2023年8月13日 主日礼拝「良い地になって実を結ぶ」

礼拝式順序

讃  美
前奏(黙祷)
招  詞  詩篇23篇1〜6節
讃  美  讃美歌79「ほめたたえよ造り主を」
信仰告白  使徒信条 讃美歌566
主の祈り  讃美歌564
祈  祷
讃  美  讃美歌529「ああうれし」
聖書朗読  マタイの福音書13章18〜30節
説  教  「良い地になって実を結ぶ」佐藤隆司牧師
讃  美  讃美歌229「まくものいそしみ」
献  金  讃美歌547「いまささぐる」
感謝祈祷
報  告
今週の聖句 マタイの福音書13章23節
頌  栄  讃美歌541「父、み子、みたまの」
祝  祷
後奏(黙祷)

本日の聖書箇所

マタイの福音書13章18〜30節

説教題

「良い地になって実を結ぶ」

今週の聖句

良い地に蒔かれたものとは、みことばを聞いて悟る人のことです。本当に実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます。」

マタイの福音書13章23節

説教「良い地になって実を結ぶ」

先週は、「弟子」と「群衆」と呼ばれる人たちとの間にある大きな違いについて見ました。「弟子」というギリシヤ語の意味は、「教えを受ける者、学ぶ者」という意味の他に、「瞳孔(ひとみ)」という意味があるということ。そして古代では弟子になると師匠と生活を共にすることが普通だったことから、「弟子」=「ともに住みながら学ぶ者、模範に従う者」をも意味しているということを見ました。イエス様が弟子と呼ばれるのは、イエス様から教えを受ける者であることはもちろんのこと、イエス様と生活を共にし、四六時中一緒にいて、個人的なつながりを持って仕えながら、常にイエス様のおことばやされていることに注目し、積極的に学ぼうとする求める心、飢え渇きをもって、まるで盗むようにしてイエス様のすべてから学ぼう、恵みを受け継ごうとする人をイエス様は「わたしの弟子」と呼ばれるのでしょう。

その「弟子」とは対照的な立場として「群衆」と呼ばれる人たちがいます。彼らはただイエス様を追いまわし、興味本位に、中には最初から非難する目的でイエス様の話に遠くから耳を傾ける人たち。またイエス様にしるしを求める、何か自分に益となることをイエス様に期待し求めるだけの人たちです。両者の求める姿は同じなのかもしれません。しかし求める心や態度には大きな差があるのです。群衆は本当の意味でイエス様を信じようとはせず、弟子たちのようにイエス様に献身することもなく、ただ群れをなしてイエス様について回っただけ。そのような人たちに、イエス様はたとえをもって語られました。

そのたとえは13章53節で「イエスはこれらのたとえを話し終えると」と記されているところまで、たとえを語られるイエス様ご自身による弟子たちへの説き明かしを交えながら丁寧に語られていきます。ここに記されているたとえは、しばしば「御国のたとえ」と言われています。そして、実際にこれらのすべてが明らかに「天の御国」について語られているのですが、そこにイエス様が設定されている主題(テーマ)があります。それは「神の国について語る説教に対して、人々がどのように反応するか」というものです。

前回の13章1節から、種のたとえが語られました。そこには4種類の種について語られています。それは聞く者たちの受け入れ方も様々であることに注目させるためです。すべての人が「同じことばを聞いている」。にもかかわらず、どうして様々な反応を引き起こすのか。様々な反応というのは、熱狂的に受け入れられる場合から完全に拒絶される場合まで、実に様々なのです。

13章1節からのたとえを良く見ると、どうやら種は同じようです。しかも良い種です。同じ良い種が蒔かれながら、ある種は実を結ばず、ある種は100倍の実を結ぶ。今日の18節からはイエス様ご自身による1節からのたとえの説明がされていますが、善し悪しを決定づけるのは、明らかに種ではなく蒔かれた土の方なのだということが分かります。しかしここに、このたとえの与える励ましがあるのではないでしょうか。ある者は実を結ぶことができないというのではなく、だれでも実を結ぶことができるのだという励ましを、イエス様はこのたとえを通して与えてくださっているのです。なぜならすべて良い種が蒔かれているからです。イエス様が世に降られたのは、人を裁くためではなく、救うために来られたのだという聖書のみことば、父なる神の御心を、ここでも忘れてはならないのだと思います。イエス様は今日の18節のところで、「ですから、種を蒔く人のたとえを聞きなさい」と仰っています。「ですから」「だから」「したがって」と語り始められるのです。この語りはじめのたったひと言ですが、私はここに人を救うために来られた神の御子の深い愛の御心を覚えるのです。

