2025年1月1日 元旦礼拝「起きよ。輝け。」
前奏(黙祷)
讃 美 讃美歌21「あさ日のごとくに」
罪の告白・赦しの宣言
信仰告白 讃美歌566「使徒信条」
主の祈り 讃美歌564「天にまします」
祈 祷
讃 美 讃美歌408「笑まいも涙も」
聖書朗読 イザヤ書60章1〜9節
説 教 「起きよ。輝け。」
讃 美 讃美歌502「いともかしこし」
献 金 讃美歌547「いまささぐる」
感謝祈祷
頌 栄 讃美歌541「父、み子、みたまの」
祝 祷
後 奏
本日の聖書箇所
イザヤ書60章1〜9節
説教題
「起きよ。輝け」
説教「起きよ。輝け。」
イザヤ書60章1〜9節
改めまして、新年あけましておめでとうございます。今日から始まる新しい1年も、神に愛され、神を愛する皆さんおひとりひとりの上に、主イエス・キリストの豊かな祝福がありますようにお祈りします。
年齢が加わること、そして新年を迎えることを「年取り」と言いますが、皆さんはどのような年取りをされましたか。と言いましても、年取りをしてからまだ半日しか経っていませんが。それとも、もう半日経ってしまったのか、でしょうか。
昨年最後の礼拝説教の中で語らせていただきましたが、私たちは年を重ねるごとに見えて来るものがあるということ。そして信仰によって年を重ねて行けば行くほど、経験を重ねて行けば行くほど、見えてくるものがあるのです。それは神の恵みの素晴らしさです。神の恵みに対する喜び、感謝もますます高められて行くでしょう。神の恵みの素晴らしさは、幾重にも積み重なって山のように高くなって行く。今の時点で、神の恵みの山の頂上に立って、これまでの人生を振り返ってみていかがでしょうか。十数年の人生を過ごして来た方と、80年の人生を過ごして来た方と、見える景色は随分違うと思います。山が高くなればなるほど、はるか遠くまで見渡せます。あそこに神の守りがあった、ここに神の導きがあった、満たしがあったなどと、たくさんの神の恵みの数々が数えられるのではないでしょうか。私の父が生前に言っていました。「みんな痩せたいとか、年をとるのが嫌だとか言うけれども、どうしてせっかく与えられたものを減らさなくてはならないのか」と。体重のことは別にして、年をとるということは素晴らしいことです。
年取り。新しい年を迎えた。「新しい」。私たちはそこに大きな希望や期待、光を見いだすのではないでしょうか。そして素晴らしい神を知る私たちにとって、最大の希望や期待というのは何でしょうか。それは主の栄光が現されることなのではないでしょうか。例えばお金持ちになりたい、車が欲しい、健康になりたい、良い学校に進学したいなど。それは何のためですか? 神に愛され、神を愛する皆さんであれば、恐らく突き詰めれば「主の栄光を現すため」「主の素晴らしさを証ししたい」となるのではないでしょうか。お金持ちになって贅沢な暮らしがしたい。そうではないでしょう。妻はお金持ちになったら、たくさんの人に美味しいものや必要なものを贈りたいと良く言っています。車や健康な身体があったら、もっと奉仕ができるのに。良い学校に行ったり良い成績を収めたりして、やっぱり神さまを信じている人は違うよねと言われたいとか? そのような感じで神の栄光を現して行く、現して行きたい。真の神を信じ、イエス・キリストの十字架によって救われた人からは、自己中心というものがいつの間にか影を潜めているのだと思います。実は、私たちが神の栄光のために生きたいと願うのは、神の像に従って創造されているからです。本来、人であるならば普通の衝動です。それが罪によって自分の願望が全く自己中心的なものになってしまった。神の栄光のために生きること。それが実は、神の像に従って創造された人間の究極の目的なのです。そして、神の民とされた私たちには特別に、神の栄光を反映させることが求められています。神が私たちに求めておられる、神が私たちに与えてくださっていることですから、それはやはり恵みなのです。私たちにとって喜びとなるものです。
60章1節 「起きよ。輝け。まことに、あなたの光が来る。主の栄光があなたの上に輝く。
60章2節 見よ、闇が地をおおっている。暗黒が諸国の民を。しかし、あなたの上には主が輝き、主の栄光があなたの上に現れる。
「起きなさい。輝きなさい」。主はここに命じておられます。またイザヤ書52章でも同じく命じておられます。「目覚めよ、目覚めよ。力をまとえ、シオンよ。あなたの美しい衣をまとえ、聖なる都エルサレムよ」(イザ521)。
