2024年5月5日 主日礼拝「最も大切な2つの戒め」

礼拝式順序

賛  美  プレイズ「ゆるすためです」
      新聖歌38「わが目を開きて」
前奏(黙祷)
招  詞  出エジプト記34章6-7節
讃  美  讃美歌17「空はほがらに」
罪の告白・赦しの宣言
主の祈り  讃美歌564「天にまします」
祈  祷  
讃  美  讃美歌321「わが主イエスよ」
聖書朗読  マタイの福音書22章34〜46節
説  教  「最も大切な2つの戒め」佐藤隆司牧師
讃  美  讃美歌389「敵を愛せよとの」
聖餐式   信仰告白 讃美歌566「使徒信条」
讃  美  讃美歌207「主イエスよ、こころ」
献  金  讃美歌547「いまささぐる」
感謝祈祷
報  告
今週の聖句 マタイの福音書22章40節
頌  栄  讃美歌541「父、み子、みたまの」
祝  祷
後  奏

本日の聖書箇所

マタイの福音書22章34〜46節

説教題

「最も大切な2つの戒め」

今週の聖句

この二つの戒めに律法と預言者の全体がかかっているのです。

マタイの福音書22章40節

説教「招待されたのに」

マタイの福音書22章1〜14節

「愛する」って何でしょうか? 私たちは「神を愛する」「人を愛する」「互いに愛し合う」などと良く言いますが、それはどういうことですか? 愛と聞くと、好きの最上級のような印象もありますが、相手を、あるいはお互いが好きで好きでたまらなくなることを愛というのでしょうか。

ちなみに、この「好き」という語を辞書で調べてみると、「気に入ること。心惹かれること」という意味だそうです。そしてこの好きというのは心理的に5つに分けられるのだそうです。1つ目は「親密さを求める『好き』」。相手と親密になってもっと近い関係や深い関係になりたいという気持ち。2つ目は「フレンドシップとしての『好き』」。好感が持てる、もっと仲良くなって楽しみたいという気持ち。3つ目は「個人的な好みという意味での『好き』」。相手の見た目とか考え方、振る舞いが好ましいといったことを指します。4つ目は「憧れや羨望としての『好き』」。人は自分にはないものを持っている人に心惹かれるというところがあるように思います。5つ目は「相手に性的な魅力を感じるという意味での『好き』」。では「好きで好きでたまらない」、それはそのまま愛と呼べるのかどうかと考えると、微妙にクエスチョンマークが浮かんできます。

そこで思い出したのが、少し前に第2礼拝の中で愛することについて、このように教えられたことでした。「相手を愛するというのは、相手が好きか嫌いかは関係ない」。結構衝撃的な言葉ではありますが、そうだなとも思わされます。自分が好きな相手を愛するのは比較的簡単で、嫌いな相手を愛することはとても難しい。けれども「自分の敵さえも愛しなさい」というのがイエス様が教えておられることです。そして、愛する対象が愛されるのにふさわしい人だけではないことを説明するために、イエス様は「神は良い人にも悪い人にもいつくしみを与える方だ」と語られました。

神が私たちを愛してくださるのは、私たちがとても良い人でまことに好ましいから、見た目や心がきれいで、考え方、振る舞いがまことに好ましい、だから神は私たちを愛してくださるのでしょうか。そう思われる人がおられるなら、その人はかなりの高慢です。気をつけてください。高慢は破滅に先立ち、高ぶった霊は挫折に先立ちますよ^^(箴1618)。

何度かお話ししてまいりましたが、日本に来た宣教師は聖書の「神の愛」を日本語に訳すのに大変苦労しました。「神」は日本では「八百万(やおよろず)の神・偶像の神」と区別するために「デウス」と訳し、「愛」については、「好き」とか、当時の世の愛(それは性愛でした)とはっきりと区別するために「御大切」と訳し、「デウスの御大切」としました。素晴らしい訳だと思います。そうです。愛というのは「御大切」です。相手を本当に大切にすることです。それこそ、先週の説教ではないですが、コスパ、タイパ度外視で相手を大切にすることです。主を愛する。礼拝を愛する。祈りの時、デボーションの時を愛する。そこで「好きか嫌いかは関係ないんだよね」と突っ込まれてしまうと困ってしまいますが・・・。愛の中にはやはり好きという感情が無関係ではありませんし、イエス様が言われているとおり、嫌いの感情が大きければ大きいほど、愛することに難しさを感じるでしょう。神はまことに私たちをコスパ、タイパ度外視で大切に、大切に色々と手をかけてくださっていますね。だからと言って決して甘やかしてはおられません。大切だから。愛してくださっているから。色々な試練があるのも、主が私を嫌いだからではないということは皆さんもよくご存知だと思います。これこそ真の親であり、真の愛、御大切ではないでしょうか。

