2021年10月24日 主日礼拝「救いを受けよ」

礼拝式順序

礼拝前賛美
報 告

【ここからライブ配信】10時50分頃〜↑↑↑
開 祷
讃美歌  9番「ちからの主を」
主の祈り 564番「天にまします」(参照
使徒信条 566番「我は天地の」(参照
讃美歌  530番「うき世の嘆きも」
聖 書  ローマ人への手紙10章1〜13節
説 教  「救いを受けよ」佐藤伝道師
讃美歌  324番「イエスきみ、イエス君」
献 金  547番「いまささぐる」
頌 栄  541番「父、み子、みたまの」
祝 祷

本日の聖書箇所

ローマ人への手紙10章1〜13節

説教題

「救いを受けよ」

今週の聖句

律法の目指すものはキリストです。それで、義は信じる者すべてに与えられるのです。

ローマ人への手紙10章4節

訳してみましょう

2140 ”The Spirit you received does not make you slaves, so that you live in fear.”

2141 Living God, at times I’m afraid to live honestly with myself and with others — thinking that by doing so I’ll no longer be loved. Heal my heart, and help me believe in and live for the glory, freedom, and joy Your love makes possible.

説教「救いを受けよ」

ローマ人への手紙10章1〜13節

 お祈りを致します。
 天の父なる神さま、御名を崇め賛美致します。過ぐる一週間も、私たちを守り導いてくださいましたことを覚えて感謝致します。本朝もこうして兄弟姉妹ともどもに、主に召され、呼び集められ、御前に集い礼拝をお献げできます幸いを心から感謝致します。どうぞ全能なる主が、私たちの罪を赦し、聖めてくださり、私たちはそれを信じ、今、私たちの心と身体、霊と肉をもって大胆に御前に進み出ることが許されますように。御前に頭を垂れる私たちに、どうぞみことばを祝福してお与えください。聖霊様が臨んでくださり、お一人おひとりにお語りくださいますように。語るこの者の弱さ、罪をあわれんでくださって、この奉仕をお守りくださいますようにお願いを致します。感謝して主キリスト・イエス様の御名によってお祈り致します。アーメン。

 皆さん、聖書は難しいですか。確かに難しく感じることがあります。けれども、聖書、神さまのみことば、神さまが私たちに求めておられることは意外とシンプルで、重要だと思うところこそ単純なような、そんな気がしています。単純だからこそ深くて、深いからこそ色々と複雑に考えすぎてしまうのかもしれません。律法もそうです。律法は出エジプト記から申命記の中に、613個の掟、定めがあります。けれどもその内容はイエス様が言われた通り、「神を愛し、隣人を愛する」。これだったのです。人間はそれを難しく考えて、複雑にして受け取って、さらに付け加えたりなどして、何か別物のようなものになってしまったのでしょうか。もしかしたら、私たちの信仰もそうなのかもしれません。神さまが求めておられる信仰は、ある面ではとても単純で難しいことではないのかもしれません。しかし単純だからこそ難しく複雑に考えてしまい、さらに人間が条件を付け加えたりしてしまっているところもあるのではないかと、そう思わされています。

 続けてローマ書を見てまいりますが、今日から10章に入ります。

 前回も申し上げましたが、ローマ書の9章から11章までは、ローマ書の前半と後半に挟まれており、その内容もイスラエルの救いについて語っているもので、なかなか難しい所だとも言われているところです。信仰によって義とされる、救われるという教えこそがローマ人への手紙の中心部分ですが、ある先生によると、イスラエルの救いを語るこの9〜11章こそが、その中心部分だと言うのです。

 これまでパウロは、神さまの選びとあわれみについて語りながら、イスラエル民族の不信仰について言及してきました。彼らは、信仰によらず行いによろうとしたために、つまずきの石につまずいたと。

