2022年6月26日 主日礼拝「荒野で叫ぶ者の声」

礼拝式順序

礼拝前賛美
報 告

開 祷
讃美歌  1番「神のちからを」
主の祈り 564番「天にまします」(参照
使徒信条 566番「我は天地の」(参照
讃美歌  249番「われつみびとの」
聖 書  マタイの福音書3章1〜10節
説 教  「荒野で叫ぶ者の声」佐藤伝道師
讃美歌  524番「イエス君」
献 金  547番「いまささぐる」
頌 栄  541番「父、み子、みたまの」
祝 祷

本日の聖書箇所

マタイの福音書3章1〜10節

説教題

「荒野で叫ぶ者の声」

今週の聖句

「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」

マタイの福音書3章2節

今週の祈り

だれに対しても、何の借りもあってはいけません。ただし、互いに愛し合うことは別です。
(ローマ13:8)

主よ、私の周りの人のニーズに目を開かせてください。愛のある友になれるよう助けてください。

説教「荒野で叫ぶ者の声」

アウトライン

はじめに)

  • 好きな福音書は何ですか?
  • マタイの福音書は「おもしろくない本」、福音もまた“おもしろくないもの”
  • 「すでに」と「いまだ」の間にいる私たちに福音を語る聖書

1)荒野で叫ぶ者の声…バプテスマの(洗礼を授ける者)ヨハネ

  • 神が与えられたヨハネの使命「前ぶれ(前もって知らせる)」
  • マラキ書の預言「見よ。わたし(神)は、主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる」(マラ45−6
  • 「主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ」とは?

2)まるで“エリヤ”

  • 自分の使命を自覚するヨハネがしたこと
  • 「イエス・キリストを着なさい」(ロマ1314

3)2種類の反応

  • 水のバプテスマを受けることは、「迫り来る怒りを逃れる」“備え”
  • 悔い改める人とパリサイ人、サドカイ人
  • 悔い改めによって結ぶ実

まとめ)

  • 福音の二面性。すべての人間の前に置かれる全く対照的な2つの道、そのどちらかを選ばなければならない。今は決断の時
  • 荒野で叫ぶ者の声が教えること
  • その声はなかなか素直に受け入れられるものではない。私たちを愉快にするものではないから。しかし福音の初めであることを覚えたい。その先に本当の幸い、本当の喜びと楽しみがある
  • 神の愛とあわれみゆえの“前ぶれ”を聞こう。そして御霊によって聞き従い、備えをしていこう
  • 悔いた心、砕かれた魂(詩5117)の道を通って主のみもとへ

