2026年2月1日 主日礼拝「いざ、御国を目指す旅が始まる」
前 奏 黙祷
招 詞 詩篇100篇
賛 美
讃 美 讃美歌10「わがたまたたえよ」
主の祈り 讃美歌564「天にまします」
祈 祷
交読文 詩篇23篇
讃 美 讃美歌354「牧主わが主よ」
聖書朗読 民数記1章1〜46節
説 教 「いざ、御国を目指す旅が始まる」
讃 美 讃美歌379「見よや、十字架の」
聖餐式 信仰告白 讃美歌566「使徒信条」
讃 美 讃美歌205「わが主よ、今ここにて」
献 金 讃美歌547「いまささぐる」
感謝祈祷
報 告
今週の聖句 ヨハネの福音書15章16a節
頌 栄 讃美歌541「父、み子、みたまの」
祝 祷
後 奏
本日の聖書箇所
民数記1章1〜46節
説教題
「いざ、御国を目指す旅が始まる」
今週の聖句
あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。
ヨハネの福音書 15章16a節
説教「いざ、御国を目指す旅が始まる」
民数記1章1〜46節
はじめに
私たちはおよそ1年にわたって、コリント人への手紙第一を見てきましたが、先週でついに終わりました。パウロはその手紙を通して、明らかにイエス・キリストの再臨を覚えつつ、今の終わりの時、教会はどのようにあるべきか。その時よみがえらされるクリスチャンはどのように生きるべきか、生きることができるのかを教えました。
その中でパウロがこのように語ったことを覚えておられるでしょうか。コリント人への手紙第一10章1節からのところです。
【コリント人への手紙第一】
10章1節 兄弟たち。あなたがたには知らずにいてほしくありません。私たちの先祖はみな雲の下にいて、みな海を通って行きました。
10章2節 そしてみな、雲の中と海の中で、モーセにつくバプテスマを受け、
10章3節 みな、同じ霊的な食べ物を食べ、
10章4節 みな、同じ霊的な飲み物を飲みました。〈彼らについて来た霊的な岩から飲んだのです。その岩とはキリストです。〉
10章5節 しかし、彼らの大部分は神のみこころにかなわず、荒野で滅ぼされました。
10章6節 これらのことは、私たちを戒める実例として起こったのです。彼らが貪ったように、私たちが悪を貪ることのないようにするためです。
10章7節 あなたがたは、彼らのうちのある人たちのように、偶像礼拝者になってはいけません。聖書には「民は、座っては食べたり飲んだりし、立っては戯れた」と書いてあります。
10章8節 また私たちは、彼らのうちのある人たちがしたように、淫らなことを行うことのないようにしましょう。彼らはそれをして一日に二万三千人が倒れて死にました。
10章9節 また私たちは、彼らのうちのある人たちがしたように、キリストを試みることのないようにしましょう。彼らは蛇によって滅んでいきました。
10章10節 また、彼らのうちのある人たちがしたように、不平を言ってはいけません。彼らは滅ぼす者によって滅ぼされました。
10章11節 これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。
10章12節 ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。
10章13節 あなたがたが経験した試練(激しい戦い)はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。
出エジプト記において、あの神による偉大な救いのみわざ「過ぎ越し」によって、430年という長い間、エジプトで辛く苦しい奴隷状態にあった神の民は贖われて解放され、偶像礼拝の世から救い出され、そして自分たちが知りながらおかした罪、知らず知らずのうちに犯してしまってきた悲惨な罪の一切が、「過ぎ越し」という神のみことば(約束)を信じ従うだけで赦され、ついに約束の地イスラエルに向かうことになりました。そこから荒野の旅が始まりました。エジプトにおける辛く苦しく圧迫された奴隷状態から、約束の地における自由を目指しての旅の記録はすべて今日の民数記にあります。
「民数記」という書名(タイトル)は、民数記の1章と26章におけるイスラエル12部族それぞれの人口調査のリストに由来しているのですが、ヘブル語聖書では「荒野にて」というタイトルが付けられています。パウロはその記録が、まさに「私たちを戒める実例」「世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするため」だと教えました。神の民の荒野の旅におけるすべての出来事の記録は、ただの歴史的記録ではなく、預言とも言える神の目的によって記録されたものなのです。
民数記の始まりは退屈?
