2024年6月9日 主日礼拝「内側を聖められた真のリーダーに」

礼拝式順序

賛  美  新聖歌204「わが友にます贖い主」
      讃美歌496「うるわしの白百合」
前奏(黙祷)
招  詞  詩篇147篇1〜6節
讃  美  讃美歌20「主をほめよ」
罪の告白・赦しの宣言
信仰告白  讃美歌566「使徒信条」
主の祈り  讃美歌564「天にまします」
祈  祷  
讃  美  讃美歌87A「めぐみのひかりは」
聖書朗読  マタイの福音書23章25〜39節
説  教  「内側を聖められた真のリーダーに」
讃  美  讃美歌338「主よ、おわりまで」
献  金  讃美歌547「いまささぐる」
感謝祈祷
報  告
今週の聖句 マタイの福音書23章26節
頌  栄  讃美歌541「父、み子、みたまの」
祝  祷
後  奏

本日の聖書箇所

マタイの福音書23章25〜39節

説教題

「内側を聖められた真のリーダーに」

今週の聖句

目の見えないパリサイ人。まず、杯の内側をきよめよ。そうすれば外側もきよくなる。

マタイの福音書23章26節

説教「内側を聖められた真のリーダーに」

マタイの福音書23章25〜39節

新約聖書のヤコブ書に「みことばを行う人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけません。みことばを聞いても行わない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの顔を鏡で眺める人のようです」(ヤコ122-23)というみことばがあります。皆さんは最近、鏡でご自分の姿をご覧になったでしょうか。ちょっと目尻がとか、ちょっと口元が、頭に白い物がなどと言いながら、気になった所を気にしながら手で押さえるなんてことがあるのではないでしょか。わが家の若い娘も、こんなに使うのかというくらいのお化粧道具が山のように揃えて頑張っていますし、私も娘の化粧水とか乳液を拝借していますが、老若男女問わず、やはり自分の見た目というのはとても気になるものです。自分の素の顔を鏡で見ながら「素晴らしい!いけてる!惚れ惚れする」と冗談ではなく本気で言える方は、良い意味でも、悪い意味でもなかなかのお方です。やはり修正したい部分は、修正できるものなら修正するというのが普通でしょう。

しかし見た目ばかりを気にしていては、これまで見て来た律法学者、パリサイ人ら偽善者と同じです。先日テレビで芸能人の2世のカッコいい今風の男の子が「人に華がないと言われる」と悩んでいましたが、この「華」というのは、いくら外見を着飾っても得られるものではないでしょう。周囲の人の視線を引きつける「華」は、やはり内面から出て来るものなのではないでしょうか。また、誰かに対する第一印象というのは、やはり顔や表情から判断するものなのかもしれません。その「顔」というのは、「たましいをのぞき見ることができるほらあな」であることを以前申し上げました。皆さんが「華があるな、何か引きつけられるな」と思われる人はどのような人でしょうか。その人はきっと、内面も見た目どおりの、偽善もない魅力的な方なのではないでしょうか。人の真価が明らかになる瞬間があります。ふとした瞬間にその人の心にあるものがはっきりする時があります。私たちはいつも、いつでも華のある人でありたいものですね。

さて、マタイの福音書は前々回、前回から続くところになります。今朝のところは、律法学者とパリサイ人たちに対する7つの批判のうち、後半の3つになります。

ある先生がこのように仰っていました。「罪人の私たちは、本能的に人前で自分を飾って見せようとするものだ。自分を大きく見せたいというのは本能に近い。鳥などが羽を広げることで自分を大きく見せて敵を威嚇したり、求愛の相手に自分の魅力をアピールしたりするのと似ている」と。人間の「他人から評価されたい」という願望は、言い換えると「優越欲」になります。他人よりも自分は勝っている、優越しているということを示したいのです。ただしこれは人間の本能というだけでなく、競争社会が造り上げている部分も大きいのではないでしょうか。競争して勝った者が上に行き、権力や富を得ることができる。その競争の中で、少しでも自分を大きく見せる必要が出てくるわけです。

しかし、イエス様が世の霊的リーダーに求めておられる姿勢は何だったでしょうか。「あなたがたの間では、そうであってはなりません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのと、同じようにしなさい」(マタ2026-28)でした。神と隣人を真実に愛する者、神と隣人の前で謙遜で、また仕える者。それがイエス様が世の霊的リーダーである者に求めておられる姿勢です。しかし律法学者、パリサイ人たちにその姿勢は見られませんでした。内側から滲み出てくる「華」はありませんでした。彼らの内側にあったものは、強欲と放縦でした。「愚かな者たち。外側を造られた方は、内側も造られたのではありませんか」(ルカ1140)とは、神であるイエス様のおことばです。イエス様は彼らの本当の姿を見ておられました。5つ目の批判は、彼らの内側が強欲と放縦で満ちているというものでした。

