2023年1月8日 主日礼拝「神が喜ばれる敬虔」

礼拝式順序

礼拝前賛美
報 告

開 祷
讃美歌  3番「あめつちのみ神をば」
主の祈り 564番「天にまします」(参照
使徒信条 566番「我は天地の」(参照
讃美歌  411番「すべしらす神よ」
聖 書  マタイの福音書6章1〜6節
説 教  「神に喜ばれる敬虔」佐藤伝道師
讃美歌  298番「安かれわがこころよ」
献 金  547番「いまささぐる」
頌 栄  541番「父、み子、みたまの」
祝 祷

本日の聖書箇所

マタイの福音書6章1〜6節

説教題

「神が喜ばれる敬虔」

今週の聖句

人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられません。

マタイの福音書6章1節

今週の祈り

これらすべてにおいても、私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です。
(ローマ8:37)

父よ、試練を通して奮起し、勝ちどきを上げて賛美できるように助けてくださり感謝します。

説教「神が喜ばれる敬虔」

マタイの福音書6章1〜6節

すでに2023年が始まり一週間が経ちました。年頭に当たり、皆さんも何かしら心に決められたこと、目標を立てられたこともあろうかと思います。

ところで、以前マタイの福音書の5章のところでイエス様は「決して誓ってはいけません」と言われたのを覚えておられるでしょうか。しかしその御心は、神を疑ってはならないということでした。神を心から信頼し何も恐れるなということでした。神への信仰、信頼のない空しい誓いはしてはならないのです。「神さま、あなたはそのような約束をしてくださっていますが、それだけでは不安なので、私はこのことをします」と言ってする誓い。それは敬虔に見えても実は神が悲しまれることです。ですから、神が本当に喜ばれる誓い、心に決めること、目標を立てることは良いことなのです。例えば、年頭に立てられる目標の代表的なものとして「聖書通読」があるのではないでしょうか。ある先生は聖書通読を1000回以上されており、今もなお更新中だそうです。もし私たちが1年に1回通読するとしたら1000年もかかってしまうという、本当にすごいことですし尊敬に価することです。恐らくこの先生は私たちの賞賛や尊敬を得るために聖書通読を目標としているのではないと思います。みことばが信じられず、疑っているのでもないはずです。ただ神を信じ、へりくだって神のみことばを慕い求めておられる、その心の現れなのではないでしょうか。実際に先生ご自身から自慢されたことは一度もありません。神を信頼して神の口から出るみことばを慕い求めて待ち望む。神はこのことをどれほど喜ばれていることかと思わされます。

さて、マタイの福音書の講解を進めておりますが、クリスマスには「インマヌエルの神」を覚えつつみことばに聞いて参りました。マタイの福音書はインマヌエルに始まり、インマヌエルに終わるとも言われました。神は私たちとともにおられる。私たちを裁くためではなく、罪から救うために。すべての罪を赦し、罪から私たちを救い、常に私たちとともにいてくださり、常に守り導いてくださる。「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る」(イザ4110)。イザヤという預言者を通して語られたこの神の愛の約束。それは今から約2000年前にイエス・キリストとなって地上に現されました。イエス・キリストは人間のすべての罪を背負い十字架に架けられ死なれ、罪の解決をしてくださり、3日目によみがえられ、天に上られ、今、父なる神の右の座に着いておられ、私たちのためにとりなしてくださっています。このお方、救い主イエス・キリストを信じるならば、ただその信仰によって、恵みによって、その人は完全に罪から救われ、解放され、神との完全な平和な関係をいただける。神の子とされ、神は父となってくださる。それが神さまの救いの約束です。これは私たちが信仰によって受け取るか受け取らないかにかかっているのです。

イエス様は天に上られる前にはこのように約束してくださいました。「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます」(マタ2820)。主は天から慰め主、助け主なる聖霊を私たちに注がれ、今もともにいてくださる。「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る」と今でも私たちに仰っているのです。わたしを信じなさいと。何という恵みでしょうか。私たちはその約束を信じ、受け取り、そして喜んでいるでしょうか。楽しんでいるでしょうか。感謝しているでしょうか。また、袋の口をいっぱいに広げて、神に恵みで満たしていただけるように求めているでしょうか。