さて、名前と数字が並ぶ民数記のはじまりを聞いて、私たちは何を思うでしょうか。今日はあえて全部の節を司会者の方に読んでいただきましたが、退屈でしたか? 意味が分からない? 私たちには無関係? 途中から司会者が長々と朗読するみことばから気が逸れて、別のことを考えてしまったでしょうか。
しかし、ここで数えられた当人たちにとってこの数字は非常に重要なものでした。注目に値するもので、絶対に見逃せないものでした。今の私たちに置き換えるなら、自信のなかった受験での合格発表の掲示板の中に自分の番号、名前を見つけるようなものだと思います。あるいは、天国に行くことが約束されているリストに、自分の名前を見つけるようなものでしょう。
人口調査の命令
1章1節 エジプトの地を出て二年目の第二の月の一日に、主は、シナイの荒野の会見の天幕でモーセに告げられた。
イスラエルの民がエジプトから脱出した日から14ヵ月後という記述をもって民数記が始まります。
ここに「会見の天幕」とありますが、これはもともと「幕屋、聖所」の別称です。神と神の民がそこで主とお会いするという場所です。この幕屋建設の指示は、出エジプト記25〜30章で与えられました。幕屋の建設の第一の目的は、「彼らにわたしのための聖所を造らせよ。そうすれば、わたしは彼らのただ中に住む」(出258)と主が言われたとおり、主がイスラエルの民の中に住むためでした。そして実際に幕屋が建設されたことが出エジプト記35〜40章で詳しく記されるのですが、その間に起こったのが、あの劇的な「金の子牛事件」でした。
主はシナイ山においてモーセによってイスラエルの民との契約を立てられました。それは40日間にも及ぶものでした。ところが、イスラエルの民はモーセが山から降りてくるのに手間取っているのを見て、アロンのもとに集まり、「さあ、われわれに先立って行く神々を、われわれのために造ってほしい。われわれをエジプトの地から導き上った、あのモーセという者がどうなったのか、分からないから」と言い、アロンは民からエジプト時代の金の耳輪を持って来させ、わざわざ子牛の鋳型を作って子牛の像を造りました。そして民は「イスラエルよ、これがあなたをエジプトの地から導き上った、あなたの神々だ」と言い、これを見たアロンは金の子牛の前に祭壇を築いてしまったのです。そして彼らは金の子牛に全焼のささげ物を献げ、交わりのいけにえを備え、民は座っては食べたり飲んだりし、立っては戯れました(出321-7)。出エジプトという神の偉大な救いのみわざを体験していながらも、神が信じられず、信頼しきれず、待ちきれずにこのようなことをしてしまった。
このあからさまな偶像崇拝の行為によって、シナイ山で神が立ててくださった契約は破られてしまいました。聖なる神とイスラエルの罪深い民との関係は切断されてしまったのです。モーセは神が与えてくださった十戒が記された石の板を地面に投げつけて砕いてしまいましたが、それは神と民との契約の破壊を示すものでした。
神はイスラエルの民を完全に見捨てることを決意されるのですが、モーセは神に熱心に求め、大胆な執り成しの行為によって神はその心を変えてくださいました。神はモーセに約束の地への旅を続けるようにと命じられますが、それは神が先頭に立って導かれるのではなく、モーセが率いる旅だと言われたのです。神はモーセに言われました。「乳と蜜の流れる地にあなたがたを行かせる。しかし、わたしは、あなたがたのただ中にあっては上らない。あなたがたはうなじを固くする民なので、わたしが途中であなたがたを絶ち滅ぼしてしまわないようにするためだ」(出333)。しかしモーセは神にすがり言いました。「もしあなたのご臨在がともに行かないのなら、私たちをここから導き上らないでください。私とあなたの民がみこころにかなっていることは、いったい何によって知られるのでしょう。それは、【あなた(神)が私たちと一緒に行き、私とあなたの民が地上のすべての民と異なり、特別に扱われることによるのではないでしょうか】」(出3315-16)。