23章25節    わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは杯や皿の外側はきよめるが、内側は強欲と放縦で満ちている。

彼らは自分たちの言い伝え、つまり神が与えてくださった律法にさらに様々な規定を増し加え、それらを堅く守っていました。しかしそれは敬虔というよりも、人々に敬虔と見られたいためにしていたことでした。手を洗わずに食事をすることはなく、市場から戻ったときはからだをきよめ、他にも杯、水差し、銅器や寝台を洗いきよめることをしていました。人前で自分を飾って見せよう、自分を大きく見せたい、他人から評価されたい、他人よりも自分は勝っている、優越しているということを示したかったのです。彼らは競争社会の中で、競争して勝ち、弱い者、貧しい者を蹴落とし、上に行き、権力や富を得ようとしていた。それが当時の霊的リーダーの姿でした。

「強欲」と訳されているギリシア語は、「略奪、強奪、略奪行為」を意味している語です。そして「放縦」とは、「失禁」という意味の語で、つまり「我慢できない、静止機能が欠乏している、ダダ漏れである」というものです。「杯や皿の外側はきよめるが、内側は強欲と放縦で満ちて」いる状態を、イエス様はルカの福音書で具体的にこのように言われます。「やもめの家を食い尽くし、見栄を張って長く祈ります」。敬虔を装っていた彼らからは強欲がダダ漏れしていたのです。そして続けて「こういう人たちは、より厳しい罰を受けるのです」とイエス様は言っておられます。

23章26節    目の見えないパリサイ人。まず、杯の内側をきよめよ。そうすれば外側もきよくなる。

外側ばかりに心血を注ぐけれども、内側は見えていない。それに気付けない彼らを「目の見えないあなたがた」とイエス様は言われます。「まず、杯の内側をきよめなさい。そうすれば外側もきよくなります」と教えられます。

私たちは自分の内側が見えているでしょうか。また隣人は私たちの内に華、聖さを見ているでしょうか。聖なる神のみことばの前に立つことによってのみ、人は本当の姿を見ることができます。私たちは神のみことばという鏡を通して自分の弱さと罪を知り、神のみことばという火によって精錬され、神のあわれみによる聖めを求めなければなりません。

27節からは6つ目の批判となります。

23章27節    わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは白く塗った墓のようなものだ。外側は美しく見えても、内側は死人の骨やあらゆる汚れでいっぱいだ。

当時は、岩盤を掘ったりした墓の外側に、石灰や漆喰を塗り、明るい色や光沢が出るようにしていました。墓を飾るという目的もあったようですが、そこに墓があることを示す警告の意味の方が大きかったようです。律法では死体に触れたり、その死体に触れた物に触れた人も汚れるので、そのようなものに近づいてはならないと定められていました。そのため、ユダヤ人は不注意によって死体が置かれた墓に触れて汚れないように、墓を目立たせていました。しかし、時間が経つと、雨で洗い流されたりして色が落ちてしまうので、一年に一度、日を定めて故人を追悼しながら、墓を白く塗り直したと言います。そしてそれは過越の祭りに多くの巡礼者たちが来るのに備えて取られた対策でした。ですから、イエス様はこの時、過越の祭りの巡礼に備えて新しく塗り替えられたばかりの墓を見せながら、このことを語られたのです。

23章28節    同じように、おまえたちも外側は人に正しく見えても、内側は偽善と不法でいっぱいだ。

イエス様は律法学者とパリサイ人たちがこれと同じだと痛烈に批判されました。人に見せるために人前で善行を行うため、外側は人に正しく見えるだろう。しかし、内側は偽善と不法でいっぱいで、霊的には死んだ者のようだと。それがイエス様の彼らに対する評価です。

服装や態度をきちんとして、祈りの時には美しいことばで立て板に水を流すように流暢に堂々と祈り、多額の献金をし、熱心に伝道しても、それらが人に見られるためのものであって、心の中には多くの汚れや欲望があるなら、それはどうなのでしょう。神が喜ばれる真のキリスト者でしょうか。世の人々はそのような人の内に素晴らしい信仰、証し、聖さ、華を見られるでしょうか。ステキだなと憧れるでしょうか。もしかしたら、鼻持ちならない人と思われてしまうかもしれません。そしてその人を神に導くどころか、神から遠ざけてしまうことになるでしょう。

