2022年1月16日 主日礼拝「私たちを生かす礼拝」

礼拝式順序

礼拝前賛美
報 告

開 祷
讃美歌  7番「主のみいつと」
主の祈り 564番「天にまします」(参照
使徒信条 566番「我は天地の」(参照
讃美歌  332番「主はいのちを」
聖 書  ローマ人への手紙12章1〜2節
説 教  「私たちを生かす礼拝」佐藤伝道師
讃美歌  291番「主にまかせよ」
献 金  547番「いまささぐる」
頌 栄  541番「父、み子、みたまの」
祝 祷

本日の聖書箇所

ローマ人への手紙12章1〜2節

説教題

「私たちを生かす礼拝」

今週の聖句

あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。

ローマ人への手紙12章1b節

訳してみましょう

2162 I am the light of the world. Whoever follows me will never walk in darkness, but will have the light of life.

2163 Thanks You, God, for coming to save me from the darkness of sin and despair. Help me to remain in Your light.

説教「私たちを生かす礼拝」

ローマ人への手紙12章1〜2節

 今日からローマ書は12章へと進んで行きます。先週も申し上げましたが、ローマ書は1章から8章までが罪の悲惨さと、そこからの救いの話し。9章から11章までの神の救いのご計画の話し。そして12章からは実際の生活、実際の生き方について語られます。救いの教理について書かれた部分、自分は何を信じるのかに続いて、そうして救われた自分がどう生きるか、どういう生活をしたら良いかということが書かれています。

 私たちはみことばを学びます。それで神さまの御心に関する知識が増し加えられます。はたしてそれは何のためだと思われますか。みことばをたくさん覚えて、良い言葉をたくさん読んで満足するためでしょうか。コレクター(趣味の収集家)のように優越感に浸るためでしょうか。そうではありません。私たちが主のみことばを学ぶのは、主のみことばに生きるためなのです。日々、主のみことばに従って生きるためなのです。

 私たちは前回までで、実に神さまのあわれみについて教えられたと思います。11章までの間に、はっきりと「あわれみ」と書かれていたところはほとんどなかったかもしれません。けれども、自分がどこから救われたのかを改めて教えられた中で「あわれみ」を覚えることができたのではないでしょうか。神さまに対して、何も良いことをしてこなかった私たち、かえって反抗的であった私たちが、これまでローマ書を通して示されてきた罪の悲惨さの中から信仰によって、恵みによって救われたのは、ただ神さまのあわれみによるものだった、他に理由が見当たらないのではと。

 私は今年も聖書通読をスタートさせたのですが、先日、「あわれみ」というみことばを目にしました。それは創世記19章のところでした。

【創世記】2017
19章15節 夜が明けるころ、御使いたちはロトをせき立てて言った。「さあ立って、あなたの妻と、ここにいる二人の娘を連れて行きなさい。そうでないと、あなたはこの町の咎のために滅ぼし尽くされてしまいます。」
19章16節 彼はためらっていた。するとその人たちは、彼の手と彼の妻の手と、二人の娘の手をつかんだ。これは、彼に対する主のあわれみによることである。その人たちは彼を連れ出し、町の外で一息つかせた。

 主は私たちが世を支配する罪に滅ぼされてしまうことのないように、この世に未練を残しためらっている者たちを何としても救おうとされ、彼らの手をつかんで救い出してくださった。これは主のあわれみによることであると。そして救い出して、町の外で一息つかせたとあります。この「一息つかせた」という語にも驚かされたのです。これは「大きく息をつかせる、深呼吸させる、慰める、励ます」という語なのです。実は同じ語が今日の聖書箇所であるローマ書12章1節にもあるのです。

【ローマ書】
12章1節 そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。

 「神のあわれみ」。そして「あなたがたにお願いします」の「お願いする」という語が、実は同じ「一息つかせた、深呼吸させる、慰める、励ます」という語なのです。

 神さまのあわれみ。これほど私たちを慰め、励ますものはないのではないでしょうか。イエス様は弟子たちに仰いました。「わたしを見た人は、父(神)を見たのです」。そのイエス様は、ご生涯の中であわれみの涙を流されました。私たちの神さまは、人々をあわれんで涙を流してくださる神さまです。失敗した者に、落ち込む者に、悲しむ者に対して真実に泣いてくださる主。それが私たちの神さま、私たちの主です。