ついに神はモーセの言い分を受け入れてくださいました。聖なる神であるにもかかわらず、インマヌエルの神となってくださる。罪深い民の中に住まうという、深く愛に満ちた神の御姿をモーセに示されました。主はモーセの前を通り過ぎるとき、こう宣言されました。「主、主は(わたしは)、あわれみ深く、情け深い神である。怒るのに遅く、恵みとまことに富み、恵みを千代まで保ち、咎と背きと罪を赦す。しかし、罰すべき者を必ず罰し…」(出346-7)。
このような劇的な出来事とモーセの激しい神とのがっぷり四つの取り組みを通して初めて、神とイスラエルの間の契約関係が新たに立てられ、新しい石の板が造られ、実際に幕屋が建設されたのです。ですから幕屋、会見の天幕の存在というのは、罪深い人間の共同体のただ中に聖なる神が臨在するという、神の愛に満ちた歩み寄り、赦し、恵みを象徴するものなのです。そして聖書はそれを「神の栄光」と言うのです。
その幕屋、会見の天幕の設営が始められたのが第1年の1月1日。幕屋が完成し設営され、神に献げられたのが第2年の1月1日でした。その時、雲が会見の天幕をおおい、主の栄光が幕屋に満ちたのです。
それから1ヵ月後の第2年の2月1日(まさに今日!)、神はモーセに神の民、イスラエルの民の人口調査を執り行うように命じられました。しかし、この人口調査ですべての民が数えられるわけではありません。この人口調査は、20歳以上の兵役に就くことができる男子のみを対象としているのです。民数記1章における最初の人口調査の主な関心は、戦いに行くことのできる戦闘員の数を調べることにありました。約束の地へ入ることを目的とするここでの人口調査は、偶像礼拝と罪に満ちたカナンの地を、聖なる戦いによって獲得するために欠かせない予備段階、準備、心構えのためのものでした。
幕屋完成から1ヵ月の間の民の思い
ところで、幕屋・会見の天幕が完成し、設営され、主に献げられて、契約の民としての歩みが始まってから突如出された人口調査の命令、そしてそれが行われるまでの1ヶ月間、民はそれぞれ何を思っていたのでしょうか。
人口調査の結果、出エジプトを果たしたイスラエルの民の総数は女性と子どもを含めると200〜300万人に達するものと思われます。これだけの数の人たちが全員、神の幕屋造りに実際に携わったわけではないでしょう。幕屋とその天幕のための部材作り。覆いや留め金や板、横木、柱、台座、箱、棒など、すべての備品を作る人。礼拝に必要な道具作り。見事な装飾を施す人。祭司が身に着ける装束作り。自分の賜物を用いて目立つ表立った奉仕に携わり、聖書にその名が記された人もいれば、聖書には名が記されていない地味で無名な奉仕者がいました。進んで自分が持っている金の飾り物を献げる人。ある女性たちは進んで自分の賜物を用いて糸を紡いだり、奉仕者の世話をしたりしていました。何か分からないけれども、自分の賜物を何かに用いていただきたいと願う人たちがいたことでしょう。しかし年齢や病気や怪我などで、陰で祈りによって支えることしかできなかった人もいたことでしょう。神のための奉仕では、実はそのような奉仕が大きな役割を果たしているものなのですが、本人は残念に思っていたかもしれません。乳飲み子や幼子の存在は、奉仕者を慰めるものとなっていたことでしょう。神に選ばれ、神によって召された者には、老若男女問わず、それぞれの居場所や役割があるのです。しかし300万人のうちで何人かは、もしかしたら無関心な者もいたかもしれません。
そこで会見の天幕が完成し、主に献げられ、契約の民としての歩みが始まった。雲が会見の天幕を覆っている。神の栄光が目の前に満ちた、満ちている。それを見ながらのそれぞれの日常。それぞれの心には、それぞれの思い、期待や不安があったのではないでしょうか。そして1ヵ月後に出された人口調査命令。
