2024年11月17日 主日礼拝「挫折があって今がある」

賛  美  
前奏(黙祷)
招  詞  イザヤ書40章27〜31節
讃  美  讃美歌10「わがたまたたえよ」
罪の告白・赦しの宣言
信仰告白  讃美歌566「使徒信条」
主の祈り  讃美歌564「天にまします」
祈  祷  
讃  美  讃美歌168「イエス君の御名に」
聖書朗読  マタイの福音書27章57〜66節
説  教  「挫折があって今がある」
讃  美  讃美歌171「なおしばしの」
献  金  讃美歌547「いまささぐる」
感謝祈祷
報  告
今週の聖句 詩篇119篇71節
頌  栄  讃美歌541「父、み子、みたまの」
祝  祷
後  奏

本日の聖書箇所

マタイの福音書27章57〜66節

説教題

「挫折があって今がある」

今週の聖句

苦しみにあったことは 私にとって幸せでした。
それにより 私はあなたのおきてを学びました。

詩篇119篇71節

説教「挫折があって今がある」

マタイの福音書27章57〜66節

私が神学生だった頃、伝道実習というものがあったのですが、その伝道実習で東北地方の開拓したてのある小さな教会に行った時のことです。その教会の先生から「こんな人もいるのだなぁ」という証しをうかがったことがあります。ちなみにこの先生とは今でもとても仲良くさせていただいており、親愛を込めてお話しするので変な誤解をされては困るのですが。先生は高名な先生をお父さんに持ち、高校を卒業した後すぐに神学校に進み、卒業後すぐにその開拓教会に遣わされて、当時まだ1〜2年目でした。とても若いのにすごく真面目で、一生懸命開拓に、牧会にと頑張っておられました。姿勢もお顔も堂々としておられて、言い方は失礼になるのかもしれませんが「サラブレッドってこのような人のことを言うのだな」と。そしてある夜の学びの中で、大真面目にこのような証しをされました。「私はこれまで挫折したことがありません」。うらやましいですね。恐らく、これまで神に守られて来たのだということを言いたかったのでしょう。「高校生の頃は、多くのライバルに勝ち、学校のマドンナとお付き合いをしました」。きっと神の奇跡を言いたかったのでしょう。偏見かもしれませんが、大体良いところ出の先生は大きな教会に遣わされることが多いのですが、この先生は小さな開拓教会に遣わされた。これもまた神の特別なお取り計らいだったのでしょう。神に愛されてのことでしょう。話に聞くとあれからやはり多くの苦労をされ、数多くの挫折を経験されたそうです。しかしそのような先生こそ、ますます神に用いられる器となるのだろうと思わされます。「あの挫折があったから、今がある」。これは何なのでしょう。聖書のイスラエルの歴史もそうですね。私たちの人生における真理ではないでしょうか。聖書も言っています。「苦しみにあったことは 私にとって幸せでした。それにより 私はあなたのおきてを学びました」(詩11971)。

今朝与えられましたみことばは、マタイの福音書27章57〜66節です。早速見てまいりましょう。

27章57節    夕方になり、アリマタヤ出身で金持ちの、ヨセフという名の人が来た。彼自身もイエスの弟子になっていた。

イエス様が十字架で死なれた後、夕方になり、まもなく日没となって安息日が始まろうとする時、ある人物がまだイエス様のおからだが残る十字架の下にやって来ました。アリマタヤのヨセフという人です。この人はイエス様の埋葬に深く関わった人物として4福音書すべてに登場します。そして少し鼻持ちならない肩書きがわざわざ記されるのです。「アリマタヤ出身の」これは良いでしょう。続けて「金持ちの」と。これは必要あったのでしょうか。これはイザヤの預言の成就を思わせるところではあります。イザヤの預言はこうでした。「彼の墓は、悪者どもとともに、【富む者とともに】、その死の時に設けられた。彼は不法を働かず、その口に欺きはなかったが」(イザ539)。

