2023年12月24日 主日(クリスマス)礼拝「ここに愛が現れる」

礼拝式順序

賛  美  新聖歌75「神の御子は」
      新聖歌79「天には栄え」
      新聖歌82「牧人羊を」
前奏(黙祷)
招  詞  ルカの福音書2章10〜12節
讃  美  讃美歌112「諸人こぞりて」
罪の告白・赦しの宣言
信仰告白  讃美歌566「使徒信条」
主の祈り  讃美歌564「天にまします」
祈  祷  
讃  美  讃美歌106「あら野のはてに」
聖書朗読  ヨハネの手紙第一4章7〜12節
説  教  「ここに愛が現れる」佐藤隆司牧師
讃  美  讃美歌109「きよしこのよる」
献  金  讃美歌547「いまささぐる」
感謝祈祷
報  告
今週の聖句 ヨハネの手紙第一4章9節
頌  栄  讃美歌541「父、み子、みたまの」
祝  祷
後  奏

本日の聖書箇所

ヨハネの手紙第一4章7〜12節

説教題

「ここに愛が現れる」

今週の聖句

神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。

ヨハネの手紙第一4章9節

説教「神の愛が現れる」

ヨハネの手紙第一4章7〜12節

2023年のクリスマス礼拝を迎えました。私たちの救いのためにお出でくださった神のひとり子イエス・キリストのご降誕を喜び、私たちは互いに主にあって心からの挨拶を交わしましょう。皆さん、動画をご覧の皆さん、クリスマスおめでとうございます。この朝、上よりの声によって御前に招かれ、呼び集められた神に愛され、神を愛する皆さんお一人一人の上に、主イエス・キリストの豊かな祝福がありますようにお祈りします。

ところで、私は初めて教会に来始めてまもなくクリスマスを迎えた時に、「クリスマスおめでとうございます」と教会で交わされるあいさつに、実は戸惑いを感じたのです。クリスマスの本当の意味をご存知ない方々も同じだと思います。クリスマスはおめでとうなの? パーティーや恋人たちとの楽しい時間、町中が何だか賑わっているからおめでとうなの?と。実際テレビやラジオで「クリスマスおめでとう」というあいさつは聞いたことがないように思います。教会の壁に下げられている「クリスマスおめでとうございます」と印刷されているその垂れ幕も、実は私が教会に来て初めてクリスマスを迎えた年の、駅前でのキャロリングに合わせて作らせていただいたものです。「メリークリスマス!」メリーってなに?という正直、意味も良く分からずに、誰も彼もが浮かれて口にするあいさつ(実際、メリーとは「陽気な、浮かれた」という意味)には子どもの頃から馴染みがありましたが、「クリスマスおめでとうございます」と、あぁ正当派(?)はこのようなあいさつをするんだなぁと思ったものです。

「めでたい」とは、「祝うべきことだ、喜びに満ちた状態だ」という意味らしいですが、今、クリスマスの出来事の意味を知る者たちにとっては、まさにクリスマスは祝うべきことで、喜びに満ちた状態であることが分かるのだと思います。しかしクリスマスの出来事やクリスマスの持つ本当の意味を知らない世の多くの人々にとっては、やはり「クリスマスおめでとうございます」というあいさつには戸惑いを覚えるのではないか、そこはやはり「メリークリスマス」というただただ陽気で浮かれたあいさつになってしまうのだろうと思います。

ちなみに日本語の「おめでとう」は「めでた=芽出た」、すなわち芽が出た状態を表すという説があります。種から芽が出た。枯れ木から新芽が出た。これを祝うべきこと、喜びに満ちた状態、めでたいことだと言うのです。これはイスラエルにも通じるものがあります。太古の日本、また約束の地カナンに定住する前のイスラエルは別として、日本もイスラエルもいわゆる農耕民族。農耕民族にしか分からない喜びなのでしょう。狩猟民族にはこの喜びがピンと来ないものなのかもしれません。

また、イザヤ書53章にこのようにあります。「私たちが聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕はだれに現れたか。彼は主の前に、ひこばえのように生え出た。砂漠の地から出た根のように。彼には見るべき姿も輝きもなく、私たちが慕うような見栄えもない」(イザ531-2)。前の訳では「私たちの聞いたことを、誰が信じたか。主の御腕は、だれに現れたのか。彼は主の前に若枝のように芽ばえ、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない」。主の御腕、あるいは翼については前回も見ましたが、これは主の保護と主が愛をもって育むということを表す語です。主の愛は誰に現れたのか。主の前にひこばえのように、若枝のように芽生えた方、それはイエス・キリストに現れたのだ。イエス・キリストとなって現れたのだ。切り倒された木の切り株の脇から新しい芽が出た。なんとめでたい。なんと祝うべきことか、何と喜びに満ちたことか。「おめでとう!」。