本朝からマタイの福音書は6章に入ります。インマヌエルで始まりインマヌエルで終わるマタイの福音書。今日の箇所の底流(ベース・基礎)にも、やはり「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る」のだからという、神の確かな愛の約束が聞こえてくるように思います。

6章からは、「神が“喜ばれる”信仰生活」「敬虔(神を敬い、つつしんで仕えるさま)」について、神ご自身であり、神の御心を完全に知っておられるイエス様が教えてくださっているところです。先ほども「喜ぶ」と申しましたが、「神が喜ばれる」とはどういうことなのでしょうか。「喜ぶ」、「わたしはこれを喜ぶ」(マタ317)。それはつまり、神が満足されること、心地よく感じること、神がうれしいことだとして受け入れられることです。言葉を変えるなら「御心にかなった」とも言うのでしょうか。神が喜ばれる信仰生活、神が満足され、心地よく感じられ、うれしいことだとして受け入れてくださる信仰生活とはどのようなものなのか。それは今朝の6章1節のところですでにこのように結論が述べられています。

6章1節        人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられません。

「善行」とありますが、これは宗教的な良い行い、神を深く敬い、神に仕える、そのような敬虔を表す行いを言っています。当時と言いますか現在もそうなのですが、ユダヤ教において宗教的な良い行い、敬虔を表すものとして「施し、祈り、断食」の3つが求められていました。ちなみにイスラム教ではこの3つに加えて、メッカへの巡礼、信条の暗誦の5つが敬虔を表す柱となっているということです。今の私たちで言うならば善行、これをすれば敬虔なクリスチャンかな?と思われることは何でしょう。施し、それは隣人を犠牲をもって真実に愛するということの具体的な行いでしょう。神を愛する人の敬虔な姿が見られます。祈りもそうです。真実に祈る人の姿には、神を深く敬い、神に仕える姿が見て取れるのではないでしょうか。断食にはあまり馴染みがありませんが、もし断食をするならば、それは神を深く敬い、必死に神を求め、神に仕える気持ちですべきです。他には一生懸命聖書を読むこと、毎週礼拝を守ること、祈祷会に出席すること、自宅を開放して家庭集会を開くこと、献金をすること、奉仕をすることなど、色々と思い浮かぶのではないでしょうか。イエス様はここでそれら善行、敬虔を表す行いを禁じているのでは決してありません。イエス様は「あなたがたは世界の光である。あなたがたの良い行いをもって神の栄光を人々の前で輝かせなさい」と言われた通り、人前で敬虔を表す良い行いを積極的にするようにと励ましておられます。その目的は天におられるあなたがたの父、神があがめられるためです。人前で善行をしないように気をつけなさいとは、自分の宗教的な敬虔さ、宗教的な良い行いを見せびらかしてはならないということです。善良で敬虔な生活を送ったために目立つようになってしまった。それは素晴らしいことです。しかし「あの人は敬虔である」という名声を得ようとして色々と躍起になるのとではまるで違うのです。動機の問題です。神に栄光を帰するのか、それともそれを行う者だけに栄光を帰するのか。神に喜んでいただくのか、それとも自分を喜ばせるのか。天におられる父なる神は、私たちの心の内、動機をも見抜かれるお方です。ですから私たちは本当に気をつけなければなりません。そんなこと十分承知していると思わずに、「気をつけなさい」と語りかけるイエス様のお言葉にしっかりと聞かなければならないでしょう。

