2024年11月24日 主日礼拝「立ち上がり、さあ行きなさい」
賛 美 新聖歌182「ただ信ぜよ」
新聖歌185「来たれ誰も」
前奏(黙祷)
招 詞 詩篇104篇33〜35節
讃 美 讃美歌11「あめつちにまさる」
罪の告白・赦しの宣言
信仰告白 讃美歌566「使徒信条」
主の祈り 讃美歌564「天にまします」
祈 祷
讃 美 讃美歌146「たたかいおわりて」
聖書朗読 マタイの福音書28章1〜20節
説 教 「立ち上がり、さあ行きなさい」
讃 美 讃美歌380「たてよ、いざたて」
献 金 讃美歌547「いまささぐる」
感謝祈祷
報 告
今週の聖句 マタイの福音書28章20b節
頌 栄 讃美歌541「父、み子、みたまの」
祝 祷
後 奏
本日の聖書箇所
マタイの福音書28章1〜20節
説教題
「立ち上がり、さあ行きなさい」
今週の聖句
「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」
マタイの福音書28章20b節
説教「立ち上がり、さあ行きなさい」
マタイの福音書28章1〜20節
始まりがあれば終わりがあるのですね。2022年7月17日から始まったマタイの福音書の講解説教も、何と予告もなしにこの朝で終わります。2年以上かけて教えられて来たマタイの福音書でしたが、何ともあっけない終わり方だなという感じがしませんか。しかし終わりだけれども終わりではない。始まりでもある。実にそのことを感じさせる28章20節の終わり方ではないでしょうか。
イエス・キリストは十字架つけられ死なれました。そして墓に葬られました。その墓はイエス様が十字架につけられた公の処刑場とされていた場所にあった園の中にありました。その墓はアリマタヤ出身の金持ちで、有力な議員でもあったヨセフが自分のために岩を掘って造ったものの、まだ使われていない新しい墓でした。ヨセフは自分がイエス様の弟子であることをずっと隠していましたが、勇気を出してピラトにイエス様の死体の下げ渡しを願い出て、そして自分のための墓を主に献げ、丁重に葬りました。今ではこの岩が掘られた墓の上に立派な教会が建てられています。
岩の上に建てられた教会と聞いて思い起こすことがあります。マタイの福音書16章でイエス様は異邦人の地、偶像崇拝、皇帝崇拝の地のただ中で弟子たちに問われました。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか」。すると弟子たちを代表してペテロが言いました。「あなたは生ける神の子キリストです」。イエス様は答えられました。「バルヨナ・シモン、あなたは幸いです。このことをあなたに明らかにしたのは血肉ではなく、天におられるわたしの父です。そこで、わたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上に、私の教会を建てます。よみの門もそれに打ち勝つことはできません」。この時イエス様は、ペテロがした信仰告白の上に「わたしの教会を建てる」と言われましたが、私たちの教会は確かにこの信仰告白の上に建てられています。キリストの信仰が土台になくて、どうしてキリスト教会と呼べるでしょう。またエルサレムでは図らずも実際に岩の上に教会が建てられました。先ほども触れましたが、アリマタヤのヨセフが岩を掘って造った墓にイエス様が葬られ、その岩の上に教会が建てられている。実際に岩の上にだけではなく、アリマタヤのヨセフの勇気を出して唇と行いを通して告白した信仰告白の上に教会が建てられました。その教会の名は皆さんご存知の有名な「聖墳墓教会」です。英語ではChurch of the Holy Sepulchre(チャーチ・オブ・ホーリー・セパルカー(聖なる墓教会)です。現在ではキリスト教の6つの教派(ギリシャ正教会、ローマカトリック教会、アルメニア使徒教会、コプト正教会、エチオピア正教会、シリア正教会)によって共同管理されているのですが、この内のある教派はこの教会を「Church of Saint Anastasia(アナスタシア/ギリシャ語で「復活」=聖復活教会)」と呼んでいます。同じ教会を一方では「墓」と呼び、一方では「復活」と呼んでいる。イエス・キリストの墓は死の場所であると同時に、復活の場所でもあったのです。イエス・キリストはアルファであり、オメガであるお方。始まりであり、終わりであるお方。さらには終わりであり、始まりであるお方です。そしてインマヌエル(神われらとともにおられる)のお方。