 神さまが人を救うために、その「救いの礎」、救いのための基礎となるもの、土台となるもの、これがなければ救いは絶対に完成しない。完成させたくても、これが救いの礎でなければ、その救いは完成しないものとして、たった一つの「かしら石」あるいは「要石(かなめいし)」を据えられた。そのたった一つのかしら石、要石こそイエス・キリスト、そしてイエス・キリストの出来事でした。つまり「福音」です。イスラエル民族は、実にこの「イエス・キリストの福音」につまずいてしまったのです。

 彼らはどうして福音につまずいてしまったのか。それは、救われるために、信仰によらず行いによろうとしたために、つまずきの石につまずいてしまったのだと、9章では述べられていました。

 パウロはこれからさらに、イスラエルの不信仰の実体を厳しく指摘しながら、同時に信仰による義というものを際立たせるようにして述べて行きます。

 パウロは10章1節から「兄弟たちよ」と親しく呼びかけながら、キリストによって律法は終わりを迎えたことを述べます。

10章1節 兄弟たち。私が心の望みとし、また彼らのために神に願い求めているのは、彼らの救われることです。

 パウロは同胞のユダヤ人が「救われること(=解放されること)」を心から望み、そして神さまに願い求めています。ただの祈りではありません。「心の望み」という語は、「真実で切実な祈り」という意味です。また他の所では「みこころ」とも訳されています。例えばマタイ11章26節では「そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした」となっています。パウロの心の望み、それは同時に神さまのみこころでもあるのです。祈りとはそのようなものではないでしょうか。最終的に「神さま、あなたのみこころがなりますように」と、苦しみながらも神さまのみこころを求めていくのが、イエス様がゲツセマネの園でも私たちに示された真実な祈りです。祈りの中で示されたみこころ、それがそのままパウロの真実で切実な祈りとなった。それはイスラエル民族が、ただ福音を信じてのみ与えられる義、赦し、救いを恵みとして受け取ることでした。私たちの心には、パウロのような真実な祈り、切実な祈りがいつもこの心の真ん中にあるでしょうか。私たちの口から出る隣人に対する言葉を聞けば、また行動を見れば、それが分かるのかもしれません。

 パウロは続けて、同胞の不信仰と誤りの内容を祈りの心で説明します。

10章2節 私は、彼らが神に対して熱心であることをあかしします。しかし、その熱心は知識に基づくものではありません。
10章3節 というのは、彼らは神の義を知らず、自分自身の義を立てようとして、神の義に従わなかったのです。

 パウロは何よりも、彼らの心の状態を理解しています。彼らの熱心というものを良く知っていました。「神さまへの無知な熱心」は、まさに復活のキリストに会う前のパウロ自身の姿でした。ガラテヤ書にはパウロ自身の証しがこのように記されています。「以前ユダヤ教徒であったころの私の行動は、あなたがたがすでに聞いているところです。私は激しく神の教会を迫害し、これを滅ぼそうとしました。また私は、自分と同族で同年輩の多くの者たちに比べ、はるかにユダヤ教に進んでおり、先祖からの伝承に人一倍熱心でした」(ガラ113-14)。またピリピの教会に対してもこう証ししています。「その熱心は教会を迫害したほどで、律法による義についてならば非難されるところのない者です」(ピリ36)。

 神さまに対する熱い心はとても大切で尊いものです。それが正しい心であればです。「熱心」という語の持つもう一つの意味、「競争」となるとどうでしょうか。神さまと競争して、神さまを打ち負かして、それで自分を認めさせてやろうと。神さまは創造の初めから、そのようなことを人に求めてはいませんでした。神さまは熱い心で愛する相手として人を創造し、人が熱い心で神さまを愛することを願われていたのです。

