2023年12月10日 主日礼拝「恐れることはない」

礼拝式順序

賛  美  讃美歌111「神の御子は」
      新聖歌98「天には栄え」
前奏(黙祷)
招  詞  詩篇146篇8〜10節
讃  美  讃美歌2「いざやともに」
罪の告白・赦しの宣言
信仰告白  讃美歌566「使徒信条」
主の祈り  讃美歌564「天にまします」
祈  祷  
讃  美  讃美歌87A「めぐみのひかりは」
聖書朗読  マタイの福音書17章1〜13節
説  教  「恐れることはない」佐藤隆司牧師
讃  美  讃美歌124「みくにをも宝座をも」
献  金  讃美歌547「いまささぐる」
感謝祈祷
報  告
今週の聖句 マタイの福音書17章7節
頌  栄  讃美歌541「父、み子、みたまの」
祝  祷
後  奏

本日の聖書箇所

マタイの福音書17章1〜13節

説教題

「恐れることはない」

今週の聖句

するとイエスが近づいて彼らに触れ、「起きなさい。恐れることはない」と言われた。

マタイの福音書17章7節

説教「恐れることはない」

マタイの福音書17章1〜13節

アドベントも2週目を迎えました。先週はエレミヤ書より、「待ち望む信仰をもって宣べ伝える」ことを見ましたが、今朝はまたマタイの福音書の講解説教に戻り、17章1節から見てまいりたいと思います。

さて、私の恩師である朴先生から教えて頂いたことです。韓国語で「顔」を「オルグル」と言います。これは「たましい、精神」を意味する「オル」と、「ほらあな」を意味する「グル」という言葉が合わさって出来ているそうで、「たましいをのぞき見ることができる窟(ほらあな)」という意味があるのだそうです。なるほどと思わされます。今日の聖書箇所のマタイの福音書17章2節には、神に祈る中、イエス様の「顔が太陽のように輝き」とありますが、嬉しかったりとても幸せを感じると自然と顔が輝きますし、悲しいとどこか暗い顔になりますね。そしてその人の表情というのは、自然と相手にも伝染すると言いますか、嬉しそうだったり、幸せそうな表情を見るとこちらまで嬉しくなったり(例外はあるかもしれませんが)、相手が不機嫌な顔をしているとこちらまで嫌な気持ちになってしまいます。

クリスマスの有名な讃美歌の「きよしこのよる」には、「み子の笑みに」とあります。クリスマスにこの世に降られた神は、やさしい笑みを浮かべていたようです。顔。イエス・キリストは全き人間であり、同時に全き神であられる顔をお持ちの方です。イエス様の顔には喜怒哀楽とともに、神の栄光と聖さがあります。多くの敬虔な画家の想像によるイエス様を描いた聖画には、そのようなイエス様の顔を描こうとした努力の結晶が見られるのではないでしょうか。私たちも福音書の中でのそれぞれの場面で、イエス・キリストがどのような御姿と表情であられたのかを思い浮かべることも、聖書を読む時の楽しみなのではないでしょうか。もし私たちがイエス様の御顔を描くとしたら、どんな表情の顔を描きたいでしょうか。それはなぜでしょうか。考えてみてください。

ところで、私たちはどのような時に慰められるのでしょう。何度か申し上げておりますが、「慰め」というヘブル語には、大変な状況だったり、悲しんだり苦しんだりしている中で、大きく息をさせる(深呼吸)、落ち着かせる、心の波立ちを静まらせる、労をねぎらう、いたわる、励ますという奥行きのある意味があります。私たちは大変な状況の中であったり、とても悲しんだり苦しんだりしている中にあって、どのような時に本当に慰められるでしょうか。主に本当に慰められたと実感するでしょうか。それは、私は神に愛されていると感じたり、知った時ではないでしょうか。私たちが救われたと実感できたのはどのようにしてでしょうか。大きな問題が完全に解決されたからでしょうか。悩みや苦しみが完全に取り除かれたからでしょうか。だとしたら、今私たちはこうしてここにいないでしょう。私たちが救われたのは、問題の解決ではなく、このような私をそれでも神が愛しておられ、このような私のためにご自身の御子イエス・キリストをこの世に降らせ、私の罪を負わせ、十字架にかけられ、罪の解決をしてくださり、神との平和を回復してくださった。決して赦されない罪を赦し、仲直りしてくださった。いのちを守ってくださった。それほどまでに私は神に愛されている。そのことを知らされたからではないでしょうか。そして、そのような使命をもってこの世に降られた神のたましい・精神、心をそのままのぞき見ることができる御子の御顔には、笑みが浮かんでいたのです。何と言う慰めではないでしょうか。

