2025年1月12日 主日礼拝「神の教会、それ故の感謝」
賛 美 新聖歌80「天なる神には」
新聖歌211「天なる喜び」
前奏(黙祷)
招 詞 詩篇9篇1〜2節
讃 美 讃美歌58「かみよ、みまえに」
罪の告白・赦しの宣言
信仰告白 讃美歌566「使徒信条」
主の祈り 讃美歌564「天にまします」
祈 祷
讃 美 讃美歌191「いともとうとき」
聖書朗読 コリント人への手紙第一1章1〜9節
説 教 「神の教会、それ故の感謝」
讃 美 讃美歌529「ああうれし」
献 金 讃美歌547「いまささぐる」
感謝祈祷
報 告
今週の聖句 コリント人への手紙第一1章9節
頌 栄 讃美歌541「父、み子、みたまの」
祝 祷
後 奏
本日の聖書箇所
コリント人への手紙第一1章1〜9節
説教題
「神の教会、それ故の感謝」
今週の聖句
神は真実です。その神に召されて、あなたがたは神の御子、私たちの主イエス・キリストとの交わり入れられたのです。
コリント人への手紙第一1章9節
説教「神の教会、それ故の感謝」
コリント人への手紙第一1章1〜9節
感謝の生活
皆さん、すべてのことについて神に感謝していますか。真実の神、主イエス・キリストを信じる者であれば、「こんな状況にあって、何が感謝か」と言われる方はおられないと思います。しかし、ついそう思ってしまうことはあるでしょうし、それは誰からも責められるものではないと思います。戦争や災害、あるいは自らの犯してしまった罪などによって大切なものを失ってしまい、悲しみに暮れる方に、私たちは傍から「感謝しなさい」とは言えません。私たちはそのような方のために、すべてをご存知で、すべてをなさることがお出来になる神に、その方の慰めを祈るしかありません。「悲しみに暮れる」と言いますが、この「暮れる」とは、悲しさやあれこれ思い悩むことなどによって、長い間正常な思考ができずにいる様子という意味があります。そして「慰め」とは、大きく息を吸わせる、労をねぎらう、励ますというものです。
この年末年始に、ご自分やご家族の方の体の不調や痛みをお知らせくださった方も多くいらっしゃいました。私も先日、風邪を引いてしまいました。また私の場合、体調を崩したのが木曜日でしたので、木曜日の祈祷会のためにLINEの教会連絡網に投稿してしまい、ご心配をおかけしてしまうことになり大変申し訳なく思い、またお祈りいただき感謝しております。
皆さんのお祈りと聖霊の導きでしょう。具合の悪い中で切なさやあれこれ思い悩むことによって正常な思考ができずにいた中で、こんな詩を思い出しました。「神の恵みを空に1つ1つ書いていったら、こんなにも広い空もたちまち狭くなるだろう。世界中の海水をインクにして主の恵みを1つ1つ書いていったら、海の水もたちまち尽き果てるだろう」。
私たちはどうしても物事を悲観的に見がちです。風邪を引いてしまっただけでこの世の終わりのように考えてしまう。しかしどのような逆境にあっても、そこにも神からの無限の恵みがあるはずです。人の知恵や力では逆境の中で恵みを見いだすのは不可能でしょう。しかし全知全能なる主にはお出来になるのです。だからこそ神の家族の執り成しの祈りが必要なのです。祈りと聖霊の導きによって、私は今生きている、生かされていることを神に感謝しました。そして次から次へと感謝することができました。創世記から始まって黙示録に至るまで、罪の始まり、罪からの救いの約束、イエス・キリストによる救いの約束の成就、救いの約束の完成に至るまで、そこにある主の恵みを1つ1つ数えて神に感謝しました。
感謝するなら、神からのより多くの恵みを数えることができます。より多くの恵みを数えるなら、より感謝することができます。素晴らしいループですね。感謝のないところに信仰はありません。信仰があるところに感謝があります。神が私たちに望んでおられるのは、私たちが感謝の生活をすることではないでしょうか。そしてますます神を愛することへと導かれるのでしょう。そして神を愛するほどに、より恵みは注がれます。「主のお名前を呼び求める者はみな救われる」(使221)からです。「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っている」(ロマ828)からです。
コリント教会について
さて、今日からコリント人への手紙を見てまいります。「教会はキリストのからだ」であると言われます。この時、コリントの教会はひどい風邪を引いていました。具合が悪かったのです。からだの中に多くの問題を抱えていました。どの教会も多かれ少なかれ問題を持っているものですが、コリント教会ほど多くの問題、罪を抱えた教会はそうないのかもしれません。パウロはそのようなコリント教会をどのように見ていたのでしょうか。コリント教会が内に持つ罪のゆえに教会の存在価値を否定していたのでしょうか。どうやらそうではないようです。この手紙によってコリント教会の問題、罪に対する非難叱責が炸裂するかと思いきや、驚いたことに、そこには神への感謝が満ちていました。どんなに堕落した教会の中にも、パウロはそこに神の恵みを見いだして感謝しているのです。
