2024年2月11日 主日礼拝「神の愛とあわれみが人を救う」

礼拝式順序

賛  美  新聖歌177「われに来よと主イエスは」
      讃美歌526「主よわが主よ」
前奏(黙祷)
招  詞  詩篇51篇14〜17節
讃  美  讃美歌7「主のみいつと」
罪の告白・赦しの宣言
信仰告白  讃美歌566「使徒信条」
主の祈り  讃美歌564「天にまします」
祈  祷  
讃  美  讃美歌271B「いさおなき我を」
聖書朗読  マタイの福音書19章23〜30節
説  教  「神の愛とあわれみが人を救う」佐藤隆司牧師
讃  美  讃美歌524「イエス君」
献  金  讃美歌547「いまささぐる」
感謝祈祷
報  告
今週の聖句 マタイの福音書19章26節
頌  栄  讃美歌541「父、み子、みたまの」
祝  祷
後  奏

本日の聖書箇所

マタイの福音書19章23〜30節

説教題

「神の愛とあわれみが人を救う」

今週の聖句

イエスは彼らをじっと見つめて言われた。「それは人にはできないことですが、神にはどんなことでもできます。」

マタイの福音書19章26節

説教「神の愛とあわれみが人を救う」

マタイの福音書19章23〜30節

皆さんは、どうして毎週こうして礼拝に来られるのでしょうか。毎日仕事や家事で忙しくされていて、せっかくの休日、世の多くの人たちはレジャーに出かけたり、自分磨きとして習い事や趣味にと楽しいことを満喫していたり、エステやジムに行って肉体のメンテナンスをしたり。あるいは思いっ切り朝寝坊してやろうとか、家で一日中寝てやろう、逆にここぞとばかりに商売をしてお金儲けをしてやろうじゃないかと精を出している人もいるというのに、皆さんはこうして貴重な午前中の時間を割いて、礼拝のために時間を取り分けて、近くから遠くから、暑い日も寒い日も、雨の日も雪の日も風の日も、大変な思いをしてまでわざわざ教会に来られ、礼拝を献げられるのでしょうか。教会に来られないにしても、動画配信や色々な形で時間を神のために取り分け、礼拝を献げられるのでしょうか。神に仕えておられるのでしょうか。神を愛しておられるからですか。神に感謝しておられるからですか。本当にそうですか。はい、そうでしょう。その通りでしょう。しかしそれだけでしょうか。私たちはきっと、この1週間、あるいはこれまでの人生の中で様々な背負いきれないほどの重荷を背負って、悩みや悲しみ、恐れや不安、嘆きや涙とともに神の前に進み出る者たちです。様々な願いを携えて神の御前に進み出る者たちです。そして神からの良い報いを求める者たちではないでしょうか。神からのみことば、答え、祝福、恵み、愛、あわれみ、慰めを求める者たちではないでしょうか。それは悪いことですか。いいえ、神はそのようなご自身に対する私たちの信仰を喜ばれ受け入れてくださるお方です。しかし、神からのそのような報い以上に価値を認め、それ以上に求める何かがあるならば、その人は神の前には進み出ることはしないでしょう。神の前を去ってしまうでしょう。どこかの(わが家の?)思春期の子どもが「礼拝に言ったって良いことない」と猛烈に反抗し、実際に礼拝に来ないなんてこともありますが(などと言いながら、悩める青年なものですから、こっそり第2礼拝に出席しています。寝たふりをしながらも彼なりに神に期待し、何か答えを求めているのでしょう。みことばに耳を傾けているのです)、ある意味、大人には真似できない純粋で正直すぎる気持ちの告白かもしれません。期待の裏返しかもしれません。そもそも存在しないものに対して反抗しても意味がありませんから、存在は認めているのです。彼は敬虔という仮面をかぶった偽善者ではありません。父なる神は、そのような子であっても、ご自身のもとに帰って来ることを、いつも両腕を力いっぱい広げて待っておられるのです。逆に偽善者を遠ざけられるのです。聖書は言います。「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神がご自分を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです」(ヘブ116)。

