2022年10月23日 主日礼拝「姦淫してはならない」

礼拝式順序

礼拝前賛美
報 告

開 祷
讃美歌  352番「あめなるよろこび」
主の祈り 564番「天にまします」(参照
使徒信条 566番「我は天地の」(参照
讃美歌  58番「かみよみまえに」
聖 書  マタイの福音書5章27〜32節
説 教  「姦淫してはならない」佐藤伝道師
讃美歌  515番「十字架の血に」
献 金  547番「いまささぐる」
頌 栄  541番「父、み子、みたまの」
祝 祷

本日の聖書箇所

マタイの福音書5章27〜32節

説教題

「姦淫してはならない」

今週の聖句

「姦淫してはならない」と言われたのを、あなたがたは聞いています。

マタイの福音書5章27節

今週の祈り

その教えとは……あなたがたが…… 新しい人を着ることでした。
(エペソ4:22-24)

愛する神よ、あなたが諦めないことに感謝します。どうすればあなたに似た者になっていけるか、どうか教えてください。

説教「姦淫してはならない」

マタイの福音書5章27〜32節

先週は出エジプト記14章から見ましたが、そこからこのようなことを教えられました。「荒野の旅はハネムーンである。花婿なるイエス様とともに、花嫁なる教会(私たち、私)は約束の地、神の国へと向かって幸いな旅をしているのだ」と、説教の中でこのように語られました。その旅の道中が楽しく幸せ溢れる平和な旅であるならば感謝です。

私はハネムーンと聞いて思い出すことがあります。皆さんはハネムーンに行かれたでしょうか。私たちは伊豆の方へ行きました。楽しい旅行ではありましたが、事件は帰りに起こりました。私がカーナビ、車の預言(ヘブル語でナーヴィーは預言者の意)を信用せずに、完全無視して突っ走った結果、見えてくるはずのない東京タワーや東京ドームが見えてきました。どういうことかと申しますと、結局ものすごく遠回りをしたことになったと言うことです。カーナビの言う通りにしたなら4時間程度の道のりが、迷いに迷って10時間くらいかかってしまい、それからしばらく車に乗りたくなくなってしまった、なんてことがありました。今となっては笑い話と申しますか、良い思い出ですが、良い思い出となっていて本当に良かったと思います。

ところで、今では新婚旅行という意味で使われるハネムーンの語源についてですが、諸説あるようです。もともとハネムーンは新婚旅行という意味ではなかったようです。その一つに、英語でハネムーンは「honey・はちみつ」+「moon・月」と書きますが、夫婦となったばかりの二人が、幸せに過ごす期間のことを「甘いはちみつ」にたとえて「ハネムーン」と言うのだとか。そのような甘い期間に旅行に行くカップルが多いことから、いつしか新婚旅行自体をハネムーンと言うようになったようです。もう一つ、月は三日月になったり満月になったりと満ち欠けをしますが、新婚の頃ははちみつのように甘い夫婦でも、喧嘩をしたりして愛情が欠けてしまうこともかるかもしれない。しかしいずれ仲直りしてまた愛情は満ちるもの。そういった夫婦に対する教訓のようなものを「月」にたとえて表したという説もあるそうです。そのようなことを覚えながら出エジプト後の神とイスラエルの民との旅(歴史)を見てみると、改めて色々と考えさせられるところがあります。

「結婚は契約です」。そのように言ってしまうと何やら冷たい感じがしますが、そうなのではないでしょうか。結婚、特に恋愛結婚などは契約とは無縁だと思われるかも知れません。しかし、結婚生活の基本的な枠組みは、民法という法律でかっちりと決められています。結婚生活に入るというのは、民法が決めている結婚生活のルールに従いますという、一種の契約なのです。

そしてこの契約について、特に日本人は意識が薄いのではないでしょうか。結構大事な約束も、口約束で済ましてしまったり、また結構重要な約束も簡単に破ってしまう。(洗礼の時の誓約、または転入会の時の誓約などを覚えていますか?)しかし本来の契約は、破ることは許されないものです。厳しい罰則が伴うものです。

