2023年7月2日 主日礼拝「わたしにつまずかない者は幸い」

礼拝式順序

賛  美  
前奏(黙祷)
招  詞  詩篇100篇1〜5節
讃  美  讃美歌544「あまつみたみも」
主の祈り  讃美歌564
祈  祷  
讃  美  讃美歌11「あめつちにまさる」
聖書朗読  マタイの福音書11章2〜19節
説  教  「わたしにつまずかない者は幸い」佐藤隆司牧師
讃  美  讃美歌501「いのちのみことば」
聖餐式   信仰告白(使徒信条・讃美歌566)
      讃美歌207「悔いたるものに」
献  金  讃美歌547「いまささぐる」
感謝祈祷
報  告
今週の聖句 マタイの福音書11章6節
頌  栄  讃美歌541「父、み子、みたまの」
祝  祷
後  奏

本日の聖書箇所

マタイの福音書11章2〜19節

説教題

「わたしにつまずかない者は幸い」

今週の聖句

だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです。

マタイの福音書11章6節

説教「わたしにつまずかない者は幸い」

マタイの福音書11章2〜19節

11章1節をもってイエス様の弟子派遣説教が終わり、イエス様は12弟子たちを宣教へと送り出されました。今朝の箇所である2節から、イエス様の公生涯における福音伝道活動、その3本柱である①説教②しるし(癒やし)③弟子訓練へと本格的に移って行きます。

今朝の箇所でイエス様は、ご自分の周りにいる群衆を、ご自分こそが世(あなたがた)が長い間待ち望んでいた真の救い主メシアであることを悟ることができるように導き、彼らがご自身に対する信仰を持てるように、そしてここから信仰者となって弟子となって歩き出すことができるように助け励ましてくださっています。まずイエス様が真のメシアである根拠は何なのか。人は根拠がなければ信じることなどできません。信仰とは本来、しっかりとした根っこを頼みとしてすがる理性的なものなのです。何も知らない何かを信じることなどできないでしょう。信じられる理由が必ずあるのです。もしかしたらその理由が少しずれてしまっていることもあり得ます。バプテスマのヨハネの質問に対して旧約聖書の預言から紐解き、その答え通してご自分がメシアであることの根拠を示し、彼らを真に信じる者へと導こうとしてくださっています。

11章2節      さて、牢獄でキリストのみわざについて聞いたヨハネは、自分の弟子たちを通じて
11章3節      イエスにこう言い送った。「おいでになるはずの方はあなたですか。それとも、別の方を待つべきでしょうか。」

「おいでになるはずの方」は、メシア・救い主を指すのにたびたび使われています。バプテスマのヨハネは、このイエス様が、自分が待っていた救い主かどうかについて弟子たちを遣わして尋ねました。このヨハネの態度は理解に苦しみます。イエス様の通られる道を備えていたヨハネが、なぜこの時になって「来るはずの方はあなたなのか」と尋ねたのでしょうか。それは、イエス様が世に現れた後も、世の中は政治的に何の変化もなかったからでしょう。ヨハネはキリストが来られたら自分の働きが完成すると考えていたのでしょう。それなのに自分は牢に投げ込まれたまま。私たちもイエス様に熱心に仕えて状況が良くなると思っていたのに、そうでないことを見るとヨハネのような疑問を抱くことがあるのではないでしょうか。ヨハネは牢獄でキリストのみわざについて、自分の弟子たちの報告を通して聞いていました。ところが、その様子は自分が考えていたメシア像と一致しなかったのです。そして疑問を持ちました。マタイ3章11・12節を見ると、ヨハネはメシアが聖霊と火でバプテスマを授け、人々を起こし、悪の異邦の国々を打ち、ご自分の民とそうでない者たちを分けて、そうでない者たちに対しては消えない火で焼き尽くすという厳しいさばきを執行されると考えていたようです。ところがイエス様は、一人の病の人を癒やしたり、一人の心の傷ついた人を慰めたり、一人の目の見えない人の目をあけてやったりというように、たった一人ひとりのことしかなさらない。もっと大きな素晴らしいことをするほうがキリストであるはずと疑いが起きて、そこでイエス様のところに自分の弟子たちを遣わし、3節のように尋ねさせました。

