2024年6月16日 主日礼拝「あなたを慰め、遣わされる主」

礼拝式順序

賛  美
前奏(黙祷)
招  詞  詩篇1篇1〜6節
讃  美  讃美歌21「あさ日のごとくに」
罪の告白・赦しの宣言
信仰告白  讃美歌566「使徒信条」
主の祈り  讃美歌564「天にまします」
祈  祷  
讃  美  讃美歌529「ああうれし、わが身も」
聖書朗読  マタイの福音書24章1〜14節
説  教  「あなたを慰め、遣わされる主」
讃  美  讃美歌225「すべてのひとに」
献  金  讃美歌547「いまささぐる」
感謝祈祷
報  告
今週の聖句 マタイの福音書24章14節
頌  栄  讃美歌541「父、み子、みたまの」
祝  祷
後  奏

本日の聖書箇所

マタイの福音書24章1〜14節

説教題

「あなたを慰め、遣わされる主」

今週の聖句

御国のこの福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての民族に証しされ、それから終わりが来ます。

マタイの福音書24章14節

説教「あなたを慰め、遣われる主」

マタイの福音書24章1〜14節

アメリカの神学校で学ばれた先生から伺った話しです。神学校での個人伝道の実習で大きなショッピングモールへ行かれたそうです。するとベンチに1人のやさしそうな白髪のお爺さんが座っておられ、先生はこの人ならと狙いを定めて(?)お爺さんの横に座って話しかけました。しばらくたわいもない話しをした後、こう尋ねたそうです。「お爺さん、もし今死んだら天国に行く自信はありますか?」。お爺さんは自信満々に「あるある」と答えました。先生が「どうしてですか?」と聞くと、また自信満々に「私は月に3回、教会に行っている」と答えられたそうです。「お爺さん、聖書はそう言っていませんよ」と言って、福音を伝えるという練習をされたと仰っていました。月に3回も教会に行っているから私は天国に行くことができる。はじめは違ったのかもしれませんが、段々と、教会へ行って洗礼を受けて、クリスチャンとしてそこそこの信仰生活を送っているなら、皆天国に行けるという、そういう感じの人が結構多いのかも知れません。しかし聖書はそう言ってはいません。なぜなら日曜日は月に4〜5回あるのですから4〜5回は行かないと。そうとも言っていません。もちろん毎週教会に行って礼拝を守る。それはとても大切なことであり、神も喜ばれ、またそう望んでおられることでしょう。だからと言って、教会に行っていればそれで救われているということではありません。パリサイ人のように10分の1献金をしていれば救われるというものでもありません。こういったことは、自分が神にこれほどまでに愛されている、大切にされているのだということを知り、そして神を愛するようになった者の当然の応答です。自分が神にこれほどまでに愛されている、大切にされているのだということを知るのは何によるのでしょうか。それはイエス・キリストの福音です。この福音を知らされ、この福音を心から信じることによってはじめて人は救われるのです。では皆さんは、皆さんが信じ救われたこの福音を、どのように世の人々に説明し、知らせるでしょうか。知らせているでしょうか。その時、もしかしたら信じてもらえないのではないか、馬鹿にされるのではないか。そういった試みは常にあるでしょう。そこで福音を水で薄めるようにしてしまったり、世の人々の耳ざわりの良いものに変えてしまったり、あるいは自分の都合の良いように変えてしまったりしてはならないのです。それはもはや異端となってしまいます。私たちが偽預言者、偽教師となってしまいます。そして聖書は異端、偽預言者、偽教師が世の終わりに起こってくること、そしてそれらに対する厳しいさばき、永遠の滅びがあることを明言しています。私たちはそれをどうしても避けなければなりません。

さて、マタイの福音書は24章へと進んでまいります。24〜25章でイエス様は、未来に起こる出来事について教えておられます。未来に起こる出来事、それは世の終わりの時についてです。

