2022年1月30日 主日礼拝「偽りのない愛で」

礼拝式順序

礼拝前賛美
報 告

開 祷
讃美歌  545番「父の御神に」
主の祈り 564番「天にまします」(参照
使徒信条 566番「我は天地の」(参照
讃美歌  187番「主よいのちのことばを」
聖 書  ローマ人への手紙12章9〜13節
説 教  「偽りのない愛で」佐藤伝道師
讃美歌  321番「わが主イエスよ」
献 金  547番「いまささぐる」
頌 栄  541番「父、み子、みたまの」
祝 祷

本日の聖書箇所

ローマ人への手紙12章9〜13節

説教題

「偽りのない愛で」

今週の聖句

愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善に親しみなさい。

ローマ人への手紙12章9節

説教「偽りのない愛で」

ローマ人への手紙12章9〜13節

 今、牧師館の目の前のお宅が家を建て直しているのですが、先日の朝、親子ほど年の離れた工事の人が来られて作業を始めました。私は「寒いのに大変だなぁ」と思いながらも、また今日もうるさくなるのかなとも思いました。しばらくするともの凄く大きな怒鳴り声が聞こえて来ました。「何やってるんだ!おまえ馬鹿か!」。嫌だなと思いながら気になって見ると、60代くらいの作業員を、30代くらいの作業員が怒鳴りつけていました。しかし良く見ると、怒鳴った人は怒鳴られた人のことを心配していたのです。危険から守ろうとしていました。もしかしたら本当の親子で、親子ゆえの遠慮ない言葉だったのかもしれません。寒いのに大変と気遣いながらも、今日もうるさくなるのかと考えていた私。一方、馬鹿野郎と怒鳴りながらも実は相手を危険から守ろうとしたあの方。どちらが本当の愛を持っているのでしょうか。

 自分の子どもが明らかに危険にさらされている時、親はどうやってでも助けようとするでしょう。危険を回避させようと必死になるでしょう。車通りの激しい大通りに向かってよちよち歩いて行く我が子を、目を細めて優しく見守るだけの親などいません。危ないから駄目だと怒って必死に力づくで止めようとする親、ただ優しく見守る親。どちらが本当の愛でしょうか。

 本朝与えられておりますみことばは、ローマ人への手紙12章9節からですが、ここからは恵みの賜物を与えられて奉仕するキリスト者の姿が描かれています。そして全体のテーマは「愛」と言えないことはないですが、しかしそれは私たちが思い描くような、何でも包み込んでしまう愛ではないことは明らかです。冒頭の9節で言われている通り、「悪を憎み、善に親しむ」という一定の方向性、目的を持つ愛なのです。

12章9節 愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善に親しみなさい。

 「愛には偽りがあってはなりません」と命令されています。偽りとは何でしょうか。イエス様がいつも責めておられる「偽善」です。それは演技をするという意味を持つ語です。演技の愛。内と外が異なること、心の中にある本当の考えと外に出る言動が異なることを偽善的と言うのです。心では愛していないのに、言葉や行いだけで愛するふりをすること。結局は自分のためなのに、相手の為に愛しているようなふりをすること。それは偽善、偽りの愛です。自分のためではなく、自分が光を浴びる主役ではなく、ひたすらに相手を心の底から嘘なく愛し、その真実な愛でいっぱいの心の底から自然に、矛盾なく、無理なく出てくる言葉、演技ではない行いが出てくるならば、それが本物の愛と言えるものでしょう。しかもそれはひたすらに「与える」愛です。心も言葉も、行いをも与える愛です。

 それはキリストの内に見られる愛ではないでしょうか。神の愛でしょう。ただ恵みによって、神さまには何か理由があって、それでどこまでもこの私に注がれるあわれみ、真実の愛、ご自分を犠牲にしてまでもこのような私を愛し、そして愛し抜く愛。そのような愛によって、同じ愛をもって「悪を憎み、善に親しみなさい」と言われます。どういう意味なのでしょうか。

 それは、もし誰かが、善を憎み、悪に親しみ近づいて行くようであるならば、偽りのない愛をもって正してあげるように。「悪を憎み、善に近づく」ように、偽りのない愛をもって導きなさいということです。悪に向かい、その先は滅びである方向に歩き出す誰かに対して、私たちはお互いに無関心であってはならないのです。

 冒頭でも申し上げましたが、9節の愛は何でも包み込んでしまう感情ではありません。「悪を憎み、善に親しむ」という一定の方向性を持つ愛なのです。しかもそれは曖昧な中立な立場ではなく、「主の側に立つ」という姿勢を明確にしなければならないのです。