17章1節      それから六日目に、イエスはペテロとヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。

冒頭でも申しましたが、「それから6日目」とは、前章である16章の13節からの「それから6日目」です。ちなみにルカの福音書では「これらのことを教えてから8日ほどして」(ルカ918)となっています。6日前にはどのような出来事があり、イエス様がどのようなことを教えられたか、覚えておられるでしょうか。簡単に少し振り返りますと、弟子たちのイエス様に対する信仰告白がありました。イエス様は弟子たちのこの「信仰告白の上に教会を建てる、よみの門もそれに打ち勝つことはできない」と言われました。そして教会に、主によって呼び集められた人たちに天の御国の鍵を与えると教えられました。それは彼らが宣べ伝える天の御国の福音を信じる者には天の御国の扉が開かれ、信じない者には閉ざされるというものです。またイエス様はここで初めてご自分の受難を弟子たちに告げられました。「人の子は多くの苦しみを受け、長老たち、祭司長たち、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日目によみがえらなければならない」。「そんなことがあなたに起こるはずがありません」と言うペテロに、イエス様は振り向いて言われました。「下がれ、サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」。それからイエス様は弟子たちに言われました。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい」。そして、「わたしがやがて父の栄光を帯びて御使いたちとともに来るときには、それぞれその行いに応じて報います。ですから、あなたがたは全世界に福音を宣べ伝え続けなさい。神があなたがたを守られる」と。

それから6日間、弟子たちはイエス様の告げられたことを思い巡らせながら、混乱と不安を感じながら過ごして来たのでしょう。何せ、メシアと信じて家族も仕事も置いて従ってきたお方の口が、「自分は宗教指導者たちに殺される」と言われ、「あなたがたも、わたしに従って来たいと思うなら、死を覚悟して従って来なさい」と言うのですから。

6日目、イエス様は弟子たちのうちのペテロとヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、祈るために(ルカ928)高い山に登られました。ピリポ・カイサリアに近いヘルモン山です。「だけを連れて」と訳されていますが、原語では「高い位置に上げる、呼び起こす」となっています。イエス様はこの3人を聖別(特別にご自分のものとして取り分けられ)されました。御心があってのことでしょう。それはイエス様の受難の後、混乱し動転する仲間の弟子たちにこの後に起こる出来事を証言させるためだったのでしょう。3人というのは、当時の律法で定められていた証言に必要な最低人数でした。

17章2節      すると、弟子たちの目の前でその御姿が変わった。顔は太陽のように輝き、衣は光のように白くなった。

イエス様は3人の目の前で変身しました。トランスフォームしたのです。トランスフォーマーという映画がありますが、車がロボットに変身するのですが、そのように外見や性質、機能などを変えることをトランスフォームと言います。

イエス様は父なる神に祈る中、トランスフォームしました。顔は太陽のように輝きました。太陽は自分が光を発するのですが、そのようにイエス様の顔が光を発して輝き、衣は光のように輝かしく光りました。コリント人への手紙第二3章18節には「私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます」とあります。私たちはイエス様の御顔が発する光によって、私たちの顔が輝かされるのです。イエス様のたましい、精神によって、私たちのたましい、精神は変えられていく、トランスフォームされていくのです。私たちはイエス様の御顔の輝きから目を離してならないのです。目を離しては輝いていられないのです。

17章3節      そして、見よ、モーセとエリヤが彼らの前に現れて、イエスと語り合っていた。

ルカの福音書によると、モーセとエリヤが栄光のうちに現れ、イエス様がエルサレムで遂げようとしておられる最期について話しておられました。イエス様に反対する敵対勢力、宗教指導者たちに十字架にかけられ死なれ、葬られ、しかし3日目によみがえらなければならないことを語り合っていたのです。この時、これもまたルカの福音書によると、弟子たちはもう眠くてたまらなかったようです。聖書的には、霊的に眠っていた、寝ぼけていたということです。

17章4節      そこでペテロがイエスに言った。「主よ、私たちがここにいることはすばらしいことです。よろしければ、私がここに幕屋を三つ造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」

