2024年9月1日 主日礼拝「わたしを覚えて、これを行いなさい」

礼拝式順序

賛  美  プレイズワールド「もうふりむかない」
      新聖歌50「心を高く上げよう」
前奏(黙祷)
招  詞  詩篇117篇1〜2節
讃  美  讃美歌68「父なる御神に」
罪の告白・赦しの宣言
主の祈り  讃美歌564「天にまします」
祈  祷  
讃  美  讃美歌250「つみのちから」
聖書朗読  マタイの福音書26章26〜30節
説  教  「わたしを覚えて、これを行いなさい」
讃  美  讃美歌271「いさおなき我を」
聖餐式   信仰告白 讃美歌566「使徒信条」
讃  美  讃美歌204「すくいの君なる」
献  金  讃美歌547「いまささぐる」
感謝祈祷
報  告
今週の聖句 コリント人への手紙第一11章26節
頌  栄  讃美歌541「父、み子、みたまの」
祝  祷
後  奏

本日の聖書箇所

マタイの福音書26章26〜30節

説教題

「わたしを覚えて、これを行いなさい」

今週の聖句

ですから、あなたがたは、このパンを食べ、杯を飲むたびに、主が来られるまで主の死を告げ知らせるのです。

コリント人への手紙第一11章26節

説教「わたしを覚えて、これを行いなさい」

マタイの福音書26章26〜30節

私たちは普段、何気にクリスチャン用語と呼ばれる言葉を用いますが、よく用いられる語に「覚える」というものがあるのではないでしょうか。正直申しまして、私は教会に来てはじめて「覚える」という語がとても多く飛び交っているのを経験しました。先ほどの祈りの中でも「神さま、今朝も礼拝に私を招いてくださった恵みを“覚えます”」「先週もあなたがすべての必要を満たしてくださったことを“覚えます”」「イエス様の十字架によって私のすべての罪が赦されていることを“覚えます”」など。では、この「覚えて」とは何でしょうか。記憶に留めることを意味するのでしょうか。そうなのでしょう。記憶に留めることはとても重要なことです。しかし「覚える」ことには、それ以上に重要な役割があることを改めて“覚えたい”と思います。

この「覚える」というギリシア語はἀνάμνησιςというもので、その意味は「思い出す、思い起こす、呼び返す、記念する」という意味があります。さらにその意味を追っていくと、「自分の心を奮い立たせる、気を取り直す」という意味をも持つ語であることが分かるのです。「今朝も礼拝に私を招いてくださった恵みを覚えます」であれば、このような私を礼拝に招いてくださった神さまの恵みを思い起こし、感謝し、私は自分の心を奮い立たせます、気持ちを新たにここから立ち上がります」となるのでしょう。「イエス様の十字架によって私のすべての罪が赦されていることを覚えます」はどうでしょう。イエス様の十字架によって私の過去、現在、未来の罪が赦されている、そのことを思い出し、そうだったと思い起こし、感謝して、私は自分の罪を悔い改め、自分の心を再び奮い立たせます、気持ちを新たに立ち上がります」。「神さまの愛とあわれみ、イエス様の恵みをこれほどまでに注がれていることを思い起こし、神と隣人を愛するために、赦すために、祝福するために自分を奮い立たせます」というところまで自分の思い、祈りが高められれば幸いです。

さて、マタイの福音書は前回、種なしパンの祭りの初日の出来事を見ました。これはイスラエルの民が神によってエジプトから脱出することができたことを覚えて行われた「過越の祭り」を指しているのですが、その第1日目の夜、イエス様は弟子たちとともに、神の定めに従って特別な食事「過越の食事」をする場面、絵画でも有名な「最後の晩餐」をされたところを見ました。

