2024年5月19日 主日(ペンテコステ)礼拝「聖霊は御国を受け継ぐことの保証」

礼拝式順序

賛  美  
前奏(黙祷)
招  詞  エゼキエル書37章14節
讃  美  讃美歌67「よろずのもの」
罪の告白・赦しの宣言
信仰告白  讃美歌566「使徒信条」
主の祈り  讃美歌564「天にまします」
祈  祷  
讃  美  讃美歌183「主のみたま」
聖書朗読  エペソ人への手紙1章1〜14節
説  教  「聖霊は御国を受け継ぐことの保証」
讃  美  讃美歌352「あめなるよろこび」
献  金  讃美歌547「いまささぐる」
感謝祈祷
報  告
今週の聖句 エペソ人への手紙1章13節
頌  栄  讃美歌541「父、み子、みたまの」
祝  祷
後  奏

本日の聖書箇所

エペソ人への手紙1章1〜14節

説教題

「聖霊は御国を受け継ぐことの保証」

今週の聖句

このキリストにあって、あなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞いてそれを信じたことにより、約束の聖霊によって証印を押されました。

エペソ人への手紙1章13節

説教「聖霊は御国を受け継ぐことの保証」

エペソ人への手紙1章1〜14節

教会関係の会議等で大役を決めなければならないとき、大体が選挙によって決められるのですが、最終的に2人の候補者が同数票となってしまった時、「聖書的に、くじで決めましょう」と度々言われます。どうやらくじで決めるのは聖書的、信仰的という認識のようです。確かに旧約聖書には「ウリムとトンミム」という「くじ」のようなものを通して神が御心を示されるという場面が出てきます。また使徒の働き1章では、ペンテコステを前に120人ほどの人たちが一つのところに集まって、欠員となっていた一人の使徒を補填するために話し合い、ヨセフとマッティアの二人が立てられ、祈り、くじが引かれてマッティアに当り、彼が11人の使徒たちの仲間に加えられたという記事があります。この「くじ」というのは、人の直接の意思によって選ばない、物事の決め方のことを言うのですが、信仰者は神がおられ、神がすべてをご支配なさっており、くじを通して神が御心を表される、神がご自身のご計画を成し遂げられるのだという信仰があるのです。ですから最終的に同数票となってしまった信仰者は「どうか当たりませんように」と祈るのではなく、「すべての人の心をご存知である主よ。この二人のうち、あなたがお選びになった一人をお示しください。神のみこころがなりますように」と祈りつつくじを引くのです。そしてくじの結果を信仰によって受け入れ、選ばれた人は信仰によってその責務を果たしていくのです。

聖書は信仰についてこのように言っています。「信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです」(ヘブ111)。信仰とは、私たちが神に望んでいること、あるいは神が私たちに望んでいること、期待していることを、神が責任をもって確かに約束するものであり、将来確実にそれが成し遂げられることを確信させるものです。神が言われること、神の約束、神のみことばを堅く信じ、とことん信頼し、「アーメン、その通りです」と応答して生きること、従うこと。そして、そのような真の神に対する真の生きた信仰が私たちを強く立たせ、生き生きと生かすものとなるのです。それが本当の信仰でしょう。

ペンテコステにあたり、今朝与えられましたみことばは、エペソ人への手紙1章1〜14節のみことばです。

1節には「エペソの聖徒たちへ」と記されていますが、実は重要な写本にはこの「エペソの」という語が記されていません。どうやらパウロはこの手紙を、エペソを中心とした小アジヤと呼ばれる地方の諸教会に宛てて書いたようです。と言いますのも、当時コロサイの教会に異端が起こり、教会内部に混乱、対立が生じていたからです。異端によって、「あなたはそのようでは救われていない」「私は救われていないのではないか」と言ったような混乱、対立、疑いが起こってしまっていました。そこでエパフラスがローマの獄につながれていたパウロを訪れて彼の指導を仰ぎ、パウロは取り急ぎテキコの手に託してコロサイ人への手紙を書き送ることにしたのですが、異端、混乱、対立の問題はコロサイの教会に限ったことではなく、周辺の諸教会にも同様の手紙を送る必要を覚え、それでこのエペソ人への手紙を書くに至ったということです。異端、間違った教えというのは、この地上に生きている限り、どこにおいても、いつの時代にも起こり得るものであり、また起こっているものです。特に救いに関する疑いというものは私たちにも無関係ではありません。私たちの信仰の目、心を惑わす要素がこの世には本当にたくさん溢れているからです。聖書はそれを、ただ疑い深い人間の不信仰の問題だけではなく、巧みに惑わす者、霊の存在をも明らかにしています。