彼らは人々に認められ、尊敬を受けようとしました。人通りの多い場所に出て行って、立って、両手を上げて大声で祈り、人々が見ているところで施しをしました。その偽善、演技のような信仰、謙遜をイエス様は指摘されました。そして弟子たちには、家の奥の部屋に入って祈るようにと教えられたのではないでしょうか。右の手でしていることを左手に知られないようにしなさいと教えられたでしょう(マタ66)。

何よりも大切なことは、まず心の中がみことばによって、聖霊によってきよめられることです。律法をすべて落ち度なく守ることだけではありあせん。律法を守れない自分を悲しみ、砕かれ、試されるようにして、聖霊によって導かれ、聖霊を通して注がれる父なる神の愛とあわれみをひしひしと感じ、ただただイエス・キリストの十字架の前にひれ伏すしかなくなるかもしれない。悔い改めの涙、感謝の涙を流すこともあるでしょう。そのようにして心の中が聖められていく、私の心がますます神のものとされていくのです。そうすれば、自ずと外側もきよくなるのです。世の人々は私たちの内に神を見るでしょう。そして憧れるでしょう。皆が造り主なる神を見失い、神と神の愛を探し求めているのですから。ある人は空しい偶像に走り、ある人は欲望や情欲で空しさや不安を埋めようとしている。そのような世ですから、私たちの内側が聖められるなら、世の人々は私たちの内に華を見出すことでしょう。そして私たちが信じ、信頼し、希望をおいている神を求めるようになるのではないでしょうか。そうしたらきっと、長野聖書教会の会堂は人でいっぱいになります。

人目だけを意識し、人から賞賛されることを目的とする行いではなく、心の中から自然に湧き出てくる聖い行いによって毎日を生活したいものです。人々ではなく神に喜ばれる努力をしたいものです。人々には知られなくても、神に従う良い行いに対して、神は必ず報いてくださるお方です。神の祝福を求めて歩んでまいりましょう。

さて、恐ろしいことに、イエス様に偽善者と言われた彼らは、この後イエス様を十字架につけることになるのです。神の栄光のためと偽って、自分たちの保身のためにイエス・キリストを罪に定め、安息日を犯した異端者と断定し、また神を冒瀆した者として処刑するのです(ヨハ518)。彼らの実際の目的はただ一つでした。自分たちの罪を的確に指摘したイエス・キリストを除くことでした。この時、イエス様の周りにいたパリサイ人たちは、「まだ」預言者と義人を殺害していませんでした。しかし彼らの心の内は、「いつでも」それを行える偽善と不法でいっぱいだったのです。自分たちの本当の姿を見抜いておられ、自分たちの罪を的確に指摘したイエス様に対する憎しみが満ちていたのです。自分たちはそのような者ではないと強く反発し、不満や憎しみはいよいよ満ちあふれようとしていたのです。人の真価が明らかになる瞬間があります。その人の心にあるものがはっきりする時があります。私たちはどうでしょうか。みことばにより、聖霊によって罪が指摘される時、私たちは悔い改めに導かれるでしょうか。そのような私さえ愛され赦されているという感謝に溢れるでしょうか。それとも、イエス様を憎み、十字架につけて取り除こうとするでしょうか。

29節からは7つ目の批判となります。

23章29節    わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは預言者たちの墓を建て、義人たちの記念碑を飾って、

彼らは「預言者たちの墓を建て、義人たちの祈念碑を飾」りました。特に1世紀には、華やかな墓を建てることが重要だと思われていたそうです。例えば、あのヘロデ大王は、ダビデの墓に新しい大理石の祈念碑を建てました。そうすることで、自分がダビデの味方だという印象を人々に与えるためでした。そのようなことをする者たちは、次の30節のように言うのです。

23章30節    こう言う。『もし私たちが先祖の時代に生きていたら、彼らの仲間になって預言者たちの血を流すということはなかっただろう。』

彼らは心の中で、自分たちが先祖の時代に生きていたら、預言者たちの血を流すような仲間にはならなかっただろうと自負していました。しかし、イエス様は彼らも先祖たちと同様に神に反逆しており、何よりもご自分を殺そうとしていることを見抜いておられました。ダダ漏れしていました。そしてイエス様は31節のように反論されました。

