2023年4月30日 主日礼拝「罪人を招き、あわれみを施す」

礼拝式順序

賛  美  新聖歌170「マジェスティ」
      新聖歌18「おお御神をほめまつれ」
前奏(黙祷)
招  詞  詩篇100篇1〜5節
讃  美  讃美歌7「主のみいつと」
信仰告白  使徒信条 讃美歌566
主の祈り  讃美歌564
祈  祷  
讃  美  讃美歌87A「めぐみのひかりは」
聖書朗読  マタイの福音書9章1〜13節
説  教  「罪人を招き、あわれみを施す」佐藤隆司牧師
讃  美  讃美歌517「われに来よと」
献  金  讃美歌547「いまささぐる」
感謝祈祷
報  告
今週の聖句 マタイの福音書9章13節
頌  栄  讃美歌541「父、み子、みたまの」
祝  祷
後  奏

本日の聖書箇所

マタイの福音書9章1〜13節

説教題

「罪人を招き、あわれみを施す」

今週の聖句

『わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。」

マタイの福音書9章13節

説教「罪人を招き、あわれみを施す」

マタイの福音書9章1〜13節

旧約聖書の原語であるヘブル語に「ヘセド」という語があるのですが、これはとても重要な語です。神さまご自身を表す語と言っても良いと思います。その意味は「真実の愛」。本朝の聖書箇所9章13節に登場しています。真実というのは「本物の愛」であり、それは不真実な者をも変わらずに愛される愛。尽きることのない、絶えることのない、信頼に足る、裏切ることのない、確実な愛、つまり「真実の愛」です。また「恵み」「慈しみ」「あわれみ」とも訳される語です。日本人は良く「罰(ばち)が当たった」などと言いますが、真の神はそのようなお方ではないのです。「あいつは罰があたったんだ」、その考えは今日の箇所の中風を患う人を見る群衆の心にもあったようです。しかし真の神は「ヘセド」なる神。「神はヘセドなり、神は愛なり」のお方なのです。たとえ罪を犯したとしても、たとえ病気になってしまったとしても、神さまの愛は真実、変わることも、尽きることも、絶えることもないのです。信頼に足る、裏切ることのない、確実な愛はその人に変わらずに注がれているのです。罪を犯してしまったり、その罰として病気や苦難で苦しめる神ではなく、そのような状況をあわれまれる神。私たちはこの神の愛、あわれみによって招かれ、救われ、イエス・キリストを通して、聖霊を通して神の愛、あわれみが絶えず注がれている。本当に感謝なことであり、ですから私たちは今朝も神の愛の前にただひれ伏す者たちなのです。

さて、本朝与えられましたみことば、マタイの福音書9章1〜13節ですが、ここにもやはり神のヘセド、愛、あわれみが表されている箇所です。しかし、ここで本当に問題にされているのは、前回から続いてイエス様の権威についてです。特に「イエス様が罪を赦す権威を持っておられた」ということです。

イエス様は弟子たちとともにガリラヤ湖を渡り、向こう岸へ行かれました。数日後、イエス様はまた舟に乗って湖を渡り、ご自分の町カペナウムに帰られました。マルコの福音書によると、イエス様がカペナウムに戻られ、家におられることが知れ渡り、多くの人が集まってきて、家の戸口のところまで隙間もないほどになっていたと記されています。イエス様はこの人たちに神のみことばを話しておられました。神のヘセド(真実の愛、あわれみ)を話されていたのではないかと思います。

9章2節        すると見よ。人々が中風の人を床に寝かせたまま、みもとに運んで来た。イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に「子よ、しっかりしなさい。あなたの罪は赦された(赦されている)」と言われた。

ここもマルコの福音書にはもっと詳しい状況が記されています。中風(体が麻痺した)の人は4人の人に担がれていたようです。4人の人は家族なのか友人なのかは分かりません。しかし中風の人を何としてでも直してあげたいという隣人愛。そしてあのイエス様なら必ず直してくださると信じていたのでしょう。その必死さは4人の人の大胆な行動に表されています。これも他の福音書の記述ですが、家の戸口までいっぱいにひしめく群衆のためにイエス様に近づくことができなかったので、なんとイエス様がおられるあたりの屋根をはがし、穴を開けて(他人の家なのに!)、中風の人が寝ている寝床をつり降ろしたのです。イエス様は4人の人の信仰をご覧になりました。隣人愛をご覧になりました。そしてご自分の目の前につり降ろされて来た中風の人を見つめるイエス様のまなざしはどのようなものだったでしょう。ヘセド、愛、いつくしみ、あわれみのまなざしであったことと思います。