13章18節 ですから、種を蒔く人のたとえを聞きなさい。

直訳すると「あなたがたは、ですから」と始まります。ギリシヤ語の法則として、一番強調したい語を一番最初に持ってくるというものがあります。ですからここでは「あなたがたは」が強調されているのです。同じ場面で発せられたイエス様の別のことばが、マルコの福音書で記されています。「このたとえが分からないのですか。そんなことで、どうしてすべてのたとえが理解できるでしょうか」(マコ414)。怒り口調だったのでしょうか。そうではないと思います。「このたとえが分からないのですか。そんなことで、どうしてすべてのたとえが理解できるでしょうか。あなたがたは、ですから、種を蒔く人のたとえを聞きなさい」。人を裁くためではなく、救うために来られたお方の語りかけです。

多くの人々がイエス様のみことばを聞くために集まりました。そして種を蒔く人のたとえを聞きました。しかし「群衆」はその意味が分からないまま解散してしまいました。その意味を聞きに来たのは弟子たちだけでした。その意味を知りたいと求めて聞きに来た弟子たちだけが、「あなたがたは、ですから、種をまく人のたとえを聞きなさい」というイエス様の愛に満ち、喜んで迎え入れてくださる主の祝福をいただくことができたのです。まさに「あなたがたの目は見ているから幸いです。また、あなたがたの耳は聞いているから幸いです。何と幸いなことよ、おめでとう」な状況です。

マルコの福音書で「このたとえが分からないのですか。そんなことで、どうしてすべてのたとえが理解できるでしょうか」に続いて、イエス様はこう説明されています。「種蒔く人は、みことばを蒔くのです」(マコ415)。さらにルカの福音書ではイエス様はこう説明されています。「種は神のことばです」(ルカ811)。(こういったところに福音書が4つあることの恵みと言いますか、価値が見られます)

すでに冒頭で申し上げました通り、種蒔きのたとえの種が蒔かれることは、「御国のことば」「神の国について語る説教」が宣べ伝えられることです。しかし、それを聞く人々は「悟る(受け入れる)人」(23)と、「そうでない人」(19-22)に分かれるのです。みことばを聞いても悟らず、受け入れず、実を結ばないのは、それを妨げる要素が作用するからです。

13章19節    だれでも御国のことばを聞いて悟らないと、悪い者が来て、その人の心に蒔かれたものを奪います。道端に蒔かれたものとは、このような人のことです。

「悪い者が来て」。ここも他の福音書を見てみましょう。まずマルコの福音書4章15節「道端に蒔かれたものとは、こういう人たちのことです。みことばが蒔かれて彼らが聞くと、すぐにサタンが来て、彼らに蒔かれたみことばを取り去ります」。次に、ルカの福音書8章12節「道端に落ちたものとは、みことばを聞いても信じて救われないように、後で悪魔が来て、その心からみことばを取り去ってしまう、そのような人たちのことです」。「悪い者」はサタン、悪魔を指しています。聖書でサタンは「敵対者」、悪魔は「試みる者、誘惑者」とも言われています。そのサタン、悪魔のしわざによって「種」つまり「神のことば」「神の国について語る説教」が奪われてしまう。みことば、説教を聞いても悟らない、受け入れない、心の深い所に沈めない。そうすると、みことばを奪われることになります。悪い者が常に狙っているからです。豆の種を蒔いているところから鳥は見て狙っているそうです。そして蒔かれた種はすぐに鳥に食べられてしまうそうです。そのような話をある兄弟から伺ったことがあります。土が浅ければなおのこと、狙われやすく、速攻食べられてしまうでしょう。みことばの種が蒔かれたら、すぐに深い所に沈め、そしてすぐに根を出さなければ危険なのではないでしょうか。

「だれでも御国のことばを聞いて悟らないと、悪い者が来て、その人の心に蒔かれたものを奪います。道端に蒔かれたものとは、このような人のことです」。みことばを悟る(受け入れる)とは具体的にどのようなことを言うのでしょうか。たとえば、これをしたら儲かるのにとか、これをしたら人から喝采を受けるのにと思っても、聖書がそれを禁じているならそれをしない。いつも喜んでいなさい、絶えず祈りなさい、すべてのことにおいて感謝しなさいと聖書が命じているならその通りする。悔い改めなさいと命じられているなら悔い改める(ただの後悔ではなく悔いて改める)というのが本当にみことばを悟る、受け入れるということでしょう。根を張るということではないでしょうか。

13章20節    また岩地に蒔かれたものとは、みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れる人のことです。
13章21節    しかし自分の中に根がなく、しばらく続くだけで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。

