2023年3月19日 主日礼拝「天の御国に至る道」

礼拝式順序

礼拝前賛美
報 告

開 祷
讃美歌  12番「めぐみゆたけき主を」
主の祈り 564番「天にまします」(参照
使徒信条 566番「我は天地の」(参照
讃美歌  124番「みくにをも宝座をも」
聖 書  マタイの福音書7章13〜13節
説 教  「天の御国に至る道」佐藤隆司牧師
讃美歌  521番「イエスよ、こころに宿りて」
献 金  547番「いまささぐる」
頌 栄  541番「父、み子、みたまの」
祝 祷

本日の聖書箇所

マタイの福音書7章13〜23節

説教題

「天の御国に至る道」

今週の聖句

狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広く、そこから入って行く者が多いのです。

マタイの福音書7章13節

今週の祈り

もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦(ゆる)し……てくださいます。
(Ⅰヨハネ1:9)

愛の父よ。私はあなたの敵でしたが、あなたは友と呼んでくださいました。私を平和をつくる者にしてください。そうすれば、あなたの恵みを人に示せるでしょう。

説教「天の御国に至る道」

マタイの福音書7章13〜23節

前回の箇所には、この世的にも良く知られている「豚に真珠」というみことばが登場しました。そして今日の箇所にも良く知られているみことばが登場します。それは「狭き門」です。今日では受験など激しく競い合い、そこでふるい分けられてしまうことに対して用いられています。しかし、イエス様が用いた本来の意味では、14節で「それを見出す者はわずかである」ということばから、受験のように誰もが目指して我も我もと殺到するのとは逆の、見つけにくい小さな門、人気はないけれども見つけたならば誰でも入ることのできる門だと言われています。

そして続けて「道」と出てきますが、日本語でも道には広い意味があります。私の息子の名前も「道」ですが、ヨハネの福音書14章6節からいただいた名前です。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません」。このみことばからも「道」という語には広い意味があることが示されます。ひとつは“目的の場所に至る通り道”。他に、“ある目的や結果に行き着く道筋”のこと。例えば「合格への道」などと言います。また“人が守るべき道理とか教え”のことを「人の道に背く」などと良く言います。さらには“ある特定の専門分野”のことも道と言い、「その道の達人、茶の道を極める」など言います。さらにさらに、道には“方法とか手段”という意味もあります。「これがあなたが救われる道だ」などです。受難節にあたりもうひとつ覚えておきたいのは、道には“踏み付けられた”という意味もあるのです。踏み付けられて道が出来る。まさにイエス・キリストが踏み付けられて道となられ、私たちはその道を通ってのみ天の父のもとに、天の御国に行くことができるのです。

さて、本朝与えられましたみことば、マタイの福音書7章13節からは、いよいよ山上の説教全体を結ぶイエス様の勧めとなります。

皆さん、これまでイエス様が語られた山上の説教をすべて心に留めておられるでしょうか。イエス様はこの後も何度も同じ内容のことを弟子たちに語り教えられましたが、私たちも何度も何度も山上の説教に聞き、心に留めておきたいと思います。

前回はいわゆる山上の説教の最後のパートでしたが、そこでは私たちの人生の終わりには総決算の時があること。そこで神にさばかれることのないように、ちゃんと天の御国、神の国に入ることのできるために、諦めずに熱心に聖霊を求め続け、聖霊を賜るべきことが語られました。続く今日のところ、山上の説教全体を結ぶところでは、その神の国に入るためには、ある一つの狭き門から入り、一本の細い道を進んで行かなければならないことが語られています。

7章13節      狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広く、そこから入って行く者が多いのです。
7章14節      いのちに至る門はなんと狭く、その道もなんと細いことでしょう。そして、それを見出す者はわずかです。

14節でイエス様ご自身がその説き明かしをしてくださっていますが、「狭き門」「細い道」とは神の救い、永遠のいのち、天の御国に至る門、道であることが分かります。天の御国の入口となる狭き門、天の御国に至る一本の細い「道」。「道」の意味は冒頭でも申しましたが、イエス様はここで具体的に、それはこれまでイエス様が語られた『山上の説教をすべて行うことである』と言っておられるのです。

