2023年4月16日 主日礼拝「あなたの信じたとおりになるように」

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礼拝式順序

賛  美  新聖歌481「祈ってごらんよわかるから」
      新聖歌38「わが目を開きて」
前奏(黙祷)
招  詞  詩篇100篇1〜5節
讃  美  讃美歌543「主イエスのめぐみよ」
信仰告白  使徒信条 讃美歌566
主の祈り  讃美歌564
祈  祷  
讃  美  讃美歌73「くすしきかみ」
聖書朗読  マタイの福音書8章1〜17節
説  教  「あなたの信じたとおりになるように」佐藤隆司牧師
讃  美  讃美歌515「十字架の血に」
献  金  讃美歌547「いまささぐる」
感謝祈祷
報  告
今週の聖句 マタイの福音書8章17節
頌  栄  讃美歌541「父、み子、みたまの」
祝  祷
後  奏

本日の聖書箇所

マタイの福音書8章1〜17節

説教題

「あなたの信じたとおりになるように」

今週の聖句

これは、預言者イザヤを通して語られたことが成就するためであった。「彼は私たちのわずらいを担い、私たちの病を負った。」

マタイの福音書8章17節

説教「あなたの信じたとおりになるように」

マタイの福音書8章1〜17節

皆さん、イエス様の教会を愛してくださり、本当に多くの犠牲をもってご奉仕くださり心から嬉しく思います。雨の中、会堂のお掃除に来てくださったり、今日のためにきれいなお花や、交わりのご準備、今日の昼食のためにお皿洗いをしてくださったり、私は涙が出そうなくらい嬉しく思います。何よりも今朝こうしてイエス様を愛して遠くは小諸、相模原からも主に礼拝を通してお仕えするためにこうして集われるお一人おひとりのお顔を拝見し、輝いているな、素晴らしいな、嬉しいな、心からそう思います。

ところで、ある先生がこのようなことを言われました。「日本人は御利益が大好きですね。宗教には御利益がなければ信じる価値はないと考えているのではないでしょうか。また、ある宗教を信じてみても御利益がなかったので、また別の宗教を信じてみようと、平気で信仰を取り換える人も多い。そして、宗教の方でも、この神、あるいは仏を信じるなら、病気が治るとか、商売が繁盛するとか、勝負事に勝ったり、入学試験に合格するとか言って、しきりに御利益を宣伝するのです」。先日NHKの朝の番組で、日本一お守りの種類が多い神社というものが紹介されていました。その数なんと880種類以上だとか。人間の願い事というか欲望のほとんどすべてが取り揃えられているのではないかという数です。神主さんは「ここの八幡様は勝負事だけではなく(一般的な八幡神社の御利益は、国家安泰、勝負運、仕事運、出世、厄除け、開運とされている)、オールマイティな神さまなんですよ」と。オールマイティとは「全能」という意味です。確かに私たちも真の神さまをオールマイティ、全能なる神であるとほめたたえられていますが、先ほどのオールマイティ、全能とはまるで意味が違うことは皆さんよくお分かりかと思います。

今日から取り上げます8章と9章には、イエス様が病人を直したり悪霊を追い出したりした記事が記されています。ここからイエス様を信じれば御利益があると受け取る人もおられるかもしれません。しかし、これらの奇跡は決して御利益として行われたものではありません。イエス様ご自身が「だれにも話さないように気を付けなさい」と命じられている通り、イエス様は決して自分の奇跡、オールマイティ、御利益を宣伝しようとはなさらなかったのです。イエス様の奇跡というのは、イエス様ご自身がメシヤ救い主であり、神としての権威をもっていることを具体的に示すために行われたものです。ですから私たちはこれらの奇跡を通して、イエス様がどのような救い主であり、どのような神としての権威をもっておられるのかということをしっかりと認めなければなりません。認めて終わるのではなく、やはり信じるのです。信じるというのは、見て、聞いて、知って、そして信じるのです。ヨハネも言っていますが、「イエスは弟子たちの前で、ほかにも多くのしるしを行われたが、…これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである」(ヨハ2030-31)と言っているとおり、8章9章のしるしも、すべて私たちが見て、聞いて、知って、そして信じていのちを得るために記されたものなのです。