 また、熱心の陥りやすい間違いは、「無知」となることです。10章3節の「神の義を知らず」の「知らず」は、無知であったということの他に、故意的に無知であった、無知であろうとしたということでもあります。熱心による無知。それは本当の自分を見ようとしないことでもあります。熱心であればあるほど、本当の自分を見なくて済むからです。自分の弱さ、貧しさ、罪深さを見ずに済んで楽だからです。このことも神さまは人に求めてはおられません。神さまは創造の初めから、神さまは自分の弱さ、貧しさ、罪深さを認め、正しい知恵も力もないことを認めて、神さまに全身全霊お任せする、神さまを信じて依り頼む、そして依り頼むその人に、神さまが最善のみこころをなさりたいと、永遠に守りたい、義の道に導かれたいと、そう願われていたのです。

 以前のパウロは、神さまによって置かれた一つの石が見えていなくて、つまずきました。そして復活のキリストに出会って、目からうろこが落ちて、何が見えたか、見せられたかというと、律法、また旧約聖書全体に込められていた神さまの本当の心、福音でした。それまでの自分自身の本当の姿でした。そこでパウロの人生がガラッと正しい方向に方向転換させられたのです。

10章4節 キリストが律法を終わらせられたので、信じる人はみな義と認められるのです。

 新しい訳ではこうです。

【新改訳2017】
10章4節 律法が目指すものはキリストです。それで、義は信じる者すべてに与えられるのです。

 復活のキリストに出会い、聖霊によってパウロが律法また聖書全体から見出した真理。それは律法が目指すものはキリストであったこと。そのキリストが、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれた、そして葬られた、また聖書の示すとおりに、三日目によみがえられた、復活されて今も生きておられる。そのようにしてキリストは律法を完成された、成就された。それで神さまの義は、赦しは、救いは、永遠のいのち、今から永遠に神さまと完全に仲直りをして、神さまの子とされて、御国の相続者とされて、今から永遠に至るまで、この地上で、また天の御国で、神さまの御心のとおりに生きられる、活き活きと生きられるその永遠のいのちは、律法の行いではなく、福音を、イエス・キリストを信じるすべての者に与えられるのだと。それが神さまの永遠からの約束、決め事だったのだということが見えた。見えてきた。まさに毎日が目からうろこの経験だったでしょう。

 律法が目指すものはキリスト。それで、義は信じる者すべてに与えられる。「信じる者は救われる」(多くの人が知り、口にする言葉。正しい知識に基づくものではない?)、実は「キリストを信じる者は救われる」。これが聖書の最初から最後までを貫く神さまの約束であり、福音です。神さまのみことばによる宣言です。(その神さまは→10章12節の主である)。

10章5節 モーセは、律法による義を行う人は、その義によって生きる、と書いています。

 ここは旧約聖書のレビ記18章5節からの引用で、パウロが律法による義ということを述べる時にまず引用する聖句です(ロマ213、ガラ312)。律法は、律法の行いによって神さまに認めていただこうとする時、人に完全なわざ、完全な行いを要求します。しかし実際はそのような道で生きる人はいません。完全に守り切ることなどできないからです。また自分には何か力があって、完全に守り切ることができると言うべきでもありません。

 マルコの福音書10章17節から、あるお金持ちの青年がイエス様の前に走り寄ってきて、イエス様に尋ねました。「永遠のいのちを自分のものとして受けるためには、私は何をしたらよいでしょうか。」するとイエス様はこう答えられました。「戒めはあなたもよく知っているはずです。『殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証を立ててはならない。欺き取ってはならない。父と母を敬え。』」すると、その人はイエスに言いました。「先生。私はそのようなことをみな、小さい時から守っております。」律法を成就するために、律法を終わらせるために来られたイエス様は彼を見つめ言われました。「あなたには、欠けたことが一つあります。帰って、あなたの持ち物をみな売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」すると金持ちの青年は、このことばに顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った。イエス様は弟子たちに言われました。「裕福な者が神の国に入ることは、何とむずかしいことでしょう。」驚く弟子たちに、イエス様はもう一度同じ事を言われました。「子たちよ。神の国に入ることは、何とむずかしいことでしょう。金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」「それでは、だれが救われることができるのだろうか。」イエス様は、弟子たちをじっと見て言われました。「それは人にはできないことですが、神は、そうではありません。どんなことでも、神にはできるのです。」