ところで、イエス様は後に「わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら救われます」(ヨハ109)と言われました。天の御国の入口となる門を通って入り、天の御国に至る道を行く。その道はイエス様が語られた山上の説教をすべて行うことであることは先ほど申しましたが、それを可能とするのは、まずイエス様を真の救い主と信じることから始まるのです。イエス様が私たちに永遠のいのちを与えてくださる真の救い主であることを信じることができてはじめて、門を入り道を行く、具体的にはイエス様が語られた山上の説教をすべて行うことができるのです。そしてそのことによって私たちは確実に実を結ぶことができる、最後まで辿り着き、結果を残すことができるのです。

この門は「狭く」、門を通って歩いて行く一本の道も「狭く、細く」、「それを見出す者はわずか」であるとイエス様は言われます。この「狭い」という語は、ただ幅が狭いことだけではなく、「苦しみがある、苦難が伴う」の意味もあります。どこまでも続く平均台の上を歩く様子を想像すると分かりやすいでしょうか。救い主が語られた山上の説教をすべて行うという天に続く永遠の道は苦しいことであり、難しさを覚えることでもあるのです。イエス様を真の救い主と信じ続けていなければ実行し続けることは不可能です。それはそうでしょう。弟子であるが故に迫害を受けることは確実であるけれども、喜びなさいとか、迫害を恐れずに世の光として光を隠さずに生きなさいとか、弟子であるあなたがたは地の塩として、塩けを保ちなさい。塩けをつけるのは火のような試練である。誰かに対して怒りや恨みの感情さえ抱いてはならない。姦淫してはならないとは、1ミリも貪ってはならない、少しもよそ見をしないで神のみを見つめなさい、絶対に偶像を拝んではならないということ。私たちはすぐに神以外の方にあちこち目を移してしまう者です。何があっても、死の危機に直面しようともとことん神だけを信頼しなさい。敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。偽善者たちのようであってはならない。自分の財産を売って貧しい人に施しなさい。心配してはならない。絶対に人をさばいてはならない。さばくあなたが神にさばかれないために…。どれもこれもし続けるには本当に難しさを覚えるのではないでしょうか。

ですから、その門、道を見出す者はわずかなのです。「見出す」というのは、徹底的に探して、情熱・執念を持ち続けて、そしてようやく見つけることです。苦難の伴う道を説教的に探すことなど、途中で諦めてしまう人もいるかもしれません。最初から嫌だと探し出そうとしない人もいるかもしれません。

そして「入りなさい」は、はっきりとした決断をもって入るべきことを言っておられます。モーセは死を前にしてイスラエルの民に、「私は、いのちと死、祝福とのろいを、あなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい」(申3019)と迫りました。ヨシュアも「あなたがたが仕えようと思うものを、どれでも、今日選ぶがよい」(ヨシ2415)と言いました。エレミヤはこのような主の声を聞いたのです。「見よ。わたしはあなたがたの前に、いのちの道と死の道を置く」(エレ218)。私たちに迫られているのは、決断による一つの道の選択です。その選択を誤らせるものが存在するのです。それが大きく口を開く門、広い道です。誰もが殺到する門。「人の目にはまっすぐに見えるが、その終わりが死となる道がある」(箴1412)と箴言で教えている道。それは、当時のユダヤ人の中では常識的となっていた考えであり、また律法学者、パリサイ人が率先して教える道のこと。「律法を守り行うことによって義とされる、救われる」という道でした。その門は大きく、その道は大勢の人々が行く道で、広い道でした。とても分かりやすいからです。これをすれば救われると、一つの公式のように本当に分かりやすいのです。その公式も人の手によって都合良く改ざんされてしまいました。故に大勢の人が押し寄せる大人気の道だったのです。今の世もそうでしょう。それに比べてイエス様が語られた山上の説教、また十字架の福音、イエス・キリストを信じれば救われることなどは分かりにくく、最初は珍しい教えに大勢の群衆が飛びついたようですが、やがて関心は薄れてしまいました。ついにはイエス様を十字架に架けて殺してしまったのです。その門、道を見出す者、真剣に探し求めること、見つけてはっきりとした決断をもって狭い門をくぐり、狭く細い道を進み続けることの出来る人は少ないのです。弟子にとってさえも難しさを覚えるのです。弟子たちも苦しまれるイエス様の横で眠ってしまったのです。だからこそイエス様は、日々大胆に主の祈りを祈り続けなさいと。そして山上の説教の最後のパート(前回のところ)で自分の目の中にある梁を取り除き続けなさい、砕かれた霊、打たれ砕かれた心をもって諦めずに聖霊を求め続けなさいと教えられたのでしょう。