24章1節      イエスが宮を出て行かれると、弟子たちが近寄って来て、イエスに向かって宮の建物を指し示した。

「出て行く」と訳されたギリシア語は、「遠ざかる」という意味の語です。イエス様は23章でのおことばを語られて後、神殿を去られました。「見よ。おまえたちの家は、荒れ果てたまま見捨てられる」と語られ、3節を見るとオリーブ山にとどまられたことが分かりますが、イエス様は神殿を去られ、都の東の方に向かわれました。これは旧約聖書のエゼキエル書に記されている、神の栄光がさばきのために神殿から去られたことを連想させるものでした。いわゆる預言的な行動です。イエス様は言われました。「このような姦淫と罪の時代にあって、わたしとわたしのことばを恥じるなら、わたしもその人を恥じる」と。「わたしを知らないと言う者は、わたしもあなたを知らないと言う」と。私たちの体は神の宮です。神の栄光が神の宮から離れ去るとはこのようなことなのではないでしょうか。今回のイエス様の預言的な行動。しかし弟子たちは将来起こるその重大さ、深刻さを悟れずに、ヘロデが増築した今の華やかな神殿を指さし、マルコの福音書によると「先生、ご覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう」(マコ131)と言いました。

24章2節      すると、イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたはこれらの物すべてを見ているのですか。まことに、あなたがたに言います。ここで、どの石も崩されずに、ほかの石の上に残ることは決してありません。」

イエス様は23章に続いてもう一度、「神殿は破壊される」と告げられました。イエス様が23章で「見よ。おまえたちの家は、荒れ果てたまま見捨てられる」と言われてもなお、弟子たちは再建された神殿は永遠に続くと期待していたようです。しかしこの時のイエス様の明確な神殿破壊の予告は、弟子たちに大きな衝撃を与えたことでしょう。そして弟子たちは、少し前にエルサレムに近づいて都をご覧になったイエス様が、この都のために泣かれたことを思い起こしたかもしれません。

24章3節      イエスがオリーブ山で座っておられると、弟子たちがひそかにみもとに来て言った。「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのですか。あなたが来られ、世が終わる時のしるしは、どのようなものですか。」

イエス様が山(丘)で座っておられる。これは当時、ラビ(教師)が重要なことを語り教える時にとられた姿勢です。そしてひそかにみもとに来てイエス様に尋ねた弟子たちは、マルコの福音書によるとペテロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレの4人でした。彼らのうち、ペテロとヤコブとヨハネは、ヘルモン山でイエス様が栄光の姿に変わり、モーセとエリヤが現れて、イエス様の最後について語り合っていたのを目撃し、聞いた者たちです。その時、もの凄い恐怖に怯えてしどろもどろになり、地にひれ伏す彼らに、イエス様は近づき、彼らに触れ、抱き起こすようにして「起きなさい。恐れることはない」と言われました。恐怖に怯えて思考停止してしまい、うまく話すことも動くこともできなくなってしまった彼らを、イエス様は慰め励まされました。

何か変な空気が漂う中、弟子たちはいよいよ怯えたのでしょう。「そのようなこと」つまり神殿が破壊される。あまりにも信じがたい大きな出来事。それは現実となるのか。長野聖書教会のような木造の小さな会堂が崩れ去るのではないのです(それはそれで相当なことですが)。美しい大きな石で超頑丈そうに造られた、大きくて超華やかな神殿が崩れ去る。そのようなことが本当に起こるとするなら、それは世が終わる時かもしれない。そしてそれはきっとすぐにやって来るに違いないと思ったのでしょうか。あなたが世に来られた。世が終わる時が来る。だとしたら、その時のしるしはどのようなものですか? いつ起こるのか、その時どのような奇跡、驚異、不思議が起こるのか。どんな兆候、気配、それと分かる目印となるものはどのようなものでしょうか。弟子たちの質問に対してイエス様は、世の終わりが到来する前に起こる出来事について語られます。

24章4節      そこでイエスは彼らに答えられた。「人に惑わされないように気をつけなさい。
24章5節      わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『私こそキリストだ』と言って、多くの人を惑わします。

弟子たちの質問に、イエス様はまず偽キリストに気をつけるようにと警告されます。「私こそキリストだ」と言って多くの人を惑わすようなことが起きても、あなたがたは惑わされないようにと言われます。