 律法を完全に守り切って、神さまに認めていただくことは決してできないのです。けれども、人にはできないことであっても、神さまはおできになるのです。人を義と認めることは、神さまご自身によるほか不可能なのです。そこにこそ、福音があるのです。この福音は、パウロによって「信じる者すべてに救いをもたらす神の力」として宣べ伝えられました。神さまは福音を信じる者、イエス・キリストを信じるすべての者に救いをもたらすお方。救いは人間の努力によるのではなく、ただ神さまの力、神さまの恵みによるのです。

 この救いの礎である福音につまずいてしまったのがイスラエル民族でした。彼らは民族的な誇りとか、宗教的熱心のために神さまの義、福音に降伏して素直に従うことが出来なかったのです。そこに彼らの致命的な誤りがあったのです。これは私たちの同胞にも言えることであり、また信仰生活を重ねて行くにつれて、私たちも陥る危険性があるものではないでしょうか。恵みを恵みとして受け取るのが、本当に出来ないというか、苦手なのでしょうか。遠慮深いとか。けれども私たちは、イエス・キリストの血によって大胆に祈り求めることができるのです(ヘブ416)。キリストを通して、キリストに対する信仰によって、確信をもって大胆に神さまに近づくことができるのです(エペ312)。そうしましょうと、神さまが私たちに求めてくださっているからです。

10章6節 しかし、信仰による義はこう言います。「あなたは心の中で、だれが天に上るだろうか、と言ってはいけない。」それはキリストを引き降ろすことです。
10章7節 また、「だれが地の奥底に下るだろうか、と言ってはいけない。」それはキリストを死者の中から引き上げることです。
10章8節 では、どう言っていますか。「みことばはあなたの近くにある。あなたの口にあり、あなたの心にある。」これは私たちの宣べ伝えている信仰のことばのことです。

 パウロはここで、旧約聖書の申命記30章11節から14節を引用しています。そしてただ引用しているのではりません。新約の光を当てて読み直しています。私たちは旧約聖書を読むときに、それを福音のことばとして読むことができる、いや読まなければならないことがここで教えられると思います。私たちは旧約聖書を、知識に基づく熱心をいただくために、キリストの霊、聖霊の導きによって読ませていただきましょう。

 申命記30章11〜14節には、実際にどのように記されているのでしょう。

【申命記】
30章11節 まことに、私が、きょう、あなたに命じるこの命令は、あなたにとってむずかしすぎるものではなく、遠くかけ離れたものでもない。
30章12節 これは天にあるのではないから、「だれが、私たちのために天に上り、それを取って来て、私たちに聞かせて行わせようとするのか」と言わなくてもよい。
30章13節 また、これは海のかなたにあるのではないから、「だれが、私たちのために海のかなたに渡り、それを取って来て、私たちに聞かせて行わせようとするのか」と言わなくてもよい。
30章14節 まことに、みことばは、あなたのごく身近にあり、あなたの口にあり、あなたの心にあって、あなたはこれを行うことができる。