 憎むという語は、ただ嫌って憎む程度ではなく、強く憎悪して嫌うことを指します。忌み嫌うこと。断固として拒否すること。自主的に悪を図ったり、積極的に悪に参加することは言うまでもなく、消極的に、なんとなく悪に同調したり、まわりに流されてやむなく共犯者となることも駄目なのです。例えば悪口とか、心で誰かを妬むとか、これくらいは良いかとか、どんな些細な悪であっても、そのことにあやふやな態度を取っていると、知らないうちにその悪に染まってしまうのです。そして行き着く先は罪、神に背を向け出て行かせ、神との関係を破壊して滅びへと向かわせる。サタンの巧妙なやり口です。そのためにパウロは「悪を憎み」と言うのです。そして「善に親しみなさい」「(2017)善から離れないようにしなさい」と言います。「親しむ、離れない」という語は、実は【接着剤】という意味です。そこから団結するとか、ぴったりくっついて固定するという意味にもなりました。私たちが悪とぴったりくっついてしまう危険から離れさせるもの、私たちを善、良いこと、よいものにくっつけて離れさせない接着剤とは何でしょうか。自分の意志でしょうか。いいえ、パウロは、それは「偽りのない愛だ」と言うのです。本当に心の底から、真実に、嘘偽りなく相手のことを考えて、そして愛する愛のみができること。そしてその愛は、兄弟愛だと言っています。

12章10節 兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。

 兄弟愛。ここはギリシア語の「フィラデルフィア」が用いられています。これはもともと、肉親(血の繋がりのある親子や兄弟など)の愛情を表す言葉です。パウロはそれをキリスト者相互の愛とするようにと強く言います。キリスト者相互の愛が、実の家族の間の愛にまで高められる時に、教会の交わりは生きて生かされてくるのです。冒頭の親子の愛のように、何でも受け入れる感情ではなく、優しく見守るだけのものではなく、絶対に危険とか悪、滅びから守ろうとする必死の愛。その愛をもって互いに愛し合うことをパウロは命じています。そして「愛し合う」という語はデボーションの「デボート」で、これは【献身する、献げる、専念する、費やす】という意味です。兄弟姉妹が互いに肉親の愛情をもって献身する、専念する、お互いに自分自身を相手に費やす。与え、与えてもらう。それが愛し合うの意味です。まさに偽りのない、理想的な家族の間の愛の内に見られる愛の形ではないでしょうか。

 それに加えて「尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい」。2017では「互いに相手をすぐれた者として尊敬し合いなさい」と訳されていますが、ここを直訳するとこうなります。「尊敬においては、互いに先に立ちなさい」。新改訳の欄外には別訳として「競い合って尊敬しなさい」とあり、なるほどと思わされます。もう競い合うようにして尊敬し合う。その「尊敬」という言葉を私たちは良く口にしますが、その意味は、【相手を貴いもの・価値があるものとして重んじる】というものです。神が「あなたは高価で尊い」と私たち一人ひとりに対して仰ってくださっているように。そして【相手を尊ぶ気持ちを実際に態度で示す】。このふたつをもって「尊敬する」と言うのです。ここにも心と行いの一致が見られます。尊敬することにおいても偽りがあってはならないのです。兄弟姉妹が競い合って尊敬し合う。相手を価値があるものとして重んじて尊び、尊ぶ気持ちを実際の態度として示して行く。神が高価で尊いと言われるいのちを尊び重んじ、そのいのちが滅びることのないようにと真に願う気持ちを態度に示し、そして行動で示しなさい。パウロの命令です。

12章11節 勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。

 ここでは実際に自分の手足を動かして、心に燃えるものを持ち、そして何事においても、すべては主のための奉仕としてなすようにという、キリスト者の積極的な生き方が勧められています。【勤勉で】、急いで、真面目に、本気で、本腰を入れて。【怠らずに】、遅れることなく、弱気になったり臆病になったり、煩わしく思うことなく。【主に仕えなさい】すべては主のための奉仕としてなすように。ここでの仕えるは、奴隷が主人に仕えるという意味の語が用いられています。パウロは言います。私たちは主の奴隷、主に真心をもって仕える奴隷ですと。幸いな奴隷ですと。かつて私たちは罪の奴隷でした。パウロはこのことについて同じローマ書の少し前で何と言っていたでしょうか。

【ローマ人への手紙】
6章17節 感謝すべきことには、あなたがたは、もとは罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの規準(福音)に心から服従し、
6章18節 罪から解放されて、義の奴隷となったのです。
6章20節 罪の奴隷であった時は、あなたがたは義については、自由にふるまっていました。
6章21節 その当時、今ではあなたがたが恥じているそのようなものから、何か良い実を得たでしょうか。それらのものの行き着く所は死です。
6章22節 しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実(御霊の実:愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制)を得たのです。その行き着く所は永遠のいのちです。
6章23節 罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。