11章4節      イエスは彼らに答えられた。「あなたがたは行って、自分たちが見たり聞いたりしていることをヨハネに伝えなさい。
11章5節      目の見えない者たちが見、足の不自由な者たちが歩き、ツァラアトに冒された者たちがきよめられ、耳の聞こえない者たちが聞き、死人たちが生き返り、貧しい者たちに福音が伝えられています。

ルカの福音書を見ると、ヨハネの弟子たちがイエス様のもとをたずねた時、まさにちょうどそのころ、イエス様は病気や苦しみや悪霊に悩む多くの人たちを癒やすなど、5節に要約されているしるしをなさっておられました。これらすべて、実は預言者イザヤの預言の成就でした。ヨハネは自分の弟子たちから聞いたイエス様のお答えに、ハッと気づかされたのではないでしょうか。自分なりのメシアに対する期待に執着し、イエス様を疑ってしまっていたことを悔い改めたことでしょう。ヨハネは神のことば、聖書のみことばを通して、イエス様がイザヤが預言したイスラエルの救い主、終末の回復をもたらす者として来られた方であることを知っていながらも忘れており、そのことを思い起こさせられ、そして根拠に立ち返って、へりくだって素直に信じて受け入れたのでしょう。そのように、誰でも自分なりのメシアに対する期待に執着してイエス様がメシアであることの根拠、神のことばを忘れてはならないし、また神のことば、根拠に立ち返ってイエス様を拒まずに、へりくだって素直に信じて受け入れるならばその祝福を得るのです。

11章6節      だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです。」

「つまずかない」と訳されている語ですが、「腹を立てない」とも訳せる語です。「だれでも、わたしに腹を立てない者は幸いである」。イメージと違うからといって腹を立て、拒んでしまう者は真に不幸なのです。

先日、レディスランチョンのコンサートが行われました。コンサートが終わった後、私と妻と私の母とで昼食を食べに回転寿司のお店に行きました。そこで妻がびんとろを注文したのですが、お皿にのって目の前に現れた実物が、注文時に見た写真の色とまるで違っていました。これは本当に私が注文したびんとろなのか、びんとろに向かって「おいでになるはずの方はあなたですか。それとも、別の方を待つべきでしょうか」という話しになり、しかしおそらく信仰深い妻はびんとろと信じていただきました。造り主を信じたのです。そこで自分のイメージと違うからと言ってつまずいて、腹を立てて突っ返してしまうならば、その人は真に不幸です。祝福に与れないからです。せっかく目の前に美味しい本物のびんとろを「さあ、どうぞ召し上がれ」と差し出してくれた造り主の優しさ、愛を蹴飛ばすようなものです。どれほどがっかりされることでしょう。造り主が私たちと同じ人間であるならば、勝手にしろと腹を立てるところでしょうか。しかし父なる神さまは腹を立てるどころが、根気よくその根拠を示してくださるお方です。

イエス様は疑いを抱くヨハネに、自分のイメージと違うからと言ってつまずいてはならない、腹を立ててはならないと、丁寧に聖書のみことばを通して教え、励まし、導き、彼が本当の救い主を信じる信仰を持てるように助けてくださいました。メシアは状況を一気に、奇跡的に、力強く好転させるのではなく、イザヤが預言したとおり、救い主は一人のツァラアトに冒された人をきよめるために、汚れた霊につかれている一人を正気に返すために、一人の目の見えない人の目をあけてやったり、一人の人を神の前に立たせるために、一人の貧しい人に良い知らせを告げるために、一人の心の傷ついた者を癒やすために、一人の捕らわれ人を解放し、一人の囚人に釈放を告げるために来られるのであり、それはまさにわたしではないかと。救い主に対するイメージが違うからといって腹を立て、すぐに目をそらすのではなく、私たちの中からではなく、神の語られるみことばの中からしっかりと答えを求めなければなりません。それは私たちの知識となり、またしっかりとした信仰の土台となるのです。信仰には正しい知識が必要なのです。