23章31節    こうして、自分たちが預言者を殺した者たちの子らであることを、自らに対して証言している。

イエス様は彼らが預言者を殺した者たちの子どもたちであることを自ら証明していると言います。「殺した」は、命を絶つというより「非常に残忍に死なせる、計画して暗殺する」という意味合いが強い語です。まさに彼らは神が世に遣わされた神の子であり真の預言者であるイエス様を、計画して暗殺しようとしていました。

23章32節    おまえたちは自分の先祖の罪の升を満たすがよい。

イエス様の痛烈な皮肉のようです。「ユダヤ人の先祖は預言者たちを殺すという罪を犯したが、まだ目盛りがいっぱいになっていないから、あなたがたも同じ罪を犯して、あなたがたの先祖たちがやり残した罪を全部犯してしまえばいいではないか」と。イエス様がこのように言われたのは、彼らが今、実際に先祖たちがやり残した罪をやり遂げようとしていたからです。神は民を救うために預言者たちを送ったのに、偽善者たちは預言者を殺してしまった。最後に神が民を救うために送られた神のひとり子、イエス・キリストをも、偽善者は殺してしまおうと、殺す口実を探していました。偽善者は自分たちの実態を正しく認識しなければならなかったのです。そこでイエス様は、さらにストレートに33節のように言われます。

23章33節    蛇よ、まむしの子孫よ。おまえたちは、ゲヘナの刑罰をどうして逃れることができるだろうか。

神が遣わされた真の救い主であるイエス・キリストを信じ、受け入れなければ、もう後がないのです。ゲヘナの刑罰しか残っていないのです。

23章34節    だから、見よ、わたしは預言者、知者、律法学者を遣わすが、

神が愛するご自身のひとり子、イエス・キリストを十字架につけて殺そうとする偽善者、十字架につけて殺してしまった罪人。それでもなお、神は世を愛し、人を愛されるのです。「だから、見よ、わたしは預言者、知者、律法学者を遣わす」と約束されるのです。旧約で預言者、知者、律法学者がしていた役割、すなわち神のみこころを伝える役割を受け継ぐ者たちを、神はなおも諦めずに世に遣わすのです。そのような神の愛とあわれみに対して、なおも偽善者はこのようなことをするのです。

23章34節    だから、見よ、わたしは預言者、知者、律法学者を遣わすが、おまえたちはそのうちのある者を殺し、十字架につけ、またある者を会堂でむち打ち、町から町へと迫害して回る。

偽善者の恐ろしい実態です。神を侮り、人目ばかりを気にして、人からの賞賛を得ようとする者にとって、神、イエス・キリスト、神が立てられる預言者、知者、律法学者は邪魔なだけの存在で排除の対象なのです。

23章35節    それは、義人アベルの血から、神殿と祭壇の間でおまえたちが殺した、バラキヤの子ザカリヤの血まで、地上で流される正しい人の血が、すべておまえたちに降りかかるようになるためだ。
23章36節    まことに、おまえたちに言う。これらの報いはすべて、この時代の上に降りかかる。

先祖の時代と同じように、偽善者がこれからも神が遣わされる預言者、知者、律法学者、本当に神の前に正しい人、義人、罪を指摘してくれる人を迫害し続けるなら、神のさばきは免れない。

実際、人類で最初に正しい者が殺された出来事を指す「義人アベルの血」、正しい献げものをした義人アベルを通して、自分の罪が指摘されたと考えたカインがアベルを憎み惨殺してしまった時から、ヘブル語聖書では旧約聖書の最後に記されるⅡ歴代誌に記される義人ザカリア(ゼカリア)が殺される事件まで、多くの正しい人が殺されてきました。これらの罪の報いのすべてが、パリサイ人ら偽善者の上にくると、イエス様は警告しています。

以上、見て来たように、イエス様はこの箇所において律法学者やパリサイ人、つまり偽善者の誤りを非常にはっきりと指摘しています。真の信仰からはずれ、信仰を形式化し、行いによって義とされることを求めてイエス・キリストによる救いの福音を受け入れようとしなかった彼ら。自分たちを正しい人間であると自認して誇り、他の人々をさばいていた彼ら。このような偽善者的な生き方は、神の国の前身であるキリスト教会の中にもしばしば見受けられるのではないでしょうか。

ここでイエス様の目は神の都エルサレムに向けられます。

23章37節    エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者よ。わたしは何度、めんどりがひなを翼の下に集めるように、おまえの子らを集めようとしたことか。それなのに、おまえたちはそれを望まなかった。