イエス様は狭く細い道を歩むために、その道を導く存在が必要であることをご存じでした。その道を導く存在こそ祈りであり、聖霊です。祈りと聖霊によって目を見えなくする障害物(罪)が示され取り除かれ、祈りと聖霊によって導かれ、助けられ、ようやく私たちは一つの方向を見出し、日々決断をし、狭き門を通って、狭く細い道を歩み続けて行くことができるのです。そしてその道が本当に幸いな道であることを覚えることができるのです。

私たちには導く存在が必要である。そこでイエス様は続けて15節から「偽預言者に用心しなさい」、偽物のナビゲーターに用心しなさいと言われます。

「用心しなさい」とありますが、その語の意味は、警戒しなさい、注意を傾けて気をつけなさい、特に「その人の言うことに注意を払いなさい」という意味の語です。偽預言者は神の真理ではないことを、神の真理であるかのように語る者のことです。彼らは神のことばを語るのではなく、自分たちの考えを語るのです。もし車のナビがデータに基づく正しい道ではなく、自分で考え出した適当な道へと案内したらどうでしょう。道なき道を行き、崖から転落してしまうかもしれません。

このことを語られた時のイエス様は、明らかに律法学者やパリサイ人を意識していました。彼らは行いによって救われる道を語り、しかもその道は自分たちが勝手に考え出した道であり、それが神の真理であると主張しました。しかしそれはもちろん全くの誤りだったのです。イエス様が教えられる道は、行いによって救われるのではなく、救われた者(弟子)はどのように生きるべきか、その生き方がどれほど幸いであるかを教えておられるのです。

イエス様は世の終わりには偽預言者が出現することを予告しておられました。「偽預言者たちが現れて、できれば選ばれた者たちを惑わそうと、しるしや不思議を行います。あなたがたは、気をつけていなさい」(マコ1322-23)と、前もって話してくださっています。そして聖書が今の私たちに伝えていることは、「今は終わりの時。今や多くの反キリスト(偽預言者)が現れている」(Ⅰヨハ218)と言うことです。彼らは「羊の衣を着てあなたがたのところに来る」、すなわち、神の子らのような格好、ふりをして来るのであり、その教えもまた、目の中に梁のある私たちには真理と見分けが付かないほどのものなのです。また「貪欲な狼だ」とも言われます。この「貪欲」とは、飽くなき、がつがつした、ゆする人、恐喝する、搾取するという意味を持つ語です。私たちは行いによって救われると言われたら、そうだなと思ってしまうのではないでしょうか。またどこかでそうかもしれないと思ってしまっているのではないでしょうか。聖霊に助けていただかなくては、聖書を読んでも、山上の説教を聞いても、あぁ自分は良い行いができなくて駄目な人間だとか、だから救われていないのだとか考えてしまわないでしょうか。いやいや私たちはイエス・キリストの十字架によってすでに救われているのです。偽預言者の声は巧みに心を惑わし、脅迫し恐れを抱かせるのです。迷わせ、真の救いを奪い取ろうとするのです。エレミヤは言いました。「万軍の主はこう言われる。『あなたがたに預言する預言者たちのことばを聞くな。彼らはあなたがたを空しいものにしようとしている。彼らは主の御口からではなく、自分の心の幻を語っている』」(エレ2316)。もしかしたら偽預言者は、私たちの心にも潜んでいるのかもしれません。彼らの語る言葉に注意を傾けて気をつけなければなりません。ペテロは言います。「偽預言者は、自分たちを買い取ってくださったイエス様さえも否定し、自分たちの身に速やかな滅びを招くのです」(Ⅱペテ21)と。またヨハネは言います。「愛する者たち、霊をすべて信じてはいけません。偽預言者がたくさん世に出て来たので、その霊が神からのものかどうか、吟味しなさい。神からの霊は、このようにして分かります。人となって来られたイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。イエスを告白しない霊はみな、神からのものではありません。それは反キリストの霊です。」(Ⅰヨハ41-3)と。私たちは日ごとに使徒信条を真実に告白できているか、偽善はないか今一度自らを省みたいと思います。

偽預言者を見分けるには「実」を見れば良いのです。16節からイエス様は、彼らの言っていること、そして実際の行いを見れば彼らを見分けることができるのだと教えておられます。