出エジプトを果たしたイスラエルの民は、荒野で神と十戒をもって契約を結びました。契約書は石の板2枚でしょうか。モーセはそれを一回たたき壊してしまいましたが、神はもう一度与えてくださいました。神とイスラエルの民との結婚です。その十戒の7番目に「姦淫してはならない」という契約がありました。「わたしは律法を廃棄するためではなく、成就するために来た」(マタ517)と言われたイエス様は、前回、同じ十戒の6番目の契約「殺してはならない」という契約を高められましたが、それに引き続き7番目の契約「姦淫してはならない」という契約をも高められました。そのどちらも、行為に先立つ心、動機、何となく表面化する態度さえもが、すでに大変な罪であることを示されるのです。

5章27節    『姦淫してはならない』と言われたのを、あなたがたは聞いています。

もちろん聞いていました。聞き伝えられていました。

5章28節    しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。

姦淫というのは結婚外の肉体関係です。それは結婚という契約違反にあたります。その実際の姦淫という行為がなくとも、心、動機、態度さえもが、すでに罪であることをイエス様は示されます。しかしここで言う「女」という単語ですが、既婚の女性について用いられる語で、しばしば「妻」を意味します。ですから、異性に対して自然に生じる性的な魅力を禁じるのがイエス様の本来の意図ではなく、違法、契約違反となると分かっているのに、そのような関係になりたいという欲望を故意に、わざと抱くことを禁じている。それがイエス様の意図です。密かな、しかし故意の姦淫、そしてその欲望さえも、それは夫婦の契約に対する背信行為、裏切りであり、大きな罪だとイエス様は言われるのです。その罪の大きさというのは、からだ全体、つまり人格全体、からだも心(精神)もゲヘナに、永遠に消えない火の中に投げ込まれてしまうほどのものです。

5章29節    もし、右の目が、あなたをつまずかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに投げ込まれるよりは、よいからです。
5章30節    もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切って、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに落ちるよりは、よいからです。

27−28節では姦淫を用いて語られましたが、29節からは姦淫に限らず、そこからさらにもっと範囲を広げて、生活全般に適用して言われているように思います。

「目」というのは、人がつまずかないように守るためにあるのですが、実はその目が誘惑の入口、つまずきの元となってしまう。「手」も罪を犯す道具となってしまう。人間はそうしてしまうのです。目も手も、神が良い目的のために造られ、与えてくださったものであるのに、人間は神から与えられた良いものを悪に用い、良いもので罪を犯してしまうものです。あなたをつまずかせるもの、罪を犯させるものは、「えぐり出して」「切って」「捨て」なさい。意志の決断によって自分自身に外科手術をしなさい。痛そうです。ここでイエス様が本当に言われたいことは、あなたの生活の中から、罪を誘発する習慣、色々な人間関係を断ち切ったり、罪を誘発する趣味、好きな活動を放棄したり、あるいは職業なども、それが罪へと誘うものであるならば、痛みを覚えながらでもすべてを切り捨てなさいということです。罪へと誘う誘惑を避けるためには、思いきった犠牲を払うことが必要になるかもしれないということ。そうしなければ「からだ全体」、全人格、からだも心も精神も、ゲヘナで失うことになるから。「からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに投げ込まれるよりは、ゲヘナに落ちるよりは、『よいからです』」とイエス様は言われます。