また、御使いがマリアの前に現れて「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます」とあいさつをしましたが、この「おめでとう」は原語では「喜べ」となっています。喜べ、喜びなさい。もし私たちが相手に「あなたは喜べ、喜びなさい」と命令したら反発を覚えるかもしれませんが、これが命令ではなくあいさつになるとしたら、「あなたは喜びましょう、私と一緒に喜びましょうよ」という励ましのあいさつになるのではないでしょうか。また、神の命令は文法的に「あなたがたは〜であろう」というものです。「喜べ」は「あなたがたは喜ぶであろう」です。「あなたがたがクリスマスの意味を知ったならば、あなたがたは喜ぶでしょう」と。ですから私たち教会は、「クリスマスおめでとうございます」と、愛をもって隣人にクリスマスの本当の意味を証しし、声を大にして「クリスマスおめでとうございます。喜びましょう、クリスマスを。これを知ったら喜ぶはずですよ、クリスマスを」とあいさつしたいものです。

クリスマス、これはめでたい、祝うべきことだ、これは喜びに満ちた状態だと言われるのはなぜでしょうか。芽が出たからでしょう。主の愛がイエス・キリストによって現れた。「神の愛が現された」からです。それも、神の愛がリアルに目の前に現されたのです。クリスマスに現れたもの、それは神の愛です。聖書の語る愛とは本当に具体的な愛であり、単なるあこがれや空想ではありません。神が私たちを愛しておられる。その愛がどれほどのものかを私たちにはっきりと分かる仕方で現してくださった。ヨハネはこの神の愛が、人の目がじっと見つめることができるかたちで、人の手で触ることができるかたちで、耳で聞くことができるかたちでリアルに現されたと言っています。イエス・キリストを通して。これまで自分たちは様々な苦難や悲しみ、悲惨の中を歩んで来た。自分たちは恐ろしい神のさばきの対象であると思っていた。その神が「わたしはあなたがたを愛している」と信じられないことを言われるその愛を、リアルな形で現してくださった。本当に驚くべきことです。

先週はマラキ書から、神の愛が信じられない民の姿を見ました。では、どうしたら人は神の愛を信じ切ることができるのでしょうか。

皆さん、蟻は好きですか。別に蟻でなくても良いのですが(先日、祈祷会での箴言の学びで蟻が出てきたものですから)、もし私が蟻が好きで好きでたまらない、愛しているとしましょう。その愛を私はどうやって蟻に伝えることが出来るでしょうか。山盛りの砂糖を盛って蟻たちを養ってあげる。雨が降ったら手で雨を遮ってやるとか、誰かに踏まれないように蟻を守ってあげるなど。それで蟻は私の愛に気づいてくれるでしょうか。分かってくれるでしょうか。蟻は目の前のことで精一杯で、とても大きな存在の私になどまるで気づいていないかのようです。当然目の前に砂糖の山ができたら、「ラッキー」と思うだけかもしれません。私が蟻に、私の愛を間違いなく伝えることができるためには、「わたしはあなたがたを愛している」ということをはっきりと分かってもらうためには、私が蟻になるしかないのです。自分が蟻になって、蟻にことばがあるのかは分かりませんが、蟻のコミュニケーションの方法によって「わたしはあなたがたを愛している」と直接ことばや態度、また行動で伝えなくてはならないのです。自分が小さな蟻になって、蟻とともに蟻の世界に生き、同じ苦難や悲しみや喜びを共に経験し、食糧を求めていたら何らかの方法で食糧を与え、家の砂糖の容器の中に入って砂糖を盗んだ過去の蟻の罪に対しては、「それでも私はあなたがたを愛している。私はそれを赦している」と伝え、迷い出た1匹の蟻がいたら探して連れ帰り、何かに踏まれそうになったなら自分の身を犠牲にして守る。神も同じです。神が人間にご自身の真実の愛を伝えるためには、神ご自身が人間にならなければならなかったのです。

もう一度、ヨハネの手紙第一4章7〜10節のみことばに聴きましょう。

4章7節        愛する者たち。私たちは互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛がある者はみな神から生まれ、神を知っています。
4章8節        愛のない者は神を知りません。神は愛だからです。
4章9節        神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。
4章10節      私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

ヨハネはすでにヨハネの福音書において、神の愛についてずばり書き記しています。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」(ヨハ316)。