こちらはマルコの福音書の記述ですが、彼らは神秘的であり、また荘厳な光景に気が動転してしまい、恐怖に打たれ、怯えて、ペテロにいたっては何を言ったらよいの分からなくなってしまい、しどろもどろに「主よ、私たちがここにいることはすばらしいことです。誇らしく、名誉なことです」と言い、「よろしければ、私がここに幕屋を3つ造ります」と突拍子もないことを言い出しました。しかし、こういった異常事態の時こそ、心の倉にあるものが口に出るのです。本音が口に出てしまうのです。ペテロが「幕屋を3つ造りましょう」と言ったのは、イエス様の最期、受難の話しを聞き、その話しや「自分の十字架を負ってわたしに従って来なさい。そしてこの世にあって天の御国の福音を宣べ伝え続けなさい。時が良くても悪くても、わたしのみことばを宣べ伝え続けなさい」とのイエス様の言葉を思い巡らし、6日間も混乱と不安を感じていた中で、6日目(ユダヤでは夕方から新しい1日が始まるので、7日目?)に素晴らしい栄光、神秘的かつ荘厳な光景を目の当たりにし、「あぁ、私は苦難を受けることなく、ここにとどまっていたい」という思い、人間的な欲望から溢れ出た言葉だったのです。

17章5節      彼がまだ話している間に、見よ、光り輝く雲が彼らをおおった。すると見よ、雲の中から「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞け」という声がした。

ペテロの提案を遮るようにして、光輝く雲が彼らを覆いました。旧約聖書で雲は神の臨在(神がそこにおられること)と栄光をあらわすものです。そして栄光というヘブル語の本来の意味は、「非常に重いもの」です。プレッシャーです。それを感じるならば、人間はもう重さに押しつぶされるようにしてひれ伏すしかなくなるのです。それが神の栄光です。私が特別伝道集会で初めてこの教会に入った時、バイオリンの奏楽が響き、それはもうこの空間に聖なる雰囲気を感じました。聖さを前に恐れをもって自然とひれ伏すように頭を垂れた記憶があります。それが神の栄光なのだと思います。この教会にはそのような雰囲気と申しますか、神の栄光があるのです。

私たちはこの時のペテロのように、6日間働いて7日目の安息日に、教会で変貌の山のような神秘的な体験をし、それに心を奪われ、夢中になることを求めてはいないでしょうか。その願望に縛られてしまうと、神秘主義を強調する異端の誘惑に陥りやすくなったり、教会の暖かい雰囲気や、礼拝や賛美、祈りの厳粛さやその高揚感ばかりを追い求めるようになってしまうかもしれません。そうしていると、教会の外に出て行って、十字架を負うような苦難を受けながら福音を宣べ伝える教会としての本来の使命をなおざりにしてしまいかねません。主の栄光の光を受けた光の子どもである私たちは、その喜びや楽しさだけにとどまっていてはならないのです。その光を私たちのうちに覆いを掛けて隠しておいてはならないのです。イエス様のように世の人々の中に出て行き、主の光を世に照らさなければならないのです。この世は闇であると。世の光として、この闇に光を照らさなければならないのです。

神の臨在の重さ、プレッシャーの中で声がしました。「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞け」。イエス様がメシアであり、ユダヤ人が待ち望んできた救い主であることを告げています。イエスはわたしの愛する、大切なひとり子。わたしが世に降らせた者である。わたしはこれを喜ぶ。これとは何でしょうか。イエス・キリストであり、またイエス・キリストの十字架の死です。それが神の喜ばれること、神が受け入れられること、神の御心であること。彼の言うことを聞け。イエス様は何を言われたのでしょうか。弟子たちが6日間、混乱しながら、恐れながら思い巡らせていたイエス様の教えです。その教えに聞き、そしてイエス・キリストを信じて、キリストに聞き従うようにと、神は栄光の中から厳粛に、荘厳に命じられているのです。

私たちはいつも様々な声を聞いています。ある時は神の声を、ある時は自分の内なる声、本能の声、勝手気ままな声を聞いています。しかし、その中でいつも神の声、キリストの声を聞き、それに従っていくことが大切なのです。ペテロがかつて「私たちは夜通し働きましたが、何も取れませんでした」と言いましたが、これは自分の経験にもとづいた考えであり、声です。「しかし、お言葉ですから、網をおろしてみましょう」とペテロは言いました。そこに自分の考えや立場に固執しないで、そういうものを持ちながらもイエス様の声に従った姿があります。そこでペテロは神の恵みに与ることができました。私たちにとっても大事なことは、そういうものを持ちながらもイエス様の声に聞き従うということです。そこで私たちははじめて神の恵みに与ることができるのです。宣教や伝道において何の成果も感じられない。しかしお言葉ですから、と。その先に素晴らしい神の恵み、家族や隣人の救いがあるのです。