前回は、金持ちの青年が自分の財産を捨てきれずに、イエス様の前から去って行ってしまったところを見ました。今日の箇所でイエス様は、その金持ちの青年が悲しみながら去って行くのを見て、弟子たちに対してこのように言われました。

19章23節    そこで、イエスは弟子たちに言われた。「まことに、あなたがたに言います。金持ちが天の御国に入るのは難しいことです。

マルコの福音書では、この場面には弟子たちの他に、この出来事の一部始終を見ていた多くの人々がいたことが分かります。イエス様は周囲を見回して、そして弟子たちに言われたのです。「富を持つ者が神の国に入るのは、なんと難しいことでしょう」(マコ1023)。イエス様は「難しい」と言われていますが、この語の意味は「困難が伴う」の他に「ほとんど見込みがない」という厳しいものです。

財産を多く持つ者は、それに妨げられて神に向かいにくい、ほとんど見込みがない。確かにそういうところがあるのではないでしょうか。「お金さえあれば何とかなる」「お金がすべて解決してくれる」、これはこの世の常識のような考えです。人間は息を吸っているだけでお金がかかる世ですから。「お金さえあれば、神なしで生きて行ける」。はっきりとではなくてもうっすらとでも、恐らくすべての人の心の奥底に潜む思いでしょう。しかしそれは荒野(この世は荒野のようなところ)で偶像礼拝そして滅びへと誘う者の試みる声です。その声にイエス様は答えられました。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる』と書いてある」(マタ44)。人は神の息(霊)が吹き込まれ、それで人は生きる者とされたのですから、神なしでは、神の霊、神のみことば、神の養いなしでは決して生きられない存在。それが私たちです。単純に生命維持ではありません。荒野のようなこの世であっても、人がまことに人らしく、神のみこころにかなった活き活きとした生命を生きる時、神に与えられたそれぞれの賜物(もしそれがお金であるならそれ)を天に宝を積み上げていくようにして活かして、活き活きと生きる時、私たちは本当に生きていると言えるのです。そして神の国に生きるというのは、そのように生きることなのです。そしてまた、荒野は神に出会う場所でもあるのです。

弟子たちはイエス様のみことばに驚きました。そしてイエス様は重ねて言われました。

19章24節    もう一度あなたがたに言います。金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうが易しいのです。」

らくだが針の穴を通ることなんて、誰が考えても全く不可能なことです。にもかかわらず、それが「金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通る方が簡単」と言われる。イエス様は当時のことわざを用いられ、金持ちが救われることはいかに難しいかを示されました。しかしイエス様は絶対に不可能だとは言っておられないのです。

ちなみに23-24節にある「天の御国に入る」「神の国に入る」、そして前回の金持ちの青年とのやりとりの中で出て来た「永遠のいのちを得る」「いのちにはいる」というのは、表現こそ違っていますが、実質的には「救われる」という同じ意味を表しています。

19章25節    弟子たちはこれを聞くと、たいへん驚いて言った。「それでは、だれが救われることができるでしょう。」

弟子たちはますます驚いて互いに言いました。またその場に居合わせた多くの人々も心に思ったことでしょう。「それでは、だれが救われることができるのか」と。

イエス様が24節で言われたことは、富んでいる者は救われないという意味ではありません。富がしばしば救いの妨げとなることを意味しているのです。なぜなら、富んでいる者は、富に依存してしまい、神に依存しようとしないことが世の常だからです。もし皆さんが国家予算的な莫大な富を持っているとしましょう。「神さま、助けてください、お救いください」と、命にかかわる緊急事態は別として、普段の毎日の生活の中で心から神に依り頼み、祈り求めることができるでしょうか。私には正直、自信がありません。だから貧しくされているのでしょうか。だから「日ごとの糧を今日もお与えください」と毎日一生懸命祈るように言われているのでしょうか。