図らずも先週の第2礼拝では、過越の祭りの起源となった出エジプト記12章に記されている「過越」のところをご一緒に学びました。エジプトに下り430年間その地に寄留したイスラエルの民が、やがてそれは厳しい奴隷生活を長い間強いられることになり、重い労働にうめき、泣き叫びました。重い労働によるイスラエルの民の叫びは神に届き、神は彼らの嘆きを聞き、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を神は“覚えた(思い起こし、奮い立たれた)”のでした。決して忘れていたわけではありません。モーセが生まれ、やがて彼が指導者に立てられ、イスラエルの民はエジプトを脱出することになります。イスラエルの民をなかなか去らせようとしないファラオに、神は10の災いを下されました。9つの災いはエジプトにだけ下り、イスラエルの民は完全に区別され(聖別され)て守られたのですが、10個目の災いはイスラエルの民にも及びました。なぜなのでしょうか。それはイスラエルの民にも罪があったからです。出エジプト記を見ると彼らの家の隣にはエジプト人が住んでいたなど、イスラエルの民はエジプト人の間で暮らしていました。そして430年の間にすっかりエジプトの生活に馴染み、慣れ、偶像礼拝に慣れ、イスラエルの民は自覚があったのかなかったのか、すっかり罪に染まり、神の民は堕落していたのです。神は気づいている偶像、気づいていない偶像、気づいている罪はもちろん、気づいていない罪をも持ったまま、堕落の民のまま約束の地、神が治めようとされる地へと入ることをお許しになりませんでした。そこでエジプトに下す10個目のわざわい、エジプトの地に生きる、人から家畜に至るまで、すべての長子を打つ(殺す)というさばきを通して、ご自分の民を聖めようとされました。聖めるというのは、神のために取り分けられるという意味です。

出エジプト記12章を開いてください。

【出エジプト記】
12章1節      主はエジプトの地でモーセとアロンに言われた。
12章2節      「この月をあなたがたの月の始まりとし、これをあなたがたの年の最初の月とせよ。
12章3節      イスラエルの全会衆に次のように告げよ。この月の十日に、それぞれが一族ごとに羊を、すなわち家ごとに羊を用意しなさい。
12章4節      もしその家族が羊一匹の分より少ないのであれば、その人はすぐ隣の家の人と、人数に応じて取り分けなさい。一人ひとりが食べる分量に応じて、その羊を分けなければならない。
12章5節      あなたがたの羊は、傷のない一歳の雄でなければならない。それを子羊かやぎのうちから取らなければならない。
12章6節      あなたがたは、この月の十四日まで、それをよく見守る。そしてイスラエルの会衆の集会全体は夕暮れにそれを屠り、
12章7節      その血を取り、羊を食べる家々の二本の門柱と鴨居に塗らなければならない。

神はイスラエルの民とこのような契約を結ばれました。契約というのは、約束と違って、一方が伝えるだけでなく両者で合意することが重要なポイントです。お互いの意思表示があって初めて成り立つものです。つまり、一方の当事者が先に自分の意志を相手に伝える申し込みがなされ、それを受けたもう一方の当事者が承諾の意思表示を行う。双方の合意がなされることで契約が有効になる。お互いが契約を守らなければならなくなる。神は契約の神です。イスラエルの民、また私たちは契約の民です。原則的に契約を守れば祝福され、契約を守らなければ呪われるのです。

【出エジプト記】
12章8節      そして、その夜、その肉を食べる。それを火で焼いて、種なしパンと苦菜を添えて食べなければならない。
12章9節      生のままで、または、水に入れて煮て食べてはならない。その頭も足も内臓も火で焼かなければならない。
12章10節    それを朝まで残してはならない。朝まで残ったものは燃やさなければならない。
12章11節    あなたがたは、次のようにしてそれを食べなければならない。腰の帯を固く締め、足に履き物をはき、手に杖を持って、急いで食べる。これは主への過越のいけにえである。
12章12節    その夜、わたしはエジプトの地を巡り、人から家畜に至るまで、エジプトの地のすべての長子を打ち、また、エジプトのすべての神々にさばきを下す。わたしは主である。
12章13節    その血は、あなたがたがいる家の上で、あなたがたのためにしるしとなる。わたしはその血を見て、あなたがたのところを過ぎ越す。わたしがエジプトの地を打つとき、滅ぼす者のわざわいは、あなたがたには起こらない。