さて、前回はサドカイ人たちがイエス様を試みようと近寄って来て論争し、見事イエス様は彼らを黙らせたというところを見ました。今朝のところでは、そのサドカイ人たちの敗北の知らせを聞いたパリサイ人たちが、今度は自分たちがイエス様を苦境に陥れてみせようと集まります。自分たちこそがイエス様を試みて倒してみせると考えたのでしょう。

22章34節    パリサイ人たちはイエスがサドカイ人たちを黙らせたと聞いて、一緒に集まった。
22章35節    そして彼らのうちの一人、律法の専門家がイエスを試そうとして尋ねた。

パリサイ人たちは真理を知るためではなく、もちろんイエス様から教えてもらおうというものでもなく、イエス様との論争に勝つことを目的に集まりました。そしてイエス様を倒そうと必勝を誓い、皆で話し合いでもしたのでしょうか、イエス様に立ち向かわせたのは、彼らの内の律法の専門家、律法学者でした。イエス様に立ち向かえる質問を用意し、イエス様に立ち向かえる者を選び、そしてイエス様がどのような答えをされようとも、巧みに罠にかけ陥れようという、準備万端の体制で臨みました。そして彼らが準備してきた質問はこのような質問でした。

22章36節    「先生、律法の中でどの戒めが一番重要ですか。」

彼がした質問というのは、「律法の中でどの戒めが一番重要か」というものでした。実は当時のユダヤ人たちにとって、律法の中で一番大切な戒めはどれか、という問題は論争の的でした。律法学者たちは、聖書全体から「〜しなさい」という248個の積極的戒めと、「〜してはならない」という365個の消極的戒めを発見していました。十戒はその最初の10項目にすぎず、イスラエルの民に与えられた613個の命令がモーセ五書に記されているとして、それらは「トーラー」と呼ばれていました。そのトーラーには、民法、刑法から礼拝儀式の様々な規則、犠牲の規則、また倫理道徳にかかわる規則まで含まれていました。それらは基本的にはすべて平等に重んじられるべきものでしたが、それでも「より重い戒め」「より軽い戒め」という区別をしていたようです。例えば「主の日を聖別しなさい」というトーラーと、「道で倒れている牛がいたら、その牛が敵のものであっても見て見ぬ振りはしてはならない。一緒に助けてあげなければならない」というトーラーを比較して、牛を助けないといったように、ある者は祭儀的律法が大切であると言い、ある者は道徳的律法が大切であると言い、そこには民の間でも論争があったのでした。このような中で、律法学者はイエス様が律法に関してどれだけ知識を持っているかを試すために質問をしたのです。一見、敬虔で信仰的な問いではありますが、それはイエス様を試すものでした。「先生」と呼んでいますが、これはもちろんお世辞です。ユダヤ人であるならば興味津々の問題を、多くのユダヤ人の前で質問し、注目させ、皆の大好きな先生がどのような答えをするのか、どのような答えをしようとも論破してやろう、恥をかかせてやろう。またこの自分こそが尊敬されるべき律法の先生であると言いたいような、嫌らしい呼びかけです。その呼びかけの声の中に、恐らくイエス様はすべてを感じ取っておられたことでしょう。「あぁ、わたしは彼らに本当に嫌われているんだなぁ」などと思われたでしょうか。

この質問に対してイエス様は答えられました。

22章37節    イエスは彼に言われた。「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』
22章38節    これが、重要な第一の戒めです。