違いは動機だけではありません。「報い」にも違いが生じるのです。神から報いをいただくのか、人から報いをもらうのか。神からの「報い」というのは、働けば働いた分だけ当然与えられる報酬、賃金のようなものではありません。神が私たちの良い行いを喜ばれ、受け入れてくださり、喜んで自由に与えてくださる何かです。父の心をもって最善のものを与えたいと願われ、そして恵みによって自由に与えてくださるものです。私たちは神の愛とあわれみを受け、イエス・キリストを通して本当にたくさんの恵みをいただき、私たちとともにいてくださる主に日々守られ、良いもので満たされ、赦され、そのように生かされている者たちであることを知っています。ですから神に返しきれない負債、大きな感謝な思いがあるのではないでしょうか。神に喜んでいただきたい。神に栄光を帰したい。皆さんの心にもそのような思いがあるでしょう。ですからこうして神に喜んでいただきたいと、毎週礼拝に集ったり、良い行いをしたいと願っているのでしょう。そして神はそのような私たちを喜んでくださり、恵みによって自由に良い報いを与えてくださるのです。しかし私たちのこの礼拝、あるいは色々な奉仕であっても、もし人に認めてもらうためのものであるならば、それは自分を喜ばせるためのものであり、天におられる私たちの父なる神を喜ばせるものではありません。神が喜ばれ、自由に与えてくださる神から良い報いを受け取ることは期待できないのです。それがどういうことであるのか、イエス様は続く2節から具体的な例「施し、祈り、断食」を挙げて教えてくださいます。今日の箇所には「パリサイ人」と具体的な名は挙げられていませんが、イエス様の中にはこのパリサイ人の姿がありました。パリサイ人たちは、施しや祈りや断食などの善行をすることによって、神に義と認められると考えていました。しかし、純粋に神を深く敬い、神に仕えようという動機から行うのではなく、自分がどれほど信仰深く、敬虔な生活をしているかを得意になって見せびらかそうとして、他人の見ている所でそれらを行っていたのです。それゆえイエス様は、このようなパリサイ人を偽善者であると決めつけられます。そして偽善者にならないように「気をつけなさい」と聴衆に警告しておられます。あなたは大丈夫かと問うておられます。なぜならば、偽善者は人々からの賞賛を報いとして受けてしまっており、そのため父なる神からの報いを受けられないことをイエス様は知っておられるからです。イエス様は私たちに神からの良い報いを何としても受け取って欲しいと願われ、あえて厳しいことを言われるのです。

まず2〜4節の「施し」について見てみましょう。

6章2節        だから、施しをするときには、人にほめられたくて会堂や通りで施しをする偽善者たちのように、自分の前でラッパを吹いてはいけません。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。

聖書は貧しい者に施しをするように教えています。そしてイエス様は、弟子たちが隣人に惜しみなく施すように期待していました。しかし目立つようにはしてほしくなかったのです。パリサイ人たちが施しをする動機は「人にほめられ」たいためでした。彼らはあえて人々が集まってくる会堂や、人通りの多い所で施しをしました。わざと人目につくように「自分の前でラッパを吹いて」いるとイエス様は言っておられます。これは自分に注意を引くことの喩えです。施しを人々の前で自慢げに見せびらかせ、自分を宣伝しているということです。自分がいかに信仰深いかを見せびらかすことは、偽善者のすることです。偽善者とはギリシヤ語で「役者」を意味しています。彼らは敬虔そうに振る舞っていますが、それは演じているのであり、本心は自分を見せびらかすことでした。信仰深そうに見える行為も、実は芝居でしかなかったのです。芝居の目的はあくまで「人にほめられる」ためであり、ほめられるならば彼らはもう十分報いを得たことになるのです。満足してしまうのです。この場合の「報い」は、働きに応じて支払われる「賃金」のことを言っています。働きに応じて十分に報酬を得たならばそれで満足してしまい、それ以上はもう何も期待しなくなるのです。袋の口を自分でギュッと締めてしまうのです。神はその口を無理矢理開くことはなさいません。

これとは対照的に、隠れて行う弟子たちの施しは神からの「報い」をもたらすのです。神が喜ばれ、心地よいと感じられ、うれしいことだとして受け入れてくださり、恵みを注いでくださる、父なる神から身に余る報い、私たちが恐縮してしまうほどの素晴らしい報いを与えてくださるのだと、イエス様は教えてくださっています。

6章3節        あなたは、施しをするとき、右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい。
6章4節        あなたの施しが隠れているためです。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。