使徒の働きなどにも記録されていますが、実際にAD70年頃に起こった神殿陥落の前の30〜40年の間に、人々を先導する自称メシアが多数現れ、多くの人々が惑わされたことがありました。それは今の時代にまで続いていることを私たちは知っています。

24章6節      また、戦争や戦争のうわさを聞くことになりますが、気をつけて、うろたえないようにしなさい。そういうことは必ず起こりますが、まだ終わりではありません。

世の終わりには「戦争や戦争のうわさを」聞くことになります。「そういうことは必ず起こる」。必ず起こるというギリシア語は必然である、必至である。必ずそうなるに違いなく、そうなることが避けられないというものです。確かに私たちも、戦争や戦争のうわさを聞いています。今の時代、ニュースやSNS等でリアルタイムに伝わって来ます。イエス様は「しかし、まだ終わりではないので、世の終わりが来たかのように驚き恐れてはならない。それでも「うろたえないようにしなさい」と命じられた。「すぐに落ち着きを失ったり、心を騒がせたりしてはならない」と言われた。これはどういう意味で言われたのでしょうか。おそらく、もの凄い恐怖に怯えてしどろもどろになっている弟子たちを慰め、励ますために言われたものだと思います。怯える彼らに、イエス様は近づき、彼らに触れ、抱き起こすようにして「起きなさい。恐れることはない」と言われた、あのヘルモン山での変貌の時と同じだったのではないかと思うのです。戦争や戦争のうわさを聞くことになる。しかし、まだ終わりではないので、世の終わりだ、もうすべて終わりだと恐れたり、諦めたりする必要はない、思考停止してはならないと、弟子たちを立ち上がらせるために励まされているのでしょう。

24章7節      民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、あちこちで飢饉と地震が起こります。

「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり」は、「戦争と戦争のうわさ」を具体的に表現したものです。そして「あちこちで飢饉と地震」が起こる事は、偽キリストの出現、戦争や戦争のうわさと同様、神殿陥落前の30〜40年の間の状況と合致しています。その後にも歴史の中で起こり続けています。私たちの時代にもその通りのことが起こっています。しかもそれはますます私たちの身近に迫ってきているのではないでしょうか。

24章8節      しかし、これらはすべて産みの苦しみの始まりなのです。

これはイエス様の私たちに対する脅しのことばでしょうか。決してそうではありません。やはりどこまでもイエス様の弟子である私たちに対する慰め、励ましであること、私たちに近づき、抱き起こすためのものであることを覚えたいのです。

4〜8節が、自然災害を含めたしるしであったのに対し、9節からは人々の間で起こること、しるしが語られます。
24章9節      そのとき、人々はあなたがたを苦しみにあわせ、殺します。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての国の人々に憎まれます。
24章10節    そのとき多くの人がつまずき、互いに裏切り、憎み合います。

イエス様の再臨において、これらのことが起こるのも必然であり必至です。「人々はあなたがたを苦しみにあわせ、殺します」。これはイエス様が再臨される時までは、迫害がいつでも起こり得るということです。実際に命を奪われるほどのハードな迫害も起こり得ますし、起こってきました。また命を奪われなくとも、迫害は常に私たちの身近にあるのです。家族と一緒に何かができない。友だちの仲間に入れない。「だからクリスチャンは」などと言われ、肩身の狭い思いをする。いわゆる「ソフトな迫害」とでも言いますか、信仰があるゆえに生き難さを覚えるという、それもまた迫害です。逆に言うと、全く迫害がない所に信仰はないのです。

パウロなどは真の神を信じない異邦人からばかりか、パウロが心から愛する同胞のユダヤ人からも命を狙われるほどの迫害を受けました。そのような生きづらさとか、苦しみや悲しみを経験すると、たとえキリストの弟子であっても互いに裏切り、憎しみ合うことになるとイエス様は言われるのです。そのような失望というか、絶望を味わうとどうなるかというと、信仰を捨てることはさすがにできないかもしれませんが、みことばを、福音を水で薄めたり、自分の都合の良いように変えたりしてしまうことになるのでしょう。そのような者たちが、偽預言者となって大勢現れることになってしまう。