イエス様が重要な戒めとして答えられたのは、申命記6章5節をほぼそのまま引用されたものでした。そしてこの戒めは、ユダヤ人が毎日暗唱していたみことばでした。それは「シェマーの祈り」と呼ばれるものの一部です。そしてこの聖句は、ユダヤ人の家庭では最初に子どもに覚えさせ、1日に2度唱え、会堂での礼拝でも必ず唱えられるべき非常に重要なものでした。イエス様はパリサイ人に、彼らの日常に溶け込んでいたこのみことばをもって答えられました。ですから当然パリサイ人たちに指摘される点はありませんでした。

そしてこの聖句は、全身全霊で神を愛することを教えています。「全霊で」ですから、心も伴っていなければ神は喜ばれません。「主よ、私はあなたを愛しております」と申し上げたとしても、「主よ、私はあなたが嫌いですけど、愛します。大切にします」などというものだったらどうでしょう。愛することに好き嫌いは関係ないと冒頭で言いましたが、やはり愛には心、真心がこもっていないと悲しいですね。真実に愛していることにはならないでしょう。

また「尽くして」という語は、「すべて、全体、渾然たる」という意味の語で、渾然たるというのは「すべてが溶け合っている状態」ということです。心も、いのちも、知性も、すべて渾然一体、溶け合うほどひとつになって主を愛する、大切にする。一切の裏表なく主を愛する、大切にするということです。主はそのような愛、御大切を喜ばれ、望まれるのです。

しかしパリサイ人は、神との正しい関係というのは、自分のすべてを尽くして神を愛することであると、毎日そのみことばを暗唱しながらも、そのとおりには生活していませんでした。イエス様は何度も彼らを偽善者と呼ばれたではありませんか。

また、このみことばは教会でも何度も語られて来たものでしょう。イエス様のパリサイ人に対する答えと言いますか、挑戦は、同じように私たちにも向けられています。イエス様は世に対する欲とか偶像ではなく、神を何よりも愛して生活しているか、神を何よりも大切にして生活しているかを私たちに問いかけておられます。心の中にある様々な偶像を捨てて、神を一番に愛するべきであると。そして全身全霊の愛、真心のこもった真実の愛というのは、決して律法によって強制されるものではないはずです。

これも何度も語ってきたことであり、また先週の木曜日の祈祷会でも分かち合ったところですが、十戒を代表とする律法の命令というのは、例えば「殺してはならない」という消極的な命令は、原語を直訳すると「あなたは決して殺さない」となります。そのニュアンスは「あなたは、わたし(神)に愛され、わたし(神)を愛する民であるから殺人などしない。するはずがない。どうして殺すようなことをするだろうか」という意味になります。これは命令と言うより、むしろ神からの、ご自身が選んだ民に対する信頼を込めた愛の語りかけです。また、例えば「愛しなさい」という積極的な命令は、「あなたは、わたし(神)に愛され、わたし(神)を愛する民であるから、やがて愛するようになります。愛するでしょう」となります。このことを覚えつつ、是非もう1度十戒をはじめとする律法を読んでみてください。そこには私たちに対する神の愛、私たちを大切にされる御心が満ちていて、私たちの心も大きく動かされるはずです。

そして神が喜ばれ、期待されておられるその愛は、隣人へも向けられるべきことも、律法が重要としていることであるとイエス様は答えられます。

22章39節    『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』という第二の戒めも、それと同じように重要です。

「第2」とは「第1」よりも劣っているという意味ではなく、第1の次に続く内容、第1とつながっている、まったく同一線上にあるものという意味です。神を愛することと比較すべきでない同じ重要な戒めとして、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」と言われます。

22章40節    この二つの戒めに律法と預言者の全体がかかっているのです。」

「律法と預言者」という表現は、旧約聖書全体を指す表現です。つまり、イエス様はこの2つの戒めが、旧約聖書全体の中心であると言われたのです。ちなみに、新共同訳では「律法と預言者は、この二つの掟に基づいている」となっています。こちらの訳の方が分かり易いですね。イエス様は、聖書の中心は、神を愛することと人を愛することの2点であると言っておられるのです。律法学者たちはどうだったでしょう。道徳的行為や宗教的儀式を重んじて、どちらが大切かと議論していた。しかも道徳的行為は偽善と化し、宗教的儀式は形だけのものになっており、そこに心はなかった。イエス様は、そんなことよりももっと大切なもの、神と人とに対する裏表のない、全身全霊の人格的な愛を指摘されたのです。なぜなら、あなたがたは神に愛され、神を愛する民であるからと。民でしょうと。であるならば、あなたは神と人とを愛する。愛するであろう。愛するようになると問われるのです。神ご自身が選ばれた民に対する信頼を込めた愛の語りかけです。彼らもまた、神に全身全霊で愛され、イエス様に全身全霊で愛されている者たちだったのです。