 イエス・キリストを信じて救われた私たちは幸いな神の奴隷、義の奴隷であり、恵みによって永遠のいのちが与えられています。その証印として聖霊が注がれています。

 「勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい」。私自身を見ると、人間の勤勉さ、熱心さ、主に仕えようという決心というものは、いかに冷めやすいものかと思わされます。奴隷といえども次第に高ぶってくるものです。主人が優しければなおさらでしょう。しかし真実の愛から生まれた熱心、神の真実の愛を知り、体験し、そこから湧き出るようにして感謝とともに生まれる熱心、また聖霊によって燃やされ熱せられた心というのは、冷めることも、高慢になることも知らないのです。そして不思議と、神さまの愛と救いを経験した人は、仕えることが喜びになるのです。奉仕が義務ではなく、喜びになります。本当に不思議なことですが、これは救われた者の祝福の一つだと思います。

12章12節 望みを抱いて喜び、患難に耐え、絶えず祈りに励みなさい。

 聖書はパウロの口を通して何度も言うのです。同じローマ書の5章でも同じようなことを言っています。

5章1節 ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。
5章2節 またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで多いに喜んでいます。
5章3節 そればかりでなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、
5章4節 忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。
5章5節 この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。

 私たちは自分の力ではなく聖霊の力によって、いつも神の愛の上に立って、恵みの上に立って、聖霊によって「いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことについて感謝」(Ⅰテサ516−18)できるのです。そして神の愛、恵みに満たされて、聖霊に満たされてようやく、兄弟愛をもって互いに愛し合い、競い合って尊敬し合い、勤勉に、怠らず、自分の手足を動かして、心に燃えるものを持ち、何事においても、すべては主のための奉仕として喜んでなしていくことができるのです。そして主を愛し、主のために仕える。それは兄弟姉妹を愛することによって現れてくるものです。

【ヨハネの手紙第一】
4章20節 神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。

 本当に神を愛すると言う人は兄弟を愛するものなのです。その人の愛は本物なのです。目に見える兄弟を偽りなく愛するなら、目に見えない神をも偽りなく愛していることが分かるのです。そしてその人の主を愛し、主のために仕える奉仕は本物となるのです。

12章13節 聖徒の入用に協力し、旅人をもてなしなさい。

 「協力し」は、もともとは霊的な交わりを意味することばですが、ここでは物質的援助を表すためにも使われています。また、貢献する、共有するという意味もあります。使徒の働き2章にある初代教会の【すべてを共有していた】という姿です。霊的にも、物質的にも。そして彼らは義務ではなく喜んでしていたのでしょう。お互いに仕え合い、協力しあうことを、主のための奉仕として喜びをもってしていたのでしょう。その姿は教会の外の人には不思議と思われたかもしれません。しかしこれもまた不思議なことに、教会の外の民全体から好意を持たれて、主は毎日、救われる人々を加えて一つにしてくださったのです(使244−47)。ある夫婦を除いて。この夫婦の原因と結末については、使徒の働き5章を見ると書いてあります。教会はもっと二人に関心を寄せて、もっと早く気づいてあげて、早い段階で愛の警告をしてあげられなかったのだろうかと思います。それは私たち教会への警告であるかもしれません。

 話しは飛びましたが、聖徒の入り用について少し触れると、とりわけ、ローマの教会の貧しい聖徒たち、やもめや孤児などの生活の貧困者のこと、また信仰のゆえに囚人となっている者たちの必要を満たすことを言っているのでしょう。必要は、一次的には衣食住に関することと考えられますが、あらゆる貧しさは試みと罪の入り口、その最終的な出口は滅びなのではないでしょうか。霊的・物質的な貧しさを軽く見て、無関心でいてはならないのです。