イエス・キリストの生涯は、決して死で終わりませんでした。そこからまた始まったと言っても良い。イエス様の公生涯における3本柱は何かご存知でしょうか。それは「①説教、②奇跡(癒やし)、③弟子訓練」でした。イエス・キリストの弟子、つまりイエス・キリストを信じ従う者の生涯も、決してイエス・キリストの十字架の死で終わりではないのです。救われた、それで終わりではないのです。そこからまた始まって行くのです。
私たちの信仰、私たちを生かすもの、それは今も生きておられる主と毎日出会うことです。イエス様のなさる3本柱「①説教、②奇跡(癒やし)、③弟子訓練」を通して、今も生きておられる主と毎日出会って行くのです。主は私たちを愛するからこそ自ら十字架につけられ死なれ、そしてよみがえられた。主は私たちを愛するからこそ、日々みことばを与え、奇跡(癒やし・救い)をなさり、訓練を与えられるのです。主は信者、未信者を問わず等しくすべての人を愛されます。すべての人にみことばを与え、癒やし、救い、訓練をなさっていますが、即座に主の御声に従い、実際に行動に移すのは誰でしょうか。それは主に多く赦された者、そして主をより愛する者でしょう。
28章1節 さて、安息日が終わって週の初めの日の明け方、マグダラのマリアともう一人のマリアが墓を見に行った。
安息日が終わって新しい週が始まろうとする時、すなわち、日曜日の明け方に起こった出来事が記されます。かつてイエス様に7つの悪霊を追い出してもらったマグダラのマリアともう1人のマリアは、イエス様が葬られた墓を見に行きました。他の福音書を見ると、それはイエス様の死体に準備しておいた香料を塗るためであったことが分かります。イエス様を愛する彼女たちは、イエス様が死んで葬られた時、その墓の前を去ることが出来ずにいたのですが、日没とともに安息日が始まるので、やむを得ず帰って行きました。彼女たちが安息日をどのように過ごしたのかは記されていません。弟子たちは迫害を恐れて散り散りに逃げて行ったわけですから、危険を冒して1つの所に集まっていたことは考えられないように思います。それぞれが、それぞれの所で、それぞれの思い、罪の呵責、失意、絶望、そういった中でじっと安息日を守っていたことでしょう。そして彼女たちも彼女たちの安息日を過ごし、安息日が終わると即座にイエス様の死体に香料を塗りに行きました。丁重に葬るためにです。その動機は何だったのでしょう。イエス様に対する愛でしょう。また心からの感謝「今までありがとう」の思いだったのかもしれません。あるいは自分で自分を慰めるためだったのかもしれない。いずれにしても、イエス様が復活することなど夢にも考えていない彼女たちが墓に行くと、大地を揺り動かすような、彼女たちの目を覚ますような地震が起こるのです。
27章2節 すると見よ、大きな地震が起こった。主の使いが天から降りて来て石をわきに転がし、その上に座ったからである。
27章3節 その姿は稲妻のようで、衣は雪のように白かった。
彼女たちの目を覚ますような地震が起こったのは、主の使いが墓の入り口を塞いでいた大きな石をわきに転がすことによって起こったものでした。しかしそれは、イエス様がよみがえられて墓から出て行かれた後のことです。間違ってはいけないのは、イエス様を墓から出すために御使いが現れて石をわきに転がしたわけではないということ。では、何のためだったのでしょうか。それは彼女たちにわざわざ空っぽの墓の中を見せるためです。
27章4節 その恐ろしさに番兵たちは震え上がり、死人のようになった。
主の使い、御使い、天使などと呼ばれる存在は、神のみことばを人に伝えるメッセンジャーです。直接的にその人に対して力あるわざをするものではありません。ことばとか、あるいは何らかの形で神からのメッセージを伝え、その人をある行動へと促す存在と言って良いでしょう。墓の番をしていたローマの兵士たちはその御使いの姿、神からのメッセージを見て、恐ろしさのあまり震え上がり、フリーズしてしまいます。何も考えられない、身動きもできないほどに恐れるのです。