24章11節    また、偽預言者が大勢現れて、多くの人を惑わします。
24章12節    不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えます。

偽預言者たちは真の弟子たちを妨害するでしょう。世の人々を迷わせることになるでしょう。彼らは使徒たちが宣べ伝えなかった別のイエス・キリストの福音を宣べ伝えるのです。サタンでさえ光の御使いに変装するのです。滅びをもたらす異端がひそかに持ち込まれるのです。貪欲で、うまくこしらえた話しで聖徒たちを食い物にするのです。

今の世を見てください。偽キリスト、偽預言者、偽教師たちの特徴ははっきりしています。彼らは道徳的に腐敗しています。彼らは性的に放縦である(自制できない)ばかりか、自分の貪欲を満たすために人を騙して搾取します。ある異端の教祖は、数多くの女性信徒に性的暴力を行う。また信仰を装って多額の献金を要求する。自分たちの情欲と貪欲を満たすために、神のことばを好き勝手に解釈して、聖徒をまことの信仰から離れさせる。醜い貪欲に満ちた姿が異端集団に共通する特徴ではないでしょうか。そして私たちは今も、それを目の当たりにしているでしょう。異端の惑わしに陥った人々が財産を失い、その家族の人生までもが崩壊する悲劇を見ているではないですか。あの安倍元首相が殺された事件もそうでした。私たちの教会はそのような目で見られていないですよね。

使徒のペテロは、このように人々を欺いて他人の人生を崩壊させる偽預言者たちの最後を厳重に警告しています。そして、偽預言者、偽教師は私たちの中から出るとも聖書は言っているのです。兄弟姉妹たちが異端の惑わしに惹かれて被害を受けないように、勤勉に真理のことばを学んで教え、真理にとどまり、私自身がそのみことばに従って生きて行かなければなりません。私自身が異端者となり、終わりの時に神の厳しいさばきにあわないためにもです。「偽り者とは、イエスがキリストであることを否定する者でなくてだれでしょう。御父と御子を否定する者、それが反キリストです」(Ⅰヨハ222)。

イエス様はどうしてこうも耳の痛い、できれば聞きたくない厳しいことを言われるのでしょうか。それは私たちの労苦を慰め、また信仰を励ますためでしょう。終わりの時に必然、必至である様々な苦難に備えさせるためでしょう。いざ大きな地震が起こっても、前もってきちんと心構えや備えができていれば、その人は自分のいのちを守ることができるのです。

24章13節    しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます。

これが恐れ、怯え、うずくまる弟子たちを抱き起こすように励まされる理由でしょう。イエス・キリストはご自分のいのちを投げ出してまでも救われたひとりの人が、必ず完全に救われることを願っておられるのです。

24章14節    御国のこの福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての民族に証しされ、それから終わりが来ます。

これもまた、恐れ、怯え、うずくまる弟子たちを抱き起こし、そこから立たせ行かせようとされるイエス様の励ましの理由です。どこに向かわせるのか。それはマタイの福音書の最後に記されている、イエス様の大宣教命令に向かわせるのです。今は確かに終わりの時。しかしすぐに終わるのではない。福音が宣べ伝えられて、それから終わりが来るのだ。だから諦めずに、思考停止せずに、一人でも多くのいのちを救うため、あなたがたは真の預言者となり、真の霊的リーダーとなり、わたしが遣わした場所へと立ち上がって出て行くように、真の福音を宣べ伝えるために出て行くように、主は私たちを慰め励まされるのです。