 「四福音書」と呼ばれている通り、聖書には4つの福音書、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの福音書がありますが、皆さんはどの福音書が一番お好きですか? 実はこの質問、私が神学校に入学して間もなくの頃にされた質問でした。私と時を同じくして入学された方が4人おられたのですが、私以外皆さん若くて柔軟で、牧師の子ども、また教会学校で子どもの頃からしっかり聖書に親しんで来た方々ばかりでしたので、すんなりと「これが好き」と答えておられました。私など、福音書を好き嫌いで読んだことがなく(それほど親しんでいなかったということですが)、「これが好き」と答えられませんでした。19歳の兄弟は「マルコの福音書が好きだ」と。すると先生は「マルコの福音書はリズム感があって、次から次へと数々の出来事を割と速いペースで語られているから、ギタリストである○○さんにはぴったりですね」と。ある姉妹は「ルカの福音書です」と。すると先生は「ルカの福音書には人間に対する関心や同情心が見られて、最も親しみを覚えられますよね。人が大好きな○○さんにはぴったりだと思います」と。もう一人の姉妹は「ヨハネの福音書です」と。すると先生は「ヨハネの福音書は、イエス様についての真理を単純なことばで明確に表現していながら、とても深みがありますから、文学が大好きな○○さんには合っているのでしょうね」と。私と言えば、しょうがなく残ったマタイの福音書だと答えたのですが、正直、特に理由は見当たりませんでした。ところが皆さん口を揃えて「ぽい」と言うのです。「そうですか?」などと言って笑って済まそうとしたのですが、また先生の解説が入りました。「マタイの福音書は、知らない名前が並ぶとっつきにくい系図で始まり、律法と伝承の問題、ユダヤ人の聖書、すなわち旧約聖書の預言の成就、イエス様と当時のユダヤ人指導者との確執について、長々と取り扱っていますね。マタイの福音書は何となく、現代の文化や文学的な好みからかけ離れているように思われて、ある有名な神学者曰く、マタイの福音書はいわゆる“おもしろくない本”なのだそうです。佐藤さんがそうだという訳ではないですよ」。おもしろくない。それは生真面目、融通のきかないほどにまじめとでも言うのでしょうか。私が生真面目かどうかは分かりませんが、ただ若い同級生から見たら、彼らの親は私とほとんど同世代でしたし、古くささを感じるのは仕方ないことかと思います。マタイの福音書にはそのような古くささというか、重たさというか、親が子に対してつい口調が厳しくなる、そんな雰囲気を感じさせる何かがあるのかもしれません。ところで、新約聖書には「神の国」という言葉が多く登場しますが、マタイは「天の御国」と言います。「神」などと口にするのも恐れ多いと、マタイは神の国とは言えずに天の御国と言うのです。ここにも著者の神に対する生真面目さというか、神の事柄に関しては融通がきかない、そんな性格が良く表れていると思います。しかし考えてみると、それは真に救われた者の姿、救われた恵みに感謝をもって応えて生きる一つの見倣うべき姿勢ではないかと思うのです。

 マタイの福音書は伝統的にイエス様の十二弟子の一人、元取税人のマタイが記したとされていますが、そうであるならば、人々から嫌われ、のけ者にされ、しかしそのようにしか生きられなかったマタイが、イエス様に招かれ、救われ、生き方が180度変えられた。その劇的な幸いな経験をしたマタイが、自分にとって神は恵みと憐れみ深いお方でとても恐れ多いお方。また悔い改めて救われることは、自分のいのちをかけても良いほどに価値あるものであるのだと、真面目で愚直に、常に旧約聖書に言及して、気迫を込めて、命をかけて証言しているものなのかもしれません。前回パウロが、福音と神の国、イエス・キリストに対してはいつも敏感で、そのためにはいのちをかけなければならないのだとローマ人への手紙の最後で気迫のこもった奨励をしましたが、マタイも同じ熱量をもってこの福音書を記したのではないかと思うのです。ですから、所々、良く見ると私たちに恐ろしさを感じさせるほどに迫ってくるところがあると思います。私たちを愉快に楽しませる書物ではないのです。現代の文化や好みからかけ離れている。それで「おもしろくない本」なのでしょう。

 福音とは本来そのようなものなのかもしれません。私たちはこの福音、良い知らせと言われるものによって救われました。どのように救われたのでしょうか。これは私の恩師が言われていたことですが、「私は今まで、福音を聞いて自分が大好きなままで救われたと言われる“本物のクリスチャン”に出会ったことはありません。福音を聞いて自分がますます大好きになって救われた方にお目にかかったことはありません」。なるほど、その通りだと思います。皆さん、自分が嫌いになって救われたのです。パウロもそうだったではないですか。「こんなみじめな私」と。「私は本当にみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。…私たちの主イエス・キリストを通して、神に感謝します」(ロマ724−25)。パウロはパッと神の方向に方向転換したのです。それが悔い改めということです。福音、良い知らせとは、聞く者を愉快にさせるものではないのです。福音、良い知らせを聞いて結ぶ実というのは、悔い改めの実なのです。神への方向転換。そのようなことを言うと、しかめっ面をした融通のきかないマタイっぽい(私の想像ですが)と言われてしまいそうですが、私たちはこれから、私たちを決して愉快な気持ちにさせるのではない「おもしろくない本」、マタイの福音書を通して神の御声、福音に聞いてまいりたいと思います。