さて、悔い改めと天の御国の到来を告げていたヨハネが捕らえられて牢獄に入れられてしまった。その事実に対してイエス様は群衆に向かって語り始められます。

11章7節      この人たちが行ってしまうと、イエスはヨハネについて群衆に話し始められた。「あなたがたは何を見に荒野に出て行ったのですか。風に揺れる葦ですか。

ヨハネは、状況によって心が揺れる弱い人であろうか。そのような人をあなたがたは見に行ったのか。イエス様の答えは「当然そうではないでしょう」です。

11章8節      そうでなければ、何を見に行ったのですか。柔らかな衣をまとった人ですか。ご覧なさい。柔らかな衣を着た人なら王の宮殿にいます。

王の宮殿にいて柔らかな衣を着た政治権力者や官僚のような人を期待してヨハネの所に行ったのか。イエス様の答えは「当然そうではないでしょう」です。

11章9節      そうでなければ、何を見に行ったのですか。預言者ですか。そうです。わたしはあなたがたに言います。預言者よりもすぐれた者を見に行ったのです。

そうでなければ、ヨハネの何を見に、何を期待して言ったのか。彼が神の預言者だからか。「そうです、そのとおりです。彼は神の預言者です。彼は預言者よりもすぐれた者である」。世の権力者に捕らわれ牢獄に入れられてしまっている、迫害されているヨハネに対する最高の評価です。ヨハネの働きに対する最高の評価です。その理由は、ヨハネが神の救い、イエスの道を備える、神が選び、神が遣わされた神の使いであるからです。救いの道、イエスの道を備える使いが、バプテスマ(洗礼者、洗礼を授ける者)ヨハネであるということです。

11章10節    この人こそ、『見よ、わたしはわたしの使いをあなたの前に遣わす。彼は、あなたの前にあなたの道を備える』と書かれているその人です。
11章11節    まことに、あなたがたに言います。女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネより偉大な者は現れませんでした。しかし、天の御国で一番小さい者でさえ、彼より偉大です。

神に選ばれ、神に遣わされたヨハネに対する最高の評価。当時、他の誰も知らなかったイエス・キリストを証しし、その到来を告げた。それがヨハネの働きでした。まるで私たちではないでしょうか。「しかし、天の御国で一番小さい者でさえ、彼より偉大です」。それは私たちのことでしょう。イエス様はこの世で一番小さな者、弱い者、学のない者、取るに足らない者をお選びになり、福音を知らせ、救い、そしてご自身の働きを委ねられるのです。ご自身がお選びになり、召された者に最高の評価を与え、信じてご自身の働きを委ね、世の人々の間へと遣わされるのです。「ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい」(マタ2820)。私たちは出て行って福音を宣べ伝え、彼らにバプテスマを授ける者たち。神の救い、イエス・キリストの道、救いの道を準備、整備するために神が遣わされる神の使い。私たちはそれぞれ一人一人がバプテスマ、洗礼者、洗礼を授けるヨハネならぬ、「バプテスマの○○」なのです。私たちに最高の評価を与え励まされるのです。私たちは自分の状況によって心が揺れてしまう弱い者かもしれません。権力者でもなく、取るに足りない者。けれども偉大な預言者とされており、世の人々は預言者を求め、期待し、私たちのところに出向いてくるかもしれません。あなたがたは心を強くしなさい。わたしを信じなさい。わたしは世の終わりまであなたとともにいるのだから。恐れてはならない、おののいてはならない。正しくわたしを宣べ伝えなさい。あなたがたは「目の見えない者たち、神が見えない者たちを神が見えるようにしなさい。悪霊を追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいを癒やしなさい。耳の聞こえない者たちの耳を開き、死人を生き返らせなさい。それはつまり、貧しい者たちに福音を伝えなさいということ。貧しい人に良い知らせを伝え、心の傷ついた者を癒やし、罪に捕らわれる人には解放を、罪の囚人には釈放を告げなさい。