 私が学んだ神学校では、併設されているキャバイブルンプ場に常駐で奉仕されている先生が神学生たちの食事の世話や、学院の建物などのメンテナンスをしてくださっていました。その先生は体が大きくて、一見強面な先生なのですが、実は情に厚くてとても涙もろい先生でした。私が卒業式の時に証しをさせられた時、ふと見ると、その先生が皆から離れた一番後ろの方で、目を真っ赤にして、私よりも泣いてくださっていました。それを見て、私ももらい泣きしてしまいました。けれどもその涙は、私に一息つかせ、私を慰め、励ましてくれるものでした。苦しかったけれども、学院で味わった恵みを忘れない、これからも主に従っていこう…。皆さんも嬉しいこと、悲しいこと、辛いことがある時に、自分と同じ心で涙してくれる誰かが目の前にいたらどうでしょうか。誰かの同情とか慈悲の心というものは本当に感謝なことです。神さまのあわれみはそれ以上のものでしょう。

12章1節 そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。

 パウロは神のあわれみによって救われた兄弟たちに、受けた神のあわれみのゆえに、その意味は「あわれみを引き合いに出して」お願いすると言っています。2017では「あなたがたに勧めます」と言っています。先ほども申し上げましたが、パウロの願い、勧めは、私たちにここで一旦落ち着いて深呼吸させるためのものであり、次のステージに向かって行くための慰めであり、励ましです。


 私たちはイエス・キリストの十字架と復活の救いによって救われました。私たちはキリストの救いをただ信じることによって救われたのです。罪人であり、どうやっても罪を完全にぬぐい去ることのできないみじめな人間に対して、神さまがあわれみによって定めてくださり、約束してくださった方法によって。そしてあわれみの結果である恵みによって救われたのです。ですから、救われるためにこれ以上何かをする必要もないのです。それは神さまの恵みを無駄にしてしまうことです。イエス・キリストが私たちの救いのために必要なことは、全部してくださったのです。キリストの救いは完全なものです。人間がそれに加えて、何かをする必要はないのです。パウロは「それはキリストを引き降ろすこと、キリストを死者の中から引き上げること」(ロマ106−7)、イエス様がすでにしてくださった愛、犠牲のみわざを無駄にしてしまうことで、キリストの恵みを無駄にしてしまうことになってしまうと言いました。信仰を持っている者らしい生活をするとか、誰が見ても感心するような生活が必要なわけではありません。私はどうも信仰者らしい生活ができないというようなことを仰る方がいますが、それはパウロも実は同じです。しかし、それで「私はまだ救われていないような気がする」ということになると、それは救いのことがよく分かっていないと言わなければなりません。私たちは確かに神さまのあわれみによって、恵みによって、信仰によって救われているのです。しかし、私たちが神さまのあわれみによって、キリストによって救われたからには、自分の生き方が変わることも間違いないことでしょう。今までは自分のことしか考えないで生きていた者が、神さまの大きなあわれみを知り、キリストを信じるようになったら、今度はキリスト中心に、神さま中心に生きるようになることは自然なことでしょう。それができなければ救いが無効になってしまうというのではありません。救いはどこまでもキリストによるのです。しかし、キリストによって、新しく生きる方向に向かっていくことは、確かなことなのです。私たちはこうして礼拝に集っているではありませんか。大切な時間、それはつまり私たちのいのちです。神さまに自分の時間をささげ、それはつまり、いのちをささげているではありませんか。みことばを慕い求め、みことばに従って生きて行こうとしているではないですか。これこそ新しく生きる方向、新しく生きようとする方向に向かっていることに間違いはないのです。

 しかしここで深呼吸したいと思います。新しい方向は誰に向かっているのか。神さまか、相変わらず自分自身か。神さまを喜ぶことに向かっているのか、自分自身を喜ばすことに向かっているのか。

 パウロは神のあわれみによって、神さまのあわれみを引き合いに出して私たちに勧めます。慰め、励まします。あなたがたは神の恵みによって救われたのだから、自分の力ではなく、神の恵みによって生きるようになりなさいと、そう慰め励ますのです。誰よりもパウロ自身がそのことの必要性、重要性を知っているからでしょう。神さまの恵みに応えて生きたいのに生きられない。罪が染みついている。罪人のかしら。自分は本当にみじめな人間だと。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのか。「私たちの主イエス・キリストを通して、神に感謝します」(ロマ725)。7章の終わりでパウロはここで主に礼拝をしています。そして先へと進んでいきました。