自分の名が数えられていることの慰め
1章2節 「イスラエルの全会衆を、氏族ごと、一族ごとに調べ、すべての男子を一人ひとり名を数えて、その頭数を調べよ。
1章3節 あなたとアロンは、イスラエルにおいて、二十歳以上で戦に出ることができる者をすべて、その軍団ごとに登録しなければならない。
「登録しなければならない」と主は言われます。一方的な強制のように聞こえます。しかしこれは、どのような者であっても必ず登録していただけるのだという、主の一方的な「恵み」でもあるのです。特に「こんな私なんて」「罪深い私は」「心も体も幕屋から離れていたこの私はどうなんだろう」などと考えている人にとっては、とても大きな慰めです。励ましとなるはずです。
第2年目の2月1日、モーセとアロンは全会衆を召集しました。招き召し集めました。そこで氏族ごと、一族ごとに、20歳以上の者の名を一人ひとり数えて、その家族表で本人を確認しました。そして主がモーセに命じられたように、モーセはシナイの荒野で彼らを登録したのです。名簿に名を記したのです。名が登録されて当然と思われる人もいたでしょう。しかし「こんな私なんて」「罪深い私は」「この私はどうなんだろう」などと考えている人にとってはどうだったでしょうか。合格発表の掲示板に自分の名前を見つけて喜び、安心したような、そんな喜び、慰め、平安、悔い改め、「よし、やってやろう!」というような奮起などがあったのではないでしょうか。
これはパウロが言うように、今の私たちに何を教えているのでしょうか。
「氏族ごと、一族ごと」。これは教会ごとと言えるでしょうか。その「家族表」というのは、神が選ばれ、その教会を通してイエス・キリストを信じ、罪の奴隷から贖われ、一切の罪が赦され、神の民、そして神の家族とされてその名が記され綴じられている「教会原簿」と言えるでしょうか。私の名前もあります。ここにおられる皆さんの名前もあります。残念ながら教会から離れてしまっておられる方の名前もあります。しかしそれは外され丸められ捨てられることはないのです。ずっと残るもの。あるいはまた、イエス・キリストを信じた瞬間に記される、神の手元にあってその名が記され、永遠のいのちが約束される「いのちの書」という名簿もあります。
主はご自身が選び、ご自身が赦し、ご自身のものとされた民を一人ひとり数えられ、その名を記し、そして覚えておられます。その人が今どうであろうと、真実な神は決して忘れられることはありません。私たち一人ひとりの名前は覚えられているのです。「名前」というのは、聖書の中ではその人自身、その人のすべてを表すものです。教会原簿では記入される項目が限られており、最近では個人情報保護という考えから、なかなかそういったことも教えていただけないという現状もあるようですが、しかし神はその人の髪の毛さえもすべて数えられているように、一人ひとりの細部まで知り、登録し、その上で「効果で尊い、価値がある」と主は言われるのです。
また、先ほども申しました通り、この人口調査は20歳以上の兵役に就くことができる男子のみを対象としているのです。民数記1章における最初の人口調査の主な関心は、戦いに行くことのできる戦闘員の数を調べることにあるのです。約束の地へ入ることを目的とするここでの人口調査は、偶像礼拝と罪に満ちたカナンの地を、聖なる戦いによって獲得するために欠かせない予備段階、準備、心構えのためのものでした。つまり私たちは一人ひとり、「主の兵(つわもの)」として召され、数えられ、登録されているということです。「えー、戦いたくない。信仰を持ったのだから、ただ楽にたのしく生きて行きたいよー」と、迷惑に思われますか。しかし、神の民イスラエルが、まるで終わりが見えないような、目の前に広がる荒野、敵が満ちている荒野、困難に満ちた荒野を最後まで歩き通すことなしに約束の地に入ることができなかったように、神の約束を信じ、天を目指して生きる信仰者のその生涯は、まさに戦いの連続なのです。彼らも戦わずして約束の地カナンに入ることはできなかったのです。そこで20歳以上の男子の数を調査する必要があったのです。