同じ御使いを見て、空っぽの墓を示されて、神からのメッセージ(何らかの形のメッセージ、それはみことばだけではない、しるし、試練、訓練)を前に死人のようになる人がいる。これまでにイエス・キリストが語られる天の御国の福音を聞いていた人と聞いていない人、それを信じる人と信じない人の差がここに現れるのです。
彼女たちも主の使いの姿、そして地震にどれほどの恐れを感じたことでしょう。しかしその恐れは、兵士たちが抱いた恐れとは少し違うようです。
27章5節 御使いは女たちに言った。「あなたがたは、恐れることはありません。十字架につけられたイエスを捜しているのは分かっています。
「あなたがたは、恐れることはありません」。ここを直訳するとこうなります。「あなたは、あなたの恐れを恐れるな」。あなたが今感じている恐れを恐れてはならないと。彼女たちは何を恐れるのでしょうか。御使いは言います。「あなたは、十字架につけられたあのイエスを探しているのですよね」。これも人の心を読み取られる神からのメッセージです。あなたは今、あなたが愛するあのイエス、あなたの救い主、あなたの罪を赦し、あなたを救ったあのイエス・キリストが目の前から消えてしまったこと、見失ってしまっていることを恐れている。7つの悪霊が追い出されたこと、イエスとともに歩んだ日々、罪が赦される経験、身も霊も本当に救われた、日々救われて行くというあの経験は幻となったのか。無効になってしまうのか。
27章6節 ここにはおられません。前から言っておられたとおり、よみがえられたのです。さあ、納められていた場所を見なさい。
27章7節 そして、急いで行って弟子たちに伝えなさい。『イエスは死人の中からよみがえられました。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれます。そこでお会いできます』と。いいですか、私は確かにあなたがたに伝えました。
御使いは彼女たちに、「安心しなさい。その方は墓の中にはおられず、十字架以前にイエス様が言っておられたとおりによみがえられたのです」と伝えます。そして御使いは、イエス様が弟子たちより先にガリラヤに行ってそこで彼らとお会いになることを、「急いで行って弟子たちに伝えなさい」と女たちに命じます。御使いは「いいですか、私は確かにあなたがたに伝えました」とも言っています。彼女たちが聞いたこと、見たこと、それが神からのメッセージ、そして命令であることを示します。
証し人となるはずの弟子たちは恐ろしくてどこかに逃げてしまっており、彼らへの伝言は彼女たちに託されました。彼女たちこそ適任であると。彼女たちなら、奇跡的な出来事によって知らされたイエス・キリスト復活のメッセージであっても、恐怖とか強制ではなく、しっかりと自分で考え、自分で信じることができると判断されたのではないでしょうか。弟子たちに御使いが直接、奇跡的なしるしをもって伝えることも可能だったはずなのに、女性たちにメッセージが託された。それはやはり主を信じ切れずに、裏切り逃げてしまった弟子たちが、愚かとも思える女性たちの証言を聞いて、自分で信じ、自分で行動に移させるためでしょう。しっかりとした揺るぎない信仰告白の上に立たせるためでしょう。まず愚かとも思えるメッセージを聞き、しかしそこから確かに信じる者が起こされていく。主の御心にかなった福音宣教の形がここにあるように思います。
27章8節 彼女たちは恐ろしくはあったが大いに喜んで、急いで墓から立ち去り、弟子たちに知らせようと走って行った。
恐れ、不安、そして喜びが入り交じった複雑な思いではありましたが、彼女たちは御使いの伝えるメッセージの通りに即座に行動に移りました。それはイエス様を愛していたからです。多くの罪を赦された経験があったからです。だからこそ、それでもイエス様を信じる信仰があったから。彼女たちは急いで立ち上がり走り立ち去ります。神からのメッセージを伝えるために。
27章9節 すると見よ、イエスが「おはよう」と言って彼女たちの前に現れた。彼女たちは近寄ってその足を抱き、イエスを拝した。
27章10節 イエスは言われた。「恐れることはありません。行って、わたしの兄弟たちに、ガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会えます。」