初めのうちはみことばに良い感じに応答するのですが、心にその「根」がないために、根を生やそう、みことばを悟ろう、受け入れようという決心が本当にはないために、みことばのために困難や迫害が起こるとすぐにつまづいてしまう。ルカの福音書8章13節では「岩の上に落ちたものとは、みことばを聞くと喜んで受け入れるのですが、根がないので、しばらくは信じていても試練の時に身を引いてしまう、そのような人たちのことです」とイエス様は言われています。身を引いてしまう。自ら退くこと、関係を断つ。神に背を向け出て行ってしまう。「だれでも、わたしにつまずかない者は幸いである」とイエス様は言われました(マタ116)。何があってもイエス様から身を引いてしまわない者、イエス様と関係を断とうとしない者は幸いなのです。

13章22節    茨の中に蒔かれたものとは、みことばを聞くが、この世の思い煩いと富の誘惑がみことばをふさぐため、実を結ばない人のことです。

マルコの福音書4章18-19節「もう一つの、茨の中に蒔かれたものとは、こういう人たちのことです。みことばを聞いたのに、この世の思い煩いや、富の惑わし、そのほかいろいろな欲望が入り込んでみことばをふさぐので、実を結ぶことができません」。ルカの福音書8章14節「茨の中に落ちたものとは、こういう人たちのことです。彼らはみことばを聞いたのですが、時がたつにつれ、生活における思い煩いや、富や、快楽でふさがれて、実が熟すまでになりません」。

この世の思い煩い、生活における思い煩い、富の惑わし、快楽、その他色々な欲望。貪り。それらが入り込んでみことばをふさぐ。また、「金銭を愛することが、あらゆる悪の根だから」と聖書は言います。「ある人たちは金銭を追い求めたために、信仰から迷い出て、多くの苦痛で自分を刺し貫きました」と言います(Ⅰテモ610)。これもまたサタン(敵対者)、悪魔(試みる者)のしわざであることを臭わせるのではないでしょうか。私たちは、パウロが言っているとおり「頼りにならない富にではなく、むしろ、私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置き」ましょう(Ⅰテモ617)。

13章23節    良い地に蒔かれたものとは、みことばを聞いて悟る人のことです。本当に実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます。」

マルコの福音書4章20節「良い地に蒔かれたものとは、みことばを聞いて受け入れ、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ人たちのことです」。ルカの福音書8章15節「しかし、良い地に落ちたものとは、こういう人たちのことです。彼らは立派な良い心でみことばを聞いて、それをしっかり守り、忍耐して実を結びます」。

「良い地」というのは、イエス様が教えられた実を結ぶのを妨げる要素がひとつもない地ということでしょう。悪い者にみことばに関する関心(意識)を奪われない人。みことばを聞いて、みことばを悟り、みことばを受け入れ、みことばを実践する人。あらゆる困難や迫害に耐えられるほどにみことばが心に十分に根を下ろしている人。そのような人は、富を追い求める欲とか、世に対する愛着のためにみことばに対する関心と決心を捨てることはありません。天の御国、神の国の豊かさを悟り、信じて受け入れ、そして喜んでいるなら、満足しているなら、サタン、悪魔から守られるのです。

そして100倍、60倍、30倍の実を結ぶ。前回は、通常は1つの種から5倍の収穫があれば豊作と見なされていた当時において、これは神の恵み、祝福であることを見ました。しかし、神の祝福をいただくためには、忍耐が必要であることも事実です。イエス様が「立派な良い心でみことばを聞いて、それをしっかり守り、忍耐して実を結ぶ」と言われているからです。「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです」(ヨハ155)と、ヨハネの福音書の中でイエス様は言われました。そのヨハネの福音書では何と言われているでしょうか。「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」(ヨハ114)。「わたしにとどまり、そしてわたしもあなたの中にとどまり、多くの実を結びなさい」。とどまることはつまり忍耐です。わたしにとどまりなさい。つまりみことばに留まりなさい。みことばを悟り、受け入れ、しっかり守るなら、忍耐するなら、多くの実を結ぶという約束。約束は神さまからの一方的なものです。恵みであり、祝福です。神からの一方的なものですから、私たちが拒むことなく、信じて、いただきたい、賜りたいと心から願うことは必要なのです。