『よいからです』。ここは是非原文で味わいたいところです。原文ではこうです。「あなたの体全体が、ゲヘナ(地獄)に投げ込まれるべきではありません」「あなたの体全体がゲヘナ(地獄)に行くべきではありあせん」、「べきではない」「あなたはそうであってはならない」。ここに人間を愛し、何としてでも人間を救おうとされるイエス様の深い愛、熱意を見るのではないでしょうか。イエス様はゲヘナ(地獄)の悲惨さをご存知のお方です。ルカの福音書16章によると、そこは「苦しみの場所」だと教えておられます。消えない火、体を焼く激しい痛み、そして精神的、霊的に苦しめる火、それが今から永遠に続くという恐ろしさ、悲惨さ。それはやがてからだ全体(肉体、霊、精神)を滅ぼすのです。それは死後に限った裁きでしょうか。そうではないでしょう。罪の赦しによる永遠のいのちが今からすでに始まっているのですから、罪による永遠の死、肉体的、精神的な痛み苦しみも今から永遠に続くのです。イエス様は「あなたはそうなるべきではない」「あなたはそうであってはならない」と言われるのです。そしてイエス様は唯一、罪と悲惨な刑罰から私たちを救うことのできる権威、力のあるお方です。私たちが罪を悔い改め、私たちの行為も、行為に先立つ心、動機など、神の方向に向きを変え、罪へと誘うものを「えぐり出して」「切って」「捨て」て、イエス様のもとに駆け寄るならば、イエス様は私たちのすべての罪を赦し、神の国に至る永遠のいのちの道をともに歩いてくださいます。

「『姦淫してはならない』と言われていたのを、あなたがたは聞いています」。イエス様は「あなたがた」にそう問われました。そして彼らは聞いていました。十戒を通して聞いていました。出エジプト記の20章、申命記の5章、また旧約聖書全体から聞いていました。その十戒は、イスラエルの民をエジプトの奴隷から解放してくださった神が、イスラエルの民と結んでくださった契約の中で言われているのです。「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である」。まるでハネムーンの初めに、「わたしはあなたを贖ったあなたの神、主。あなたを愛する夫である」そう語られているようではないでしょうか。そして続けて十戒を通して契約を交わされるのです。ここからはヘブル語では文法的にこのようにも訳せるのだという、そちらの訳で見てみましょう。

わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。そのような偉大なみわざを経験したあなたがたは、わたしの大きな愛を知るあなたがたであるなら、あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があるはずがないであろう。あなたは、自分のために、偶像を造るはずがないであろう。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも作るはずがないであろう。それらを拝むはずがないであろう。仕えるはずがないであろう。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、私を憎むものには、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。(中略)殺すはずがないであろう。姦淫するはずがないであろう。(中略)あなたの隣人の家、隣人の妻、男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを、欲しがるはずはないであろう。

このように、神がイスラエルの民と結ばれた契約は、まことに夫の妻に対する愛と信頼に満ちた、そのような幸いな契約でした。確かに「姦淫してはならない」は、隣人との関係においての約束かもしれません。であるのと同時に、やはり神とイスラエルの民との契約関係における約束、信頼でもあったのです。霊的姦淫です。霊的裏切りです。神の信頼に対してイスラエルの民がしたことは、霊的姦淫、裏切り、不信仰でした。

イスラエルの民の霊的姦淫、裏切り、不信仰の歴史は、実にこの出エジプト(ハネムーン)の時から始まりました。旧約聖書における預言者は、繰り返しこのことに対して叱責し非難しました。預言者を通して神は何度も警告されました。「『姦淫してはならない』と言われていたのを、あなたがたは聞いています」。イエス様がこのように問われたのは、やはりこのこともあったのだろうし、聴衆はすぐにピンと来たのではないでしょうか。

イスラエルの民の歴史は、まるで通りがかりの人と姦淫を行うように、関係する国々に身を任せ、その神々を受け入れて行く歴史でした。良いからだをしたエジプト人と姦淫を行い、次にペリシテ人に身を任せ、それでも飽き足らずにアッシリヤ人と姦淫を重ね、商業の地カルデヤ、バビロンとまで姦淫を行ったのです。その熱心さは「何とあなたの心は、あえいでいることよ(燃えさかっていることか)」と、主をあきれされました。なぜイスラエルが外国の偶像をそれほど熱心に受け入れたのでしょうか。それは外国の勢力と繁栄に対する憧れと引け目からでした。外国の勢力と繁栄をその目で見て、それをもの凄く欲しがって。この欲しがるというの単語が、実は「情欲・強い性的な欲求」とも訳せる語であり、貪りであり、それはそのまま「偶像礼拝」つまり「霊的姦淫」、契約違反なのです。欲しがることと姦淫、そして偶像礼拝はこのように単語からしても密接な関係にあるのですから興味深いです。人間のもの凄い飽くなき欲深さを見るような気がします。神は霊的姦淫を犯したイスラエルに対して、姦淫にふさわしい刑罰をもって報いられました。