また、イエス・キリストの真の弟子のイメージとはかけ離れていると思っている私たちであっても、私たちを選びご自身の働きに召してくださった主を疑い、主につまずき、「どうしてこのような私なのか」と、主に腹を立ててはならないのです。また自分自身につまずき、腹を立ててはならないのです。主ご自身が私たちに最高の評価を与えてくださっているのですから。主の目に私たちは高価で尊い者として映っているのですから。その主を信じて、主の愛と信頼に応え、主の愛と福音をこの世に伝え、現して行く者でありたいと願わされます。

11章12節    バプテスマのヨハネの日から今に至るまで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。

天の御国、神の国とは、神が愛をもって支配される世界、神の愛による支えと配慮の世のことです。それは遠く離れたところにではなく、私たちの間にあるのです。イエス様は罪人と親しくすることで神の赦しとあわれみをこの世に現されました。病を癒やし、悪霊を追い出すみわざを通して神の愛と力をこの世に示されました。何よりもイエス・キリストの十字架と復活を通して、私たちに対する愛を明らかにしておられます。それらは私たちが経験したことであり、そのすべてが天の御国がイエス・キリストによって世に到来したことを証明しています。ヨハネの時から、律法の時代は終わりを告げ、恵みの時代に入りました。律法が厳しく求める時代が終わり、恵みの時代が開かれました。天の御国は、主の恵みの救いをただ信仰によって受け入れる者に与えられるのです。しかし求めずに、必要だとも思わない者、自分の力で得られると思っている者、疑い信じない者には、天の御国は閉ざされています。主のあわれみと恵みを求めて、探し叩き続ける者に開かれたところなのです。しかしこの時代、この世の悪、悪霊はそのところを激しく攻めてくるのです。反対するのです。人々から神の祝福、恵みを何としても奪い取ろうとするのです。神の恵みを疑わせ、ただ感謝して受け取ることができないようにするのです。ある時には疑いを抱かせ、ある時にはつまずかせ、腹を立たせ。またある人を豹変させ、迫害する者とし、迫害によって祝福を奪い取ろうとする。ヨハネを牢獄に入れたヘロデ王はその代表のようです。

11章14節    あなたがたに受け入れる思いがあるなら、この人こそ来たるべきエリヤなのです。

神が選ばれ、神が遣わされる者、神の救い、イエス・キリストの救いの道を備えさせる者。その人が自分のイメージと違っていたとしても、受け入れるならば祝福に与れるのです。また神が選ばれ、神が遣わされる私、神の救い、イエス・キリストの救いの道を備えさせる私が、私の現状が、迫害であったり、みじめであったり、まるで自分のイメージと違っていたとしても、信じて受け入れるならば祝福に与れるのです。それでも神の選びと救い、召しを信じて受け入れるならば、様々な神の素晴らしい祝福に与れるのです。「耳のある者は聞きなさい」。バプテスマのヨハネについてのイエス様の説明、またバプテスマの○○、私たちについてのイエス様の説明が理解しがたくても受け入れなさいと、イエス様は強く勧めておられます。私たちが祝福に与るためにです。

16節からは、イエス様とイエス様の弟子たちの働き、天の御国の福音を宣べ伝える働きに対する「この時代」の反応が記されます。
11章16節    この時代は何にたとえたらよいでしょうか。広場に座って、ほかの子どもたちにこう呼びかけている子どもたちのようです。