さて、8章1節では「イエスが山から下りて来られると、大勢の群衆がイエスに従った」とあります。弟子たちと弟子たちを取り囲む大勢の群衆に語られた山上の説教を終え、山から下りて来られたところから、次なる場面へと展開されていきます。山上の説教を聞いた弟子たち、そして大勢の群衆は、そのイエス様の教えに驚きました。権威ある者(ユダヤ人にとって「権威ある者」とは、神を指すことばでした)として、神のように教えられたからでした。それで大勢の群衆がイエス様に従って来たのです。

するとどうでしょう。

8章2節        すると見よ。ツァラアトに冒された人がみもとに来て、イエスに向かってひれ伏し、「主よ、お心一つで私をきよくすることがおできになります」と言った。

早速一人の人がイエス様に向かってひれ伏しました。この人はツァラアト(重い皮膚病)に冒された人でした。ツァラアトは当時のユダヤ人社会において、人々から最も嫌われている病気の一つでした。神にのろわれた者と考えられていた不治の病であった上に、伝染する恐れがありました。ですからこの病気にかかった人は隔離されて町の外に住まなければなりませんでした。人々から見離されて、孤独な生活をしていたに違いありません。どのような気持ちで毎日を過ごしていたのでしょうか。しかしこのツァラアトに冒された人は、イエス様の名声を聞いていただまれず、人前に出てはいけないという禁制を破って、人々からどのような目で見られ、どのようなひどい扱いをされるかも承知の上で、イエス様の前に姿を表したのです。「ひれ伏す」と訳されているギリシア語は、「礼拝行為」を表す語です。そして言いました。「主よ、お心一つで私をきよくすることがおできになります」。彼はいやしを行う力がイエス様にあると信じていたのでしょう。しかし自分をいやしてくれるかどうかは確信がありませんでした。決して不信仰ではありません。この人はただイエス様への礼拝を第一目的としていたということでしょう。また押しつけがましく、ぶしつけに「直してください」と自分の願望をイエス様に押しつけるようなことはしないで、「御心ならば」と言いました。自分の意志よりも神の御心を第一にしたのです。これこそ権威ある方、つまり神・イエス様に向かってひれ伏す、礼拝を第一目的としていた証拠です。この世の御利益信仰とは決定的に異なるところです。「直してくれれば信じるけれども、そうでなければ信じない」と言うのとは根本的に異なっているのです。そして彼は「心の貧しい人」でした。心(霊)の貧しさというのは、不信仰とは全く逆で、神のあわれみにすがるしか生きられる術がない、必死で純粋な信仰・信頼です。そのような信仰・信頼の上に、神の自由な恵み(何の力にも束縛されない)によって神の力が現されるのです。

8章3節        イエスは手を伸ばして彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ」と言われた。すると、すぐに彼のツァラアトはきよめられた。

イエス様は彼の信仰を認めて、手を伸ばして彼にさわりました。「わたしの心だ。きよくなれ」と言われ、そのとおりに彼のツァラアトは癒やされたのです。これはイエス様がツァラアトを癒やし、汚れた状態をきよい状態に変えることのできる神の権威をもっておられるということです。さらに並行箇所のマルコの福音書によると、イエス様は「彼を深くあわれみ、手を伸ばして彼にさわり」と記されています。誰かを癒やす際、病人に触れることをあまりしないイエス様ですから、この「触れた」という行為は明らかに意図的、何かの目的があってわざとそうしたのです。イエス様は彼にわざわざ触れることにより、神の権威、それは人をのろう権威ではなく祝福する権威、病気を与える権威ではなく癒やす権威、病人を汚れた者として嫌う権威ではなく、愛しあわれまれる権威であることを示されたのです。それが「わたしの心だ」と言われ、神のみこころであることをはっきりと分かるように示されたのです。

8章4節        イエスは彼に言われた。「だれにも話さないように気をつけなさい。ただ行って自分を祭司に見せなさい。そして、人々への証しのために、モーセが命じたささげ物をしなさい。」

彼を癒やした後このように命じられたのは、すでに大勢の群衆がイエス様に従っている状況で、イエス様のうわさを聞いてもっと多くの群衆が集まり、働きがご自分の意図されたものとは異なって認識され(御利益信仰)、その影響を受けるのを防ぐためだったと思われます。人々が「全能・オールマイティ」の意味をはき違えてしまうことのないようにです。イエス様にはその全能、何でもおできになる神の権威によって人々の罪を赦し、罪の中から人々を救うという救い主としてのもっと大きな使命があったからです。そのためには、病気を直したといううわさは広まらない方が良かったのです。「ただ行って自分を祭司に見せなさい。そして、人々への証しのために、モーセが命じたささげ物をしなさい」と命じたのは、世から隔離されていた彼を社会に正式に復帰させるためでした。