「おはよう」というのは、当時の日常的な挨拶です。御使いの伝える主からのメッセージをしっかりと受け止める者には、実は主はいつもと変わらないお姿でそこにおられることが分かるのです。またそのメッセージが間違いなく主からのものであることを知るのです。
彼女たちはまず声を聞いて、姿を見て、近寄ってその足を抱きました。それはイエス様を礼拝するためでした。足があるかないかを確かめるためではなかったのですが、確かにここに、イエス・キリストが本当によみがえって実体(触れる体)を持っておられることが分かりました。そこに先ほどのような恐れ、不安、疑いなどはありませんでした。ところがイエス様は彼女たちに「恐れることはない」と言われます。彼女たちはなおも何を恐れていたと主は言われるのでしょうか。
ヨハネの福音書では、イエス様はマグダラのマリアに対し「マリア」とその名を呼ばれています。マリアは振り向いて「ラボニ」と答え、恐れの中から立ちあがり、散り散りに逃げて行った弟子たちのところに行きメッセージを伝えるのです。彼女がこの時抱いていた恐れ。それは「わたしのメッセージを弟子たちに伝えなさい」と言われる主の命令に対する恐れでしょう。社会的な影響力など認められていない私、しかも元々罪深い者であった私の言うことなど信じてもらえないかもしれない。主を愛し、弟子たちとは長い間ともに主に仕えて来たけれど、そもそも弟子たちはこの私をどう見ているのだろうか。彼らの目に、私をまだ罪深い女として見る視線を感じる・・・。もしかしたら、誰が一番偉いか、正しいかと論じ合っていた彼らの言動の端々に、そういったものを感じさせる何かがあったのかもしれません。そのマグダラのマリアの名をイエス様は呼ばれる。「マリア」と。「ラボニ(先生)、私はマリアです」。マリアは改めて自分がマグダラのマリアであることを知るのです。どのような自分であったのか、どのように赦され、どのように救われたのか。そしてイエス様はマリアをそこから立ちあがらせ、恐れを抱いていた弟子たちのところへと出て行きました。「ガリラヤへ行きなさい。そこでイエス様に会えるから」と伝えるために。
場面は変わります。
28章11節 彼女たちが行き着かないうちに、番兵たちが何人か都に戻って、起こったことをすべて祭司長たちに報告した。
ピラトの命令により、祭司長たちの指示とおりに墓の番をしていたローマの兵士たちは、目の前で起こった事実を祭司長たちに報告しました。あのような信じられない出来事が起こった。イエスの死体が消えた。この大変な事件をピラトではなく祭司長たちに報告したのはなぜでしょうか。恐らくピラトに報告したら、職務怠慢で即座に厳しく罰せられたことでしょう。彼らは祭司長たちに助けを求めたのではないでしょうか。曲がりなりにも宗教指導者、霊的な事柄の専門家。彼らに言えば、彼らが宗教人としてピラトに奇跡的な出来事を神のなさったわざとしてきちんと説明し、自分たちの命を助けてくれるのではないかと期待したのではないでしょうか。すがったのではないでしょうか。ところが、彼らの口からは宗教的な話し、福音、良い知らせはまったく出て来ませんでした。出て来たのはなんと偽装工作の話しと金でした。
実は助けを求めて私たちのところに来る人たちに、私たちの口は何を語っているでしょうか。
28章12節 そこで祭司長たちは長老たちとともに集まって協議し、兵士たちに多額の金を与えて、
28章13節 こう言った。「『弟子たちが夜やって来て、われわれが眠っている間にイエスを盗んで行った』と言いなさい。
28章14節 もしこのことが総督の耳に入っても、私たちがうまく説得して、あなたがたには心配をかけないようにするから。」
イエス様にどこまでも敵対する祭司長たち、長老たちは、自分たちの偽装工作に彼らを巻き込みます。かわいそうに、奇跡的な出来事を目の当たりに経験し、イエス・キリストの十字架の救いを受け入れ、これから神との平和、世での平安をもって生きて行けることもできた可能性のある人たちを、神を礼拝しながらも、神が遣わされたイエス・キリストに敵対する者たちは、彼らを一生ビクビク怯えながら生きる、全く平安のない、救いのない人生へと追いやってしまったのです。