イエス様は中風の人を「子よ」と呼ばれました。親しみを込めて「友よ」というニュアンスで言われたのでしょう。そして彼に宣言されました。「しっかりしなさい。あなたの罪は赦された(あるいは赦されている)」。イエス様は決して彼の中風が、彼が犯したある特定の罪によって生じたとは考えておられません。イエス様ご自身言われています。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもない」(ヨハ93)と。

すべての病気が特定の罪によるわけではありませんが、当時のユダヤ社会では、病気はその人の罪の結果であると当然のように考えられていました。罪が赦されることによって病気が癒やされると考えていました。それでイエス様は「しっかりしなさい。あなたの罪は赦された」と群衆の前で宣言されたのでしょう。「しっかりしなさい」とは、聖書の別の箇所では「心配しないで良い、勇気を出しなさい、元気を出しなさい」と訳されている語です。病人にとっては、自分は赦されたという確信が「しっかりする」ための真の動機、力となったのです。またなるのです。

中風、体が麻痺して寝たきりの状態。自分では動けない。誰かの助けがなければ生きて行けない。言葉は話せたのでしょうか。他人から見れば「悲惨な状態」です。当時の人々は噂したことでしょう。「あいつはきっと何かひどい罪を犯したのだ」と。現代もそれは同じなのかもしれません。ある人が悲惨な状態にあると、言葉にはしなくとも、どこかでその人の生き方を非難している、さばいているということはないでしょうか。「この人は一体どのようなひどい罪を犯したのだろうか」。中風の人自身も思っていたかもしれません。「私は一体どのような罪を犯したのだろうか。あのことか、このことか」。罪と言うよりは負い目です。彼は人々の冷たい言葉、冷たい視線をずっと感じながら生きていたに違いありません。それがどれほど辛いことか。人前になんて出たくもなかったでしょう。しかしそのような彼を、心から心配し、愛し、自分を犠牲にしてまでも、自分の時間を犠牲にし、それはつまり自分のいのちを犠牲にすることです。「人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません」(ヨハ1513)。自分たちも罪人の仲間だと思われようが、何とかして直してやりたいという4人の人の病人に対する真実の愛、変わらない愛、あわれみ。

彼らはイエス様の噂を聞いて家族または友人をイエス様の御前に連れて来たのです。しかも思いっ切り目立つやり方で。中風の人はその時どのような気持ちだったのでしょう。群衆の罪人を見る冷たい視線が自分の身に突き刺さるような思いだったのかもしれません。逃げ出したい、辛い、もう嫌だ、どうしてこんな目にあわせるのだ。しかしそのような中で、彼はイエス様のまなざしに感じるものがあったのでしょう。イエス様に心を触れられたような感覚。私も初めてこの教会の門をくぐった時には、誰の目も見ずに一目散に席に座り、不安や恥ずかしさでずっと下を向いていました。けれども心には何かあたたかなもの、神聖なものを感じたことを覚えています。その感覚が私に「心配しないでよい、勇気をだしなさい、元気をだしなさい」と語りかけてくれた気がします。それから続けて礼拝に出席するようになりました。そしてやがて「あなたの罪は赦されているよ」とのイエス様の御声を聞いたのでした。

話しは戻りますが、中風の人に対するイエス様の罪の赦しの宣言は、病気が特定の罪の結果であることを言われているのではなく、単に彼が病気のいやしや苦難からの解放と共に、罪(負い目)の赦しをも必要としていたということです。

9章3節        すると、律法学者たちが何人かそこにいて、心の中で「この人は神を冒瀆している」と言った。

群衆の中に律法学者たちが何人か座っていました。彼らは「ガリラヤとユダヤのすべての村やエルサレムから来ていた」とルカの福音書は記しています。彼らは明らかにイエス様に対して悪意をもって、意地悪なことを言おう、言葉尻を掴んでイエス様を非難し陥れようとたくらんでいたのです。彼らは心の中で「この人は神を冒涜している」と言い、いつイエス様を陥れようかと隙を狙っていたのです。彼らは「罪を赦す権威を持っているのは神だけである、このイエスが罪を赦すと言うのは、まことに神を冒涜していることである」と考えたのです。