17章6節      弟子たちはこれを聞いて、ひれ伏した。そして非常に恐れた。

にしてもです。この世にあって、神の声に聞き従うことは楽しいことではない場合があります。「弟子たちはこれを聞いて、ひれ伏した。そして非常に恐れた」とあります。地上の生活をしながら神の声に聞き従うということは、時に恐ろしいことなのかもしれません。神の声は、自分の判断やこの世の常識を越えて、神のご意志に基づいて語られるものです。そこに、この世に生き、この世に固執している私たちにとっては非常に恐ろしく、危ないものを感じるのです。弟子たちは、ここに安住したいという思いの中で、「十字架を負ってわたしに従って来なさい」とのイエス様の声を心の中で聞き、思い起こし、非常に恐ろしくて危ないものを感じたのではないでしょうか。

17章7節      するとイエスが近づいて彼らに触れ、「起きなさい。恐れることはない」と言われた。

ここに私たちは、大きな慰めを得るのです。恐れる者にイエス様は近づいてくださり、触れてくださるのです。恐れの中でこそ、イエス様との本当に生きた、生き生きとした出会い、感動が起きてくるのかもしれません。その声を聞いて恐れ、ひれ伏す弟子たちに、イエス様ご自身が近づいてくださいました。そして「触れて」くださいました。「触れる」というギリシア語には、他に「つかむ、抱きつく」という意味があります。イエス様は“ちょいと”触れる(タッチする)だけではなく、「つかまれる、抱きつかれる(ホールドする)」のです。ここに愛を感じるのです。

信仰によって水の上を歩き出したペテロでしたが、周囲の状況に気づいて沈みそうになったペテロの腕をつかまれた主。「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」。ペテロがこの時のことを思い出し、イエス様の御姿を絵に描くとしたら、イエス様の表情はどのように表現されるのでしょうか。そしてこの時、恐れひれ伏す弟子たちを抱きしめられる主。「起きなさい。恐れることはない」。弟子たちは、このような自分でもこれほどまでに主に愛されていることを実感したのではないでしょうか。これほどまでに主に愛されていることを悟り、本当に慰められ、弟子たちは起こされ、信仰が呼び覚まされ、ようやく顔を上げることができたのではないでしょうか。

16章8節      彼らが目を上げると、イエス一人のほかには、だれも見えなかった。

すると、彼らの目にはもう、イエス・キリストおひとりのほかにはだれも見えませんでした。イエス・キリストおひとりの御顔のみ、彼らは見ることができなかったのです。この時のイエス様の表情の記憶が、彼らのイエス様復活後の人生の歩み方を変えるものとなったのではないでしょうか。

16章9節      彼らが山を下るとき、イエスは彼らに命じられた。「あなたがたが見たことを、だれにも話してはいけません。人の子が死人の中からよみがえるまでは。」

なぜイエス様はこのようなことを命じられたのでしょうか。

イエス様は3人の弟子にメシアの使命を理解させ、後の彼らが委ねられる使命を正しく果たせるようにそれを見せてくださったのです。しかしマルコの福音書によると、「彼らはこのことばを胸に納め、死人の中からよみがえると言われたのはどういう意味か、互いに論じ合った」(マコ99-10)とあります。この時の彼らには、メシアとしてのイエス様の使命、そしてその意味を正しく理解できていませんでした。弟子たちは栄光に輝くイエス様の姿を見た今、メシアを正しく理解しない人々の熱狂を招かないように、以前にも増して気をつけなければならなかったのです。それでイエス様は「だれにも話してはならない。人の子が死人の中からよみがえるまでは」と命じられたのです。メシアを正しく理解し、正しく宣べ伝えるためには、イエス様が復活されて後に送られる聖霊の力が着せられなければなりませんでした。

弟子たちはイエス様のこの指示に困惑しました。

17章10節    すると、弟子たちはイエスに尋ねた。「そうすると、まずエリヤが来るはずだと律法学者たちが言っているのは、どういうことなのですか。」

互いに論じ合う中、弟子たちはイエス様に質問しました。旧約聖書のマラキ書4章5〜6節に基づいて、メシアの到来に先立ちエリヤが来ると律法学者たちは教えていました。その預言からすでに400年は経過していました。その間、神のことばは語られませんでした。中間時代と呼ばれる霊的暗黒の時代です。その時代が終わりを告げようとしていた。弟子たちはエリヤの出現を目撃したのに、どうして待ちに待ったメシアの到来を語ってはいけないのか。しかもそのメシアが死ななければならないのはどうしてなのか。