4つの福音書を総合すると、このアリマタヤ出身のヨセフはお金持ちで、サンヘドリンの中でも有力な議員でした(マコ1543)。上流階級、良いところ出の人だったのでしょう。そして善良(素直で性質・性格が良い)で正しい人でした(ルカ2350)。大抵は金持ち、上流階級の人というのは、庶民から嫌われるものなのに、皆から良い人(素直で性格が良い)、そして義人(ヨブのように、罪に近づかないようにしていた)だと認められていたようです。とても真面目で、正直で、良い人で。まるで挫折の経験などない順風満帆な人生を歩んで来たのでしょうか。環境にも恵まれていたのでしょう。そのように生きられるなど本当にうらやましいなぁと思わされてしまいます。そのような中でどのような経緯によったのかは分かりませんが、何か人生でつまずいてしまったことでもあったのか、彼は何とイエス様の弟子となり、神の国を待ち望んでいました。しかしユダヤ人を恐れてそれを隠していたと言うのです。

このヨセフは師であるイエス様殺害の計画や行動には同意していませんでした(ルカ2351)。この記され方から想像するに、彼は積極的に反対したというよりも、ユダヤ人(他の議員たち)を恐れて賛成に手を挙げなかっただけだったのかもしれません。なぜなら、反対することによって自分がイエス様の弟子であることがばれてしまうかもしれないと恐れたからでしょう。イエス様に味方することによって地位も身分も財産も失い、迫害されるかもしれないと恐れたからでしょう。そのように想像するのは難くないのではないでしょうか。そして彼の恐れ、臆病、自分を守ろうとする思いによってイエス様の殺害計画を阻止することができず、行動を止めることができず、イエス様は目の前で拷問され、十字架にかけられ、死なれた。自分ではどうすることもできなかった、自分ひとりではどうしようもなかったと、色々と自分に言い訳をしたりして…。善良で正しい人、人々にそのように評価され、またもしかしたら自分でもそのように思っていたかもしれない、あるいはそのように生きたいと願っていたであろうアリマタヤのヨセフにとって、それは大きな挫折となったことでしょう。

そのようなヨセフでしたが、いや、そのようなヨセフだったからこそ、他の11人の弟子たちが怖くなって逃げ去ってしまった後も、イエス様の処刑の場に留まったのです。聖書はイエス様が死なれたのが金曜日の午後3時頃であったと伝えています。ユダヤの1日は日没とともに終わります。翌日は安息日なので、イエス様の遺体を十字架から下ろすことができなくなってしまいます。ヨセフはこの僅か数時間の間に、彼の人生を変える大きな決断をしました。

27章58節    この人がピラトのところに行って、イエスのからだの下げ渡しを願い出た。そこでピラトは渡すように命じた。

マルコの福音書では、ヨセフは「勇気を出してピラトのところに行った」と伝えています。ある日ある時突然、自分の人生を大きく左右する決断を迫られる場面に直面するかもしれません。そのような時、ヨセフのように1つの挫折体験、そしてそこからの悔い改めが、決断や行動する勇気、力となるのかもしれません。私たちは悔い改めによって、砕かれた霊、打たれ砕かれた心を蔑まれず(詩5117)、それを受け入れてくださる神にすべてを委ね、勇気を出して1歩踏み出すことができるのです。挫折体験、そこからの悔い改めが私たちの背中を押してくれる。私たちも何度か同じような経験をしていないでしょうか。

ここで同じマルコの福音書では、ピラトがあの百人隊長を呼び、イエス様が本当に死んだのかどうかを尋ねたと記しています。彼は十字架の正面に立ち、イエス様をずっと見張り、地震やいろいろな出来事を見て、非常に恐れ、「この方は本当に神の子であった」と言った人でした。この百人隊長に総督ピラトは証言を求めたのです。彼は何を証言したのでしょうか。きっと彼もまた、ピラトさらにはローマ皇帝を恐れて「この方は本当に神の子であった」とは証言できず、ただイエス様が死んだことだけを証言したのだと思います。これもまた、後に彼にとって1つの挫折体験、悔い改めとなったのではないでしょうか。「この方は本当に神の子であった」と思わず言ってしまったその衝撃的な体験から、もし彼がこの後もずっとイエス様を見張り続けて(注目し続けて)いたならば、イエス様の復活を知ることになり、信じる者とされたでしょう。そしてこの時のことを思い出して、あの時、もっと大胆に証ししておけば良かったと、後悔したかもしれません。