 この箇所の要となる点は、「神さまがイスラエルに語られたため、神さまの命令は、遠く離れた天の上や海のかなたにあるのではなく、イスラエルの口と心のすぐ近くにあって、イスラエルは神さまの命令を難なく守ることができる」ということです。パウロはこれを福音に適用して、このように言います。「私たちがあなたに宣べ伝えたため、このみことば(福音)は、遠く離れた天の上や深みにあるのではなく、あなたの口と心のすぐ近くにあるのだから、このみことば(福音)を難なく信じることができるでしょう」と言っています。パウロは申命記の「私が、きょう、あなたに命じるこの命令」を「みことば」「私たちの宣べ伝えている信仰のことば」、つまりキリストの福音に変えています。神さまは、パウロを通して人々にキリストの福音を宣べ伝えられました。この福音が人々のすぐ近くにあるので、だれでも信じることができるようになりました。天に上ってキリストをお連れして下って来る必要も、深みに下ってキリストをお連れして上って来る必要もありません。と言いますか、そんなことはもともと人間には不可能なことです。らくだが針の穴を通る方がまだ易しいのかもしれません。でもそのようなことは、神さまがすべてしてくださいました。人間に要求されるのは、ただこの福音を信じることだけなのです。そして信じることなら私たちに出来るのです。私たちに出来ることを用意してくださった。これは恵みです。あわれみです。

 また、すべて神さまがしてくださったことを、どうしてもう一度同じことを人間がしなければならないだろうか、とも問われます。イエス様が成し遂げてくださったみわざを受け入れないならば、イエス様の十字架、死、そして復活、すべてが無意味、無駄となってしまう。パウロにとってそれは堪えがたい事だったのではないでしょうか。神さまの私たちに対する大きな愛、あわれみ、犠牲が無駄とされてしまう。それは私たちにとっても堪えがたいことです。「どうぞ神さまの愛を、キリストの恵みを受け取ってください」。私たちは隣人に対してそう心から願うのではないでしょうか。また一番近くの隣人である自分自身に願うのではないでしょうか。私たちの心からの願いは、神さまのみこころでもあるのです。

10章9節 なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。

 私たちが神さまに義とされるために必要なことがこれです。私たちはこの神さまの恵みの約束を信じて救われました。救いの確信をいただいています。

10章10節 人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。

 私たちは日ごとに使徒信条を告白しています。私たちは日ごとに私たちが信じていいることを確認して、心で信じて、信頼して、口で告白して救われているのです。

 心で信じたこと、それは必然的に口で告白することになります。イエス様も言われました。口から出るものは心から出てくるのだと。そしてそれが人にも影響を及ぼすのだと。自分に、そして隣人に影響を及ぼすのだと(マタ1518-20)。心の中にあるもの、信じたことが口から出る。それを一番近くで聞いているのは、自分自身です。隣人に対する告白となると、それは証しでしょう。また伝道でしょう。心で信じていることを口に出して告白する。隣人に証しする。また教え導く。それを自分の耳で聞いて、自分に言い聞かせるようにして、また心の確信となっていく。そして私たちは救われる、日々ますます救われていく、現在進行形の救いです。それを聖化と言います。時には反対にあったり、大変な時もあるでしょう。「もし私たちが神の子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります」(ロマ817)。練られながら、それを繰り返し、そしてやがて終わりの日には救いが完成されるのです。栄化されるのです。

10章11節 聖書はこう言っています。「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」

 9章33節で引用したイザヤ書28章16節をここで再び引用しています。キリストに、福音に信頼する者は、決して失望させられることはない。救いに関して、がっかりさせられることはない。もう救われるために、神さまに義とされるために、神さまにこの私のすべてを受け入れていただくために、もう色々と慌てふためくことはないのだと。私たちはここに平安をいただきましょう。ホッと息をついて安心して良いのです。そして感謝しましょう。

10章12節 ユダヤ人とギリシヤ人との区別はありません。同じ主が、すべての人の主であり、主を呼び求めるすべての人に対して恵み深くあられるからです。
10章13節 「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」のです。

 イエス・キリストを信じる者はだれも、ユダヤ人とか異邦人の区別なく、同じ主がすべての人の主であるので、神さまはご自分を呼び求める者はだれでも救ってくださいます。解放してくださいます。