本文に入って行く前に、コリントの教会について触れておきたいと思います。
地図を見ていただくと分かるとおり、コリントは2つの湾に挟まれた細い首上の土地に位置していました。その地形によって商業がとても発展していました。というのも、貿易商人や船乗りらは、船の積み荷を片一方の港で降ろし、反対側の港まで陸路で運び、そこでまた別の船に荷を乗せて積み荷を送っていたからです。そうしないと、地形ゆえに岩礁あり、嵐吹き荒れる岬を、危険を冒して320㎞も大きく迂回しなければならなかったからです。物流経路は東西の海路、南北の陸路、両方がコリントで交差していました。ですから多くの物や人がここに集まって来たというわけです。
コリントの街は、以前ローマ人によって完全に破壊されたものの、ローマ帝国の植民地として再建されるや、瞬く間に発展した街でした。ローマの植民地でしたから、最初の入植者は当然ローマ人でした。しかしやがて多くのギリシア人も帰って来て、また他の諸民族も引き寄せられました。迫害によって追われたユダヤ人もそこに含まれていました。その人口は会堂を有するほど大きかったようです。街中でも港でも、ギリシア人やラテン人、シリア人や小アジア人、エジプト人やユダヤ人が売り買いし、働き、飲み食いをし、騒がしかったようです。ここのところの長野駅も似たような感じですね。ここは日本の長野なのかと思ってしまうほど、外国人でごった返しています。
そしてコリントの街には、海の旅の安全を祈願する偶像が満ちていました。最も大きなものとして、愛の女神アフロディーテをまつる神殿があり、そこには1,000人を超える神殿女司祭(神殿娼婦)が仕えていました。そしてあらゆる淫らなことが宗教儀式として行われていました。当時の一般人の考えは、コリントと言えばまず「文化と売春婦を思い浮かべる」というほどのものでした。またギリシア語の流行語で「身を持ち崩す」ことを「コリント化してしまう」と言っていたそうです。
このようにコリントは、物質的に繁栄し、道徳的に腐敗した都市でした。そこには60万人もの人が暮らしていたそうです。その内の20万人が自由人、残りの40万人もの人が奴隷でした。やはりここにも繁栄の陰で泣く人たちがいたのです。やはりここにも真の救いを求める人はいたということです。神殿娼婦(売春婦)の中にもいたのかもしれません。体も心もボロボロの人たちがいた。パウロはこのコリントの町で主からこのように励まされました。「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。…この町には、わたしの民がたくさんいるのだから」(使1810)。このみことばでいつも思い出されるのは、私が神学生時代、週末ごとに新潟から長野に帰って来た時のことです。帰り道、峠の上から長野市街地が一望できる所を通って市街地に入って行きます。神学校はいわゆる「聖域」のような所ですが、そこを出て、いよいよ偶像と罪に満ちた世に突入するのだという覚悟というか、感覚にさせられるのです。そこで主の御声を聞くのです。「この町には、わたしの民がたくさんいるのだから」。
コリントの神殿娼婦のように、罪ゆえに死に、体も心もボロボロの人たち。また自らの弱さを覚える人たち。そのような人たちが真の救いを求め、福音に触れ、救われて、そして教会に連なる者とされる。そうなると様々な問題が山積されるのも不思議ではありませんね。しかし神はそのような教会を世の光として建てられ、用いられるのです。コリントは色々な意味で名声高い中心地でした。ゆえに福音の光が周りの地方に輝き渡り得るのです。神がイスラエルを選んで世の光としたようにです。そしてコリントで宣教されるものは、確実に広く伝わり広がって行き、ついには同じように偶像と罪に満ちた世に生きる私たちの所にまで届いたのです。これはまさに神がパウロに与えられたビジョン、宣教戦略でした。神と、そしてパウロとコリントの教会の様々な罪との奮闘に感謝といったところです。
手紙が書かれたきっかけ
さて、この手紙が書かれたきっかけは、パウロが前にコリント教会から受け取っていた手紙でした。しかし、パウロにとってもっと気がかりになったのは、この手紙を届けに来た人から聞いたコリント教会に関するニュースの方でした。
それによると、コリントの信者の行いは、人を不安に陥れるほど逸脱しているというのです。パウロを悩ませたのは、ある信者たちが異教社会との分離を、できる限り、何となくぼやかそうとする、この世と調子を合わせる傾向にあったことでした。教会はこの世の中に存在する。それはどうしても仕方のないことです。しかし、神の教会の中にこの世が存在すること、神の教会がこの世とあまり変わらないということは、あってはならないことであると、パウロは大いに悩むのです。