私たちは主の兵(つわもの)として登録されている
ある先生がこのように言われたのを覚えています。「信仰生活を老人の慰めのように考える人がいるが、間違いである。また片手間のように、ご褒美時間のように思っている人がいるが、それもまた間違いである。信仰生活というのは20歳以上の盛んなる若者が全身全霊をささげてはじめて生き抜くことのできるものなのです」と。パウロは先週、「雄々しくありなさい」と私たちに命じました。このギリシャ語は「小さな男の子は、成人の男になりなさい」という意味の語であることを見ました。小さな男の子というのは、とかくわがままで自己中心できかん坊です。そのような象徴です。しかし聖書は、そんな幼さは脱ぎ捨てて、立派な強い大人になるようにと命じるのです。またイザヤは終わりの世に対して、このように預言しています。「しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように、翼を広げて上ることができる。走っても力衰えず、歩いても疲れない」(イザ4031)。ですから私たちはみな、「20歳以上の主の兵(つわもの)」として数えられ、名が登録されているのです。私たちは神からの力を得る時に、常に若者にもまさる活力が与えられて、信仰の戦いを戦い抜くことができるのです。私たちはそのように主の目に映っており、そのように登録されている。合格者の名簿に名が記されているのです。あなたなら大丈夫。あなただから大丈夫だと。
私たちの敵、戦い
私たちの敵とは何でしょうか。それは私たちの約束の地を目指して進軍するその道を阻もうとする外からの敵と、私たちの内側にあって誘惑し、攪乱を企てる内なる敵です。私たちの天を目指す信仰生活には、常にその両面の敵があります。外の敵は強いです。私たちはしばしばその敵に挑まれ、戦いを余儀なくされます。しかし、私たちにとって真の敵は、内なる敵なのかもしれません。それは先の見えない「荒野の旅」ゆえに起こる、主と主の約束に対する疑いであったり、恐れであったりするでしょう。これくらい良いだろうとする思いでしょう。
しかし神は言われました。荒野の旅は、神がともにおられ、モーセが先頭に立って導く旅であると。そして私たちの荒野の旅は、神がともにおられ、イエス様が羊飼いのように、弱いくせに頑固な羊である私たちの先頭に立って、杖と鞭をもって敵から守り、最後まで導いてくださる旅です。
この後、応答として賛美する讃美歌には「勇め、つわもの、いざ勇め」と繰り返し歌われます。この「勇め」という語は、「勇気を奮い起こしてことに当たれ」「奮起しろ」「やってやろうという気持ちを体中にみなぎらせなさい」というものです。その力はどこから与えられるのでしょうか。主に召され、主によって兵として登録されている。あなたなら大丈夫。あなただから大丈夫。合格だ。約束の地、天の御国が約束されている。そこから頂く力、悔い改めから生まれ出る力、勇み立つ力によって、私たちはともに主の兵士、1つの軍団として、天の御国を目指し、今の終わりの時を進軍して行くのです。主がともにおられ、地上の民とは異なり主が特別に取り扱われることによって、私たちはこの世にあって勝利の行進をして行くのです。私たちの名が記されている合格者名簿、そして主の選びの確かさを信じ、選び召してくださった主の恵みから目を離さずに、私たちは勇み立ち、私たちの目の前にある荒野の旅を、完全勝利を目指し、主にあって完全勝利しながら歩んでまいりましょう。先頭には十字架の御旗が高々と掲げられています。そして羊飼いなる主が杖と鞭をもって先導されています。私たちは日々この方から目を離さずに、信頼し、感謝して、悔い改めて、勇み立って、約束の地、御国に向かって勝利の一歩一歩を歩んで行くのです。