これには律法学者も頭を殴られたような感覚になったのではないでしょうか。並行箇所であるマルコの福音書では、この律法学者は感動したのでしょうか、さすが律法の専門家といったところで、このように言っています。「律法学者はイエスに言った。『先生、そのとおりです。主は唯一であって、そのほかに主はいない、とあなたが言われたことは、まさにそのとおりです。そして、心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして主を愛すること、また、隣人を自分自身のように愛することは、どんな全焼のささげ物やいけにえよりもはるかにすぐれていますよね!』(マコ1231-32)。律法学者の感動が伝わって来るようです。マルコの福音書は続けてこのように記しています。「イエスは、彼が賢く答えたのを見て言われた。『あなたは神の国から遠くない。』それから後は、だれもイエスにあえて尋ねる者はいなかった」(マコ1234)。イエス様は彼の答えの中に信仰と悔い改めと献身の実、主への自発的な真実の愛、大切を見出したのではないでしょうか。「あなたは神の国から遠くない」と言われました。そしてイエス様の完璧な答えと、律法の専門家が答えたのを聞いて、他のパリサイ人たちはもはやイエス様を試そうとすることはなくなりました。もはや何も言うことができなかったのでしょう。何も言わないパリサイ人たちに、今度はイエス様の方から彼らに質問をなげかけられます。しかしこのことは、パリサイ人たちがしたようにイエス様が彼らを試すためではありませんでした。彼らをあわれみ、愛されている、本当に大切にされているがゆえに、彼らが見逃している重要なことを教え、彼らに永遠のいのちを得させるためのものであったのです。

22章42節    「あなたがたはキリストについてどう思いますか。彼はだれの子ですか。」

この質問は、パリサイ人たちのメシア観が誤っていることに気づかせようとするためになされたものでした。キリストとは、ヘブル語のメシアをギリシア語で言ったものです。メシアもキリストも、「主に油注がれた者」という意味で、王、祭司、預言者を指し、やがて救世主、救い主を指す呼び方となりました。

22章42節    「あなたがたはキリストについてどう思いますか。彼はだれの子ですか。」彼らはイエスに言った。「ダビデの子です。」

イエス様の「あなたがたはキリスト(メシア・あなたがたを救う救い主)についてどう思うか。彼は誰の子か」との質問に、パリサイ人たちは「ダビデの子だ」と答えました。彼らにとって、またほとんどのユダヤ人にとって、キリスト(自分たちを救う救い主)はダビデの子孫であり、ダビデのように王として、異邦人と戦い、異邦人の手から彼らを解放してくれる人物(人間)でした。そこでイエス様は、詩篇110篇1節の聖句を引用して言われます。

22章43節    イエスは彼らに言われた。「それでは、どうしてダビデは御霊によってキリストを主と呼び、
22章44節    『主は、私の主に言われた。「あなたは、わたしの右の座に着いていなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまで」』と言っているのですか。
22章45節    ダビデがキリストを主と呼んでいるのなら、どうしてキリストがダビデの子なのでしょう。」

この詩篇は、ダビデが霊に満たされて、つまり預言者として語った預言です。そのことはパリサイ人たちも十分承知していました。イエス様はこの詩篇(ダビデの預言)を引用し、パリサイ人たちに、ダビデは神の霊に満たされて、預言者としてキリストを「主」と呼んでいるのだから、キリスト(メシア・あなたがたを救う救い主)は単なる人間としてのダビデの子孫ではないのではないかと問われました。そしてダビデがキリストと呼んでいるなら、キリストはダビデの子、人間の子ではなく、それ以上の神的な存在であると言われたのです。

彼らが待ち望んでいるダビデの子なるキリスト(メシア・あなたがたを救う救い主)が神的な存在であるという詩篇のみことばを、彼らは見逃していたのです。また、彼らの目の前にいるイエス様こそが、キリストであることを見逃していたのです。彼らが永遠のいのちを得るためには、イエス様がキリスト、神であることを信じ、何よりも愛し、自ら求めることが必要でした。