これは私たちにも言えることではないでしょうか。このような後悔はないですか? あの時、もっと大胆に主の素晴らしさを証ししておけば良かった。どこか遠慮してしまい、恐れてしまい、主の栄光を証しすることができなかった。例えば悩みや苦しみの中にある未信者の方に、必ず主はここからあなたを助けだしてくださる、良くしてくださる、祈っているからと大胆に言えず、少しばかり言葉を濁してしまったりして。それで後になって本当に主がその人に対して良くしてくださったのを見て後悔する、損した気分になる(?)。その未信者の人が主が祈りに答えて助けてくださったことなど微塵にも思わずに、他の誰か(偶像だったらなおさら!)のおかげで助かった、良くなったと思ってしまったら、悔しくないですか? 本当は主が助けてくれたのに。自分に対して腹立たしく思わないでしょうか。それがどれだけ大きな後悔、悔い改めとなるか。私がイエス様を信じて間もなく、友人が家族を連れて家に遊びに来て、友人の小さな子どもがひどいアトピーで悩んでいると言われました。私はすぐに部屋に戻り主に祈りました。しばらくたってまた私の家に遊びに来たときに、子どものアトピーが良くなったと言ったのです。そのすぐ後に何と言ったか。「あそこの神社に行ってお参りしたから」。そのような挫折を経験したなら、私たちはきっと次からはもっと大胆に主を信じ、祈っているからねと伝え、そして主の素晴らしさを証しすることができる者となれるでしょう。

27章59節    ヨセフはからだを受け取ると、きれいな亜麻布に包み、
27章60節    岩を掘って造った自分の新しい墓に納めた。そして墓の入り口に大きな石を転がしておいて、立ち去った。

59節はマタイだけが記した内容で、当時の埋葬の慣習ではあったのですが、ヨセフがイエス様に対する愛と忠誠、敬意をもってイエス様を埋葬したことを示しています。

「きれいな亜麻布に包まれた」と聞いて、思い起こすことはないでしょうか。イエス様はこの世にお生まれになった時もきれいな亜麻布に包まれたのです。以前説教の中でご一緒に学んだところですが、イエス様のための宿屋はありませんでした。そして羊飼いたちは羊を連れて外で野宿をしていたため、当時の岩を掘って造った家畜小屋は空いていて、そこでイエス様はお生まれになりました。家畜小屋には死体を巻くための布が用意されており、イエス様はその布にくるまれたのでした。そしてこの時と同じ光景がここに見られるのです。さらにはお生まれになられたイエス様のもとに、東方の博士たちが黄金、乳香、没薬を贈り物として献げました。イエス様が葬られる時も、ヨセフとともにイエス様を埋葬したニコデモが、ユダヤ人の埋葬の慣習に従ってではありましたが、やはりイエス様に対する敬意をもって、非常に高価で貴重な没薬や沈香を混ぜ合わせたものを100リトラ(30㎏ほど)持って来て、イエス様のからだを香料と一緒に亜麻布で巻いたとヨハネの福音書に記されています(ヨハ1939-40)。

ヨセフはイエス様のからだを、岩を掘って造った自分の新しい墓に納めました。新しい墓というのは、造ったばかりというよりは、まだ使われたことのない空いている墓のことです。当時の墓は内部が棚状になっており、複数の死体を納めるものでしたが、この墓に他の死体はありませんでした。イエス様のからだだけが納められたのです。このことは後にとても重要な意味を持つことになります。