 そして、マタイの福音書を(と言いますか、聖書全体に対して言えることですが)読み進めて行く上でもう一つ覚えておきたい大切ところは、私たちは今、どこにいるのかということです。私たちは「すでに」と「いまだ(これから)」の間にいるということです。私たちはすでに救われました。そしていまだ救われておらず、やがてこれから完全に救われるのです。神の国、天の御国はイエス・キリストがこの世に来られ、また聖霊が降られたことによってすでに到来しました。一方で、神の国、天の御国はいまだ完成しておらず、イエス様が再臨なさる時に完成に至るのです。また聖書が言う「神の国」というのは、神が完全にご支配なさるところです。神が王として治められる所という意味です。イエス・キリストは旧約で約束されたまことの王、権威あるお方としてこの世に来られました。そしてやがて、まことの王として、権威ある王としてこの世に来られます。これこそマタイがこの福音書で語っていることです。今は終わりの時。一方で、「夜は深まり、昼は近づいて来ました」(ロマ1312)とパウロが言っていた通り、終わりの日はいまだ来ておらず、未来の出来事として語られます。「すでに」と「いまだ」の間に私たちはおり、その私たちにマタイの福音書は愚直に、真面目に、気迫を持って私たちを救うイエス・キリストの語られる“福音”の素晴らしさを語るのだということを、今一度覚えておきたいと思います。

 ということで、前置きが長くなりましたが、本朝からマタイの福音書を見てまいりますが、1〜2章はクリスマスに譲ることにして、3章から見てまいりましょう。3章1節では「そのころ」とありますが、2章にある出来事から一気に28年ないし30年が経過した頃、権威ある王として来られたイエス様の公生涯がいよいよ始まり、神の国の福音が宣べ伝えられようとしている頃のことです。罪によって滅びるしかない全人類を救うために、イエス様が人々に福音を宣べ伝え始められる。その舞台が整えられようとしている所です。私たちも今朝、ヨハネの声に聞き、私たちの心にイエス様をお迎えし、私たちを救う福音を聞く備えをしたいと思います。

3章1節 そのころ、バプテスマのヨハネが現れ、ユダヤの荒野で教えを宣べて、言った。
3章2節 「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」

 バプテスマのヨハネ。この人についての細かい説明はされていません。しかしルカの福音書を見ると、神がヨハネに与えられた使命というものがありました。「エリヤの霊と力で主の前ぶれをし、父たちの心を子どもたちに向けさせ、逆らう者を義人の心に立ち戻らせ、こうして、整えられた民を主のために用意するのです」(ルカ117)。父ゼカリヤも聖霊に満たされて預言して言いました。「主の御前に先立って行き、その道を備え、神の民に、罪の赦しによる救いの知識を与えるためである」(ルカ176−77)。ヨハネはエリヤの霊と力で、王として来られる主イエス・キリストの前ぶれをする者。民を整えて主のために用意する者。主が来られる道を準備して、神の民に、罪の赦しではなく、罪の赦しによる救いの知識を与える者でした。

 このヨハネの登場は、神の預言の成就、神の約束の成就でした。「王である主が来られる。主が治められる国、天の御国、神の国が近づいた。さあ、あなたがた自身を整えよ。悔い改めなさい」。悔い改めよ。そう民にそう告げることこそ、主をお迎えする、神の国の到来を待つ民がすべき備えをさせるという、ヨハネに与えられた使命でした。

 マラキ書にはこうあります。「見よ。わたし(神)は、主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる」(マラ45−6)。ルカの福音書の放蕩息子のように、今まで父なる神に背を向けて背いていたのをやめ、方向転換をして神の方に向かい、神のもとに帰ること。心の方向を転換する。これこそ悔い改めの意味です。私たちは「悔い改め」ということばを、しばしば「後悔」と混同してしまいますが、後悔というのは、何かをした後になって、しなければよかったと悔いることです。悔い改めにも後悔することは含まれていますが、それだけでは終わりません。もう一度出発点に戻って新しくやり直すという積極的な面も含まれているのです。