イエス様は天の御国の福音に対する「この時代」の反応を、「広場に座って、ほかの子どもたちに」不満を言うことにたとえて説明されます。

11章17節    『笛を吹いてあげたのに君たちは踊らなかった。弔いの歌を歌ってあげたのに胸をたたいて悲しまなかった。』

子どもたちが他の子どもたちに「結婚ごっこをしよう、葬式ごっこをしよう」と言っても答えない、つまりお誘いに対する無関心、無反応を言われています。愛の反対は無関心。「この時代」と言われる今の時代は、まさに無関心、愛の冷めた、愛のない時代、つまり終わりの時です。

11章18節    ヨハネが来て、食べもせず飲みもしないでいると、『この人は悪霊につかれている』と人々は言い、
11章19a節  人の子が来て食べたり飲んだりしていると、『見ろ、大食いの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ』と言うのです。

真の愛を求めながらも、真の愛には無関心。自分なりの愛を求める時代。むさぼり、偶像礼拝の時代。そして真の神の愛には無関心なくせに、批判だけは立派にする、そのような時代に私たちは遣わされています。しかしそのような人々の反応に関係なく、イエス様は預言を成就されます。天の御国を到来させられるのです。粛々と時は進み、預言は成就に向かっています。その時、神の愛がすべての人の目に、完全に明らかに示されるのです。

11章19b節  しかし、知恵が正しいことはその行いが証明します。」

世は終末の時、終わりの時、最終的なさばきの時へと向かって粛々と進んでおり、その流れの中で神は常に、すべての人がイエス・キリストを信じて救われるようにと願っておられます。私たちはその神によって選ばれ、神がすべての人が救われることを願っておられる人々の所へと遣わされている者たちです。

あのバプテスマのヨハネさえ、イエス様が自分が待っていたメシアかどうか疑いました。イエス様が世に現された後も、自分の悪い状況も、世の悪い状況も、何も変化がなかったからです。これに対してイエス様は、ご自分がメシアであることを悟れるようにヨハネを導き、彼が信仰を持てるように助けてくださいました。イエス様がメシアである理由と根拠を、みことばをもって示されたのです。私たちもイエス様に勝手なメシア像を描いて、それと少し違うからと疑ってしまってはいないでしょうか。多くの人は、現実の中で抱える財政的な問題や子どもたちの進路を祝福して解決してくださることしか期待していなのかもしれません。しかしイエス様はあらゆる困難や問題の根源である罪を解決してくださる救い主です。私たちはこのイエス様を証しするために選ばれ、救いを経験し、そして召されているのです。罪の解決こそすべての問題解決の根源であることを信じているでしょうか。

イエス様がメシアであることを悟って信じた私たちには、福音を世に正しく伝える責任があります。世の人々は光のない闇の中をさまよう、目の見えない人のようですが、それすら自覚せずに生きているのです。かつての私たちです。そしてかつての私たちのところにイエス・キリストの福音が証しされたように、今度は私たちがイエス・キリストの福音を証しし、世に伝えてまいりましょう。自分のところに誰からどのようにして福音が届いたか、思い出してみるのも良いでしょう。私たちは罪と闇に満ちた世にいる人々がイエス様ににあってまことの光を見出し、真の救いを得られるように助けてまいりましょう。そのために私たちは、私たち自身がイエス・キリストに対する正しい知識と信仰に満たされていなければなりません。正しい情報が伝えられないということは、ヨハネの信仰さえも動揺させるほど、恐ろしいものです。私たちは今日、聖書を通してイエスに関する正しい情報をいくらでも、欲するままに、自由に得ることができます。これは実に大きな恵みであり、私たちに与えられた特権です。この特権を無駄にしないように、積極的に聖書を学んで、聖霊に依り頼み、イエス様に対して正しい情報を得、知識を得て、さらに知識とともにますます信仰が誤り無く深められるように求めて行きたいと思います。そして救い主イエス・キリストに対する正しい知識と信仰を、世の人々に、悩みの中、闇の中にいる人々に自信を持って伝えてまいりましょう。そして私たちの師であるイエス様がなさったように、人々の間で、一人ひとりに神の愛を現してまいりましょう。

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