神と神の民は契約を結び、その夜、神はその通りのことをされました。神の民も契約を守り、契約の通りに行いました。そしてわざわいは契約とおりに過ぎ越されたのです。

【出エジプト記】
12章14節    この日は、あなたがたにとって記念となる。あなたがたはその日を主への祭りとして祝い、代々守るべき永遠の掟として、これを祝わなければならない。
12章15節    七日間、種なしパンを食べなければならない。その最初の日に、あなたがたの家からパン種を取り除かなければならない。最初の日から七日目までの間に、種入りのパンを食べる者は、みなイスラエルから断ち切られるからである。
12章16節    また最初の日に聖なる会合を開き、七日目にも聖なる会合を開く。この期間中は(直訳・別訳では「両日」)、いかなる仕事もしてはならない。ただし、皆が食べる必要のあるものだけは作ることができる。
12章17節    あなたがたは種なしパンの祭りを守りなさい。それは、まさにこの日に、わたしがあなたがたの軍団をエジプトの地から導き出したからである。あなたがたは永遠の掟として代々にわたって、この日を守らなければならない。
12章18節    最初の月の十四日の夕方から、その月の二十一日の夕方まで、種なしパンを食べる。
12章19節    七日間はあなたがたの家にパン種があってはならない。すべてパン種の入ったものを食べる者は、寄留者でも、この国に生まれた者でも、イスラエルの会衆から断ち切られる。
12章20節    あなたがたは、パン種の入ったものは、いっさい食べてはならない。どこでも、あなたがたが住む所では、種なしパンを食べなければならない。」

さらに神とイスラエルの民はこのような契約を結ばれました。これが種なしパンの祭り、過越の祭り、過越の食事の起源です。

19節の「七日間はあなたがたの家にパン種があってはならない」とありますが、これは家の大掃除のようなものです。聖書でパン種はほとんどが罪などの悪影響を指し示しているのですが、家中の大掃除をすることによって、一切の罪を持ったままでは約束の地に入れないことを示されたのです。ちなみにその方法というのは、掃き掃除、拭き掃除はもちろん、パン種は空気中にも存在しているものなので、水ね練った小麦粉を部屋の隅などに置いておくのだそうです。そして最後にそれを焼いて捨ててしまうというもの。すべてのパン種、一切の罪が家にあってはならない。持ったままではいけない。そのことをイスラエルの民に“覚えさせる”ために、この契約を制定されました。覚えさせるため。それは記憶に留めることだけではなく、思い起こすことによって、呼び返すことによって、記念することによって心を奮い立たせる、気を取り直す、再び信仰によって立ち上がること。神の契約は私たち人間を縛り苦しめるものではなく、どこまでも神の愛による恵みであるのです。確実に幸いな約束の地、神の国へと導くものなのです。

【出エジプト記】
12章24節    あなたがたはこのことを、あなたとあなたの子孫のための掟として永遠に守りなさい。
12章25節    あなたがたは、主が約束どおりに与えてくださる地に入るとき、この儀式を守らなければならない。
12章26節    あなたがたの子どもたちが『この儀式には、どういう意味があるのですか』と尋ねるとき、
12章27節    あなたがたはこう答えなさい。『それは主の過越のいけにえだ。主がエジプトを打たれたとき、主はエジプトにいたイスラエルの子らの家を過ぎ越して、私たちの家々を救ってくださったのだ。』」すると民はひざまずいて礼拝した。
12章28節    こうしてイスラエルの子らは行って、それを行った。主がモーセとアロンに命じられたとおりに行った。

イスラエルの民は神と契約を結びました。しかし出エジプト記を見ていくと、これから一年後に幕屋が完成した月に一度行われましたが、それ以来荒野において過越がなされた記録はありません。民の不信仰のゆえであったと思われます。そして過越を“覚える”ことをしなかった民は、神につぶやくようになりました。文句を言い始めました。エジプトでのあれほど苦しかった奴隷生活の経験を忘れ、エジプトに戻りたいと振り向いてしまった。過越を、神の偉大なみわざを、神の恵みを覚えることをしないならば、すぐに神につまずいてしまう。先週も申しましたが、つまずくというのはごく簡単に言うと「嫌になる」ことです。ですから私たちは、やはり神を覚えることを意識的に、定期的にしないといけないのではないでしょうか。その必要と重要性を神はご存知で、このような永遠の契約を恵みによって結んでくださった。神を覚えるなら、私たちはもうつぶやかない、つぶやけない。もう振り向かない、もう振り向けないのではないでしょうか。そこから信仰によってようやくもう一度立ち上がることができるのではないでしょうか。

そしてこの契約は神による神との永遠の契約です。今でも有効です。私たちが神が約束どおりに与えてくださる地に入るとき、すなわち私たちにとっての約束の地、神の国、天の御国に入るために、この契約を守らなければならない。この儀式を守らなければならない。契約を守る者には祝福、守らない者には呪いが待っているのです。