イエス様は目の見えない2人の人に「ダビデの子」と呼ばれました。悪霊につかれて目が見えず、口もきけない人をイエス様が癒やされた時、群衆は「もしかすると、この人がダビデの子なのではないだろうか」と噂しました。異邦人の女性にも「ダビデの子よ」と助けを求められました。そしてほんの少し前に、やはり目の見えない2人の人はイエス様に向かって「主よ、ダビデの子よ。私たちをあわれんでください」と叫び、イエス様は彼らを深くあわれんで、愛され、大切にされ、彼らの目にやさしく触れて癒やされました。それらはすべて預言されていたとおりのキリスト(メシア・救い主)のしるしでした。それを見た群衆の期待は高まり、ろばの背に乗ってエルサレムに入られるイエス様を「ダビデの子」と歓呼し、メシア、王として迎えました。パリサイ人たちはイエス様を常につけ回していましたから、これらすべての出来事の目撃者でした。「ダビデの子」と叫ばれる方を目の前で見て来ました。そのダビデの子が目の前におられるのに、パリサイ人たちはそれを悟れませんでした。イエス様に敵対していたからです。イエス様を愛していなかったからです。イエス様が嫌いな上に、大切な方、大切にすべき方だとは微塵にも思っていなかったからでしょう。

例えばイエス・キリストが私たちの目の前で、このように言われたとしたらどうでしょうか。「あなたはわたしを嫌いでもかまわない。憎んでいてもかまわない。しかしわたしはあなたを真実に愛している。あなたが大切である。あなたが滅びることなく永遠のいのちを得るために、わたしをキリストと信じなさい。そしてわたしを愛しなさい」。まさにこれは、今日の箇所のパリサイ人たちに向けられた、ご自分を捨て、迫りさえ感じさせる愛の語りかけではないでしょうか。そして彼らが永遠のいのちを得て、神の国に入れられるために、イエス・キリストは十字架に架けられたのです。

「あなたはわたしを嫌いでもかまわない。憎んでいてもかまわない。しかしわたしはあなたを真実に愛している。あなたが大切である。だからわたしはあなたのために十字架に架けられた。これほどまでにわたしに愛されるあなたは、わたしを愛するようになる。そして隣人を愛するようになる。真実に大切にするようになるでしょう」。これほどまでに信頼と愛がこもった語りかけを聞くならば、これほどまでに罪人に対する神の愛、全身全霊で私たちを愛し、大切にされる御心が満ちる語りかけを、もし今日聞くならば、私たちはどのように主に応えるでしょうか。私たちの心も大きく動かされるはずではないでしょうか。

22章46節    するとだれ一人、一言もイエスに答えられなかった。その日から、もうだれも、あえてイエスに質問しようとはしなかった。

どうやらパリサイ人たちは、大きく心動かされることなく、自分たちの立場を守るために、これ以上の議論へと引き込まれる危険を恐れ、イエス様との関係を放棄してしまったようです。心が頑なで、敵対していたから。今後イエス様は、彼らに話すことはなく、イエス様を愛する群衆にしか語られなくなってしまいます。悲しいことですね。

イエス様は私たちが神を愛し、隣人を愛することを願っておられます。どちらか一方をより、ではありません。両方を比較することなく愛することを願っておられます。まず私たちが全身全霊で神の愛を受け入れ、そして神が愛された自分を受け入れ、自分が好きか嫌いかは関係なく、できれば好きで好きでたまらなくなっていただきたいですが、神に愛される自分を愛し、大切にし、そのようにしてようやく隣人を愛する、大切にすることができるようになります。神と隣人とを同時に同じように愛する、大切にすることは本当に難しさを覚えます。どうすれば良いのか。それこそタイパ、コスパを度外視して主に祈り、私たちに対する神の愛、御大切がいっぱいに詰まったみことばに聞き、知恵を求めましょう。そうすれば、主は私たちに正しい答えを与えてくださるでしょう。

私たちは全身全霊で私たちを愛してくださる主を、全身全霊で愛し、何よりも大切にしてまいりましょう。

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