彼らは言われたとおりにしたようです。喜んでしたわけではなかったようです。
28章15節 そこで、彼らは金をもらって、言われたとおりにした。それで、この話は今日までユダヤ人の間に広まっている。
こうしてその話しがユダヤ人の間に広まりました。ユダヤ人の間に広まったのは、その話しだけではなかったはずです。イエス・キリストは墓からよみがえられた。その話しも世に広まりました。イエス様が言われた通り、終わりの時、福音の種ばかりでなく、サタンによって毒麦の種が蒔かれているのです。それぞれ芽を出しているのです。「私は今日、いのちと死、祝福とのろいをあなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい」(申3019)との主のメッセージが聞こえて来るようです。
また場面は変わります。
28章16節 さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示された山に登った。
イスカリオテのユダを除く11人の弟子たちは、イエス様に指示されたとおりにガリラヤに行き、イエス様が指し示された山に登りました。11人皆が集まって、話し合って「ガリラヤへ行こう」と決めたわけではありません。それぞれがそれぞれの挫折の中から、ひとり、またひとりと立ち上がり、ガリラヤへと向かって行ったのです。イエス様が指し示された山がどの山であるのか。それは記されていませんし、弟子たちもはじめは分からなかったのかもしれません。しかしイエス様の約束を信じたのです。挫折の中で、イエス様の約束にすがるしかない、すがることができたのです。
イエス様は約束されていました。「あなたがたはみな、今夜わたしにつまずきます。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散らされる』と書いてあるからです。しかしわたしは、よみがえった後、あなたがたより先にガリラヤへ行きます」(マタ2631-32)。あなたがたより先に。これは「わたしが先に行ってそこで待っている」という意味ではありません。「わたしがあなたの先を進んで、つまりあなたを導いてガリラヤへ行く」というものです。復活のイエス様は、挫折の中にいる1人1人をそれぞれ導いて、そこから立ちあがらせ、それぞれ導いてガリラヤへ、しかも指し示された1つの山へと向かわせるのです。
ガリラヤ。そこは彼らの霊的故郷。イエス・キリストに召された場所。そこで生まれ育ち、それぞれの人生を歩み、その中でイエス・キリストと出会い、名前を呼ばれ、召された所。イエス・キリストとともに新しい人生を、新しい目的をもって歩み出した所。
イエス様に伴われ、導かれて1つの指し示された山に登る。そこにあの弟子も、あの弟子もいる。互いに掛け合う言葉もなかったことでしょう。伏し目がちな目と目で、心と心での言葉にならない会話があったことでしょう。1人、また1人と目を上げるとそこに約束とおりイエス様がおられ、イエス様にお会いし、そして彼らはイエス様を礼拝しました。
28章17節 そしてイエスに会って礼拝した。ただし、疑う者たちもいた。
よみがえられたイエス様に会った弟子たちは、先に女性たちがしたようにイエス様を礼拝しました。しかし弟子たちの中には、礼拝をしながらも疑う者もいました。何を疑ったのでしょうか。
目の前にイエス様がおられる。生きておられるイエス様の御姿、生きておられるイエス様のまなざしから大きな計り知れない愛をひしひしと感じる。だからこそ、自らの赦しを、救いを、召しを疑ってしまう。こんな私が赦されるのか、救われるのか、こんな私が召されているのだろうか。そのように恐れたり疑ったりしてしまうことがあるのではないでしょうか。そのような者たちにイエス様の方から近づいてくださり、そして宣言されるのです。
28章18節 イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています。