 ところで、旧約聖書で一番最初に「礼拝」という語が出てくるのはどこだかご存知でしょうか。これも聖書通読の中で出会ったのですが、最初に「礼拝」が出てくるのは創世記22章5節です。

【創世記】
22章5節 それでアブラハムは若い者たちに、「あなたがたは、ろばといっしょに、ここに残っていなさい。私と子どもとはあそこに行き、礼拝をして、あなたがたのところに戻って来る」と言った。

 皆さん良くご存知かと思いますが、ここはアブラハムが神さまによって「ひとり子イサクを全焼のいけにえとしてささげなさい」という試練が与えられたところです。アブラハムは神さまに従って出て行きました。全焼のいけにえとされる息子イサクにたきぎを背負わせて、火と刀とを持ち、進んで行ったのです。歩き続けたとあります。途中イサクとの会話があり、自分の心との対話もあったことでしょう。道の途中、すでに礼拝の中にあったのです。ふたりは神さまに告げられた場所に着き、祭壇を築き、たきぎを並べ、イサクを縛り、祭壇の上のたきぎの上に置きました。アブラハムが手を伸ばして刀でイサクをほふろうとしたとき、主の使いが止めました。御使いは言いました。「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた」。そして主が備えてくださった雄羊をイサクの代わりに全焼のいけにえとして献げたのでした。このことを聖書は一番最初に「礼拝」と言っています。さらに、チェーン式には「礼拝」の解説が載っていて、そこにはこうあります。「自分の思いを捨てて、神のみこころに従うことが礼拝」だ。本来の「礼拝」の意味は、自分の意志を神にゆだねることを意味する。イエス様がもだえ苦しみ、ついに「私の願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください」(マタ2639)」と祈られましたが、それがまさに礼拝なのではないでしょうか。

 イサクはアブラハムが100歳になってようやく与えられた子どもでした。目の中に入れても痛くないくらい、可愛くて可愛くてしようがなかったのではないかと思います。神さまの約束によって、恵みによっていただいた祝福の実でした。それをいつまでも自分だけのものにしておきたい。握りしめて離そうとしない。離すことができない。主はそれをお許しになりませんでした。良しとされなかったのです。

 自分だけのものにしておきたい。自分の思い通りにしたい。それは「私物化」です。何かが私物化されるとき、どうなるでしょう。それは腐敗し、死んでいくのです。

 ある先生に教えられました。「あなたはいつでも教会を手放すことができるようにしておきなさい。教会はあなたのものではないのだから。では誰のものか。信徒のものか。そうではない。キリストの教会だ。だから何一つ握りしめてはならない」。そう教えられました。教会が誰かの私物化とされる時、教会は腐敗します。死んでいきます。神さまのみことばに対してもそうです。みことばを私物化して、自分の思い通りに、勝手に受け取ってしまうならば、私たちにいのちを吹き込むはずのみことばが死んでしまいます。家族を私物化するという場合もあります。親を、子どもを私物化して、相手の人生を自分の都合良くコントロールしたいと思う。自分が世話をしてきたのだから当然と思う。果たしてその家族は、親、子どもは活き活きと生きていけるでしょうか。何よりも私たちは、自分の人生を自分の思い通りに私物化しようとするのです。自分の人生だから当然だと思うでしょう。しかし、自分はこうあるべきと縛り上げてしまったら。あるいは逆に、ここまではやって良いだろうと自分に甘くするならば。その人は活き活きと生きているのでしょうか。その人の人生は本当に生きているのでしょうか。

 キリストに救われたら、その人はどうなるのか。先ほど、自分のことばかり考えていたものがキリスト中心になる、神を中心とする生活になると申し上げました。神のあわれみによって、キリストの恵みによって救われた者は、自分を自分の神のようにした生活から、神さまを崇め、神さまに仕える生活、神さまを尊び、神を神とする生活となるのです。つまり日々神さまを礼拝する、礼拝し続ける生活になるのです。

12章1節 そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。

 パウロは神さまのあわれみを引き合いに出し、あわれみによって救われた私たちに深呼吸させ、慰め、励まし、勧めます。「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい」。

 私たちの礼拝、神を崇め、神に仕える礼拝。神を尊び、神を神とする礼拝。それは今日の日曜日の礼拝はもちろんのこと、毎日のことです。日々の私たちの生活が、神の国を目指し歩く道すべてが神さまへの礼拝なのです。そして礼拝とは、自分自身を献げること。「自分の思いを捨てて、神のみこころに従うこと」。自分自身を私物化せず、体も心も、持っているものすべてを手放して神さまに献げる、委ねることです。そして神さまのみこころ通りに生かしていただく。神さまのみこころ通りに生きることが、真に私たちを活き活きと生かすものになるからです。さらに活き活きと生きる私たち、死んでいない、活きの良い私たちという供え物を神さまは受け入れてくださり、ますます喜んでくださるのです。皆さんは、皆さんを愛し、あわれんでくださる神さまに喜んでいだたきたくないですか?

