書8章に戻って、繰り返し神さまのみことばに聞いて、神さまの御心を何度も何度も、食らいつくようにして、挑むようにでも確かめてください。神さまの懐に飛び込んでください。神さまは父の心で受け止めて、みことばをもって答えてくださることでしょう。

 お祈りを致します。
 天の父なる神さま、御名を崇め賛美致します。みことばを感謝致します。神さまのみことば、約束、選び、計画について見てまいりました。そしてそれらの確かさというものを確認させていただきました。私たちは自分に対しても、また隣人に対しても「神のみことばが無効になったわけではない」「神のみことばは地に落ちることがない」と、いつも信仰をもってそのみことばをしっかりと握りしめていけますように。疑いや迷いを、感謝、喜びへと変えてくださり、神さまの取り消されることのない賜物、召しを覚えて、この地上での歩みを進ませてくださいますようにお願いを致します。感謝して主キリスト・イエス様の御名によってお祈り致します。アーメン。

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