神は、私たち人間を愛される故、私たち人間の罪を取り除くために、ご自分のひとり子であるイエス・キリストをこの世に降らせ、人間の罪のさばきの身代わりとして十字架につけられました。罪とは、神と人との間に壁となっているすべての悪のことです。そして、この罪のゆえに人は死と死後のさばきが定まっていると、聖書には厳粛な神の宣言が記されています。しかし、罪を犯したことがなく、その口には欺きもなかった神の愛するひとり子、神が世に遣わされたイエス・キリストが、自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われ死んでくださった。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるために。キリストの打ち傷のゆえに、私たちのすべての罪は赦され、神の怒りは宥められ、神との平和を賜り、隔ての壁はなくなり神のもとに帰ることができる。そのことを信じるならば、神は恵みによってあなたのすべての罪を赦し、あなたを救われる。受ける価値のない私たちに、神は永遠のいのちを与えてくださる。神が完全にご支配なさる、完全に支え配慮される神の国、天の御国に入れてくださる。これが神がしてくださった確かな約束であり、福音です。月に3回教会に行っていれば救われる、天国に行けるわけではないのです。教会へ行って洗礼を受けて、クリスチャンとしてそこそこの信仰生活を送っているなら、皆天国に行けるというのではありません。

「十字架のことば(福音)は、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です」(Ⅰコリ118)。信じてもらえないのではないか、馬鹿にされるのではないか。そういった試みは常にあるでしょう。そこで福音を水で薄め「月に3回教会に行くだけで救われますよ」ではないのです。そんなことは聖書に書かれていません。そのように、イエス・キリストの十字架の福音を世の人々の耳ざわりの良いものに変えてしまったり、あるいは自分の都合の良いように変えてしまったりしてはならないのです。それはもはや異端となってしまいます。私たちが偽預言者、偽教師となってしまいます。サタンはダイレクトな異端や新興宗教を用います。しかし、ソフトな異端とでも申しましょうか、巧みに惑わす偽預言者をもサタンは用いるのです。そしてそれは教会の中から出て来ると言われる。恐ろしいことです。そして聖書は異端、偽預言者、偽教師が世の終わりに起こってくること、そしてそれらに対する厳しいさばき、永遠の滅びがあることを明言しています。必然であり、必至である。必ずそうなるに違いなく、そうなることが避けられないのです。私たちは信仰をもって、神の約束であるみことばの武具を身に着け、それに備えなければなりません。

キリストは十字架で死んでくださり、墓に葬られ、そして3日目によみがえりました。そして、天の父なる神のもとに帰られ、今、私たちのために祈りとりなしておられます。しかし、やがて2度目の到来があるのです。「わたしは必ずあなたがたのところに帰って来る」、これも神の厳粛な宣言です。

「しかし今、キリストはただ一度だけ、世々の終わりに、ご自分をいけにえとして罪を取り除くために現れてくださいました。そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、キリストも、多くの一つ身を負うために一度ご自分を献げ、二度目には、罪を負うためではなく、ご自分を待ち望んでいる人々の救いのために現れてくださいます。」(ヘブ926-28)。それは人間の罪を負うためではなく、キリストを待ち望んでいる人々のため、すなわちイエス・キリストを救い主と信じた人々をこの罪に満ちた世界から救うために来られるのです。この2回目の救い主の到来を経験できるのは、1回目の到来の目的を受け取った人にのみ起こることです。そして最後まで耐え忍んだ人にのみ起こることです。ですから、すべての人がイエス・キリストを救い主と信じ、その福音に最後まで留まることを神は望んでおられます。イエス様は天に昇られるとき、弟子たちにすべての人に福音を宣べ伝えよと命じられました。その使命は、イエス・キリストの再臨に備えることでもあります。

今は終わりの時。しかし、まだ終わりではないので、世の終わりだ、もうすべて終わりだと恐れたり、諦めたりする必要はないと、イエス様は恐れ怯え、うずくまる弟子たちを抱き起こすようにして励まされました。今、私たちの周りの状況を見るならば、ますます今が終わりの時であることを思わされます。闇は深まり、昼は近づいて来ています。私たち教会は、イエス・キリストの十字架の福音から決して離れることのないように最新の注意をし、備えをし、復活の主が再びこの世に来られるその日まで、不法がはびこり、多くの人の愛が冷えてしまっているこの世にあって、正しい信仰に留まり、みことばに留まり、みことばを学び、みことばを通して主に慰められ、励まされ、どこまでも神を愛し、隣人を愛し、正しくみことばを、福音を、神が愛される人々に正しく宣べ伝えてまいりましょう。そして私たち自身、最後まで主のみことばに生きてまいりましょう。

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