9章4節        イエスは彼らの思いを知って言われた。「なぜ心の中で悪いことを考えているのか。

「悪い」と訳された語は、「邪悪な、悪意のある、意地の悪い」という意味の語です。ここからも、彼らはイエス様に対して悪意をもって訴えようと、その機会を虎視眈々と狙っていたことが分かります。イエス様は律法学者たちの心の中をすぐに読み取って言われました。「なぜ心の中で悪いことを考えているのか」。さらに言われました。

9章5節        『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。

もちろん罪を赦すことの方が、病気をいやすことより難しいのは明らかでしょう。しかし「あなたの罪は赦された」というのは、その通りになったのかは確認できないので、無責任に言うことはいくらでもできます。一方「起きて歩け」は、その効果をはっきりと確認できるため、むやみに言ってその通りにならなければすぐに嘘だと分かります。どちらが易しいのでしょうか。

9章6節        しかし、人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたが知るために──。」そう言って、それから中風の人に「起きて寝床を担ぎ、家に帰りなさい」と言われた。

「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたが知るために、わたしは何と言おうか」。新共同訳では「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに知らせよう」と言われています。イエス様の答えは「起きあがって床を担ぎ、家に帰りなさい」と言うことでした。イエス様は病が罪の結果であると当然のように考えていた人々に対して、はっきりとした病の癒やしというしるしをもって、ご自身にある罪の赦しの権威を示され、罪の赦しの宣言をされたのです。すると「しっかりしなさい。あなたの罪は赦された」と先に聞いていた中風の人は起き上がり、家に帰りました。「起きる」という語は、単に体を起こすことだけではなく「目覚める」という意味をも持つ語です。信仰によって目が覚め、心配がなくなり、勇気元気が出て、なんと病も癒やされたのです。心(霊)も身体も神が造られたものです。神は両者に権威をお持ちで、両者は密接に関係していることを考えさせられるところです。

9章8節        群衆はそれを見て恐ろしくなり、このような権威を人にお与えになった神をあがめた。

ここに「人」とありますが、原文では複数形で「人々」となっています。これは文法的に「威厳、尊厳、卓越性」を表しています。つまり群衆はイエス様に「威厳、尊厳、卓越性」を認め、病を癒やし、罪を赦す権威が神によって与えられていることを見たのです。しかしこのお方が神ご自身であると見ることができた人は恐らくいなかったのではないでしょうか。群衆は神を崇めました。ルカの福音書によると群衆は「神がご自分の民を顧みてくださった」と言って神をあがめたそうです。神が自分たちに対する顧み、神が自分たちを気にかけて心を配っておられること、神のあわれみをほめたたえたのです。

続けてマタイの福音書は、神の罪人に対する真実の愛、あわれみ、心の貧しい者に対する真実の愛、あわれみを示していきます。イエス様は弟子たちとともにそこから進んで行きました。群衆もみなイエス様について行きました。するとマタイという人が収税所に座っているのを見て、目を留められ、そして「わたしについて来なさい」と言われました。すると、マタイは立ち上がって、すべてを捨てて立ち上がり、イエス様に従いました。この光景を何か意図をもって弟子たち、また群衆にお見せになったのでしょう。

収税所に座っている税金集めの取税人。マタイはこの人の名前が「マタイ」だと記して、自分自身の話であることを暗示します。いわゆる「証し」です。マタイは自分がローマ帝国の手先のような取税人だったことを明らかにします。取税人たちが行っていた略奪は、ユダヤ人の怒りを買っていました。マタイにはお金はありました。しかし同胞の者たちから軽蔑され、ローマ人からは都合良く利用されていました。幸せな人生だとは到底思えません。マタイもまた「心の貧しい者」だったのです。心の中では、神のあわれみにすがることしか生きられる術がないという自覚があったのだと思います。恐らくイエス様とマタイとはこの時、初対面ではありませんでした。以前からイエス様の教えを人混みを避けて遠くから隠れるように聞いて、ひそかに信じていたのでしょう。私たちの周りにもそのような人たちがいるのではないでしょうか。またはかつての教会に来る前の私たちの姿と重なるのかもしれません。イエス様はそのようなマタイを召し、ご自身に従うように言われました。取税人という職業を捨てて、ご自身の弟子になるように呼びかけたのです。マタイは弟子たちと同様に、すぐに収税所から「立ち上がって」イエス様に従いました。自分の職業を捨ててイエス様に従うことは容易なことではありませんでした。漁師と違い、一度職を離れたら(職場放棄するわけですから)戻ることは出来ず、しかも元取税人を雇う人はあまりいないでしょうから、他の職に就くことも難しかったでしょう。しかしマタイは即座にイエス様の呼びかけに従ったのです。何もかも手放して、それはつまりイエス様にすべて信頼して、お任せして、即座に従ったのです。マタイは後に12弟子の一人に選ばれました。ついにはこのマタイの福音書を書くようになりました。イエス様に対する徹底的な信仰は、マタイをすばらしい弟子に成長させたのです。信仰とは、ためらうことなく、すべてを信じて従うことなのです。心の貧しい者は本当に幸いであると思わされます。