 聖い供え物とは何でしょうか。聖いとは、ただ汚れていないということではありません。「聖い」の本来の意味は、「神さまのために取り分けられたもの」という意味です。神さまに全く献げきったものということです。神さまのものになりきったということです。私たちはしばしば、自分でこれくらいでいいだろうと思う供え物をするのです。しかし神さまに喜んでいただけなければ、何の役にも立ちません。神さまは恵みによって罪を赦された人が、自らすすんで感謝をもってする「全き供え物」を喜ばれ、受け入れてくださるのです。

 パウロは言います。「それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です」と。霊的なとは、何か神秘的なということではありません。神秘的とは真逆のものです。実生活に生きる実際的なものです。2017では「あなたがたにふさわしい礼拝」と訳されています。どういう意味でしょうか。それは、文字通りではない、形式だけのものではない、霊と真をもっての礼拝、私たちの真実な礼拝であるということです。神さまのあわれみによって、キリストの恵みによって救われた者は、このようにして神さまに喜ばれる、自分の生活をするのです。礼拝の日々を送るのです。そしてますます生かされていき、活きの良い人生を歩み、その道は確実に神の国へと向かっていくのです。神の国で、完全に神さまによって喜び受け入れられるのです。

12章2節 この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。

 「この世」とは「この時代」という意味です。この世、この時代は明らかにやがて訪れる次の世、時代に対するものです。やがて訪れる次の世、時代こそ、完成された神の国です。神の国とは真逆の今の世、この世と調子を合わせてはいけません。原文では受動態になっており、この世に調子を合わせられてはいけませんということです。この世は自分自身を神とする世、世を私物化しようとする時代、サタンが支配する時代です。誰かが生きるために誰かが死に、誰かが笑うために誰かが泣かされる時代です。罪の束縛から、死から、悲しみや苦しみの中から神さまのあわれみによって手を掴まれ、救い出された私たちは、その時代の影響を受けて同化してはならない。むしろ、神さまのみこころを尋ね求め、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさいと、私たちを慰め励ましています。「変えなさい」というところも、原文では受動態で「変えられなさい」となっています。何によって変えられるのでしょうか。心の一新によってです。それは救われた者に注がれる聖霊によってのみ可能なのです。

 詩篇ではこのように祈られています。「神よ、私にきよい心を造り、揺るがない霊を、私のうちに(日々)新しくして(し続けて)ください。あなたの聖なる御霊を私から取り去らないでください。あなたの救いの喜びを私に戻し、仕えることを喜ぶ霊で、私を支えて(支え続けて)ください」(詩5110−12)。私たちもこの祈りを真実な祈り、私たちの願いとしたいと思います。

 私たちは主に感謝をもって、あわれみによって救っていただいた私たちのすべて、体、心、持っているものすべてを、すすんで、喜んでお献げし、お委ねし、自分の欲望ではなく、聖なる思いを、聖霊をいっぱいに満たしてくださるよう願い求めたいと思います。聖霊によって日々新しく生きる者へと変えられ続け、日々神を崇め、神に喜んで仕え礼拝すること、自分自身をささげることを喜ぶ者としていただきたいと思います。私たちを真に生かす神さまのみこころ、みこころを示すみことばを慕い求め、聖霊によってみことばに教えられ、聖霊によって神さまのみこころは何か、何が良いことで、神さまに喜ばれ、完全であるのかを教えていただき、聖霊によってみことばに生きる者とされてまいりましょう。神の国に至り完全に神さまに喜び受け入れていただく時まで、日々、主を礼拝し続け、私たちのからだを神さまにささげ続けて、ますます神さまによって愛されて、守られて、導かれて、私たちのからだをますます神さまに喜んで受け入れていただける活きの良い生きた供え物とされ続けてまいりたいと願います。

長野聖書教会の話題やお知らせをお届けします。

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