ここで直接の対象となっているのはシオンであり、エルサレムですが、イザヤ書は終末的預言としての文脈の中で語られているものですから、その対象は新しいエルサレムです。神は預言者イザヤを通して、新生の恵みにあずかり、救われて、神の民とされた者すべてに対してのメッセージを語っておられるのです。
どこから起きなさい、どこで輝きなさい、目覚めなさい、力をまといなさいと言われているのでしょうか。それは全地が闇で覆われている世においてです。暗黒の中にいる民のただ中においてです。ここにも「闇」が出て来ました。「闇」という語は、暗闇、薄暗さという意味の他に、陰気、憂鬱、気分が沈んで塞ぎ込んでいる、しょげて沈んだ面持ち(顔つき・表情)という意味があるということでした。霊的な目を開いて世の人々を見てください。神が見ているように世を見てください。「闇」ではないですか。皆元気がないでしょう。「死んだ魚のような目をしている」などと言われますが、明るく見える表情の奥には、やはり「闇」があるようです。神もこの世を見渡してこのように嘆いておられます。「見よ。苦難と暗闇、苦悩の闇、暗黒、追放された者(世の隅に追いやられている者がいる」(イザ822)。戦争、隣人との争い、競争、憎しみ、ねたみ、自然災害、身近で起きる予期せぬ悪い出来事などで、皆「闇」があるのです。
そして実は私たちも「闇」の中にいるのです。霊的に眠っているのです。まどろんでいるのです。神が「起きなさい、輝きなさい、目覚めなさい」と言われているのですから。神は私たちに命じておられます。「起きなさい、輝きなさい、目覚めなさい」と。その主の命令を疑わずに、従順に従うならどうなるのでしょうか。私たちが私たちの闇の中から主の命によって起きあがるならば、なんと「あなたの光が来る。主の栄光があなたの上に輝く」のです。そして「あなたの上には主が輝き、主の栄光があなたの上に現れる」のです。自ら光を掴み取りに行くのではない。私たちが起きるなら、目覚めるなら、光の速さで光が来るのです。そして自力で輝くのではない。主の栄光が私たちの上に現れるのです。主が即座に私たちを全地が闇で覆われている世にあって、用いられるのです。ここをパウロはこのように言っています。「眠っている人よ、起きよ。死者の中から起き上がれ。そうすれば、〝キリストが〟あなたを照らされる」(エペ514)。
「起きよ。輝け。まことに、あなたの光が来る。主の栄光があなたの上に輝く」。「目覚めよ、目覚めよ。力をまとえ、シオンよ。あなたの美しい衣をまとえ、聖なる都エルサレムよ」。
力をまとえ。美しい衣をまとえ。
イエス様は約束してくださり、その約束を果たしてくださいました。「見よ。わたしは、わたしの父が約束されたものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から〝力を着せられる〟までは、都にとどまっていなさい」(ルカ2449)。イエス様は約束とおり、私たちに聖霊を送ってくださいました。聖霊は「宣教の力」です。私たちは主の約束を信じて、主の命に従順に、闇の中から立ち上がる。そうすれば(パウロが言っている「そうすれば」)、聖霊の力によって立たせてくださり、聖霊の力によって主の栄光を闇が覆う世で現して行くことになるのです。主が私たちをとおしてご自身の栄光を現してくださるのです。私たちの人生においてのおもな目的が、ここに果たされるのです。ウエストミンスター教理問答の問1「人のおもな目的は、何ですか」。「人のおもな目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです」。
もし私たちが神の祝福(神の愛、あわれみ、罪の赦し、日々の身に余るほどの恵み)にあずかっているならば、同時に神の証人として宣教の責任をも託されているのです。
60章3節 国々はあなたの光のうちを歩み、王たちはあなたの輝きに照らされて歩む。
周囲の諸国民、私たちの様々な隣人が、この世で栄光を掴み取った王さえも、私たちの上に現れる神の栄光を慕って、求めて集まって来るような存在となることが、私たち神の民には求められています。しかし安心してください。喜んで良いのです。「わたし、主は、義をもってあなたを召し、あなたの手を握る。あなたを見守り、あなたを民の契約として、国々の光とする」(イザ426)と、神は約束してくださっていますから。はじめから終わりまで、神が恵みによってそのようにしてくださるのです。私たちの召しも、救いも、宣教のわざも、すべて神の恵み、神の知恵、神の全能の力によって。そう約束してくださっているからです。