1章1節        神のみこころによるキリスト・イエスの使徒パウロから、キリスト・イエスにある忠実なエペソの聖徒たちへ。

パウロはいつものように、自分の召命は人によるものではなく、神のみこころによること、神の恵みであることを改めて強調します。おなじみ「恵み」というのは、与えられる価値のない者に与えられる良いもののことです。神が一方的に与えてくださるもの。ですからそれは偶然とかではなく、そこには確かな神の思い、お考え、あることについてのご計画や見込みがあるのです。神はある一人の人をお選びになり、神の思い、お考え、ご計画、御心へとお召しになるのです。ぴったりな言葉が日本語にあるのをご存知でしょうか。それは「思し召し」です。日本人の私たちが「神の思し召し」などと聞くと、何ともありがたい気持ちになるのではないでしょうか(?)。私たちが今こうしてここに集まり、いや、神の御前に集められ礼拝をお献げしているのは、恵みによるのです。思し召しです。神の思い、お考え、ご計画、御心へと召されているのです。パウロだけではなく、私たちは皆、一人残らず神の思し召しによってここにいるのです(ヨハ1516)。

そしてパウロは手紙の読者に対して「キリスト・イエスにある忠実な聖徒たちへ」と呼びかけています。聖徒とは、聖なる者のことです。あなたがたは聖徒とされているのですよと呼びかけるのです。旧約時代において、幕屋、神殿、安息日、そして民自身は、神に奉仕を献げるために聖別され、この世から“神によって”取り分けられ、区別されることによって聖なるものとみなされました。自分自身の徳によって人々が聖徒となるのではなく、神の恵み、思し召しによって聖別される。そして聖別された人々は、神の思し召しに感謝し(ありがたや、恵み)、信仰によって神の聖さに生きるように、聖く生きたいと自分から願うようになるのです。

1章2節        私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたにありますように。

直訳すると「私たちの神、父と主イエス・キリストから」となります。当時イエス・キリストの神性を否定する異端も起こっていましたから、この一文にも異端との戦いが垣間見られます。

私たちの神、父(私たちに真の父の愛をお持ちの方)と、私たちの神、主イエス・キリストを通してあなたがたに与えられる恵み、思し召しを覚えて平安であるように。あなたがたは私がこれから語る神の恵み、思し召し、あなたがたに対する神の思い、お考え、ご計画をしっかり覚えて、信じて、心から安心して行きなさいという慰め、励ましです。

重要な挨拶を終え、いよいよ3節から本文に入るのですが、その第一声がこれでした。

1章3節        私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。

本文に入ろうとする時、いきなり響いて来たのは神の栄光を褒め称える第一声でした。パウロはこの第一声をあげた後、ピリオドなしに14節まで一気に神を褒め称えます。パウロは神の恵みの偉大さ、思し召しの素晴らしさ、確かさを読者に知らせることによって、エペソをはじめとする偽教師(異端、間違った教え、惑わす者)に混乱させられている人々に、立ち向かう信仰、しっかり立ち続けることができる信仰を与えようとしているのです。今朝、神の思し召しによりこの手紙の読者とされている私たちもそれに与りましょう。

さて、いよいよここからパウロは神の恵みの偉大さ、思し召しの素晴らしさ、確かさを一気に語ります。悪く言ってしまえば無計画に。信仰によるならば聖霊に満たされてでしょうか。ですからすぐには理解できない難しさを覚えますが、神の思し召しを理解させてくださるのも聖霊ですから、私たちも聖霊の満たしを祈り求めつつ聞いてまいりましょう。

