2024年1月1日 元旦礼拝「明日を知られる主」

礼拝式順序

前奏(黙祷)
讃  美  讃美歌73「くすしきかみ」
信仰告白  讃美歌566「使徒信条」
主の祈り  讃美歌564「天にまします」
祈  祷  
讃  美  讃美歌413「父のかみよ」
聖書朗読  出エジプト記2章1〜10節
説  教  「明日を知られる主」佐藤隆司牧師
讃  美  讃美歌291「主にまかせよ」
献  金  讃美歌547「いまささぐる」
感謝祈祷
頌  栄  讃美歌541「父、み子、みたまの」
祝  祷
後  奏

本日の聖書箇所

出エジプト記2章1〜10節

説教題

「明日を知られる主」

説教「明日を知られる主」

出エジプト記2章1〜10節

2024年元旦礼拝の朝。クリスマスに続き、新しい年を迎えて私たちは、互いに主にあって心からのあいさつを交わしましょう。新年明けましておめでとうございます。新しい1年も、神に愛され、神を愛する皆さんお一人おひとりの上に、主イエス・キリストの豊かな祝福がありますようにお祈りします。

「おめでとう」の意味はクリスマス礼拝でもお分かちしましたけれども、「芽出た、めでたい」「喜べ、喜びましょう」でした。クリスマスにお生まれになった新しい芽、そしてインマヌエル(訳すと「神が私たちとともにおられる」)なる神、イエス・キリストがともに歩んでくださる今日からの新しい1年。主イエス・キリストが私たちを守り導いてくださる恵みに満ちた新しい1年を、私たちは今朝、ともに信仰によって喜び祝いましょう。

皆さんに上げていただきご投票いただいた長野聖書教会の2024年度の教会聖句が決定しました。2024年度の教会聖句は、「あなたのわざを主にゆだねよ。そうすれば、あなたの計画は堅く立つ」(箴言16章3節)です。このみことばが与えられました。これもまた、おめでとうございます。喜べ、喜びましょう、ですね。

昨年度は「見よ、わたしは新しいことを行う。今、それが芽ばえている」(イザヤ書43章19a節)のみことばが与えられ、そのみことばに導かれ歩んでまいりました。長野聖書教会に新しく芽ばえた、主がなさろうとする新しいこと、ご計画。実際、長野聖書教会には大小様々な変化があった1年でした。今年度はその私たちに与えられた変えられたこと、それは主のご計画、わざであって、それを主にゆだねよ。そうすれば、あなたの計画は堅く立つ。成し遂げられると。まことにふさわしいみことばが与えられたのではないでしょうか。「主はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる方です」(ピリ213)。私たちに与えられている計画は、私たちの勝手な計画ではなく、神の御心であるはずです。「あなたのわざを主にゆだねよ。そうすれば、あなたの計画は堅く立つ」このみことばに支えられ、導かれ、御霊による一致をもって歩んでまいりましょう。

新年を迎え、この朝与えられましたみことばは、出エジプト記2章1〜10節です。ここにはあのイスラエルの民をエジプトの奴隷生活から導き出した偉大な指導者モーセの誕生物語が記されています。

2章1節に「さて、レビの家のある人がレビ人の娘を妻に迎えた」とありますが、出エジプト記6章20節によると、モーセの両親はレビ族に属するアムラムとヨケベテであったことが分かります。しかしここではその名があまり重要とされていないのは、他にもっと重要なことがあるということでしょう。それはやはりレビ族に属する者同士が結婚したという事実です。両親は祭司の一族として特別な役割を与えられていたということ。そしてそれを自覚していたということでしょう。400年にも及ぶエジプトでの寄留生活の中で、イスラエルの民は偶像礼拝に染まり、割礼の儀式もすたれていたようです。そのような中にあっても、レビ族の両親には信仰がありました。奴隷生活の本当に苦しい中にあっても、なおも神に希望を置き続け、信仰を捨てず守っていた。これは凄いことだと思われないでしょうか。