 マラキは「主の大いなる恐ろしい日が来る」と預言していますが、これもやがて成就するでしょう。神は聖なる、義なるお方。その日、つまり終わりの日は「恐ろしい日だ」と言われます。しかしその前に、神は愛と憐れみのお方です。私たちにその日に備えることができるようにと、あらかじめ前ぶれしてくださっているのです。主を再びお迎えする、神の国の完成を待つ私たちすべての人間が厳粛に聞くべき告知です。「悔い改めなさい。天の御国、神の国が近づいたから」。そしてその告知は、私たちにも託された使命でもあるでしょう。

 ヨハネがメシヤ、救い主イエス様の先駆者であったことは、3節のイザヤ書40章3節のことばが引用されていることで明らかにされています。

3章3節 この人は預言者イザヤによって、「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。』」と言われたその人である。

 マタイにとって何よりも重要なことは、ヨハネの出現、そして彼の告知は預言の成就だったということでした。引用されているイザヤ40章3節ですが、これは神に対する背き、偶像礼拝の罪によってバビロンに捕虜として連れて行かれたユダヤ人たちを、主が再びイスラエルに連れ戻されるので、そのために道の用意をするように、備えをするようにという意味です。しかしここでは、神の救いが近づき、救い主イエス・キリストが人々を罪の中から救い出してくださる時が来たので、主のための道を用意するように、備え、準備をするようにという意味で用いられています。

 私たちは祈祷会でみことばの光を用いて、歴代誌、列王記、エズラ記、ネヘミヤ記を見て来ました。そこで一貫して語られていることは「神の民、礼拝の民として整えられること」です。神への背き、偶像礼拝の罪によって捕囚され、捕囚の地から約束の地へ帰って来た神の民。破壊された神殿が再建され、礼拝が再開され、さあこれから良い時代が来る。ところが、そのような期待通りにはなりませんでした。ずっと捕囚時代と変わらないような、この世の権威に支配され、苦しめられる生活が続きました。かつてエジプトで奴隷状態にあったイスラエルの民に、モーセは言いました。「イスラエルが真に解放されるためには、繁栄を元通りにされるためには、まず主に立ち返り、心を尽くして御声に聞き従わなければならない」と(申302)。神に立てられた預言者たちは、ずっとこのことを民に告げてきたのです。神はついにこの時、預言の成就、約束の成就、真の解放、繁栄が元通りにされる、真の救いの前ぶれとしてヨハネを預言者として立てられました。そして奴隷状態、捕囚時代と変わらないまるで荒野のようなこの時代、このところでまず最初に叫ばせたことは、「主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。悔い改めなさい。神の国は近づいたから」という神の叫びでした。

3章4節 このヨハネは、らくだの毛の着物を着、腰には皮の帯を締め、その食べ物はいなごと野蜜であった。

 まさにヨハネの容姿も、エリヤを連想させるものでした。ヨハネが来たるべきエリヤでした。ヨハネ自身もまた自分の使命を父から教えられており、その使命を自覚して、自分がマラキ書で預言されていたエリヤであることを人々に悟らせるために、わざわざエリヤの服装を真似たのかもしれません。「イエス・キリストを着なさい」(ロマ1314)とパウロは言いました。自分の使命を自覚して、それに似合う者になろうとすること。そして段々と服が自分に馴染んでいくように似合う者へと変えられていくこと。それは聖書が命じる必要なことなのです。

 5節からは、バプテスマのヨハネに対する人々の反する2種類の反応が見られます。

3章5節 さて、エルサレム、ユダヤ全土、ヨルダン川沿いの全地域の人々がヨハネのところへ出て行き、
3章6節 自分の罪を告白して、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けた。

 ヨハネは衣食住すべてエリヤそのもののように、またエリヤのように烈火ごとく激しい勢いで悔い改めの宣教をしたのでしょう。噂は広まり、ヨハネは爆発的な人気を得るようになり、広い地域、ユダヤやヨルダン川流域の人々が大勢やって来て、そしてヨハネが告げたとおりに自分の罪を告白し、ヨルダン川の水に浸かるバプテスマを受けました。