イエス様は別のところで偽預言者と呼んで責めておられた人に向かってこう言っておられます。「木の善し悪しはその実によって分かります。まむしの子孫たち、おまえたち悪い者に、どうして良いことが言えますか。心に満ちていることを口が話すのです。良い人は良い倉から良い物を取り出し、悪い者は悪い倉から悪い物を取り出します」(マタ1233-35)。この「倉」というのは、家の中で唯一鍵のかかる格納庫のことであり、それはイエス様も言っておられるとおり、人の心のことです。偽預言者であるかどうかは、実によって、隠された心に満ちていることを話すことばと、隠された心に満ちていることが自然と表に現れる行いによって見分けが付くのです。良い木は必ず良い実を結び、悪い木は必ず悪い実を結ぶのであり、例外はないのです。ですから私たちの心にいつでも聖霊に宿っていただいていなければならないのではないでしょうか。聖霊に満ちていていただき、すべてを導いていただかなければ良い実を結びたくても結べないのです。良い実、それは聖霊の実、御霊の実であり、その実は聖書に説明されています。「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」です。私たちの言葉、行いはこれらに満ちているでしょうか。私たちは一度イエス・キリストとともに罪に死に、御霊によって新しく生まれ、御霊によって生きているのですから、御霊によってこの道を進み続けようではありませんか(ガラ522-25)。

そして悪い木が結ぶ悪い実も明らかです。「淫らな行い、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、遊興、そういった類のものです。このようなことをしている者たちは神の国を相続できません」(ガラ519-21)。

7章19節      良い実を結ばない木はみな切り倒されて、火に投げ込まれます。

18節には「悪い木」とありますが、これを直訳すると「腐った木」です。腐った心です。腐った木、心はその腐れを周囲に広げることのないようにしなければならないのです。そのために徹底的に切り倒されて、火で焼いて徹底的に消滅させなければなりません。聖霊は火に喩えられます。ですからこのこともまた聖霊によるのでなければなりません。聖霊を熱心に祈り求めたいものです。

7章20節      こういうわけで、あなたがたは彼らを実によって見分けることになるのです。

20節はイエス様のすべての弟子たちに適用されるものです。天の御国には「天におられるわたしの父のみこころを行う者」、つまり山上の説教を行う者、それによって実を結ぶ者が入るのです。先ほども触れましたが、私たちは行いによって救われるのではありません。救われた者としてどのようにして幸いに生きて美しい御心にかなった実を結ぶかです。

21節からは、イエス・キリストのいのちによって贖われた大切なあなた、救われた者、弟子とされた者は偽りの弟子となってはいけないのだということが教えられているところです。偽預言者に惑わされて、脇道に迷い出てしまうこともあり得るということでしょう。用心しなさいということでしょう。すべて聖霊に導かれてということでしょう。迷い出た道の先は永遠の滅びだからです。

7章21節      わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。

ルカの福音書でイエス様は言っておられます。「なぜあなたがたは、わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、わたしの言うことを行わないのですか」(ルカ646)。真実な信仰もなく、信頼もなく、実践もなく、ただ空しく「主よ、主よ」と呼びながら道を進むのではなく、イエス様を信じ、信頼し、心から真実に「主よ、主よ」と一歩一歩主イエス様を呼び求め、依り頼み、そのようにして「天におられるわたしの父のみこころを行う者」、つまり山上の説教を行う者、狭くて苦しくて難しさを覚えながらもその道を進んで行く人、イエス様に従い、聖霊に導かれて行く人が、迷い出ることなく天の御国に行き着くことができるのです。

イエス様は私たちが偽りの弟子とならないように、ご自身のいのちをもって贖われた大切な私たちが道から迷い出ることなく、確実に天の御国に入ることができるようにと、真実な愛をもってあえて厳しいおことばを語られます。

7章22節      その日には多くの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言し、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの奇跡を行ったではありませんか。』
7章23節      しかし、わたしはそのとき、彼らにはっきりと言います。『わたしはおまえたちを全く知らない。不法を行う者たち、わたしから離れて行け。』

「その日」とは人生の総決算の日、神のさばきの日のことです。その日、その人がどのように生きたかを審査し、神のみことばに忠実であったかどうか神が審判を下す時を指しています。このことはマタイの福音書の重要なテーマでもあるのです。そしてそのさばきをされる神が、イエス様ご自身であるという、非常に重要なことも言われています。