ツァラアトに冒された人を癒やされたイエス様は、公生涯の働きを始めた「カペナウム」に入られます。ここから次なるいやし(奇跡)が起こりました。

8章5節        イエスがカペナウムに入られると、一人の百人隊長がみもとに来て懇願し、
8章6節        「主よ、私のしもべが中風のために家で寝込んでいます。ひどく苦しんでいます」と言った。
8章7節        イエスは彼に「行って彼を治そう」と言われた。

カペナウムはガリラヤ湖のほとりにある町で、ここにはローマ軍の駐屯部隊がいました。百人隊長はローマ軍の軍人で、100人の兵士を指揮する隊長でした。彼は異邦人でしたが、ユダヤ人にもまさる真の神に対する信仰を持っていました。ルカの福音書では、この人は自ら犠牲を払い、ユダヤ人のために会堂を建てたほどの信仰の持ち主でした。なぜ自分のためにではなく、ユダヤ人のためにだったのでしょうか。汚れている異邦人である自分が神の会堂を建て、そこに入ることはできない。だからせめてユダヤ人のために会堂を建てよう。それが神のためになる。神第一。神を愛し自分というものを二の次にする信仰の持ち主だったのです。この百人隊長のいるカペナウムを中心にしてイエス様は伝道活動をしていました。ユダヤ人の長老たちは百人隊長のためにイエス様に申し上げました。「この人は、あなたにそうしていただく資格のある人です」(ルカ74)。敬虔と言うよりも、何だか高慢さを感じてしまいます。イエス様は「行って彼を治そう」と言われましたが、ユダヤ人にもまさる信仰を持つ百人隊長はこう答えました。

8章8節        しかし、百人隊長は答えた。「主よ、あなた様を私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ただ、おことばを下さい。そうすれば私のしもべは癒やされます。

当時のユダヤ人は異邦人を汚れた者とみなしていたので、異邦人である百人隊長は自分の家にイエス様をお入れしてしまうならイエス様が汚れてしまうと考えていました。百人隊長はイエス様を大切に、第一と考えて、イエス様の申し出を謙虚に断りました。自分の家に迎えるには非常に尊いお方であることを認めていたのです。

「行って彼を治そう」、イエス様のお言葉を聞いて驚いたのではないでしょうか。自分が今まで考えていた神の権威とは違う。異邦人を汚れた者とはみなしておられない。異邦人をもあわれまれ、異邦人のもとにわざわざご足労いただけるのだと。しかし百人隊長は答えました。「ただ、おことばを下さい。そうすれば私のしもべは癒やされます」。ただ、おことばを下さい。原文を直訳すると「ひと言だけおっしゃってください」です。そうすれば私のしもべは癒やされますから。

8章9節        と申しますのは、私も権威の下にある者だからです。私自身の下にも兵士たちがいて、その一人に『行け』と言えば行きますし、別の者に『来い』と言えば来ます。また、しもべに『これをしろ』と言えば、そのようにします。」

ここには百人隊長の2つの信仰が見てとれます。1つはイエス様の救い主としての権威に対する信仰です。軍人は上官の命令に従わなければなりませんでした。また隊長としての権威を持っていたので、部下に命令しさえすればそのとおりになりました。それと同じように、イエス様が命じれば、自分のしもべは直ると彼は信じたのです。まさにユダヤ人にもまさる信仰です。イエス様にあるいと高き権威を認め、信頼できたのです。ユダヤ人(律法学者、パリサイ人)は最後までイエス様の権威に反発しました。もう1つは、イエス様のみことばに対する信仰です。百人隊長はイエス様のことばを信じました。そして「ひと言だけおっしゃってください」と言ったのです。イエス様のみことばさえあれば、他に何がなくても直ると信じていたのです。恐らく百人隊長は普段から聖書のみことばに親しんでいたのでしょう。例えば詩篇のみことばが彼の心に深く刻み込まれていたのかもしれません。「主はみことばをおくって彼らを癒やし、滅びの穴から彼らを助け出された」(詩10720)。まさにヘブル人への手紙の著者が言っているとおりに「神のことばは生きていて、力がある」(ヘブ412)と信じていたのでしょう。純粋なみことば信仰。この百人隊長は、聖書信仰のパイオニア(先駆者)のようです。それに対しユダヤの聖書の専門家は、神のみことばである律法を自分の解釈で都合良く変えてしまいました。