ユダヤ人たちの基準からすると、イエス様は神の呪いをうけて木にかけられて死んだのです。しかしヨセフは愛と忠誠、尊敬の思いを込めてイエス様を丁重に埋葬しました。挫折の中、最後こそはという思いの中だったのかもしれません。ですから彼がイエス様とその死の意味についてどれほど理解していたかは分かりません。弟子たちのように半信半疑だったのか。あるいは真面目な宗教指導者でしたから、弟子たちよりも律法や預言書に詳しく、イエス様の死が預言の成就であったことを少しは理解していたのかもしれません。分かりませんが、ただイエス様に対する愛が前よりも増していることは、祭司長たちから迫害されかねないことを承知の上でこのような行動をしたことから十分に推測できると思います。

当時のローマの法律によると、十字架上の死体は墓に埋葬されないのが慣例だったようです。人々に罪を犯した者の無残な姿をさらして警告するために、死体は十字架につけられたままにされ、腐るままに、あるいは野犬や鳥が群がるままにしておいたのです。しかしそれは律法では禁じられていました。イエス様の弟子であり、イエス様を愛し忠誠と敬意を持つヨセフは、イエス様のためにそれを守ろうと、イエス様に律法を犯させる訳にはいかないと、自分と家族のために所有していた新しい墓をイエス様の墓としました。自分のための大切なものをイエス様のために献げたのです。彼は祭司長たち、長老たちがイエス様の弟子たちにも敵意を持っていたことを知っていました。弟子たちがどこかに消えてしまったのもそのためでした。そのような状況の中で、自分自身に対する挫折を経験し、後悔し、悔い改めたこの時のヨセフは、自分がイエス様に従う弟子であることを隠さなかったのです。しかも人間的に言えば、このすべての苦労、財産、心の犠牲をイエス様は知ることはない。ただ自分の時間とお金、自分の体面、自分のいのちを危機にさらすだけの行動でした。それでもヨセフはイエス様に愛と忠誠を尽くしたのです。挫折がなければ、この素晴らしい行動はなかったのかもしれません。この大胆な証しはできなかったのかもしれません。神はすべてをご存知で、全能なる力をもって、大小様々な挫折を通しても私たちに尊い思いをお与えになり、尊い働きをさせてくださるお方です。すべてを働かせて益としてくださり、ご自身の栄光を現してくださるお方です。私たちの考えを超えた素晴らしいことをしてくださるお方です。

ヨセフが墓の入り口に大きな石を転がしておいて、立ち去ったのは、墓を完全に防ぐためでした。ここにも復活を完全には信じられていなかったヨセフの姿が見られます。しかしこれがこの後、大きな喜びと信仰へと変えられるのです。墓が完全に塞がれたおかげで、この後にユダヤ人指導者たちが言ったような、イエス様のからだを盗み出すということが、ほぼ不可能となりました。主は私たちの弱ささえも働かせて益としてくださるのです。証しを立ててくださるお方です。信仰を増し加えてくださるお方です。私たちはこの方を信頼して、大胆に、主を思い、主を愛し、自分のためではなく、主のために行動すれば良いのではないでしょうか。

さて、普段は目立たなくても、困難や問題が起きたときに、すべてが終わったような時にも、強い信仰と全き献身をもって支えとなってくれる人は本当に尊いと思わされます。危機的な時には、信仰の強いはずの人が弱くなり、弱いはずの人が強くなることもあり得るのですね。それは逃げてしまった弟子たち、イエス様に仕えて来た女性たちにも言えることです。