今朝のヨハネの手紙第一4章は、このヨハネの福音書にみことばと響き合うとても大事なみことばです。中でも今朝、特に覚えたいのは9節です。「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです」。まさにこれはクリスマスのことを指しています。神の御子イエス・キリストが人となって私たちのもとに来てくださった。これを聖書は「神の愛が私たちに示された」と言うのです。偉大な神ご自身が、小さな人となって天よりこの地上に降られた。人となられ、人とともに人の中に生きられた。聖霊によってではありましたが、人として母の胎に宿られ、生まれ出て、人として成長し、出会いや別れ、仕事、様々な経験をされ、人と同じ、いやそれ以上の苦難や試練を経験された。「あなたがたが経験した試練はみな、人(人の子、イエス・キリスト)の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます」(Ⅰコリ1013)。そして「こんな所に」と思われる所にイエス様はおいでになりました。貧しい者のところに行って福音を宣べ伝え、病人の所へ行って病人を癒し、湖のほとりで空腹の者に食べさせ、悪と戦い、弱い者や虐げられている者を守られた。そのようにして「わたしはあなたがたを愛している」との神の御心を人々に示された。

さらに10節ではこう言われます。「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです」。私たちが神を愛したのではない。神が私たちを愛してくださった。ここに愛があるのです。そして私たちの罪のために、私たちの神に対する罪のために、神を裏切り、神を悲しませた、その私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子イエス・キリストをこの世に遣わされた。ここに愛があるのですと。

あのクリスマスにみどりごの姿でお生まれくださった御子イエス・キリストは、私たちの罪のための宥めのささげ物(いけにえ)だと言われています。

神は罪に対してきちんと怒られるお方です。どこまでも聖であり義なるお方だからです。しかし同時に愛なるお方です。旧約時代、神は私たちが私たちの罪によって裁かれてしまうことのないように、罪に対する神の怒りを鎮める宥めのささげ物(いけにえ)を要求してくださいました。真心から宥めのささげ物を神に献げるならば、罪を赦し、あなたがたへの怒りを鎮めよう、裁かないと約束してくださいました。ところが先週もマラキ書で見たとおり、人はそのささげ物を軽んじ、形式ばかりの真心がこもっていない、病気や足がなえた動物や余り物のようなささげ物をささげました。礼拝をささげました。もし皆さんが赦す側の人であったなら、そのような態度によって罪を、相手を完全に赦すことなどできるでしょうか。赦すどころか、怒りは増すばかりでしょう。しかし神の答えは何だったでしょう。「わたしはあなたがたを愛している」でした。その愛のゆえに、神はなんとご自身で完全な聖い宥めのささげ物を備えられ、人間にお与えくださったのです。それがなんと最良の羊や牛どころではない、神の御子イエス・キリストでした。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」。神の愛のまことの現れである御子イエス・キリスト。宥めのささげ物として神が世に与えてくださった御子イエス・キリスト。このイエス・キリストを、神の愛を疑わずに信じるならば、「あなたの罪を完全に赦そう」と信じられないほどの恵みの約束をしてくださった。ここに愛があるのです。決して軽んじられてはならない真実の愛があるのです。

真実の愛には犠牲が伴うということを何度か申し上げております。まさにクリスマスは、犠牲が伴う神の愛の現れです。「キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました」(ピリ26-8)。

神の御姿であられるキリストは、ご自分を空しくして、ひっそりと家畜小屋にお生まれになった。そして布にくるまれて、飼い葉おけに寝かされました。昨年のクリスマスには、この「布」について言及しました。イエス様がくるまれた布は、死体を巻く布だったということです。

ベツレヘムの降誕教会は、イエス様が降誕されたとされる洞穴を中心としてその上に教会が建てられています。私たちは「家畜小屋」とか「馬小屋」を想像しがちですが、小屋ではなく洞穴(がけや岩などにあるほらあな)でした。当時の99%が貧しい人たちで、家を建てて住むのではなく、ほとんどの人たちが小さな洞穴に住んでいました。その中で羊小屋というのは結構大きな洞穴でした。そして当時、誰かが死ぬと墓に入れる前に身体を包帯で巻いていましたが、小さな家に住んでいて、そこで死体を置いて包帯を巻くスペースなどありません。墓に入れる前に死体を置き、包帯を巻くのは羊小屋だったのです。その羊小屋には死体を巻く包帯が保管されていました。イエス様はその羊小屋で生まれ、すぐそばにあった死体を包む包帯、布に包まれたのです。人は生きるために生まれる。神がそう望まれるからです。しかしイエス様は死ぬためにお生まれになったのです。神がそう望まれたからです。死体を包む布に包まれたみどりご、イエス・キリスト。そこに神の計り知れない愛の御心、人間へのメッセージがあるのです。クリスマスには喜びが満ち、神への賛美が溢れます。しかし人知れず涙されていた神。やがて神のひとり子は人間の罪のために死ぬことが定められていたから。しかしそれは神だけが知っていたことでした。その神は人間には「喜べ」「おめでとう」「めでたい」と言われるのです。そして死体を巻く包帯に包まれ、飼い葉桶に寝かされた御子イエス・キリストの御顔には、それを見た者を慰める微笑みがたたえられ、明日を照らす光があった。その御子の御前に、彼らはかしこんでぬかづいた(額を地につけて、またはつくほど丁寧に拝んだ)。有名なクリスマスの讃美歌の歌詞にある光景を思い浮かべるとき、賛美する私たちもまた慰められるのではないでしょうか。