イエス様はこの百人隊長の信仰を賞賛しました。異邦人である彼が、ユダヤ人の中にも見出せないような、まれに見る真の信仰の持ち主だったことに非常に驚いたのです。

8章11節      あなたがたに言いますが、多くの人が東からも西からも来て、天の御国でアブラハム、イサク、ヤコブと一緒に食卓に着きます。
8章12節      しかし、御国の子らは外の暗闇に放り出されます。そこで泣いて歯ぎしりするのです。」

世の終わりの時、救いが完成される時、天の御国での祝宴には、東からも西からも、日が昇るところから日が沈むところまで、全世界から主を信じる者が呼び集められるのですが、祝宴の席に着くはずだった選民ユダヤ人は、不信仰のゆえに外に追放されてくやしがり、「泣いて歯ぎしりする」と言われています。「御国の子ら」は、神の国を相続するはずであったユダヤ人を指しています。ユダヤ人だから救われ、異邦人だから救われないというのではなく、だれでも百人隊長のような真実な信仰を持った人が救われるということをイエス様は明らかにされたのです。選民ユダヤ人だからと言っても、律法学者やパリサイ人のような偽善的な信仰、救い主であるイエス様の権威とイエス様のみことばに対する反発的で疑うような姿勢、心では救われないのです。

8章13節      それからイエスは百人隊長に言われた。「行きなさい。あなたの信じたとおりになるように。」すると、ちょうどそのとき、そのしもべは癒やされた。

私たちはここで、自らのイエス様に対する信仰をしっかりと顧みなければならないと思わされます。私たちが信じたとおりになるのです。

続いて第3の奇跡(しるし)が起こります。

8章14節      それからイエスはペテロの家に入り、彼の姑が熱を出して寝込んでいるのをご覧になった。
8章15節      イエスは彼女の手に触れられた。すると熱がひき、彼女は起きてイエスをもてなした。

ペテロの家はガリラヤ湖の岸辺にありました。当時ガリラヤ湖の周辺は湿地帯が多く、マラリアのような高熱を伴う病気が流行していたようです。「熱を出して寝込んでいた」。ここを直訳すると「熱を出して投げ出されていた」となります。流行(はやり)の高熱。同じ家に住む家族からさえも嫌がられ、投げ出されていた。あるいは、彼女のことを本当に心配しながらも何もすることが出来ずに、ただ放っておくことしかできなかったのかもしれません。これほど切ない光景はないのではないでしょうか。イエス様はここでも人に、しかも家族にさえ投げ出されていた病人をご覧になり、深くあわれみ、彼女の手に触れられたのです。すると熱がいやされました。

ここの14・15節で特に目が留まるのが、ペテロの姑はいやされた時、起きてイエス様をもてなしたというところです。彼女はイエス様をもてなしたと。これはイエス様に「仕えた」とも訳せる語です。高熱にうなされながらも、家族にさえ投げ出されていた彼女がいやされた。その感謝と喜びを何とかして表したいという時、イエス様をもてなし、イエス様に仕えるということはきわめて自然なことでした。病気を直された喜びがこれほどのものであるなら、罪から救い出された者の喜びはどれほどでしょうか。私たちの喜びはどれほどでしょうか。しかし、別のところではツァラアトに冒された10人がイエス様に癒やされた時、その内の1人だけがイエス様のところに戻って感謝したという記事があります。他の9人はどうしちゃったのでしょうか。他の9人の感謝は一時だけのものだったのでしょうか。戻って来た1人にイエス様は言われました。「あなたの信仰があなたを救ったのです」と。私たちも救いの喜びを一時だけのものとするのではなく、ペテロの姑のように具体的に表したいと思わされます。主に真心の感謝をもって仕え続け、最後の最後にも「あなたの信仰があなたを救ったのです」と、救いを完成していただける者であり続けたいと思います。