1章3節        神はキリストにあって、天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。

この「キリストにあって」という語は、似たような表現を含めると今日の14節までに11回も使われています。クリスチャンは、単にキリストがおられることを信じているだけではなく、実はクリスチャンのいのちそのものがキリストの中にあるのです。魚は海の中で生きています。鳥は空を飛びます。そこでこそ神が思し召しによって与えられた賜物を活かし生き生きと生きられるいのちがあり、そこでしか生き生きと生きられないいのちがある。私たちクリスチャンを生き生きと生かすいのちは、神が人間に賜物としてお与えになったキリストの中にある。そこでこそ生き生きと生きられるいのちがあり、そこでしか生き生きと生きられないいのちがある。私たちが生き生きと生きられるすべての理由は、神からの賜物であるキリストにあるということです。それでこそクリスチャン、キリストにある者です。

そしてキリストにあって、神が私たちに与えてくださった霊的祝福の数々が4節からあげられていきます。霊的というのは、目に見えないもの、この世的ではないもの、神の領域というものです。その1つ目としてパウロは、父なる神による選びについて語ります。

1章4節        すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。

「この方にあって」の「この方」とはもちろんキリストです。

パウロは、神が私たちを選ばれたのは、この宇宙が創造されるよりも前からであったと言います。神の選びは私たちの計り知れないところにあるということです。私たちの救いは、行き当たりばったりな思いつきの偶然ではありませんでした。

そのような私たちの救いが、宇宙創造以前の神による一方的な選び、思し召しであったということは、私たちから何か良い行いをしたとか、良い働きによって神に貢献したとか、そういったものを奪い去ります。私たちをただただ神の前に謙虚にさせると同時に、心に大きな感謝が沸き起こるのではないでしょうか。そして、だからこそ救いの確かさを私たちに確信させるのです。もし良い行いによって救われるのだとしたら、私たちは一生、決して救われたと確信できるものではありません。神の恵みによる一方的な選び、思し召しだからこそ、私たちは救われたのであり、救われるのであり、神に祝福していただけるのです。私たちは何と幸せ者でしょう。

そしてこの選びの目的は、私たちを御前に聖なる、傷のない者にするためでした。これは旧約聖書のいけにえの条件です。そしてキリストを表す表現でもあります。神は私たちを、神のひとり子であるキリストに似た者とするために選ばれたのです。

1章5節        神は、みこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。

「ご自分の子にしようと」とありますが、これは養子縁組を表す語です。養子縁組についても以前にお話ししたことがありますが、紀元1世紀のローマ世界において、養子は、義父によって慎重に選ばれ、その名を引き継ぎ、財産を相続する者でした。養子は実の子の身分に少しも劣らず、養父の愛情を十分に受け、養父の人格を反映してゆく者でした。私たちは、実の子であるキリストに似た者とされるために選ばれたのです。

そして「あらかじめ定めておられた」と訳されている語ですが、これは「くじで定める」という意味の語です。くじと言っても、宝くじのようなまぐれで当たったというものではありません。冒頭でも申しましたとおり、くじは神の御心の現れです。神は私たちをご自分の子にしようと、慎重に選び、事前に決定しておられた、事前にマークを付けられていたのです。しかも愛をもってです。しかし神は私たちのすべてを、神に背き、罪を犯し、堕落することを見越しておられたはずです。それを見越した上で、私たちをご自分の子にしようと事前に選んでくださっていた。何という恵みでしょう。何という有難い思し召し、お考え、ご計画でしょう。それを知った私たちはどうするでしょう。神を愛するようになるのではないでしょうか。神を大切に、最優先にし、主の日を守り神を礼拝し、感謝し、栄光をほめたたえるようになるのではないでしょうか。

1章6節        それは、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。

「神が愛するその方」とは、間違いなく御子イエス・キリストでしょう。そして「私たちに与えてくださった恵み」とは、間違いなく十字架でしょう。

1章7節        このキリストにあって、私たちはその血による贖い、背きの罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。

私たちクリスチャンは、恵み、思し召しによって神に選ばれ、恵み、思し召しによってイエス・キリストの十字架を通して罪の赦しを得て、恵み、思し召しによって罪の奴隷状態から贖われ、キリストの高価な血によって買い戻され、神の子の身分が与えられました。神の子として生きることが赦されているのです。