神の私たちに対する真実の愛。犠牲の伴う真実な愛。私たちの犠牲となるために生まれたお方、それがイエス・キリストであり、この方こそが愛、ここに愛があるのだと、聖書は私たちに迫ってくるのです。この迫りに、私たちはなおも神の愛を疑うのでしょうか。神の愛、イエス・キリストを心から信じ、罪赦され、神との真の平和をいただき、喜びに満ち、光の中を歩んでまいりましょう。

神の愛を知る私たちに、ヨハネは言います。

4章7節        愛する者たち。私たちは互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛がある者はみな神から生まれ、神を知っています。
4章8節        愛のない者は神を知りません。神は愛だからです。

その神の愛を示した後、ヨハネはさらに続けます。

4章11節      愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた、互いに愛し合うべきです。
4章12節      いまだかつて神を見た者はいません。私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにとどまり、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。

私たちが神の愛に応え、神を愛していることはどのようにして分かるのでしょうか。それは私たちが互いに愛し合うことによって、私たちが目に見えない神を実際に愛しているということが分かる(表れる)のです。

神の愛のリアルな現れであるイエス・キリストがこの世に降られ、十字架と復活によって神の愛が完全に表され、そのイエス・キリストが天に上られる前に弟子たちに命じたこと。それは「神を愛しなさい。隣人を愛しなさい。福音を宣べ伝えなさい」でした。

主の命令は、実は私たちに対する信頼に満ちた期待なのです。主のなさる命令は、文法的に「あなたがたは〜するであろう」です。「神を愛しなさい」という命令は、「わたし(神)に愛されているあなたがたは、わたし(神)を愛するであろう」です。「隣人を愛しなさい、互いに愛し合いなさい」は、「わたし(神)に愛されているあなたがたは、互いに愛し合うであろう」です。福音を宣べ伝えなさいという命令は、「わたしに愛されているあなたがた、隣人を愛するあなたがたは、福音を宣べ伝えるであろう」です。このようにして、神が私たちを愛し、私たちに愛を注がれる目的は全うするのです。

めでたいクリスマスに、御子イエス・キリストにおいて表された神の愛は、他ならぬ皆さんお一人お一人に今日、注がれています。皆さんこそ神に愛される人であり、神の恵みを受け取り、宥めのささげ物であるイエス・キリストを通してなされる神の赦しを受け取り、神の御心に素直に従い、神の喜び、永遠のいのちをもって生きることを自分自身のものとして受け取る人こそが、この世の浮かれるだけの「メリークリスマス」ではなく、真のクリスマス「クリスマスおめでとうございます」「喜べクリスマス」「祝うべきクリスマス、喜びに満ちたクリスマス」を迎える人なのです。そして宥めのささげ物として世に降られ、十字架で屠られ、私たち罪人のための宥めのささげ物となってくださった御子イエス・キリストによって罪赦され、闇から光に移され、光の子、神の子とされた私たちは、神の愛に慰められ、ここからまた光の子らしく歩んでまいりましょう。

私たちは今、一年の締めくくりの時を過ごしていますが、教会の暦では待降節から新しい一年の歩みがスタートしました。終わりではなく始まったばかりです。そしてこのクリスマスからの歩みはイースターに向けて進められていきます。さらにはやがて再び主がこの地上に来られる再臨に向けて一歩一歩、一時一時確実に進んでいきます。その時主は、罪を負うためではなく、ご自分を待ち望んでいる人々の救いのために現れてくださいます。私たち教会は、すでに始まっている新しい一年、大切な一日一日、主の愛に満ちた一時一時を、主の愛を信じ、愛の内にとどまり、主を待ち望み、信仰、希望そして愛をもって歩んでまいりましょう。主を愛し、隣人を愛し、隣人のいのちを本当に大切に思い、福音を宣べ伝える。長野聖書教会が、神に愛された人々の群れとして、この愛を確信をもって証しする教会でありたいと願います。愛に飢え渇く人々に、愛に絶望する人々に、愛を疑う人々に、愛を求める人々に、「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としても御子を遣わされました。ここに愛があるのです」と語り続ける群れでありたいと願います。そのためにも、まず私たちの間の互いの愛がキリストの愛を表す者とされてまいりましょう。「愛する者たち。私たちは互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。愛のない者は神を知りません。神は愛だからです。愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた、互いに愛し合うべきです」。主の愛を知る私たちは、新しい一年もまた、そのように歩んで行くはずであろう。主は信頼をもって私たちに期待しておられます。

私たちは今朝、クリスマスに現された神の愛を深く覚えたいと思います。

長野聖書教会の話題やお知らせをお届けします。

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