また、日本において例えば、第二次大戦後、日本人はアメリカのものなら何でも、音楽からライフスタイルから言葉にいたるまで受け入れたように、イスラエルの民は当時の大国、繁栄している国の宗教的な影響(偶像礼拝)、習慣などを喜んで受け入れたのです。その背後には、神に対する信頼の欠如があったことは言うまでもありません。私たちも、主への信頼が薄れる時に、人や権力が素晴らしいものに見え、憧れ、ついには崇拝するまでになってしまうのです。そして主は、契約の当事者である故に、その契約違反にふさわしい刑罰をもって報いることのできる、当然の権利をお持ちの方です。そのお方が言われるのです。「あなたがたは、そうあるべきでない。ゲヘナに落とされるべきでない」と。これは恐ろしい警告でしょうか。愛の忠告、真心(忠信)をもって相手の悪いところを指摘して直すように進めるお言葉ではないでしょうか。

「『姦淫してはならない』と言われたのを、あなたがたは、聞いています」とイエス様は言われました。私たちも聞いています。それはパウロが「これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです」(Ⅰコリ1011)と、その意味でイエス様は語られているのではないでしょうか。

マタイの福音書5章31節からは、離婚に関することが言われます。現代においては非常に敏感な問題で取扱いがとても難しいところですが、ここでもパウロの言葉に耳を傾けたいと思います。エペソ人への手紙5章31節です。「『それゆえ、人は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となる。』この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです」。ですからここからの離婚の問題もやはり、パウロが言う「結婚の奥義」、キリストと教会(私たち、私)と重ねて見るべきであると思います。

5章31節    また『だれでも、妻を離別する者は、妻に離婚状を与えよ』と言われています。
5章32節    しかし、わたしはあなたがたに言います。だれであっても、不貞以外の理由で妻を離別する者は、妻に姦淫を犯させるのです。また、だれでも、離別された女と結婚すれば、姦淫を犯すのです。

当時の律法学者たちの大勢が目指すところは、律法を緩くすることでした。神との契約を緩くすること。畏れがないというか、彼らの霊的状態の表れでしょう。その彼らによると、妻に離婚状を書くことはいとも簡単になされました。例えば、「他にもっと美しい女性を見つけたから」とか、「料理を焦がした」なんていう理由ですら離婚できたと言います。同時に、女性の立場を守るという意味で、離婚状を示すことによって再婚する自由が認められるとしました。

しかしイエス様は、不貞以外の理由では離婚を認めませんでした。イエス様は少し後のマタイの福音書19章でも離婚について戒めておられますが、そこによると、イエス様の離婚を正当化しようとすることを徹底して認めない態度は、創造において神が定められたそもそもの目的に基づいています。その目的というのは、「結婚は永遠のものである」ということ。そしてパウロが言う通り、結婚は奥義であるということ。神とイスラエルの民との結婚、契約関係。新約時代の今であれば、キリストと教会(キリストと私たち、キリストと私)との結婚、契約関係。教会、また私たちはキリストの血による新しい契約を結び、キリストは花婿。教会、私たちは花嫁とされているのです。その「結婚、契約は永遠のものである」。それがここでイエス様が徹底して離婚を認めない態度の理由です。マラキ書2章16節で神は「わたしは、離婚を憎む」と言われます。「あなたがたは、あなたがたの霊に注意せよ。裏切ってはならない」と言われます(マラ216)。結婚は裏切られてはならないものなのです。そして神との結婚に対する裏切りには、神によって刑罰が約束されているのです。