イエス様に対して「主よ、主よ」と言う告白。それもイエス様との結びつきを保証するものではないようです。そうです。「聖霊によるのでなければ、だれも『イエスは主です』と言うことはでき」ないのです(Ⅰコリ123)。また預言であったり、悪霊を追い出すことであったり、多くの奇跡を行ったり、たとえ力あるわざを行ったとしても、御霊の実によるのでなければイエス様の弟子とは言えないのです。主の御名によって力あるわざを行ったとしても、それが肉の思いによってなされるわざであるなら、やはり偽預言者のわざであると言わざるを得ないのです。主は木(その人とその人の心)、そしてその木が結んだ実(心の倉を満たすもの、そしてその実が言葉や行いとなって現されたもの)を見られるのです。イエス様が指摘したパリサイ人の偽善的な宗教生活、見せかけだけの演技のような宗教生活からも明らかなように、イエス様を心から救い主であると信じて、山上の説教に従順に従う心と行いがなければ、どんなにすばらしいことを行ったとしてもイエス様とは関係がないと言われてしまう。その時、主がはっきりと「わたしはおまえたちを全く知らない。不法を行う者たち、わたしとわたしのことばに不従順な者たち、わたしに背く者たちよ、わたしから離れて行け」と言われてしまう弟子がいる可能性があるということを私たちは心に留めておかなければなりません。もし、そのような悪い腐った状態のまま「その日」、人生の総決算の時、イエス様によるさばきの時を迎えてしまったならば、もう手遅れなのです。腐ったものは火で焼かれなければならないのです。主が門の扉を閉めてしまってから、私たちが外に立って戸をたたき始めて、主を必死に尋ね求めて「主よ、開けてください」と言っても、「おまえたちがどこの者か、わたしは知らない」と言われてしまうのです。もう手遅れなのです。前回は情熱、執念をもって主に求め続けるならば、探し続け、戸を叩き続けるならば、どんな人でも、どんな罪人でも、だれでももれなく答えられることを教えられたのですが、「その日」にはそれは通用しないのです。ですから主は弟子たちに、決して偽りの弟子になってはいけないと、愛をもって厳しいことばを語られるのです。

山上の説教の教えは、私たちが賞賛したり感心するためではなく、従うためのものです。主は実際に結果を出すことを期待しておられるのです。その結果とは、永遠のいのちの実を結ぶことです。信仰告白をすることは簡単であるのかもしれません。クリスチャンの態度も見せかけることができるかもしれません。しかし、ある人が本当にはどのような人物であるかということは、その人の生き方によって必ず明らかにされるのです。名前だけの弟子であることはとても危険なことであると強調されています。信仰告白をしている弟子でも、終わりの時には拒絶されてしまう者がいると警告されています。終わりの日のさばきの時に、イエス・キリストは主であると言い、教会では多くの奉仕を担ってきたと主張しても、イエス様に「知らない」と言われてしまう人がいるのです。とても怖いことです。用心しなければならないことです。

イエス様は偽預言者たちを見分ける方法として、彼らの結ぶ実を見るように教えられました。同様に、自分の信仰と生活について、口ばかりで行いでは神を否定する偽預言者のようになっていないか、目の梁を取り除いていただき、自分自身をしっかり省みて、考えめぐらしてみたいと思います。預言者だけでなく、その人が真の弟子かどうかも実によって分かるのです。私たちは本当にイエス様を「主よ、主よ」と呼び、信じ、イエス様のみことばに従っているでしょうか。父なる神さまのみこころを行っているでしょうか。良い実が、御霊の実が心の倉を満たし、御霊の実による行いが自然と表に現れているでしょうか。私たちの敬虔は偽善的で、肉の思いによるものではないでしょうか。そうでないなら、厳しいことですがその人はイエス様とは何の関係もないので、終末のさばきを免れないのです。あくまでイエス様との関係が重要なのです。それは実によって分かるのです。

聖霊は「主の御霊」また「キリストの霊」とも言われています。聖霊を通してイエス様は私たちとともにおられ、私たちとの関係を密接に持ち続けてくださるのです。ともに天の御国に至る道を歩まれ、導いてくださいます。ですから、聖霊を求め、聖霊を待ち望むのです。どんな罪でも赦されます。しかし聖霊を冒涜する罪、イエス様と私との関係を馬鹿にして軽く見る罪だけは赦されません。

私たちは祈りましょう。私にきよい心を造り、偽預言者の声に対しても揺るがない霊を私のうちに新しくしてください。私をあなたの御前から投げ捨てず、あなたの聖なる御霊を私から取り去らないでください。そして今、聖霊によって自らを深く省みて、主が喜んで受け入れてくださる、砕かれた霊、打たれ砕かれた心、悔い改めと信仰、献身の実を主にお献げすることができるよう、聖霊によって祈り求めつつ、これからも天の御国に向かう幸いな「道」を歩んでまいりましょう。

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