さて、弟子たちはイエス様が語られた神の国の説教を聞いてきました。しかしすべてを理解し悟っていたわけではありませんでした。イエス様は神の国の到来を説かれ教えました。説教しました。それを聞いた弟子たちは、世の中が良いものだけで満たされるようになることを期待していました。ところが、そのような変化は全く見られず、悪が何事もなかったかのようにこれまでと全く同じように存在する、状況がまるで変わっていないのを見て、いぶかしく思っていたのでしょう。そのような思いを知ってか、イエス様は種蒔きのたとえに続いて、そこから芽を出した麦の成長、そしてそれを妨害する毒麦のたとえを通して、そのことについて教えてくださいました。良い種を蒔いた畑に毒麦が生えて来たというものです。

種は神の国の到来を告げるみことばでした。神の国はイエス様が来られた時に到来し始めましたが、まだ完成されたのではありませんでした。そして私たちも今、イエス様が来られた時に到来し始めた神の国に生き、やがて完成されようとしている時を生きているのです。すでに、いまだ、やがての中を生きているのです。そのような私たちの中にも、この時の弟子たちと同じようないぶかしく思う心や、それゆえに素直に従えない心があるのではないでしょうか。次のたとえに聞きたいと思います。

13章24節    イエスは、また別のたとえを彼らに示して言われた。「天の御国は次のようにたとえられます。ある人が自分の畑に良い種を蒔いた。
13章25節    ところが人々が眠っている間に敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて立ち去った。

イエス様がもう一つのたとえとして、天の御国は良い種を自分の畑に蒔いた人のようだと語られます。

「毒麦」というギリシヤ語には、「人の目をごまかし騙す」、また「厄介者」という意味があります。そして毒麦にはその名のとおり、嘔吐や下痢、めまいやしびれを引き起こす毒があります。毒麦にはこのように深い意味があるのです。

これもまたたとえです。よくある話、分かりやすい事例を通して真理を教えるものです。悪意を持つ人が相手の畑に毒麦を蒔くということは、当時実際にありました。そして人の畑に毒麦を蒔くことは、ローマの法律では死刑に値する重罪でした。それでたとえの中の「敵」も、こっそりと人々が眠っている間に畑に来て、麦の中に毒麦を蒔いて立ち去ったと語られるのです。ですから「人々が眠っている間に」というのは、油断している間になどと解釈しがちですが、そうではなく、毒麦が悪者によって蒔かれるものであることを言っているのです。そしてここで用いられている「蒔く」というギリシヤ語は、「その上にもう一度種を蒔く、さらに植える」という意味があります。敵は良い畑に、その上からもう一度毒麦を植えるのです。巧妙な欺きです。その敵とはもちろん、サタン、悪魔を指しています。サタン、悪魔などと聞いて敬遠されるでしょうか。しかし聖書に記されている事実ですから、決して馬鹿にはできません。むしろ、十分に警戒すべき実際の存在です。

13章26節    麦が芽を出し実ったとき、毒麦も現れた。
13章27節    それで、しもべたちが主人のところに来て言った。『ご主人様、畑には良い麦を蒔かれたのではなかったでしょうか。どうして毒麦が生えたのでしょう。』
13章28節    主人は言った。『敵がしたことだ。』すると、しもべたちは言った。『それでは、私たちが行って毒麦を抜き集めましょうか。』
13章29節    しかし、主人は言った。『いや。毒麦を抜き集めるうちに麦も一緒に抜き取るかもしれない。
13章30節    だから、収穫まで両方とも育つままにしておきなさい。収穫の時に、私は刈る者たちに、まず毒麦を集めて焼くために束にし、麦のほうは集めて私の倉に納めなさい、と言おう。』」

毒麦は、育って穂が出て来ると、麦の穂よりひげが長く、色も黒くなって麦と区別しやすくなりますが、それ以前は区別することが難しいのだそうです。まさに「人の目をごまかし騙す」存在です。そこで、草取りをする農夫も、収穫の時まで両方ともそのままにしておくのだそうです。それは良い麦を毒麦と間違えてしまう恐れがあるからです。また厄介なことに、毒麦は麦よりも、雑草のような強い生命力で麦の間に根を張り、割り込んで栄養分を奪い取ろうとするのだそうです。そしてその根が絡み合っているので、毒麦を抜く時に麦を抜いてしまうこともあるそうです。これもまた、まさに「厄介者」です。しかし麦は毒麦にどんなに妨げられても、ちゃんと成長し、実を付けるのだそうです。百倍の収穫となるのか、三十倍の収穫となるのか、それは麦の根の張り方次第。ですからその麦と麦の収穫を守るためには、麦の実が十分に育った時に収穫するまで、毒麦をそのままにしておくしかないのです。畑の主人は命じます。「毒麦と麦を分ける作業は収穫の時にすることにして、収穫まで両方とも育つままにしておきなさい」。