それはともかく、弟子たちはイエス様のことばを聞いて非常に驚きました。この「驚く」というギリシア語は、「パニック、またはショックで攻撃する」という意味です。弟子たちが言った言葉は悲しみや信仰などではなく、イエス様に対する攻撃、非難の言葉でした。

当時のユダヤ人にとって、富は神からの祝福であると考えられていました。また敬虔な生き方に対する報いは、神から恵みを受けて裕福になることであると考えられていました。富は敬虔な生き方に対する神からの報いである。それゆえユダヤ人たち(弟子たち)は、富んでいる者は最も神の救いに近いと考えていました。ところがイエス様はむしろ逆のことを言われました。それで弟子たちは、天の御国には一体どうしたら入れるのかと疑問を抱きました。神から祝福されている金持ちが御国に入ることが不可能に近いなら、一体誰が救われるだろうかと、弟子たちは困惑した、というよりも、イエス様を攻撃し非難したのです。

19章26節    イエスは彼らをじっと見つめて言われた。「それは人にはできないことですが、神にはどんなことでもできます。」

イエス様はご自分を攻撃し非難する彼らをじっと見つめられるのです。

以前、「表情」についてお話ししたことがありますが、覚えておられるでしょうか。表情は韓国語で「オルグル」と言い、「たましいをのぞき見ることができるほらあな」という意味です。そして、イエス様がどのような御姿と表情でみことばを語られたのかを思い浮かべることも、聖書を読むときの楽しみであると申し上げました。26節のイエス様が彼らをじっと見つめて言われた、この時のイエス様の表情を思い浮かべてみてください。私は愛とあわれみ、慈しみに満ちた表情であったと思います。前回の金持ちの青年に対しても、イエス様は彼を見つめ、いつくしまれたからです(マコ1021)。

おそらく、すべての人が富に対する願望を持っているでしょう。すべての人が富に対する執着があるでしょう。それらの前に人はどうすることもできません。ですから、イエス様の言われるところによると、人間ひとりとして救われることは不可能に見えてしまいます。

しかし、イエス様は再び、救いが人の力や努力によって獲得されるものではなく、神の賜物であることを強調されます。「それは人にはできないことですが、神にはどんなことでもできます」。つまり、神はご自身の愛とあわれみによって、人を救うことがおできになるのです。どんなに富んでいようとも、どんなに力や才能に満ちていようとも、神以外にもっと頼れるものがあり、神に頼る必要を覚えない、ゆえにどんなに救いから遠く離れているような人であっても、じっと見つめられるイエス様の眼差し、イエス様の態度、イエス様のみことば。それらはイエス様の御心、父なる神の御心の表れ。父なる神の御心、すべての人に注がれている父なる神の愛とあわれみを本当に経験するならば、不可能は可能に変えられるのです。そこに悔い改めが起こるのです。富に頼り、富に執着し、神に依り頼むことができない人であっても、それらから解放されて、神にのみ依り頼むことができるようになるのです。「この私をお救いください」と、心からの悔い改めとともに救いを求めることができるようになるのです。そしてさらに、隣人を愛する者へと変えられるのです。例えば、世の大金持ちが良く口を揃えて同じことを言うのですが、あまりにも大きな額のお金を動かしていると、これは自分の力ではなく、何か大きな存在の力によって動かされているということを実感するのだそうです。そこに神を感じるのです。するとどうするかと言いますと、大抵が多額の献金や募金をするのだそうです。神の愛とあわれみを経験すると、そのようなことが起こるのです。

ここでは救いを妨げるものとして「富」が扱われていますが、救いを妨げるものは富だけではありません。その人の心を満たしているもの。それは富(お金や土地などの財産)の他にも、権力や地位、あるいは名誉欲、快楽、はたまた多忙(あぁもう忙しい!)、無関心、無気力、プライド、敵意、他人をさばく思い、赦せない思い、その他どのようなものでも、その人の心を満たし、神に救いを求めることを邪魔するものから解放されて、神に救いを求めるならば救われるのです。それを可能にするのが神の愛とあわれみを経験し、知ることです。