9章10節      イエスが家の中で食事の席に着いておられたとき、見よ、取税人たちや罪人たちが大勢来て、イエスや弟子たちとともに食卓に着いていた。

マタイはイエス様を家に案内し、友人の取税人や罪人たちを招いて宴会を開きました(ルカ529)。ここでの罪人というのは犯罪人のことではありません。パリサイ人の規定を守らない、あるいは様々な事情によって守れない人たちのことです。マタイはイエス様の弟子となった喜びを何とかして表現したかったのでしょう。このような自分に注がれたイエス様のあわれみに対する感謝、返しきれない感謝の思いを表すために、マタイはイエス様を自分の家にお入れし、さらに自分と同じような境遇の人々にイエス様を紹介したのです。人々の前でイエス様の素晴らしさ、罪人をも愛しあわれまれる素晴らしいイエス様を紹介し、人々の前でほめたたえたのです。イエス様はその様子を微笑ましくご覧になっていたのではないでしょうか。イエス様は食事をともにされました。食事をともにするとは、親密であることを示す印です。イエス様は好んでこのように望ましくない者たちと一緒になることで知られていますが、これは福音書が描くイエス・キリストの姿にみられる一貫した特徴です。

9章11節      これを見たパリサイ人たちは弟子たちに、「なぜあなたがたの先生は、取税人たちや罪人たちと一緒に食事をするのですか」と言った。

イエス様の行動をずっと監視していたパリサイ人たちは、この様子を見て弟子たちに言ったのです。「なぜあなたがたの先生は、取税人たちや罪人たちと一緒に食事をするのですか」。いやらしい、悪意に満ちた言葉と行動ではないでしょうか。パリサイ人は、律法と長老たちの言い伝えを徹底的に守る自分たちこそが正しくてきよいと考え、それをしない人々と異邦人を見下していました。それでイエス様を非難し、そして弟子たちに「このような先生について行くのか」と言い、「弟子をやめてしまえ」と仕向けているようです。

9章12節      イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。

イエス様に聞かれてしまったのですね。パリサイ人たちの軽蔑に対して、イエス様はご自分を「医者」にたとえ、「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です」と語られました。「丈夫な人」とは、自分こそ正しい人間であると自負しているパリサイ人を指し、「病人」とは、自分の罪を自覚している取税人や罪人を指しています。「医者」はもちろん、イエス様ご自身のことです。イエス様は「わたしはあなたがたのように、自尊心に満ちて、自分の罪を認めないような人々を救うためではなく、自分の罪を認め、救いを心から求めている取税人や罪人を救うために来たのです」と言われたのです。イエス様のメシヤ救い主としての使命は、自分の正しさに自己満足しているパリサイ人を招くことではありませんでした。また本当に神との正しい関係に生きているなら招く必要もないのです。むしろ救い主を真に必要としている者を招くことに使命があるのです。

イエス様は良い医者です。良い医者というのは、病を直すことだけではなく、苦しむ者に心から寄り添い、苦しむ者の声にとことん耳を傾ける医者です。イエス様はまことにあわれみに満ちた良い医者です。