またここにある「罪」という語は、罪の性質を表すものではなく、具体的な罪、過失を表す語です。神に選ばれ、神の子とされてもなお、日々神に背き、罪を犯してしまう私たち。しかし、ただ一度だけ流されたイエス・キリストの十字架の血によって、私たちのすべての罪を赦そうと神はご計画され、約束されているのです。私たちはこの神の豊かな恵み、いつも私たちに向かって働く神の一方的な好意を心から信じ、信頼し、その恵みによって、感謝によって生き生きと生きているでしょうか。疑ったり良いように利用して死んではいないでしょうか。

1章8節        この恵みを、神はあらゆる知恵と思慮をもって私たちの上にあふれさせ、
1章9節        みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました。

「あふれさせる」というギリシア語の動詞は、「神の上よりの有り余る注ぎかけ」を意味しています。聖書の中でそれは油であり、聖霊です。神の思し召し、計り知れないご計画、私たちに対する信じられないほどの愛、思い、ヴェールがかけられたようにぼんやりとしている神の御心、神の大いなるみわざを、私たちにも見分けさせ、理解させてくださるというのも神の恵みです。私たちは本当に霊的に鈍感で、また弱さを覚える者たち、欠陥だらけの者たちです。そのような私たちに、神の思し召しの素晴らしさを分からせてくださるのは聖霊です。助け主なる聖霊です。聖霊は上より神が送られる私たちに対する賜物、プレゼントです。

1章9節        その奥義とは、キリストにあって神があらかじめお立てになったみむねにしたがい、
1章10節      時が満ちて計画が実行に移され、天にあるものも地にあるものも、一切のものが、キリストにあって、一つに集められることです。

その奥義、神の思し召しは、神が定められた時が来るならば、神の国が準備万端整えられたなら、一切のもの、すなわち、ユダヤ人も異邦人も、見えざる教会(天にある教会、先に召された聖徒らが神をほめたたえている)も、見える教会(地上にある教会の聖徒ら)も、御使いも人間も、すべてがキリストにあって一つの神の民とされ、天の御国、神の国に入れられ、神の国が完成されることです。神が人々とともに住まわれ、もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。神がすべての労苦を労われ、私たちの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。私たちにはただ神への賛美だけがある。そのような素晴らしい神の国の民とされるのです。本当に信じておられるでしょうか。信じて、喜んで、生き生きと生きておられるでしょうか。

1章11節      またキリストにあって、私たちは御国を受け継ぐ者となりました。すべてをみこころによる計画のままに行う方の目的にしたがい、あらかじめそのように定められていたのです。

ここでも神の選びについて語られています。「御国を受け継ぐ者となりました」と訳されていますが、これはものすごい意訳であり、本来は「くじで定める」の受動態、「くじで定められた者である」となります。そして「あらかじめ定められていた」というのは5節と同じで、これも「くじで定める、事前に決定されていた、事前にマークを付けられていた」というものです。パウロは重ねて神の不思議な選びについて語っています。

1章12節      それは、前からキリストに望みを置いていた私たちが、神の栄光をほめたたえるためです。

それはやはり、私たちに救いの確信を与えるためです。

1章13節      このキリストにあって、あなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞いてそれを信じたことにより、約束の聖霊によって証印を押されました。

真理のことば、救いの福音を聞いてそれを信じた、そして約束の聖霊によって証印が押されたと、まるで2段階の出来事のように見えますが、ギリシア語の文法にとると、それは同時に、瞬時に起こることを表しています。つまり、福音を聞いて少しでも信じるならば、不完全であっても信じるなら、即座に聖霊が注がれ、聖霊がその人の内に住まわれるということです。その聖霊がすべてのことを教え、完全な信仰へと導いてくださいます。その聖霊は旧約聖書の中で約束されていた聖霊であり、またイエス様によって約束されていた聖霊であり、その聖霊こそが証印となるのです。

証印は、押されたものの所有権や保証を示す印です。印鑑でしょう。古代の世界において、証印は所有者や大切なものを送った人の個人的な署名でした。それが本物であるか偽物であるかを区別する重要な証拠となりました。また、証印がついていることによって、中身を疑ったりなどして封が開けられることもなく、荷物はほどかれることもなく、なにものにも破壊されずに目的地まで運ばれるための保障ともなりました。また、教会内の偽教師となったユダヤ人律法主義者は、割礼を証印と理解していました。しかしそうではない。聖霊がクリスチャンの証印、聖霊の内住こそが、救われ、神の子、神の民とされたことの印なのであると、パウロは言うのです。