「収穫まで両方とも育つままにしておきなさい」とは、イエス様による神の国の到来から終末の審判まで(イエス様を信じる者たちをみな世の終わりのさばきの座の前に集める収穫の時まで)の間を指しています。すでに、いまだ、やがて。この中間状態とも言える今の世、時代にあって、毒麦も麦の間に混入しているのです。そしてその毒麦は成長し、いよいよ毒麦であることが分かるようになってきているとも言えるでしょう。私たちの周囲の状況、世界の状況を見回してみてどうでしょうか。「夜は深まり、昼は近づいて来」ているのです。神の国は着実に完成しつつあるのです。

当時のこの地の農夫たちは、毒麦が入らないように、まず麦だけを刈り入れました。毒麦は後で集められました。そして毒麦の束は燃料に用いられました。これもまた世の終わり、終末の審判をたとえたものです。

また、このたとえでは、麦は最初から麦であり、毒麦は最初から毒麦であるからしょうがないということは言っていません。25節の「蒔く」という意味は、「麦の上にもう一度種を蒔く、さらに植える」というものでした。つまり毒麦というのは、神の敵であるサタン、悪魔に惑わされた者たちのことです。すべての人は神によって麦として蒔かれたものと言って良いでしょう。そして麦が麦として最後まで育ち、実りの日、収穫の日を迎えることを心から願っておられるのです。そしてイエスの弟子に任命された私たちには、多くの実を残すという使命が託され、期待されているのです。

また、前回はイエスの弟子とされた者の祝福が語られました。詩篇の記者は高らかに歌い宣言しています。「知れ。主はご自分の聖徒を特別に扱われるのだ。私が呼ぶとき 主は聞いてくださる」(詩43)。神は世の終わりのさばきの日まで、聖徒がこの世に生きて行くようにされます。畑の主人が麦を守るように、父なる神は聖徒ら、イエス様の弟子たち、私たちを最後まで守られるお方です。麦が麦として、この世にあって最後までしっかり成長するように導いてくださっています。その時まで、悪は毒麦のように世にあって、家族や会社、学校、教会人おいてさえも存在し続け、雑草のようなしぶとさで人々に悪影響を与え続けるでしょう。イエス様の弟子たちが迫害されることもあり、人との関係の中で思いがけず誤解されて非難されたり、苦しめられたりもします。その一方で、自分の利益だけを中心に考え、自由に生き、良い人、弱い人を利用する悪い者たちが富を築き上げ、何の苦しみもなく生きているのを見て落ち込むこともあります。この世とはそのような所です。しかし、神がそのようにしておられるのです。そこにも神のご計画があるのです。父の御心があるのです。私たちはそれを正しく認識した上で、悪に警戒し、信仰が揺るがされないように霊の目を覚まして、みことばを求め、みことばを悟り、みことばを受け入れ、みことばに励み、根を張り、すべてに勝利していかなければなりません。父なる神は私たちにそのことを期待しておられるのです。

良い種を畑に蒔いた人のたとえによると、神は、イエス様に従う弟子と、イエス様に従うように見えて実はサタンに属した偽の弟子を分けず、共存するように放っておかれます。弟子とされている私たちであっても、やはり欠点があり、未熟な点も多いので、偽の弟子との区分が難しい場合があるからです。弟子と偽の弟子を分けるのは、イエス様が再臨して世の終わりのさばきを行われる時に成し遂げられます。その時に、偽の弟子のグループに分けられないためには、日々自分を振り返り、心から悔い改めてイエス様に献身しているかを吟味しなければなりません。その時になってからでは遅いからです。だからイエス様は、最初に「ですから」「したがって」「だから」、「種を蒔く人のたとえを聞きなさい」と、弟子たちに向かって語られたのでしょう。さばきの時までは、「毒麦」「人の目をごまかし騙す」、また「厄介者」によって惑わされることも多いでしょう。悪い者たちの迫害や妨害によって苦しむことがあります。栄養が奪い取られてしまうような経験もするでしょう。しかし主を信じる者は神が特別に守ってくださいます。最後まで守り、育み、導き、必ず実を結ばせてくださいます。ですから恐れず、忍耐し、イエス様にとどまり、神の力をいただきながらしっかりと根を張り、そのたびに勝利して行こうではありませんか。世に目を奪われることなく、私たちの目を、聖霊の助けをいただきながら、私たちを愛してくださっている主をまっすぐに見上げ、実り多い日々を歩んでまいりましょう。その道は確実に天の御国、神が完全にご支配なさる世、国に続いているからです。そしてここもすでに神の国だからです。

長野聖書教会の話題やお知らせをお届けします。

コメントを残す