この後、契約は荒野の旅の中で更新されました。神はレビ記、申命記において、約束の地に入ることを前にして契約を更新され、明文化された律法を与えられました。この律法の目的も変わらず、律法を覚えることによって、神の民とされた者が偶像礼拝をはじめとした罪に満ちた約束の地にあって守られ、確実に幸いな約束の地、神の国へと導くものでした。やがてそれを人間が(パリサイ人、律法学者などが登場し)自己中心に取り扱うようになってしまった。そのことに対する問題や神(イエス様)の評価批判はこれまで見てきて覚えたところです。神の祝福を呪いへと変えてしまった。

神が人間に与えられた律法を正しく取り扱い、守り行う事はやはり神のみこころです。しかし律法を通して自分の罪を知り、すべての苦しみの原因が自分の罪であることを知った人が、それでも律法を守り切ることができない、どうしても罪を犯してしまう。パン種を家の中から一生懸命なくそうと大掃除しても、パン種は空気中にあるのです。そのように罪が満ちた世に生きていて、息を吸うようにどうしても罪を犯してしまう弱さ。神はエジプトでの民の叫びと同じような、重いくびきにうめき、罪の悲惨さの中で泣き叫ぶ人間の声、嘆く声を聞かれました。(皆さんはご自分が罪の悲惨さの中で苦しんでいた時のことを覚えておられるでしょうか?)そしてイエス・キリストをこの世に送られ、契約を更新してくださいました。それも一方的な神の愛によるもの、恵みによるのです。

神は神のひとり子イエス・キリストをこの世に送られました。イエス・キリストは自ら十字架の上で、私たちのすべての罪をその身に負われ死んでくださり、罪を取り除くために現れてくださいました。水で練った小麦粉が空気中のパン種を集め、最後に焼いて捨てられるようにです。イエス・キリストは十字架に架けられ、屠られ、血を流され、すべての人間を罪の奴隷から解放するための贖いとならた。神の怒りのなだめの供えものとなられた。もう動物を屠ることも、動物の血を流すことも必要なくなったのです。私たちはただ信仰によって神の約束、意思表示を受け入れる合意するならばすべての罪が赦され救われるのです。それがイエス・キリストを通しての神との新しい契約です。契約の更新です。なんと感謝なこと、恵みではないでしょうか。

ようやく今日の箇所に入りますが、マタイの福音書26章26節からです。ここは今日、私たちが守る聖餐式が制定されたところです。新しく契約が更新されたところです。聖餐式(主の晩餐)は「過越の祭り」に相当します。そしてイエス様は「わたしを覚えるためにこれを行いなさい」と言われました。

【マタイの福音書】
26章26節    また、一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、神をほめたたえてこれを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取って食べなさい。これはわたしのからだです。」
26章27節    また、杯を取り、感謝の祈りをささげた後、こう言って彼らにお与えになった。「みな、この杯から飲みなさい。
26章28節    これは多くの人のために、罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です。(ルカ2220では「あなたがたのために流される、わたしの血による、新しい契約です」)

いけにえの動物を屠り、血が流されたその夜、イエス様は弟子たちの目の前で、パン取り、動物を屠る(ズタズタに切り分ける)ようにそれを割かれ、「これはわたしのからだである」と宣言されました。そして杯を取り、「これは多くの人のために、罪の赦しのために流されるわたしのの契約の血である」と宣言されました。

先ほども契約について触れましたが、契約というのは、一方の当事者が先に自分の意志を相手に伝える申し込みがなされ、それを受けたもう一方の当事者が承諾の意思表示を行う。双方の合意がなされることで契約が有効になるというものです。契約を守れば祝福され、契約を守らなければ呪われるのです。

「与える」というギリシア語は、「置く、勧める」という意味の語です。イエス様はパンを取り、私たちの目の前に置いて勧められるのです。「あなたは取って食べなさい」と。自らの手で取って、受け取って、そして食べ、飲みなさいと。「食べる」という語も「貪り食う、食い殺す」というものです。私たちは儀式的にパンを食べるのではなく、求めて、すがって、信じて、貪るようにパンをいただくのです。

杯も同じです。「これは多くの人のために、あなたがたのために、あなたのために流される、わたしの契約の血。わたしの血による新しい契約です」。そう言われてからイエス様は杯を取り、与えて、目の前に置いて勧められるのです。「流される」という語の意味も重要です。それは「注ぎ出す、与える、惜しみなく流す、惜しみなく与える」という意味のギリシア語です。「あなたは自らの意思でそれを取って、飲みなさい」と。「飲む」という語も、「吸収する、自分に取り込む、身に受ける」というものです。私たちはやはり儀式的に杯を飲むのではなく、求めて、すがって、信じて、惜しみなく流されるキリストの血、神の愛、恵みに心から感謝し、契約に合意しますという意思表示のもとに杯をいただくのです。