イエス様のみことばを信じなくて、何が信仰でしょうか。イエス様は言われるのです。「わたしには、罪を赦すすべての権威が与えられているのだ」と。この方によって赦されるなら、本当に赦されるのです。それは信仰によってです。「わたしを信じる者は赦される。わたしを信じる者は救われる」。イエス・キリストのみことば、神の約束を信じるのです。信仰によるのです。この「信仰」というギリシャ語は「真実」とも訳される語です。私たちには真実などありません。いつも主の愛を裏切ってしまう者ですから。私たちは主の真実によってのみ赦されるのです。そして救われるのです。主を疑うことなどできません。そして「真実・信仰」という名詞が動詞になると、「委ねる」となります。私たちの赦し、救いは主を信じ、主にすべてを委ねることができるからこそ、本当なのです。
28章19節 ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、
28章20節 わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」
「ですから」と主は言われます。あなたがたの赦し、救い、そして召しは疑いようのないもの。あなたがたは赦されている、救われている、召されている。「だから、あなたがたはここから立ち上がり、行くのだ。世の人々に教えるのだ。あなたがたの人生は、あなたがたの赦し、救い、召しは、わたしの十字架による贖いで終わったのではない。わたしが十字架で死に、そしてよみがえった、再び起きあがった、立ちあがったように、あなたがたは十字架で死に、よみがえり、再び起きあがり、立ち上がり、そしてあなたがたの人生を、わたしが望む本当に幸いな人生をここから歩んで行くのだ」と、主は言われます。
マルコの福音書では、「全世界に出て行き、すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい。信じてバプテスマを受ける者は救われます。しかし、信じない者は罪に定められます」(1615-16)と言っておられます。すべての人に。良い人であろうが悪い人であろうが。自分に対して優しい人であろうが、厳しい人であろうが。好きな人であろうが、嫌いな人であろうが。時が良くても悪くても。すべての人に十字架の福音を宣べ伝えなさい。天の御国の福音を宣べ伝えなさい。信じる者、信じない者の結末を両方とも間違いなく、ねじ曲げることなく、薄めることなく宣べ伝えなさい。そこに迫害が起こるのでしょう。主がはっきりとそう言われているからです。そして今は終わりの時。霊的な戦いがいよいよ激しさを増して行くのでしょう。失敗や挫折や後悔が襲ってくる。しかしそのたびごとに私たちは今も生きておられる主に出会うのです。そこでこそ主とお会いし、親しく交わることが許されるのです。
私たちは主を信じ、父、子、聖霊の名において洗礼が授けられ、教えを受けています。これこそ主の弟子であることの確かなしるしとなります。洗礼は1度きり、しかし教えは継続です。今も生きておられる主のみことばによって、生きて語られる聖書のみことばによって、また様々な経験、迫害、苦難や挫折、喜びを通して教えられる教えによって、私たちはこれからも主とともに、天の御国を目指し歩んで行くのです。天の御国への凱旋の行列に、世の多くの人々を福音によって招き、その行列に加えながら歩んで行くのです。恐れることはありません。喜んでばかりはいられないのかもしれませんが、しかし喜びなさいと主は言われます。インマヌエル(われらとともにおられる)の神としてこの世に降られ、インマヌエル(われらとともにおられる)の神として私たちの先を行かれ、「おはよう」と日常的な挨拶をされるほどに近くにおられるインマヌエルの主に、天の御国へと導いてくださる今も生きておられるインマヌエルの主に、私たちは毎日お会いし、御声を聞いてまいりましょう。
2年以上におよぶマタイの福音書の講解説教も今日で終わりです。少し寂しさを覚えますが、足りなさを覚えるかもしれませんが、しかしやはり終わりではありません。ここから始まる、ここからが大事。これからも教えられて行く。癒やされていく、訓練されていく。説教、奇跡(癒やし)、弟子訓練は続いて行く。そして私たちイエス・キリストの弟子たちに、イエス・キリストの弟子としての生き方が求められる。
「ですから、あなたがたは行きなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます」。今朝、よみがえりの主の御声を確かに聞きましょう。