イエス様は良い行い、施しをどこまでも隠れた所でするようにと強調しておられます。「右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい」。それは実際不可能なことでしょう。これもイエス様の喩えであり、施しは他人に知られないようにするだけでなく、自分にすら分からないように、徹底的に隠れた所でしなさいということです。他人が賞賛しなくても、自分が自分の行いを賞賛することもあり得るからです。自分で自分を義とし、自分で自分を褒めて傲慢になる。それでもう満足、良しとしてしまう。もうそれ以上神からの良い報いを期待しなくなってしまう。イエス様はそのようなことにならないように、厳重に私たちを戒めておられるのです。

続く5節からは「祈り」を例に挙げています。この祈りにおいても、施しと同じように隠れた所でするようにとイエス様は教えておられます。

6章5節        また、祈るときには、偽善者たちのようであってはいけません。彼らは、人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好きだからです。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。

偽善者、そして報いと、施しの場合とまったく同じ意味をもって語られています。

当時ユダヤ人は、午前9時と正午と午後3時には、どこにいても祈らなければなりませんでした。その祈りは普通、通りの四つ角でなされることはありませんでした。しかし祈りの時間を厳格に守る者が、わざと時間を見計らって、ちょうど祈る時刻に最も人目の多い所に行くようにしたことはあり得たのでしょう。そしてそこで人に聞かれるように立派な祈りをしたのでしょう。その動機は施しと同じく明らかであり、その報いも明らかです。偽善者の祈りは人に聞かせる祈りであって、神に聞いていただくための祈りではないのです。

それとは対照的に、イエス様は自分の奥まった部屋に入り、戸を閉めて祈るように、それが神が喜ばれる祈り方であると教えてくださっています。

6章6節        あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋に入りなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。

イエス様が隠れた所で祈るように教えられているからと言って、人々が集まっている礼拝や祈祷会などでは祈らないと言ってしまうのは、イエス様の真意を誤解していることになります。人前で祈ろうが、個室で祈ろうが、ただ神にのみ向かって、心から祈る。愛を演じるのではなく、敬虔を演じるのでは無く、心の真実をもって、正直に、神にのみ向かって素直に祈ることが大切なのです。公には自分のすべてをさらけ出す必要はありません。しかし自分の心を神の御前にすべて注ぎだし、神と1対1で祈る場合、必然的に個室で祈ることになるのでしょうか。いずれにしても、声にならないうめきのような祈り、御霊のとりなしの祈りを神は聞かれ、「隠れた所ですべてを見ておられる父なる神が報いてくださいます」。

私たちにとって「自分の奥まった部屋」と言われる場所はどこでしょうか。「奥まった部屋」とは、当時のユダヤ人においては貯蔵庫のことでした。奥まった部屋であり、人目につかない、恐らく家の中で鍵のかかる唯一の部屋でした。それで「秘密の場所」を指すことわざのようになりました。自分の貯蔵庫、鍵がかけられる唯一の部屋、秘密の場所とはどこでしょうか。それは、私の中に色々なものが蓄えられている蔵、それは心、霊、魂なのではないでしょうか。私の中の秘密の場所で、神に向かって、神を心から信頼して祈る時、私たちの祈りはどのような祈りになるでしょう。自分の弱さでしょうか。貧しさでしょうか。足りなさでしょうか。誰にも言えない罪の告白。私は信仰の薄い者だ、私はみじめだという嘆き。自分の不遇に対しての涙。痛み、悲しみ、苦しみ、悔しさの叫びでしょうか。神に愛され、神を愛している者であるならば、やがて祈りは悔い改めとなるでしょう。「こんな私でごめんなさい」と。誰にも絶対に知られない秘密の場所で真実に祈るならば、私たちのうちに誇るものなど何一つないことが分かってしまうのではないでしょうか。しかしそれで良いのです。秘密の場所での真実な祈りを、インマヌエルなる神、私たちには隠れておられるように思われる神ではありますが、約束通り世の終わりまで、いつでも、どこでも、どんな時でも私たちとともにおられる主、私たち一人ひとりの上下前後左右におられる主は、すべて見ておられ、聞いておられます。祈りとは目に見えない霊である神との霊的な交わりの方法。祈りは愛をもって聞いてくださっている父なる神に対する語りかけです。どこまでも「恐れるな」と言われる神を信頼し、愛を信頼し、神の御前に自分をさらけ出すならば、神はすべての祈りにこたえてくださいます。罪を赦し、罪から救ってくださいます。劇的な大逆転は起こり得ますが、大抵は起こらないかもしれません。しかし神は災いではなく平安を与えるご計画、御心をもってその先の一歩を導いてくださいます。祈りの中で消えることのない信仰、希望、愛を与えてくださいます。それが私たちにとっての本当の救いであり、真に幸いな身に余るほどの報いでしょう。主は心の貧しい者をささえてくださるお方(詩1476)。主を恐れる者と、御恵みを待ち望む者とを好まれるお方(詩14711)。私たちの形式だけのいけにえ、祈り、ささげ物ではなく、私たちの真実の愛を喜びとしてくださるお方(ホセ66、マタ913)。心の真実を喜ばれるお方(詩516)。神へのいけにえは砕かれた霊、打たれ砕かれた心(詩5117)。もし、私たちが神を求めるなら、神は私たちにご自分を現される(Ⅰ歴289)。主を自らの喜びとするなら、主はあなたの心の願いをかなえてくださる(詩374)。これほどまでに素晴らしい主が私たちの神。これほどまでに素晴らしい神が私たちの主なのです。