60章4節 目を上げて、あたりを見渡せ。彼らはみな集まって、あなたのもとに来る。あなたの息子たちは遠くから来る。娘たちは脇に抱かれながら。
「息子たち、娘たち」というのは、当時の「世界中の人たち」という言い回しです。そして「彼ら」とは、神の民が指し示す光、イエス・キリスト、福音によって救われた者たちのこと。私たち神の民とされた者たちの宣教によって、救われた人々が世界中から集まって来る。私たちという存在を通して、私たちをそこに置かれた神によって私たちは用いられ、神の素晴らしさが証しされ、神の恵みによって(それは決して私たちの良い行いによるのではないということ。私たちの行いによって誰かが救われるとしたら、一体誰がすくわれるでしょうか?)救われる者たちが起こされ、救われた人々が世界中から集まって来るのです。
これも昨年最後の礼拝説教の中で語ったことですが、神はイスラエルという国をご自身の栄光を現すために選ばれたのです。聖書の時代に世界と呼ばれている世界中の人々は、貿易などで旅をする際には必ずイスラエルの国を通って行きました。オアシスが多数存在していたからです。荒野を旅するのにどうしても必要ないのちの水があったからです。休む場所、一息つける所があったからです。しかしそこは小さな国イスラエル。周囲の強国に支配され、圧迫され、倒れそうなのに倒れない。滅びそうなのに滅びない。皆不思議に思う。どうして滅びないのか。そして知ることになるのです。イスラエル、その名のとおり、神が戦う、神が支配する、神が支え配慮される国だからだと。そして神は同じように、弱く小さな私たちを選ばれました。私たちの内にオアシスを与えられた。尽きぬいのちの泉を与えてくださった。世の人々は弱く小さな私たちの内にそれを見いだすのです。そしてやがて神を知ることになるのです。それが証しであり、宣教として用いられるのです。そして主は私たちに言われるのです。「起きよ。輝け」と。そうすればまことに、あなたの光が来る。主の栄光があなたの上に輝く。「見よ、闇が地をおおっている。暗黒が諸国の民を。しかし、あなたの上には主が輝き、主の栄光があなたの上に現れるのだ」と。
そして終末、終わりの日に、私たちをとおして主に立ち返った異邦人、神を知らなかった人々が全世界からシオンに、新しいエルサレムに集まって来る。その光景を思い浮かべてみてください。本当に素晴らしい、本当に喜ばしい光景ではないでしょうか。世界というのは私たちのすぐそばから始まっています。広がっています。私たちの家族、友人、会社の同僚、学校の友だち、近所の人、遠くの親戚、もっと遠くの人たち、友だちの友だち、言葉も違う人たちが皆、私たちの宣教を通して、私たちの生き様を通して、神を信じ、イエス・キリストを信じ、救われて集まって来る。本当に素晴らしい、本当に喜ばしい光景ではないでしょうか。私たちはもっともっと、このことを想像して、ビジョンとして描いて、主に期待して、主を信じて、喜んで良いのではないでしょうか。「主は言われる。『あなたがわたしのしもべであるのは、ヤコブの諸部族を立たせ、イスラエルのうちの残されている者たちを帰らせるという、小さなことのためだけではない。わたしはあなたを国々の光とし、地の果てにまでわたしの救いをもたらす者とする。』」イザ496)。
60章5節 そのとき、あなたはこれを見て晴れやかになり、心は震えて、喜ぶ。
私たちの心は震えるほどに感動し、喜びに満たされるのです。主の栄光がここに現されるからです。
60章5節 そのとき、あなたはこれを見て晴れやかになり、心は震えて、喜ぶ。それは、海の富があなたのところに移され、国々の財宝もあなたのもとに来るからだ。
60章6節 らくだの大群が、ミディアンとエファの若いらくだが、あなたのところをおおい尽くす。これらシェバから来るものはみな、金と乳香を携えて、主の誉れを宣べ伝える。
60章7節 ケダルの羊もみな、あなたのもとに集まり、ネバヨテの雄羊は、あなたに仕える。これは受け入れられ、わたしの祭壇に献げられる。わたしは、わたしの輝かしい家をさらに輝かす。
世界中の人々、異邦人、神を知らなかった人々が、地の産物を、自分たちの最善のもの、賜物を携えて神の宮に集まり、それらを主に献げるのです。主は主の輝かしい家をさらに輝かされるのです。
60章8節 雨雲のように飛ぶ者、鳩のように巣に帰る者はだれか。