3つの奇跡(しるし)は同じ日になされました。その同じ日の夕方の出来事をマタイは続けて記します。

8章16節      夕方になると、人々は悪霊につかれた人を、大勢みもとに連れて来た。イエスはことばをもって悪霊どもを追い出し、病気の人々をみな癒やされた。

夕方になり、日が落ち始めた頃。おそらく家族や友だちなどでしょうか、人々は悪霊につかれた人を、大勢イエス様のみもとに連れて来ました。薄暗い中、人目を避けるようにして。家族や友だちにさえも恥ずかしい、汚れた存在として扱われている悪霊につかれた人たち。悪霊につかれた人たちの中には、人里離れた墓場に鎖で繋がれ隔離されていた人たちもいたようです。ここでもイエス様はあわれみを示され、権威とみことばをもって悪霊どもを追い出されました。そして病気の人々をみな癒やされたのです。私もかつて教会の門を初めてくぐった時は、自分自身を恥ずかしく思い、情けなく思い、人目を避けるようにして、それでも救いを求めてイエス様にすがるようにして教会に来たことを思い出します。聖書のみことば、イエス様の語られるみことばの中に赦しと慰めを必死に求めた、そして十字架の福音を単純に信じた、信じることができた。信仰が与えられたこともまた主のあわれみと恵みによるものです。「心の貧しい人」、神のあわれみにすがるしか生きられる術がない、必死で純粋な信仰・信頼。そのような信仰・信頼の上に、神の自由な恵みによって神の力が現されるのです。

8章17節      これは、預言者イザヤを通して語られたことが成就するためであった。「彼は私たちのわずらいを担い、私たちの病を負った。」

イエス様は権威をもって、みことばをもって悪霊どもを追い出し、病気の人々をみな癒やされました。マタイはイエス様のこのお働きが、預言者イザヤを通して語られたことが成就するためであったと明かします。イエス様は私たちのわずらいを担い、私たちの病を負われた。私たちの霊的なわずらい、霊的な傷や弱さを自ら引き受けてくださり、私たちの肉的な病をもその身に被ってくださいました。イエス様は悪霊と病気を単に外に追い出すのではなく、ご自分で負われたのです。追い出すだけでは、悪霊と病気はまた戻って来てしまうでしょう。その根本である罪が贖われなければ、悪霊と病気から完全に自由にはなれません。それでイエス様は、悪霊と病気、霊的なわずらい、霊的な傷や弱さ、肉的な病の根本である罪を、ただ一度だけご自身とともに十字架につけられ、土の中に完全に葬り、そしてご自分は復活されたのです。それで罪に完全に勝利され、すべての罪は赦されたのです。過去現在未来の罪はすでに赦されたのです。

先週の「沈香」のことを覚えておられるでしょうか。沈香樹は傷つけられ、土に埋もれ、その傷から樹脂が染み出し、それが燃やされた時に強く甘く心地よい香りを放つのです。イエス様は自らが傷を負い、人を癒やされるお方なのです。「彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた」(イザ532-5)。私たちの傷、様々な苦難、理不尽、心や身体に負った傷。そういったものをすべて十字架のイエス様を信じてすべてお委ねし葬るならば、私たちの傷は主の愛に覆われ、かつての私たちの傷からはキリストの勝利のかぐわしい香りが放たれるのです。私たちの様々な傷も主によって聖められ、キリストの香りを放つものとなるのです。その香りは私自身を、そして周囲の人々を癒やす香り、救う香りとなるのです。

私たちは今日の箇所の奇跡の記事を通して、イエス様がどのような人物であると考えるでしょうか。イエス様はこの私にどのような奇跡をなされたと思われるでしょうか。イエス様は単なる宗教の指導者ではありませんでした。イエス様は御利益をもって人々を引きつけようとはなさいませんでした。御利益をもってご自身の栄光を現そうとはされませんでした。むしろわずらいを担い、病を負われ、そのようにして人々を直す、癒やす、救われる、救い主としての愛とあわれみに満ちた権威を持っておられることを明らかにされました。私たちは、この十字架にかけられ、死なれ、葬られ、しかし3日目によみがえられたイエス・キリストを、謙虚さと純粋な心で救い主として信じ、その愛とあわれみに満ちた権威あるみことばに絶対的に信頼し、救われた大きな喜びと感謝をもって、これからも心から仕えて行こうではありませんか。主を信じ、主を愛し、主を第一として御前にひれ伏し感謝をもって主に仕える者に、心の内にある傷、主への期待などもすべてご存知の主、愛と憐れみに満ちておられる主は、優しく私たちの霊に触れ、みことばの権威をもって「あなたの信じるとおりになるように」と仰ってくださいます。

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