17章11節    イエスは答えられた。「エリヤが来て、すべてを立て直します。

人々はエリヤが来て、イスラエルのために国を再興してくれると考えていました。しかし本当は、エリヤにはメシヤに先立って歩み、メシヤの到来を告げ知らせ、「待ちに待った救い主が来られる、あなたがたは準備せよ」と宣べ伝える使命が与えられていたのです。

17章12節    しかし、わたしはあなたがたに言います。エリヤはすでに来たのです。ところが人々はエリヤを認めず、彼に対して好き勝手なことをしました。同じように人の子も、人々から苦しみを受けることになります。」
17章13節    そのとき弟子たちは、イエスが自分たちに言われたのは、バプテスマのヨハネのことだと気づいた。

そしてそのエリヤはすでに来ました。イエス様はすでに11章14節で、「あなたがたに受け入れる思いがあるなら、このヨハネこそ来るべきエリヤなのです。耳のある者は聞きなさい」と言っておられます。弟子たちはすでにこの言葉を聞いていましたが、この時ようやくそれを悟ったようです。メシヤの到来を前触れするエリヤはヨハネであった。そしてヨハネが前触れしたメシヤはイエス様であると、彼らの理解は少しばかり前進したのでしょう。イエス様はわからずやの私たちに対しても、「なんで分からないのか」とどやしつけ、突き放すことなどせずに、愛と慰めをもって、根気強く、私たちが本当に理解できるように、また証し人として整えてくださいます。ですから私たちも、へりくだって受け入れる思い、信仰をもってイエス様の声に聞かなければなりません。

そのヨハネは、悔い改めを宣べ伝えたためにヘロデ王によって牢に入れられ、しまいには首をはねられ殺されてしまいました。その首は大宴会の余興の一幕として用いられました。彼らが待ち望んでいたはずの預言者エリヤだと認めず、好き勝手なことをしたのです。そしてイエス・キリストもまた、祭りで人々が賑わうエルサレムで、余興の一つのように、大勢の人々の目につくように十字架に上げられ殺されました。しかし、十字架の上で語られたイエス様のお言葉は何だったでしょうか。神であるご自身が殺されるという異常事態にあって、イエス様の口から出たお言葉は何だったでしょうか。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのか分かっていないのです」(ルカ2334)、「あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます」(ルカ2343)、「女の方、ご覧なさい。あなたの息子です」(ヨハ1926)、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタ2746)、「わたしは渇く」(ヨハ1928)、「完了した」(ヨハ1930)、「父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます」(ルカ2346)。多くの人々は、この異常事態に語られたイエス様の心の底からの言葉、そしてその言葉を語られるイエス様の御顔を見たのです。顔、オルグル、たましいをのぞき見ることができる窟(ほらあな)。イエス様の顔を通して、神のたましい、精神を見たのです。この光景を見に集まっていた群衆はみな、これらの出来事を見て、悲しみのあまり胸をたたきながら帰って行った。イエス様のどのような御姿と御顔を見て深い悲しみを抱いたのでしょうか。

そして私たちも、イエス様の、そして神の御姿と表情がどのようなものであったのかを思い浮かべてみるのです。そこにどのような思いが心の底から湧いてくるのか、自分の顔がどのような顔になっているのか、見てみるのが良いでしょう。

主の御姿と御顔を拝する時、私たちはこのことを決して忘れてはなりません。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された」(ヨハ316)。馬槽の中でのイエス様。弟子たちととも歩まれた主。「起きなさい。恐れることはない」と恐れの中にいる者を抱きしめ言われる主。十字架の上での主。そしてよみがえられ、神の右の座に着かれ、私たちのためにとりなし祈ってくださっている主。私たちの目に映る主の御姿と御顔はどのようなものでしょうか。愛と慈しみに満ちておられる主ではないでしょうか。今、私たちも「起きなさい。恐れることはない」と語られるイエス様の御顔を信仰によって心に拝し、心の内に主に住んでいただき、常に主の御顔の輝きを私たちの顔に映し、世の人々の間で輝かせていただきましょう。私たちはいつも輝いていたいものです。キャンドルの灯のように、闇の中で輝かせていきたいものです。

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