やかて妻は身ごもって男の子を産みました。産まれた子がかわいいのを見て、3か月間その子を隠しておきました。どうして隠しておいたのでしょうか。それは1章に記されています。エジプトの王ファラオによる恐ろしい命令があったからです。増え広がり続けるイスラエルの民を恐れたファラオは全国民に命じました。「ヘブル人の生まれた男の子はみな、ナイル川に投げ込め」。つまり殺してしまえ。「女の子を生かしておけ」と。このような恐ろしい男の赤ちゃんにとってはまさに絶望的な状況下で、後のモーセは誕生したのです。

しかし両親は、その子がかわいいのを見て、3か月間その子を隠しておきました。新約聖書のヘブル人の手紙11章23節にはこのように記されています。「信仰によって、モーセは生まれてから三か月の間、両親によって隠されていました。彼らがその子のかわいいのを見、また、王の命令を恐れなかったからです」。

「信仰によって、産まれた男の子の“かわいい”のを見て、3か月間隠しておいた」。両親は信仰によって男の子を隠したのです。かわいかったから。わが子は誰だって世界一かわいく見えるでしょう。しかしそれだけではなかった。両親はわが子の中にかわいさを見て、信仰によってファラオの恐ろしい命令に反して、命を掛けて隠したのです。苦しい生活の中、それでもなお神に希望を起き続け、信仰を捨てずに守ってきた、その信仰によって両親は命を掛けて男の子をファラオの手から隠したのです。信仰によって男の子の中に「かわいいのを見た」からです。

「かわいい」と訳されている語。ヘブル語で「トーヴ」という語です。これは創世記において多く登場する語です。「神は光を“良し”と見られた。神は光と闇を分けられた」(創14)。「神は乾いた所を地と名づけ、水の集まった所を海と名づけられた。神はそれを“良し”と見られた」(創110)。「地は植物を、すなわち、種のできる草を種類ごとに生じさせた。神はそれを“良し”と見られた」(創112)。「また昼と夜を治めさせ、光と闇を分けるようにされた。神はそれを“良し”と見られた」(創118)。「神は、海の巨獣と、水に群がりうごめくすべての生き物を種類ごとに、また翼のあるすべての鳥を種類ごとに創造された。神はそれを“良し”と見られた」(創121)。すべてを生み出された神が「良し」とされた。完全なご計画をもって創造され、それをご覧になり「良し」とされた。この「良し」が「かわいい・トーヴ」なのです。また「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」(伝311)。この「美しい」が「かわいい・トーヴ」なのです。

苦しい生活の中で、皆が信仰を忘れ、信仰を捨ててしまうような中で、それでも神に希望をおき、信仰を守り通してきた男の子の両親は、男の子、後の偉大な指導者モーセの中に、神の「良し」を見出したのです。見出すことができたのです。

両親は3ヶ月間、モーセを隠しておきました。ファラオの命令に背いてでも、何とか隠しながら自分の手でその子を育てたいと願ったのです。3ヶ月は頑張りました。しかし段々と声が大きくなって行く。元気な女の子だねと言われていても、この子はもしかしたら男の子なのではないかという人たちが現れる。自分の男の子はなくなく断腸の思いでファラオの命令通りにした。そのような人たちがその子に注ぐ目の何と厳しいことか。

モーセの両親は3ヶ月は何とか耐えるのですが、もう涙ながらにモーセをナイル川に捨てることにします。子を残したら、密告されて、エジプト兵によって奪われて、もっとひどい目に遭うかもしれない。虐殺されるかもしれない。そんな場面を目の当たりにしなければならないかもしれない。震えるほど恐ろしい。それでも彼らは自分の手でモーセをナイル川に投げ込んで殺すことなどできません。そこでどうしようもなくなった彼らはパピルスでかごを編み、瀝青と樹脂を塗って防水処理を施して、ナイル川にそっと置くことにしたのです。