では、人はどのようにして神の愛とあわれみを経験することができるのでしょうか。それは、先に神の愛とあわれみを知り、神の愛とあわれみによって救われた者が、今度はそれらを隣人に注いでいくことによって、その人は神の愛とあわれみを経験し、知ることになるのです。先の者が「神を愛し、隣人を自分自身のように愛しなさい」「あなたを迫害する者のために祈りなさい」「人の過ちを赦しなさい」と言われる主のみことばに従って、隣人に神から賜った愛とあわれみを注いで行くことによって、後の者は真の悔い改めの実を結び、救いを妨げるものから解放され、そして天の御国、神の国に入ることができるのでしょう。

富、あるいは救いを妨げるものから解放されるならば天の御国、神の国、メシアが治める国に入ることができる、救われると知って、弟子たちは何か希望を得たのでしょうか。ペテロはいつものように弟子を代表して言います。

19章27節    そのとき、ペテロはイエスに言った。「ご覧ください。私たちはすべてを捨てて、あなたに従って来ました。それで、私たちは何をいただけるでしょうか。」

「ご覧ください。私たちはすべてを捨てて、あなたに従ってまいりました」。弟子たちは確かに、家を捨て、家族を捨て、職業を捨ててイエス様に従って来ました。この点に関しては財産を捨てられなかった金持ちの青年とは異なっていました。しかしすべてを捨てることは、喜びではなく苦しみであったと感じるところがあったようです。「捨てる」というギリシア語は、「手放す、苦しむ」、つまり手放すことによって苦しむという意味の語です。この点に関しては、金持ちの青年と同じでした。これは弟子たちの本音、本心だったのではないでしょうか。そして私たちの本音、本心なのかもしれません。「私はあなたに従うために、喜んで(と口では言いながら、実際は苦しみ、悲しみ)あれやこれを捨てて来たのです」と。そしてもう一つ本音、本心を口にします。「それで、私たちは何をいただけるでしょうか」と。弟子たちは主から何か報いを受けることを期待して従っていたのです。「何をいただけるでしょうか」と訳されているところを直訳するとこうなります。「その時、私たちはどうなるのでしょうか」。つまり、「イエス様、あなたが神の国を打ち立て、その王座に座られる時、私たちはどうなるのでしょうか。どのような報いが与えられるのでしょうか」。彼らは少しずつ変えられて来てはいましたが、やはり心のどこかでイエス様を政治的軍事的なメシアとして期待し、メシアからの良い報いを期待して従って来ていたのです。

イエス様は報いを期待する弟子たちを叱ることなく、むしろ積極的に報いについて語られます。報いを期待することは決して悪いことではないのです。しかし弟子たちは、権力とか自分の栄光などに対する野望という偶像をもってイエス様に従っていたこともうかがえるところです。そのことはこの後の20章に入ってさらに明らかになっていくところではありますが、弟子たちはこの後のイエス様との歩みの中で、さらにイエス様を通して神の愛とあわれみを知っていくことになります。そして心の偶像を捨て、本当の神からの良い報いを求める者へと整えられていくことになるのです。さらには自分たちの考えをはるかに越えた神からの良い報いが与えられることになるのです。

19章28節    そこでイエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに言います。人の子がその栄光の座に着くとき、その新しい世界で、わたしに従って来たあなたがたも十二の座に着いて、イスラエルの十二の部族を治めます。

「新しい世界で」とは、新しい天と新しい地が実現する時のこと。それはイエス・キリストの再臨によって実現します。その時、イエス・キリストの真の弟子たちはイエス・キリストとともに「イスラエルの12の部族」すなわち、神の国の民を治めることになるのだと言われます。これは「神から最高の栄誉が与えられる」ということです。