60章9節 まことに、島々はわたしを待ち望み、タルシシュの船は真っ先に、あなたの子らを遠くから運んで来る。彼らの銀と金とともに。それは、あなたの神、主の名のため、イスラエルの聖なる者のためであり、主があなたを輝かせたからである。
雨雲のように飛ぶ者とは、その速さを表すものです。大急ぎでということでしょうか。鳩のように巣に帰る者とは、安全なふるさと、帰るべき場所、帰ることのできる場所に帰ってくることを意味しています。遠く島々からも主を慕い求める人々。私たちが宣べ伝えた福音、主の栄光、光、イエス・キリストによって新しく生まれた神の子とされた者たち、つまり救われたすべての者たちが自分の最善のもの、賜物を携えて大急ぎでやって来る。それは私たちの神、主の名のため、イスラエルの聖なる者、神のため。神の栄光のため。そして神の栄光は日に日に、ますます闇の中に輝き、現されていくのです。地の上では教会が拡大し、神の国が完成に向かって前進して行くのです。それは主が私たちを輝かせたからであると。何という恵みでしょうか。私たちのすべてが、私たちの人生におけるすべてが主によって報われて行くのです。その素晴らしい恵みを私たちに注ぐために、主はまず言われるのです。「起きよ。輝け」。
新しい年が明けました。私たちはまた1つ年を取りました。それは神の恵みの賜物がますます増し加わって行くことであり、神の国、救いの完成がまた1歩前進して行くということです。
神の恵みの賜物。それは私たちの人生であり、人生におけるすべての経験です。その賜物を主がご自身の栄光のために用いてくださる。
そして神の恵みの賜物のことを、パウロはこのように言っています。「しかし、私たちは一人ひとり、キリストの賜物の量りにしたがって恵みを与えられました」(エペ47)。「私は、神の力の働きによって私に与えられた神の恵みの賜物により、この福音に仕える者になりました」(エペ37)。「私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがた一人ひとりに言います。思うべき限度を超えて思い上がってはいけません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深く考えなさい。一つのからだには多くの器官があり、しかも、すべての器官が同じ働きをしてはいないように、大勢いる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、一人ひとりは互いに器官なのです。私たちは、与えられた恵みにしたがって、異なる賜物を持っているので、それが預言であれば、その信仰に応じて預言し、奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教え、勧めをする人であれば勧め、分け与える人は惜しまずに分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は喜んでそれを行いなさい」(ロマ123-8)。「同じ一つの御霊がこれらすべてのことをなさるのであり、御霊は、みこころのままに、一人ひとりそれぞれに賜物を分け与えてくださるのです」(Ⅰコリ127-11)。
私たちの人生は、主を信じてからすべてが賜物とされました。すべての出来事、すべての経験、そこで味わったすべての思い、喜びも、楽しみも、悲しみも、苦しさも、すべて主が賜物としてくださり、ご自身の栄光のために用いてくださいます。そして私たちは神の栄光を現して行くことができるという、人間本来の生きる目的を果たして行けるのです。主が果たしてくださるのです。そして最終的なあのような素晴らしい光景を、もっともっと私たちのビジョンとし、新しい1年、もっともっと主に期待し、信じて、そして喜んで、賛美を口ずさみながら歩んで行って良いのではないでしょうか。それぞれがそれぞれの賜物を持ち寄り、御霊によって一致し、主が置かれている場所で、神の栄光を現して行こうではありませんか。御霊の満たしを祈り求め、御霊に満たされて、恵みの高嶺を目指してまいりましょう。そして信仰と喜びに満ちた私たちを通して、世界中の人々が主の民に加えられて行く、私たちの身近なところ、家族や友人から始まって、ご近所さん、さらに世界の果てにまで主の栄光が私たちをとおして現されて行くように、私たちは主に期待し、信じ、喜んで歩ませていただきたいと思います。
「起きよ。輝け」。