律法学者やパリサイ人たちによって扇動されたエルサレムの住民は、今やイエス・キリストを昔の預言者たちと同様に殺そうとしていました。しかし、イエス・キリストはなおも彼らを愛しておられました。「わたしは何度、めんどりがひなを翼の下に集めるように、おまえの子らを集めようとしたことか」というイエスのことばは、エルサレムの住民を愛するイエスの悲しい心を、明らかに示しています。母鳥が危険を感じて、ひなを翼の下に隠し、自分の身を投げ出してまで守ろうとするのは、実に美しい愛の姿ではないでしょうか。そのように、イエス様はエルサレムの住民を愛し、彼らが滅ぼされないように、何度も、悔い改めてイエス・キリストの福音を信じるように呼びかけました。ところが、彼らはイエス様の呼びかけに応じなかったばかりか、イエス様に反逆して殺そうとしているのです。神のさばきは、たとえ神が愛され目を留められるエルサレムであってもくだされるのです。いや、むしろエルサレムから神のさばきは始まるのです。

23章38節    見よ。おまえたちの家は、荒れ果てたまま見捨てられる。

「見捨てられる」とは、何とも悲しい響きではないでしょうか。

「おまえたちの家」とは、エルサレムの家、つまり神殿を指します。あの神の臨在を現す美しい神殿、そしてそれを取り囲む城壁と家々。それらはすべて滅ぼされる。この預言は紀元70年、ローマ軍の攻撃によってエルサレムが陥落した時に事実となりました。そして神殿はその時以来、今日に至るまでついに再建されませんでした。今日、エルサレムを訪れると、神殿の跡だけが残っています。私はエルサレムに行ったことはありませんが、もしその神殿の跡に立つことがあるならば、2000年の歴史を遡って、エルサレムのために嘆いたイエス様の叫び声が心に響いてくるのではないかと思います。また、私は新潟の神学校で学んでいた時に、帰り道で長野市街地を一望できるスポットを通るのですが、そこでいつも似たような主の叫び声を聞いたことを思い出します。そしてそこで主はさらに言われました。「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。わたしがあなたとともにいるので、あなたを襲って危害を加える者はいない。この町には、わたしの民がたくさんいるのだから」(使189-10)。今日の箇所で教えられたとおり、私たちは偽善者となり、神の預言者たちを迫害し、主のさばきを免れない者となってしまうことに気をつけなければなりませんが、同時に迫害される預言者として、世の人々を神のさばきから免れさせる者として遣わされていることも覚えたいと思います。

23章39節    わたしはおまえたちに言う。今から後、『祝福あれ、主の御名によって来られる方に』とおまえたちが言う時が来るまで、決しておまえたちがわたしを見ることはない。」

「祝福あれ、主の御名によって来られる方に」は、詩篇118篇26節のことばであり、元来はエルサレムを訪れる巡礼に対して、祭司が祝福を与えたことばです。世にあって霊的リーダーである彼らが、偽善を捨て、内側も聖められ、真に主を愛し隣人を愛し、謙遜に人々に仕える者の姿となって主の祝福を祈ることができる時が来るまで、決してイエス様を目にすることはないのです。私たちがイエス・キリストを再び目にするのは、イエス・キリストの再臨の時、世の終わりの時、神の最終的なさばきの時です。39節のイエス様のみことばは、律法学者やパリサイ人を含めて、すべての人が救われて、神のさばきを免れて欲しいと願われる主の思いがことばとなったものではないかと思うのです。人々を神のもとへと導く霊的リーダーが、一切の偽善を捨て、内側が聖められ、華がある人に変えられ、そのような者を通して語られる福音によって、またそのような者を通して神の祝福が真実に祈られることによって、すべての人が救われて、真理を知るようになる。すべての人が偽善ではなく心からイエス・キリストを主と告白し、心で神はイエス・キリストを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、すべての人は救われるのです。これこそ神のみこころではないでしょうか。

律法学者、パリサイ人たちの問題は、内側は強欲と放縦で満ちているのに、見た目は良くしようと努力していたことでした。それは彼らに限ったことではなく、罪の典型とも言えるでしょう。悪を行う代名詞となったカイン以降、すべての罪人に共通する特徴です。イエス様はそのことを今日のところで語ってくださいました。その声を聞いて、彼らと同じようにイエス様に敵対するか、それとも自らの罪を求めて悔い改めるか。私たちはどちらを選ぶでしょうか。「あなたはいのちを選びなさい」と主は言われます。

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