27章61節    マグダラのマリアともう一人のマリアはそこにいて、墓の方を向いて座っていた。

イエス様の死を遠くから見ていた女性たちが、イエス様が墓に埋葬されるのも見ていたことが説明されています。愛するイエス様の死後、そのからだがどのように処理されるかが心配でついてきたのか、あるいは自分たちにできる範囲でイエス様にふさわしい埋葬をしたいと考えていたのか。マグダラのマリアとともにいたもう1人のマリアは、ヤコブのとヨセフの母であったと思われます。この2人は、この後、墓の前で御使いに会ってイエス様の復活の知らせを聞き、弟子たちより先に復活のイエス様に会うことになります。弟子たちのようにイエス様の働きに直接関わったのではありませんが、イエス様のそばで働きをサポートし、影のようになって仕え、助けて、最後まで、死にまで従い続けた。そんな彼女たちこそが復活の証人となりました。私たちはどうでしょうか。直接的な目立った働きはできないかもしれません。しかし影で主のために色々な奉仕をし、仕え、助け、従い続け、礼拝を守り続けているのではないでしょうか。リーダーのような立場ではなく、注目されないとしても神を愛し、色々な奉仕をしてきてくださったことでしょう。イエス様のお世話をしてきたとか、教会のお世話をしてきたなどとは言いませんが、しかし「世話をする」というギリシャ語は「じっと見張る」という意味もあると前回、前々回と申しました。私たちはイエス様を、そして教会を愛して、見張って、じっと見つめて、自分には何ができるだろうかと考えて来たことでしょう。そして行動してきた。そのような私たちだからこそ、イエス様の復活の証人となるのです。イエス様に、また教会に敵対していては、素晴らしい主の証し人とはなれません。

27章62節    明くる日、すなわち、備え日の翌日、祭司長たちとパリサイ人たちはピラトのところに集まって、
27章63節    こう言った。「閣下。人を惑わすあの男がまだ生きていたとき、『わたしは三日後によみがえる』と言っていたのを、私たちは思い出しました。

イエス様の十字架刑が執行された次の日は、「備えの日の翌日」、すなわち土曜日の安息日でした。大切な安息日には普通、ユダヤ人指導者たちは集まらないのですが、この日には集まりました。そして彼らは安息日に神を崇めるのではなく、ピラトを「閣下」と呼んで、63節のように告げました。彼らはイエス様が死んで3日目に復活すると言ったことを無視できずにいたのです。むしろそのとおりになる可能性が高いことを否定しきれずに、不安にさいなまれていました。「さいなまれる」というのは、自分の過ちに苦しめられ後悔する様子を表す際にもよく用いられます。いわゆる挫折でしょう。ヨセフの挫折は悔い改めとなり、力強く立ちあがる力となりましたが、彼らは違いました。彼らはイエス様のことばをそれほど覚えていたのに、それでもイエス様に敵対しようとするのです。そのことばの意味を知っていても、彼らは決してイエス様に服従しようとはしませんでした。神のみことばを知っていても、それだけで信仰に至るのではないのですね。主に対する敵対心というのは、信仰どころか、ただ恐れをもたらすだけです。

27章64節    ですから、三日目まで墓の番をするように命じてください。そうでないと弟子たちが来て、彼を盗み出し、『死人の中からよみがえった』と民に言うかもしれません。そうなると、この惑わしのほうが、前の惑わしよりもひどいものになります。」

彼らは「弟子たちが来て、彼を盗み出し、『死人の中からよみがえった』と言いふらすのを防ぐため」と言っていますが、イエス様が言ったとおりに本当に復活するのではと恐れたのでしょう。また、民衆が一時は救い主として期待したイエス様の復活の知らせを聞いたら、多くの人々がイエス様に従うようになってしまうと考えて恐れたのでしょう。あるいはまた、祭司長たちとパリサイ人たちは、もしかすると弟子たちがイエスのからだを盗み出し、イエスがよみがえったと主張して民を惑わし、扇動するかもしれないと恐れた。色々な恐れが渦巻いて、それで彼らは「3日目まで墓の番をするように命じてください」とピラトに要請したのです。しかし実際には、弟子たちは恐れて逃げ去り、死体を盗み出すほどの勇気のある者はひとりもいませんでした。恐れは本当に損です。取り越し苦労のオンパレード。素晴らしい祝福を受け取り損ねてしまう。そして恐れゆえに獣のようになってしまい、罪に罪を重ねてしまうものです。私にも経験があります。その経験を有効に良い方向に用いなければもったいないですね。