 「主の御名を呼び求める」のは、どんな時でしょうか。「神さまー!」と、ただ神さまのお名前しか呼ぶことができないほどに、助けを求める時ではないでしょうか。例えば私は、アブラハムを思い起こします。創世記13章4節でアブラハムは、エジプトから最初に築いた祭壇の場所に戻って来た時に、「主の御名によって祈った」、新しい訳では「主の御名を呼び求めた」と記されています。エジプトに行って、妻のサラを妹だと嘘をついて、窮地に陥って、奇跡的に命が守られ、しかも家畜や財産まで増やされて、最初に築いた祭壇の場所に戻ってきたアブラハム。どんな思いで祈ったのでしょう。自分の失敗、罪深さ、弱さ、恥ずかしさ、そのようなものが信仰の原点に戻ってきた時に一気に押し寄せてきて、もう色々な祈りの言葉など出てこない、「神さまー!」とただ叫び求めるしかなかったのではないかと思うのです。真実な祈りだったのだと思うのです。そのように祈る者を、ご自分を呼び求める者はだれでも、神さまはあわれみによって、今やイエス・キリストを通して、ユダヤ人であれ、異邦人であれ、赦し、受け入れてくださり、救ってくださるのです。聖書は、私たちの信仰の父、父祖とされるアブラハムの時から、信仰による義を語っているのです。

 もう一度、10章4節に戻ります。「キリストが律法を終わらせられたので、信じる人はみな義と認められるのです」。新しい訳では「律法が目指すものはキリストです。それで、義は信じる者すべてに与えられるのです」。

 この「終わらせられた」そして「目指す」と訳されている語ですが、目標とか、完成、成就を意味する言葉です。また興味深いことに、「トールゲート」つまり、高速道路などの有料道路や端の出入口に設けられた道路利用料金の徴収所をも意味しています。イエス様は「わたしが道である。わたしを通ってでなければ、だれも父のみもとに行くことはできない」と言われました。また「わたしは門である」とも言われました。イエス様はご自身が天に続く道となられ、門となられ、そして私たちの通行料をご自身の血の価をもって支払ってくださいました。その門を通った私たちは、さらに天に続く道を走って行きます。その中で色々な経験をすることでしょう。色々な経験をしています。アブラハムのように、たくさん失敗して、たくさん恥をかいて、罪を示されて悲しくなったり、弱さを見せられて絶望したり。それでも私たちは、心で信じたことを口で告白して行く。告白してまた心で信じていく。神さまを信じて、助けを求めて「神さまー!」とただ叫び求める。そしてその信仰によって、神さまは私たちを日々義としてくださるのです。恵みによって、キリストに似た者へと変えていってくださるのです。聖化、現在進行形の救いを毎日経験して、やがて栄化される。救いが完成される。その道を私たちは主とともに歩んで行ける幸いな者とされているのです。それはただ、行いにはよらず、ただイエス・キリスト、神さまが与えてくださって、私たちのごく身近に、口に、心に置かれているみことば、福音を信じる信仰によるのです。「救いを受けよ」と毎日神さまが呼びかけてくださっている。私たちはどこか遠くへ探しに行く必要はないのです。その恵みを素直にありがたく頂戴して、感謝と賛美をもって神さまを喜び、ほめたたえて、私たちの今の救いを心から喜び楽しみ、この先の続く道も主の御名を呼び求めつつ歩んでまいりたいと思います。

 お祈りを致します。
 天の父なる神さま、御名を崇め賛美致します。みことばを感謝致します。あなたが私たちが義とされる、救われるために求めてくださっていることは、本当にシンプルであることを覚えさせられます。そのために必要なもの、福音をも私たちのごく近くに置いてくださっていることをも覚えます。恐れや不安によって近くにある者を見失い、つまずき、右往左往しやすい私たちですが、聖霊様が助けてくださって、神さまの恵みの約束をただ信じ、平安を頂き、安心して、喜びをもってこの先の道を歩んで行くことができますようにお守りください。主の御名を呼び求め、日々救われて行く。その幸いを深く味わうこれからの歩みとなりますように。感謝して主キリスト・イエス様の御名によってお祈り致します。アーメン。

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