当時のユダヤ人が待ち望んでいたメシヤ。それは正しい人を救い、罪人をさばくために来るというメシヤ像でした。つまりパリサイ人たちは、メシヤなら取税人や罪人をさばき、自分たちを召して救うはずだと考えたのです。ですから罪人を癒やし、罪人を招くというイエス様の働きは、当時のユダヤ人、特にパリサイ人たちが待ち望んでいたメシヤ観の逆をいくものです。そのような彼らに対して、イエス様はホセア書6章6節を引用し、それがどういう意味かを学びなさいと語られました。本来パリサイ人たちには、人々を神の義、救いへと導く働きが期待されていました。そのような彼らにこのように言われたのです。

9章13節      『わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。」

「どういう意味か、行って学んで来なさい」というのは、典型的なラビの定型句であり「よく考えなさい」という勧めです。ホセアの預言にある神の御心はなにか、よく考えなさいと言われるのです。

「わたしが喜びとする」とは、「わたし(神)が望む、重視する」という意味です。そして「真実の愛」は本物の愛であり、それは不真実な者をも変わらずに愛される愛、尽きることのない、絶えることのない、信頼に足る、裏切ることのない、確実な愛、「あわれみ」です。神は「あわれみ」の心を重んじられるのであって、「いけにえ」のような形式を重んじられるのではないという意味です。パリサイ人のように形式ばかり問題にして、大切な「心」を忘れているのは誤り、間違っていると。律法学者たち、パリサイ人たちは祭儀的、形式的なきよさを誇って罪人を見下し悪口を言い、馬鹿にして笑いました。しかし神は罪人に対する愛、あわれみを、いけにえよりも重視されるのです。病人、罪人である取税人たちに手を差し伸べることをしない彼らは、「わたしが喜びとするのは、重視するのは真実の愛、あわれみであって、いけにえではない」という神の本当の御心を理解していないのです。イエス様が言われる通り、どういう意味か、行って学んで来るべきでした。よく考えるべきでした。イエス様がこう言われるのも、律法学者やパリサイ人たちをも真実な愛をもって、あわれみをもって招き、召しておられるからでしょう。しかしパリサイ人たちは、自分たちは義人に属すると考えていました。彼ら自身も神の助けが必要であることを、彼らは知りませんでした。知ろうともしませんでした。神の愛、あわれみ、恵みは値なしに与えられますが、自分には必要ないと言うならばそれまでなのです。

イエス様は今も、ご自身がなさった働きに聖徒を召しておられます。前回は「わたしとともに、向こう岸に渡ろう」と命じられました。今日の箇所では、向こう岸から再び、イエス様が弟子を召し、数々のしるしをなさったカペナウムに戻られ、そこでの出来事を通して召しておられます。群衆と同じ罪人であった私にイエス様は真実の愛、あわれみを示され、悟らせ、罪・負い目から解放し救ってくださった。かつての私たちは神も知らず、神に背く罪人でした。罪の中で苦しむ私たちを神はあわれんでくださり、私たちのためにイエス・キリストを十字架に架けられたのです。「私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます」(ロマ58)。そしてイエス・キリストの血の代価をもって私たちを罪から贖い、私たちを救い、解放し、イエス・キリストの弟子として召してくださった。今日もイエス・キリストは生きておられ、あわれみによって日々の負い目を赦し、救ってくださっている。

イエス様は、中風の人の癒し、またマタイを弟子として受け入れることを通して、ご自分に罪を赦す権威があることを私たちに示してくださいました。またイエス様は中風の人、またマタイを弟子として受け入れることで、弟子たち(私たち)に愛とあわれみを忘れてはならないと強く教えておられます。主が私に注いでくださった慈しみに満ちたまなざし、そして受けたあわれみと恵みをいつも覚え、隣人に神のすばらしさを証ししてまいりましょう。そのために、弱く小さい人たちを顧みることに、私たちの体と心をお献げしなければなりません。誠の愛には犠牲がともなうものです。私たちの体と心、また時間、それはつまり私たちの「いのち」をお献げし、主の愛に応え、主に従ってまいりましょう。イエス様が来られた目的は、罪人を救い、ご自身に従う弟子とするためでした。そして私たちは救われ、イエス様に従う弟子とされた者たちです。私たちは神のヘセド、真実の愛、あわれみを隣人に注いで行くことに召されています。あわれみを知らない、知ろうともしない律法学者やパリサイ人たちのようではなく、神のヘセド、真実の愛、あわれみを受け、深く経験した者として、隣人に受けたヘセド、真実の愛、あわれみを実践して、神の召しにふさわしく歩んでまいりましょう。

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