27章65節    ピラトは彼らに言った。「番兵を出してやろう。行って、できるだけしっかりと番をするがよい。」
27章66節    そこで彼らは行って番兵たちとともに石に封印をし、墓の番をした。

こうしてユダヤ人指導者たちは、番兵たちと一緒に墓に行き、一緒に石に封印をし、一緒に墓の番をしました。この日は安息日ではなかったでしょうか。安息日に働く。彼ら自身が厳しく定めた律法に自ら違反してしまう。主を礼拝する日に、主を閉じ込めて出てこられなくしようとする。まことに残念な人たちです。私たちもこのような残念な人にならないように気をつけましょう。敵対心、疑い、不従順はないでしょうか。

いずれにしても、墓はしっかり塞がれました。岩を封印し、番兵を立ててイエス様のからだを盗み出すことなど到底できないようにしました。番兵たちがそうする前に、誰かによってイエス様の死体が盗み出された可能性は限りなく低いでしょう。なぜなら、番兵たちはイエス様のからだが墓の中にあるのを確認してから封印したはずだからです。このようにして、弟子たちがイエス様のからだを盗み出したという可能性を完全に打ち消すことになりました。ですからイエス様のからだが墓から消えたという事実は、神の力によって、イエス様が死人の中からよみがえられたことを示す強力な証拠となったのです。この後、ユダヤ人指導者たちが人生最大の挫折を味わい、自分の無力さや罪深さを思い知らされ、心から悔い改め、砕かれた霊、打たれ砕かれた心を主に献げることができるように期待したいところです。挫折の中から立ちあがり、主のための尊い働き人、証し人となってくれることを期待したいところですが、どうだったのでしょうか。アリマタヤのヨセフが大胆に同僚を救いへと導いたかもしれません。

様々なそれぞれの挫折経験。それは彼らが皆、主を愛していたからです。彼らがイエス様とその死と復活について、どれほど理解していたかは分かりません。しかし、イエス様を信じ愛していたことは、彼らの行動から十分に推測できます。私たちも彼らと同じです。様々なそれぞれの挫折経験。それは私たち皆、主を愛しているからです。私たちはイエス様とその死と復活について完全には理解していないかもしれません。しかし、私たちの信仰生活から、イエス様を信じ愛していることは間違いありません。それはイエス様の救いの恵みの大きさを知っているからです。私たちの知っているイエス様の救いの恵みの大きさなんて、本当に小さな一部分かもしれません。しかしその小さな一部分であっても、もの凄く大きいものではないでしょうか。天の御国に着いたなら、その大きさに驚かされることと思います。イエス様の救いの恵みの大きさを知れば知るほどに、アリマタヤのヨセフや百人隊長、女性たち、今日は表舞台に登場しませんでしたが弟子たち、皆のようにこの世のものを恐れずに福音を証しできる。イエス様の愛はそれほどに大きいのです。イエス・キリストは今日も、十字架を通してその愛を示しながら、ご自分を信じ従う者に、それにふさわしい献身を求めておられます。

私たちは世にいる間、主と教会に仕えて行く中で大小の困難に常に直面するでしょう。挫折するでしょう。しかし今日の信仰者たちのように、主から決して離れることなく、仕えるべきです。主は今もご自分を信じ忠実に従う弟子たちに、ご自分の臨在と栄光を現されます。立ちあがる力を日々与えてくださいます。人生には絶望しそうな霊的な苦難が訪れ、信仰的挫折を味わう時があります。しかし、そのような時も主に敵対せず忠実であるなら、主は聖霊を通し、愛を注ぎ、私たちにそこから立ちあがる力を注いでくださいます。そしてそこから私たちひとりひとりを用いて、さらに力強くご自分の復活を、栄光を証しして行かれます。私たちも証しして行くことができます。主を待ち望む者に日々新しく力を得させてくださる主に信頼し、イエス・キリストの十字架を見上げ、赦され、大きな愛を経験し、そこから日々新たにされ、天の御国を目指し、主を力強く証ししつつ歩んでまりましょう。

長野聖書教会の話題やお知らせをお届けします。

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