 水のバプテスマは悔い改めの“しるし”、目に見えない心の方向転換を目に見える形で公に証しする。その水のバプテスマを受けることは、「迫り来る怒りを逃れる」(7節)“備え”です。真の罪の洗いと赦しは、ヨハネが備えた後に、イエス様が現れて聖霊と火によるバプテスマによって得られます。イエス様を通して現される燃えるような神の御霊、神の愛とあわれみの心に突き動かされ、心からの真の悔い改めがなされる時に得られるものです。

3章7節 しかし、パリサイ人やサドカイ人が大ぜいバプテスマを受けに来るのを見たとき、ヨハネは彼らに言った。「まむしのすえたち。だれが必ず来る御怒りをのがれるように教えたのか。
3章8節 それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。

 ところが、当時のユダヤ人は、ヨハネの呼びかけに素直に応じる人ばかりではありませんでした。パリサイ人とサドカイ人という特定の宗教的グループの名が挙げられていますが、これはヨハネのもとにやってきたいくつもの集団の中で、最も有名な二つの集団が代表で挙げられているだけと思われます。彼らが「バプテスマを受けに来た」と書かれていますが、それはヨハネの宣教を聞いて罪を悔い改めたからではありません。民に大きな影響を与えていたヨハネを確認するために様子を見に来たのです。彼らは自尊心(プライド)を持っていました。パリサイ人は旧約聖書を守ろうと真剣に努力していたグループで、それだけに自分たちは正しいと自認して、他の人を見下し、自分の罪を認めようとしませんでした。サドカイ人は由緒あるエルサレム神殿の祭司階級の人たちで、自分たちが救いにあずかるのは当然であると考えていました。彼らには自尊心が邪魔をして、自分の罪を認める謙虚な心はありませんでした。ヨハネは彼らの本心、まむしの毒のような腹黒さ、自分たちの立場が危うくなり、燃える柴の中からまむしが慌てて這い出てくる、そのような姿を見抜いて痛烈に批判します。そして「それなら、悔い改めにふさわしい実を結べ」と迫りました。

 「主の道を用意する」というのは、見せかけの悔い改めを見破って、本当の悔い改めをさせることでした。悔い改めが本物であるなら、必ずそれには結果が伴うものです。イエス様も「良い木はみな良い実を結ぶが、悪い木は悪い実を結びます」(マタ717)と言われました。この箇所の文脈からして、その意味は、真の悔い改めは、必ず神の国の王、権威ある者として来られたメシヤ、救い主イエス・キリストを信じる信仰という実を結ぶのだということです。悔い改めと信仰は一つなのです。悔い改めなしでイエス・キリストを信じる本物の信仰はあり得るでしょうか。イエス・キリストを信じる信仰なしで、本物の悔い改めはあり得るでしょうか。福音を聞いて自分が大好きなままで救われたと言われる“本物のクリスチャン”はいるでしょうか。福音を聞いて自分がますます大好きになって救われた方はいるのでしょうか。皆さん、聖霊に導かれてイエス様が指し示されて、聖霊、神の御霊、愛に突き動かされて、本当に悔い改めて、もうイエス様におすがりするしかなくなって救われたのではないでしょうか。

 ヨハネはパリサイ人やサドカイ人といった人たちに、主が来られる前に悔い改めにふさわしい実を結ぶように告げました。

3章9節 『われわれの父はアブラハムだ』と心の中で言うような考えではいけない。あなたがたに言っておくが、神は、この石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです。

 自分たちはアブラハムの子孫、選ばれた者、そのような選民意識を持ってはならないと警告します。しかしそれは、選民意識から自分たちは正しい、悔い改めは必要ないと考えていたからです。悔い改めは必要ないし、救い主も必要ないと考えていたからです。私たちは主によって選ばれました。だからと言って選民意識を持っているでしょうか。正しい選民意識は必要です。間違った選民意識が問題なのです。特権階級の彼らが、何の価値もない石ころのような者として軽蔑していた人々の中からでも、人々から嫌われ、のけ者にされている人であっても、異邦人であっても、神は真に悔い改める人を起こしてその人を救うことがおできになるお方です。民族や家系や社会的身分などは、救いには何の価値もないのです。自分の正しさを誇る善人(自分大好き)よりも、謙虚に自分の悪を認める悪人(こんな自分はと胸を叩く罪人)の方がはるかに真の悔い改めに、真の救いに近いことを忘れてはなりません。