脇で泣き声をあげる、わが子の泣き声を聞きながら、腕に抱いて顔を見つめあやしながら、かごを編み、防水処理を施す時の両親の思いはどんなものだったのでしょうか。ひと編みひと編み、彼らの祈りがあったのでしょう。神さまなぜですか。どうしてですか。どうして私たちの社会はこんななのですか。どうして私たちはこんなにも苦しめられなければならないのでしょうか。どうしてあなたは働いてくださらないのですか。救いの道を開いてくださらないのですか。彼らは涙を流しながら、祈りながらわが子をかごの中に入れ、そっとナイル川の川面に浮かべたのです。

聖書はその後、男の赤ちゃんは不思議な神の御手によって守られたことを記します。ファラオの王女がそこに水浴びに来ることも、王女が赤ちゃんを不憫に思ってくれることも、実は考えられない事柄に違いありません。けれども、そんな驚くような、考えられないようなことが次々と起こり、この赤ちゃんは守られたのです。そしてその赤ちゃんは、なんと自分の両親の手に返されました。両親の手によって育てられたのです。そればかりか、貧しい両親に必要な費用までも与えられたのです。赤ちゃんは両親のもとで育ちました。3歳くらいまで育てられたようです。「三つ子の魂百まで」ということわざがありますが、たとえ言葉がすべて分からなくとも、両親の手によって育てられたその子は、両親の魂を、両親の信仰を、両親の神をしっかりと受け継ぎました。その揺るぎなさは後の赤ちゃんが成長した姿を見ると分かるでしょう。

そしてその赤ちゃんは成長して、あのモーセになったのだと聖書は私たちに伝えています。すべてが備えられ、すべてが整えられ、あのモーセになったのだと聖書は私たちに伝えています。

両親が赤ちゃんの中に見たかわいさ。それは神の「良し」とされること。御心、ご計画。それはすべてが守られ、備えられ、すべてが整えられて成し遂げられて行く。自分の知恵や力ではどうしようもなくなって、なくなく手放すことになっても、神のご計画は必ず神によって不思議な方法で成し遂げられて行くのです。しっかり握りしめていた大事なもの。それを祈りながら、涙ながらに手放さなければならない時がある。しかしそれは信仰者にとって、決して諦めではありません。神に「すべてをゆだねる」ということです。神が「わたしにゆだねよ」と言われているのです。「わたしがすべてを働かせて、益とするから」と。お前の手に握りしめて離さないならば、もっと辛くて悲しいことになってしまう。それでは良くないからと、明日を知られる全地全能の神がそう言われるのです。神は私たちに明日を知る能力を与えられませんでした。私たちに与えられているのは、信仰によって、明日を知られる主に依り頼むことです。神は私たちに、明日を良いものに変えることのできる能力を与えられませんでした。私たちに与えられているのは、明日を良いものに変えることのできる主に依り頼むことです。

4節には、「その子の姉は、その子がどうなるかと思って、離れたところに立っていた」と記されています。このあとどうなるのか、明日がどうなるのか、まったく自分たちには分からないし、まったく力はないけれども、精一杯の祈りをささげながら、このあと神が何をなさってくださるのかと様子を見ていると、彼女は神の不思議な御業をすぐさま目の当たりにしたというのです。神の御心、ご計画の成就の始まりを目の当たりにしたのです。そこから偉大な神のご計画が成し遂げられて行くことも、この時は誰も知りませんでした。しかし神の御心、ご計画、決意、意志、それは誰にも気づかれずに、そこに確実にあったのです。神の「良し・美しさ・トーヴ」がそこにあったのです。すでにそこから始まっていたのです。

私たちは、今日からの歩みを、日々私に出来ることを精一杯行って生きてまいりましょう。私にできること、それは日々祈ること、明日を知られる神に祈り委ねること。そして明日を知られる神に期待すること、信仰することです。そして神がどのようにしてくださるのかを、信仰によって見つめ続けてまいりましょう。私たちの祈りは神に届いている。私たちの祈りは神が聞いていてくださっている。そして神は人を救おうとしてくださっている。必ず神がすべてを美しく整え、神の御心、ご計画を成し遂げてくださる。その祈りと希望、つまり神への信仰を積み重ねながら、この2024年という1年をともに歩んでまいりましょう。

長野聖書教会の話題やお知らせをお届けします。

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