32節で注意しなければならないことは、この姦淫の咎めを受け、責任を問われるのは、断固として夫の方であるということです。妻が姦淫を犯した、結婚の契約に違反をした、にもかかわらず、責任を問われるのは夫の方であるのです。そうイエス様は言われるのです。これは何を意味するのでしょうか。

「不貞以外の理由で」とは、不貞以外の理由では離婚、契約破棄は絶対に禁止であることを意味しています。逆に言えば、不貞の理由であれば離婚できる、結婚の契約を破棄できるということでしょう。姦淫が発覚した場合には、結婚を終わらせることを要求でき、旧約の時代には、その刑罰として死を要求出来たのです。

霊的姦淫を犯す人間。しかも何度も何度も繰り返す。契約を破棄したいのは、神の方、主の方ではないですか。けれども、モーセが怒りのあまり一度石の板をたたき壊してしまったようにはされませんでした。神は断腸の思いをもって契約を守ろうとされるのです。律法学者の多くは律法を緩くすること、神との契約を緩くすることに熱心でした。しかし、神が律法を、契約を本当に緩くしてしまわれたらどうなるでしょう。霊的姦淫を犯してばかりの私たちは、簡単に離婚されてしまう。契約破棄されてしまう。死の刑罰が課せられてしまうのです。しかし主は、私たちをそれでも愛するが故に、イエス・キリストの十字架で流された血による新しい契約を結んでくださり、その契約をご自分に課せられ、その契約があるからこそ、主は私たちを見放すことができず、離縁することができず、私たちとの縁を切り、私たちを追いやることもできないのです。これこそが救いの恵みでしょう。主の血による契約によってのみ、私たちは罪赦され、永遠の死からも救い出されているのです。そしてなおも姦淫してはならない、霊的姦淫してはならない、なぜなら、あなたはわたしの愛する者。そのあなたは、からだ全体ゲヘナに投げ込まれるべきではない」と仰ってくださっているのです。そうであるならば、私たちは律法学者たちのように、律法・契約を緩くしようと一生懸命になれるでしょうか。神を愛し、律法に感謝し、律法を愛し、大切にするのではないでしょうか。

「あなたをつまずかせるもの、罪を犯させるものは、『えぐり出して』『切って』『捨て』なさい。意志の決断によって自分自身に外科手術をしなさい。あなたの生活の中から、罪を誘発する習慣、色々な人間関係を断ち切ったり、趣味、好きな活動を放棄したり、あるいは職業なども、それが罪へと誘うものであるならば、痛みを覚えながらでもすべてを切り捨てなさい。罪へと誘う誘惑を避けるためには、思いきった犠牲を払うことが必要になるかもしれない。そうしなければからだ全体、全人格、からだも心も精神も、ゲヘナで失うことになるから。わたしが愛し、わたしが贖ったあなたは、そうあってはならない、そうあるべきでない」。主は愛をもって今も私たちに問うてくださっています。イエス様は今日、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓を語られました。私たちはその愛のみことばに、しっかりと聞き、心に覚えたいと思います。

あなたがたは知らないのですか。正しくない者は神の国を相続できません。思い違いをしてはいけません。淫らな行いをする者、偶像を拝む者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒におぼれる者、そしる者、奪い取る者はみな、神の国を相続することができません。あなたがたのうちのある人たちは、以前はそのような者でした。しかし、主イエス・キリストの御名と私たちの神の御霊によって、あなたがたは洗われ、聖なる者とされ、義と認められたのです。(Ⅰコリ6 9−11

イエス様とともに約束の地、神の国へ向かう旅。私たちは花婿なるイエス様から目を離さずに、イエス様といつも仲良く、幸いな関係をもって歩み続けたいと思います。主が私たちに与えてくださった律法、戒めをしっかりと守ってまいりましょう。戒めを守るというのは、主の愛に正しく応えるということです。主の愛を裏切らないということです。イエス様はその戒めを3つ、私たちに示されて天に上られました。一つ目は「心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、神、主を愛する」こと。二つ目は「隣人を自分自身のように愛する」こと。そして三つ目は「宣教」です。

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