19章29節    また、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子ども、畑を捨てた者はみな、その百倍を受け、また永遠のいのちを受け継ぎます。

マルコの福音書には、もう少し詳しくイエス様が言われたことばが記録されています。「イエスは言われた。『まことに、あなたがたに言います。わたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子ども、畑を捨てた者は、今この世で、迫害とともに、家、兄弟、姉妹、母、子ども、畑を百倍受け、来たるべき世で永遠のいのちを受けます』」(マコ10 28-31)。イエス様のために、また福音のために捨てたものの何倍もの報いが、今この世で与えられるのであるとイエス様は約束してくださっています。イエス様のために、また福音のためにあらゆるものを苦しみながらも捨てた。その報いは来るべき世で与えられるのではなく、今、あなたが生きているこの世でも与えられるのだと。正直、とても励まされないでしょうか。イエス様の約束ですから信頼して良いでしょう。心から期待して良いでしょう。その上、来るべき世では神から与えられる永遠のいのちを報いとして受け継ぐことができる。「永遠」とは神ご自身のことです。ですから「永遠のいのち」とは神のいのちであり、神のいのちをいただけることは、他のいかなる祝福、報いにも比べられないものではないでしょうか。永遠のいのち、救いこそ、他の何ものにも代えがたい最高の祝福であり、最高の報いでしょう。神はその報いを与えたいと願っておられるお方なのです。

また「受け継ぐ」という語ですが、これはマタイの福音書では3度用いられていますが(55、2534)、ここでは「永遠のいのち」を指していますが、他の2ヶ所はどちらも天の御国を受け継ぐことを表しています。ですから、永遠のいのちというのは、単に永遠に生きることを越えて、天の御国を受け継ぐこととして受け取らなければなりません。

この神からの報いを、私たちは心から求めているでしょうか。この神からの報いを本当に喜びとし、切実に求めているでしょうか。もし、このことに対する喜び、切実な求めの実感が湧かないのであるならば、きっとその人には他に頼ることのできる、神よりも頼りたいと求める何かが内にあるということかもしれません。天の御国よりも求めるべきものがこの世にあるのかもしれません。それが救いに至る道を妨げるものとなっているとしたら大問題です。他に何も神に求めてはならないということではありません。お金を求めても良いのです。しかし優先順位を正しくしなければ、どんなものでも偶像となってしまうのです。金持ちの青年にとって、それは富だったということです。

こうしてイエス様は金持ちの青年の質問に対する真の答えを与えておられます。「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをすればよいのでしょうか」「完全になりたいのなら、帰って、あなたの財産を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を持つことになります。そのうえで、わたしに従って来なさい」。

私たちは金持ちの青年のように、イエス様の前から去る者となるのでしょうか、それともイエス様に従って行く者となるのでしょうか。何かを捨てることを悲しみ、苦しみと捉え、イエス様の前から去る者でしょうか、それとも、何かを捨てることを喜び、希望とし、さらなるイエス様に対する信頼と期待をもって従って行く者でしょうか。天に宝を積み上げていく人生。そうであるならば必ずこの世で、必ず来たるべき世で報われる。その希望、信仰を確かにするなら、どんな困難や患難にあっても、ためらうことなくイエス様について行くことができます。

19章30節    しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になります。

イエス様はこの段落の最後に、「先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」と言われています。これは弟子たちも、報いを与えられるというイエス様のことばに気を良くして高慢になったり、油断したりする(心が富む)なら、意外なときに遅れをとることになると警告しておられるのです。ちょっとした遅れなら良いですが、戸の外に立たされ、そこで泣いて歯ぎしりすることになる場合もあるのです。

またそのことと同時に、払った犠牲の大きさに応じてという考え方も否定されます。このことは次回の20章に入ったところで詳しく説明されます。

長野聖書教会の話題やお知らせをお届けします。

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