1章14節      聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。このことは、私たちが贖われて神のものとされ、神の栄光がほめたたえられるためです。

私たちというのは、信じやすくて信じがたい者たちです。真に弱く、信仰の薄い者たちです。神はそのような私たちをあわれみ、約束の聖霊をもって証印を押してくださいました。聞いたり、信じたりする人間の能力というか、力に頼るのではなく、神からの客観的で、明確で、実感できる、意識できる生きた神ご自身の保証が必要であることを神はご存知で、そういったものをすべて満足させるために、聖霊なる神ご自身が証印となられたのだとパウロは言うのです。

そして、聖霊は御霊、また神の霊とも呼ばれます。神の霊、それは神の心であり、愛です。子に対する愛、親心です。皆さんはすでに神の愛をひしひしと感じる時があるでしょう。神の思いに触れじんわりと温かさを感じる時があるのではないでしょうか。神は私たちの救いの保証としてご自身の愛、親心を私たちに注がれ、私たちの内に住まわせられました。福音を聞いて、信じて、即座に注がれた聖霊、それこそが証印。そしてそれは誰にも、なにものにも奪い去られることはありません。

また、聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。保証というのは「手付け金」のことです。売買の際に計画がしっかり守られ実行されるための保証として、前もって金品を渡す手付けのことです。そして興味深いことに、聖書は古代ギリシア語で記されていますが、現代ギリシア語ではこの保証という語は「婚約指輪」という意味で使われています。これは分かりやすいのではないでしょうか。私たちは今、神の愛のほんの一部をいただいているのです。ほんの一部の愛であっても、これほどまでに私たちを感動させ、私たちを信仰に生かすのであるならば、やがて約束とおり完全な愛をいただける時の感動はどれほどのものなのでしょうか。そのいのちの素晴らしさはどれほどのものなのでしょうか。楽しみですね。

さらに、パウロはローマ人への手紙の中で「イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊」と言っています。同じ御霊が私たちのうちにも住んでおられる。そして私たちの死ぬべきからだも生かしてくださいます。それで御国を受け継ぐことができるのです。

さらにさらに、パウロはこの手紙の中で、聖霊を「知恵と啓示の御霊」とも呼んでいます。そしてパウロは、聖徒たちの内におられるこの御霊によって、いよいよ神を知り、心の目がはっきり見えるようになることを切に祈っています。私たちは、この聖霊の働きによって、神の計り知れない恵み、思し召しに関する望みを実感し、聖徒たちが受け継ぐ神の国の栄光がどんなに偉大で素晴らしいものであるかを認識することができるのです。聖霊の働きによって、見えない未来にある希望、そして今も神が現実に働いておられることを実感として知る事ができるのです。日常に起こる様々な出来事の一つ一つに、それがたとえ苦難であっても、その中に神の愛、恵みを数えることができるのです。神の御霊の助けによって、暗闇のようなこの世にあって、神の愛、親心、確かな約束、みことばを正しく捉え、本当に信じ、信じることによって生き生きと生きられるように、私たちも「心の目がはっきり見えるようにしてください」と祈る必要があるでしょう。聖霊の助けによる生きた信仰は、私たちの信仰は揺らぐことはないのです。

イエス・キリストが天に上られた後、聖徒たちは心一つにして祈っていた時に、約束の聖霊が注がれました。私たちも心一つにして、聖霊の満たしを祈り求め、聖霊の満たし、神の愛、子に対する親心に満たされて、信仰によって天の御国を目指して、ともにしっかりと歩ませていただきましょう。神が言われること、神の約束、神のみことば、神の思し召しを堅く信じ信頼し、証印であり保証である聖霊に依り頼み、神の思し召しに対し「アーメン、その通りです」と応答しながら、あの日、私たちの内に注がれた、そして今も内住されている聖霊によってしっかりと立ち、また守られ、信仰によって神の時が満ちて訪れるかの日を目指して歩ませていただきましょう。

長野聖書教会の話題やお知らせをお届けします。

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