 旅人をもてなすこと。これは当時の交通機関があまり発達しておらず、旅行にはいつも大きな危険と不安がつきまとっていました。それだけに旅人を親切にもてなすことは、愛の表れでもあったのです。特に巡回伝道者や旅行中の同信の友をもてなすことは、キリスト者としての特権であり、喜びであり、祝福でした。また、ローマの宿屋はいかがわしいものだったそうです。ですからキリスト者の旅人を自宅に迎えることは、世の誘惑から遠ざけるために、罪に近づけさせないためには実際上必要なことだったのです。私たちの教会は出張や転勤や大学に通う同信の友が集いやすい教会ではないでしょうか。その人たちを放っておくことなく、悪から離れ善に親しむようにするために、何かすべきことがあるのかもしれません。責任を持って関心を示さなければならないのかもしれません。「旅人をもてなし」とありますが、原語では特に旅人とは限定していません。実際は「見知らぬ人(だから旅人と?)への愛、おもてなしを追求しなさい」と言われているのです。見知らぬ人への愛、おもてなしを追い求めなさい。お節介すぎるでしょうか。そうかもしれません。しかし愛の反対は無関心です。私たちは無関心であってはならないのです。私たちはそれくらいお互いに強い関心を持っていなければならないということでしょう。けれども、愛のない奉仕は「騒がしいどらや、うるさいシンバルと同じ」なのだということも、私たちはみことばから聞いています(Ⅰコリ131)。たとえ預言や勧めはじめ色々な賜物を持ち、たとえ山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、真の愛がないなら無に等しいと主は言われています(Ⅰコリ132)。

 今日のみことばはここまでとなりますが、「悪を憎み、善に親しむ」という一定の方向性を持つ愛。偽りのない完全な愛。肉親、兄弟愛。その愛をもって尊敬し合うこと。相手のいのちを重んじ、決して滅びることを願わずに、関心をもって、心も態度も行動も一致して示して、そしてすべては主のための奉仕としてなしていく。

 ここで皆さんに質問します。皆さんのうちに、完全な愛があるという方がおられるならば手を上げてください。

 私たちにはもともと完全な愛などありません。どうしたら良いのでしょうか。けれども聖霊を通してすでに愛は注がれています。そして愛の源である神が、私たちが求めるならば、私たちに完全な愛を増し加えてくださいます。愛でいっぱいに満たし、愛以外の言葉や態度、行動が出てこないようにしてくださる。どのようにしてでしょうか。すでに聖霊を通して私たちに注がれている神の愛にもっと関心をもって、神の愛を求め、ますます知らされ、それを心から、霊、魂から聖霊によって信じさせていただくことによってです。聖霊によって変えていただくことによってです。

 みことばは私たちのすぐ近くにあるのです。あとは私たちがそのみことばを求めて、見つめて、信じて生きるだけです。いつも神のみことば、キリストの御姿から、自分は愛されているのだということ、神が今の私を愛していることを知り、そして信じるのです。聖霊によって信じる力もいただくのです。生きづらい状況にあったとしても、神が私を愛し続けているのですから、その愛において希望を持つのです。私たちの生きる力である希望、私たちが嘘偽りなく兄弟姉妹を愛し抜くことができる力、希望。それは私は神に愛されているということです。神は今のこの私をあわれんでくださり、愛し続けてくださっているということです。それが力、希望となります。みことばからいただくのです。

 今朝のみことばは、まさにイエス・キリストの御姿ではないでしょうか。主は私を決して見捨てることはされない。忍耐強く、日々みことばを聞かせようとしてくださっている。私が今の状態になるまで、主は何回私に語りかけてくださったでしょうか。イエス様は何回も私を訪ねてくださり、何回もみことばをくださいました。また将来の状態になるまで、どれだけ毎日毎日、何回も何回も、主はあわれみをもってやさしく語りかけてくださるだろうかと思わされます。そしてなんと忍耐強く大きな愛なのだろうかと気づかされるのです。それを私たちが分かってはじめて、私たちも忍耐強く、何回も何回も、神が愛され、主イエス・キリストがそのいのちをもって贖ってくださった尊く高価な兄弟姉妹を偽りなく愛することができるのではないでしょうか。兄弟姉妹が悪を憎み、善からはなれないように、また、神が愛される兄弟姉妹が、何か霊的、物質的な不足から悪い道、滅びへと進むことのないように、兄弟愛をもって互いに愛し合い、キリスト者相互の愛を肉親の愛に、家族的な偽りのない真実の愛にまで引き上げて、すべてを受け入れやさしく見守るだけの愛ではなく、真実の愛をもって、互いに思いと言葉と態度、実際の行いをもって愛し合い、協力し合っていけるのではないでしょうか。そのために、もともとは私の内に愛を持たない私自身がみことばに聞き、聖霊を通して私自身に対する神の愛をたくさん知り、経験させていただくことが必要です。その愛をもってすすんで喜んで真に互いに愛し合い、協力し合い、真に生きた交わりとなって、真に生きた教会となって成長し、神が喜ばれる実を結んで行きたいと、私たちは偽りのない愛と喜びをもって、神に祈り求めて行こうではありませんか。

 次回からローマ書は、教会内の愛から次のステージへ、教会外の隣人に対する愛へと進んでまいります。

長野聖書教会の話題やお知らせをお届けします。

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