主は「わたしを覚えて、これを行いなさい」と言われました。神は私たち人間に対し、イエス・キリストを救い主として信じる信仰によって、罪を赦し、救いを与えてくださるという約束を与え、契約を結ばれたのです。古い契約は犠牲となった動物の血によって結ばれました。しかし新しい契約は、罪人の身代わりとなって十字架の上で死んだイエス・キリストの血によって結ばれるのです。「わたしを覚えて、これを行いなさい」。「覚える」ために。記憶に留めるだけではない、神の愛、イエス・キリストの恵みを思い起こし、自らを奮い立たせる、再び信仰によって立ち上がらせる。聖餐式の持つひとつの意味です。教会によっては毎週聖餐式を執り行うところもあれば、私たちのように月に1回の教会、また年に1回という教会もあります。いずれにしても「しっかりと覚える」ことが重要なのです。

26章29節    わたしはあなたがたに言います。今から後、わたしの父の御国であなたがたと新しく飲むその日まで、わたしがぶどうの実からできた物を飲むことは決してありません。」

イエス様がこの地上で弟子たちと共に食事をするのはこれが最後であり、この次に弟子たちとともに食事をするのは、イエス様が再臨され、弟子たちが神の国に入れられ、そこでイエス様とともに食事をする時だということです。ゆえに「最後の晩餐」と呼ばれるのです。そして私たちは、この最後の晩餐におけるイエス様と弟子たちとの間に結ばれた新しい契約を覚えて、聖餐式を行っています。重ねて申しますが、聖餐式は、キリスト・イエスと、キリスト・イエスを信じる者との間に、キリスト・イエスの血による新しい契約が結ばれていることを思い起こし、確認し、その信仰を告白し、その信仰によって自らを奮い立たせ、再び立ち上がらせるものです。私たちは聖餐式にあずかるたびに、イエス様の血による新しい契約にあずかることができたことを感謝すると同時に、この新しい契約の意味を、イエス様の再臨の時まで、多くの人々に告げ知らせ、証して行くのです。

26章30節    そして、彼らは賛美の歌を歌ってからオリーブ山へ出かけた。

イエス様と弟子たちは、賛美しながらオリーブ山へ出掛けました。ちなみに、当時のユダヤ人の賛美は無伴奏の朗唱でした。現代人には朗読のように聞こえるものだったようです。それが次第に音程が生まれ、リズムが生まれ、音符が考えられ記されるようになり、今のような賛美(音楽)になりました。

それはともかく、当時過越の食事は、伝統的に詩篇113〜118篇を朗唱しながら終えていたそうです。伝統的。危険な臭いがします。伝統は時に形式的となってしまうのではないでしょうか。弟子たちは心から賛美しながらオリーブ山へ出掛けたのか。それともただ伝統だからと形式的に神を賛美しながらであったのか。それはこの後の31節のみことばから感じ取れるところがあるように思います。同じように、私たちが守る聖餐式、そして聖餐式感謝の賛美は形式だけではダメなのです。神の愛、イエス・キリストの恵みをしっかりと「覚える」ものでなければなりません。

この後、私たちは信仰により、自ら心から求めて、すがるように、貪るようにして聖餐式にあずかりましょう。そして改めて神の愛、イエス・キリストの恵み、十字架による贖い、血による新しい契約を「覚え」ましょう。神が申し出てくださり、私たちはそれに合意した。そのことを改めて覚えましょう。それは私たちをつまずきから守るものとなるでしょう。何度も罪を繰り返してしまう、何度も神につぶやき、振り向いてしまう。そのような私たちに、変わらずに神の愛、イエス・キリストの恵みが、あわれみが、赦しが注がれていること改めて覚えさせるものとなるでしょう。そこからまた信仰によって奮い立ち、立ち上がらせていただき、今日からの歩みを確実に約束の地、天の御国に至らせていただくよう軌道修正していただきましょう。勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕える者。望みを抱いて喜び、苦難に耐え、ひたすら主に祈る者(ロマ1211-12)としていただきましょう。

長野聖書教会の話題やお知らせをお届けします。

コメントを残す