アメリカの有名な心理学者であるマズローと言う人は、人間の基本的欲求は5つあるのだとして、「生理的欲求」「安全の欲求」「所属と愛の欲求」「自己顕示欲求」「自己実現の欲求」を挙げています。今日の箇所で語られた「自己顕示欲求」が挙げられていますが、しかし5つの欲求のどれもが密接に関わっているように思えます。自己顕示欲(もしかしたら承認欲求の方が聞き馴染みがあるのかもしれませんが、承認欲求も自己顕示欲求の一つです)というのは、誰の中にも存在するのです。自分をはっきりと分かるように他人に示したい。そうすることで周りの人から注目されたり、褒められたりして欲求が満たされ、安心するのです。先ほども施しと祈りの中でも見ましたが、他人ばかりでなく、自分自身からも「すごいね」と褒められることによって欲求が満たされる。安心する。その自己顕示欲が強くなってしまうのは、恐らく仕事やプライベートが上手くいっていない時に、神を本当に信頼できない、また自分に自信が持てない時ではないでしょうか。そんな時こそ、私たちは人前で善行をしないように気をつけなければなりません。そうでないと、天におられる私たちの父から報いを受けられないからです。その意味は先ほど申し上げた通りです。私たちがそれで十分だと満足してしまい、それ以上神に求める事をしなくなってしまうからです。神は良い者にも悪い者にも恵みの雨を降らせてくださるお方です。神は私たちに、自由に恵みを施そう、良いものを与えたいといつも願われているのに、私たちがそれを求めずに人からの賞賛を求めているならば、恵みを恵みとして受け取ることができないのです。私たち自身が神に求めて受け取ろうとしないからです。袋の口を自らがギュッと締め付けてしまい、神の注がれる恵みを受け入れないからです。そうであってはならないと、イエス様は2節から具体的な例を用いて説明されました。人の賞賛を得ることによって自分を義とするのではなく、自分の良い行いによって自分自身を義として満足するのではなく、ただ神を仰ぎ、神に依り頼み、秘密の部屋で心を神の前に注ぎ出すのです。それが神が喜ばれる私たちの信仰なのです。私たちはそのようにして神に喜んでいただける信仰生活をしてまいりましょう。そして神が私たちに与えたいと願われている報い、身に余る恵みを日々、感謝をもっていただいてまいりましょう。袋の口を気付かぬうちに自分でギュッと締めてしまわずに、口をいっぱいに広げて、神さまがそれを満たそうと仰ってくださっている報いを、身に余る恵みを満たしていただきましょう。そして満たされたならば、それを隣人に注ぎだし、惜しみなく分け与え、神の栄光を人々の間に輝かせてまいりましょう。

神はイエス・キリストを通して約束しておられます。「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る」(イザ4110)。「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます」(マタ2820)。私たちの主を信じ、始まったばかりのこの年も主の恵みに生かされ、歩んでまいりましょう。

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