 ヨハネの説教はいよいよクライマックスに達します。聞く者たちに決断を迫るのです。

3章10節 斧もすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。

 一刻の猶予もありません。パウロがローマ書で証言している通り、「夜は深まり、昼は近づいて来た」(ロマ1312)からです。神の国はもうそこまで来ているのです。世の現実を見ると、終わりの日はすぐそこまで来ていることをひしひしと感じるでしょう。悔い改めないならば、不意にやって来るその日は永遠の滅びに至るさばきを受けなければならない恐ろしい日となってしまいます。しかし、罪を悔い改める者は救われて神の支配のもとに置かれ、祝福にあずかることができるもっとも幸いな日となります。福音にはこのような二面性があるのです。

 しかし義であり聖である神は、同時に愛とあわれみに満ちておられる神です。ヨハネを通してパリサイ人やサドカイ人にこのように叫ばれたのも、いや、もしかしたら彼らとのやりとりを遠巻きに見ていたすべての人に対してこのように叫ばれたのも、やはり神の愛とあわれみでしょう。「だからあなたがたは備えをするのだ」という、愛とあわれみに溢れた“前ぶれ”でしょう。神は有無も言わさず突然にさばきをされることはなさらないのです。私たちが聞くか聞かないかです。心に留めるか留めないかです。

 福音の二面性。私たちすべての人間の目の前には、全く対照的な二つの道が置かれています。私たちすべての人間は、そのどちらか一つを選ばなければなりません。今、まさに決断の時に立たされているのです。神は無理矢理にその道においやるようなことはなさいません。すべて人間の決定に委ねられています。無関心なわけではありません。愛がないわけではないのです。真逆です。私たちを愛し、私たちを信じ、待っておられるのです。一方の道には、十字架の上で両腕をいっぱいに広げておられるイエス・キリストがおられます。一日中両腕をいっぱいに広げて、赦しと恵みを施そうと、今か今かと方向転換をしてご自身のもとに帰ってくる我が子を待っておられる神がおられます。どうしてもう一方の恐ろしい道を選ぶことができるでしょうか。どうしてこの方のもとに駆け寄らないという選択ができるでしょうか。それでも我が道を行くと言うのであるならば、それは自尊心、自分大好き、誰かの干渉など受けないというプライド。それは危険であると、主の訪れを前もって知らせる者、いまだ囚われの身、捕囚の地にいるような、いまだ荒野を思わせるようなところで叫ぶ者の声は教えるのです。

 まもなく主は来られる。神の国は近づいた。主は私たちの悔いた心、砕かれた魂の道を通って来られ、私たちも同じ道を通って主のみもとに行くことができます。主の道を用意し、主の道をまっすぐにせよとの叫びを、前ぶれを、今朝は聞くことができました。今一度、しっかりとその備えをさせていただきましょう。それぞれが心に示された備えをしてまいりたいと思います。

 お祈りいたします。
 天の父なる神さま、あなたからのみことばを感謝いたします。悔い改めよ。私たちはその声をなかなか素直に聞くことができないかもしれません。そこ声は私たちを愉快な思いにしないからです。けれども主よ、悔い改めよ。それが福音の初めであることを覚えます。主からの愛と憐れみであることを覚えます。その先に本当の幸い、本当の喜び、楽しみがあることを覚えます。どうぞ今、終わりの時、その声に従順に聞くことができますように。また私たちも荒野で叫ぶ者となり、その声を隣人に何らかの形で届けることができるよう、良き知恵と力をお与えください。御霊によってどうぞ私たちを導いてくださいますように。今週の歩みもどうぞ祝福してください。あなたのみことば、あなたの御心をしっかりと見つめ、主とともに幸いな道を歩んで行けるようにお守りください。感謝して主、キリスト・イエス様の御名によってお祈りいたします。アーメン

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