教会の中にこの世とまるで変わらない内部分裂がありました。また近親相姦や結婚外の性行為をはじめとする秩序の乱れがあり、教会はこれら違反者を何ら厳しくとがめ、戒め、正そうとはしていませんでした。仲違いもありました。実際にある教会員が他の教会員を裁判所に訴え出たということもありました(どこかで聞いたことのある話しですが)。これは正す必要がある。このようなひどい罪は教会の中で続けられてはならない。パウロはコリントの教会が軽く見ていた無秩序(パウロはこれを重大な罪と見ていた)を正すこと、また自分に出された問題に返答するため、さらに教理について、とりわけ復活の教理を教えるために、このコリント人への手紙が書かれたというわけです。とにもかくにも、コリント人への手紙は、コリントの教会の行為の刷新(良くない状態を除き去って、気風を全く新しくすること)を目指した手紙なのです。
そして紀元1世紀のコリント人に必要であったのと同じように、現代の私たちにもそれらは重要なのです。この手紙の受取人は、コリントの教会だけでなく、「いたるところ」で主イエス・キリストの名を呼び求めている「すべての人」に向けられていますから、それには現代の私たちも当然含まれるのです。何よりもコリントの教会が置かれていた環境とか問題は、今の私たちの教会と全く同じとは言えませんが、全く違うとも言えないのではないでしょうか。
パウロのあいさつ
いよいよ本題に入ってまいりますが、冒頭でも申しました通り、どの教会も多かれ少なかれ問題を持っているものですが、ここに登場するコリント教会ほど多くの深刻な問題を抱えた教会はそうないでしょう。使徒パウロは、コリントの教会をどう見ていたのでしょうか。パウロはコリント教会が内に持つ罪のゆえに、コリント教会の存在価値を否定していたのでしょうか。そうではありませんでした。この手紙によってコリント教会の問題、罪に対する非難叱責が炸裂するかと思いきや、驚いたことに、そこには神への感謝が満ちていました。どんなに堕落した教会の中にも、パウロはそこに神の恵みを見いだして感謝しているのです。その前に、いつもの手紙のように挨拶があります。しかしパウロの挨拶はただの挨拶ではありません。真理、そして恵みと平安に満ちています。
1章1節 神のみこころによりキリスト・イエスの使徒として召されたパウロと、兄弟ソステネから、
1章2節 コリントにある神の教会へ。すなわち、いたるところで私たちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人とともに、キリスト・イエスにあって聖なる者とされ、聖徒として召された方々へ。主はそのすべての人の主であり、私たちの主です。
先週は「教会」という語の持つ意味について触れましたが、実は「教会」とは、日常会話のギリシア語で世間に良くあるような集まりをも表す語なのです。1つの目的をもって集まる人たちの群れ。真の神を知らない、神の召しを知らない世の人々には、何かのサークル(同じ趣味や関心を持つ人々が集まって活動する団体)のような響きだったのでしょうか。そして私たちクリスチャンも、「神の声によって、神の召しによって呼び出され、集められた者たちの群れ」という意味での「教会」を無視して、むしろサークルのような響きの教会としてしまってはいないでしょうか。しかしたとえこの世的な「教会」であったとしても、神の息がかかるなら、神の霊、聖霊が注がれるなら、教会は他のどんな「集まり」とも違う、それは「神の教会」となるのです。「いたるところで私たちの主イエス・キリストの名を(心から)呼び求めている」人たちの集まり。それは「キリスト・イエスにあって聖なる者とされた」人たちの集まり。そして「キリスト・イエスにあって聖徒として召された人々の集まり」となるのです。
それでもコリントの教会は神の教会
パウロはコリント教会を「神の教会」と言います。問題が山積し混乱の極みにあった教会でしたが、それでも「コリントにある神の教会」でした。神ご自身が造り、神ご自身が支配される、神ご自身の教会だったのです。
「聖」という語の意味をもう一度確かめたいと思います。「聖」というのは、世の人々が思い浮かべる「高いモラルの人」といったものではありません。「神によって、神のために分離されたもの」という意味です。もちろん、高いモラルという性格が度外視されているわけではありませんが。
例えば、100均で買ったお皿でも、王様のために使うならそれは王様のためのもので価値あるお皿となります。100万円のお皿でも、犬のポチのために使うならポチのためのものであり、ポチには申し訳ないですが、それは価値あるお皿とはあまり言えませんね。
教会というのは、神がその名を置かれ、御目と御心を注がれる宮という1つの所に、キリスト・イエスを通して神のものとして取り分けられた者が、全知全能なる神によって召し出され集められた者たちの集まりです。問題のある人々が「キリスト・イエスにあって聖なるものとされ、聖徒として召された」という神の選びというのは、その人々の罪によっても、いかにその人が罪深くとも、ひっくり返されたり、否定されたり、無効にされたりすることはないのです。
神の召し、神の選びというのは、人間の努力によって獲得できるものではなりません。努力によって獲得することができるとすれば、それは当然の報酬であって、恵みではありません。またそのような召し、選びであるならば、それほど不安定で不完全なものはないでしょう。私たちが召されたこと、神によって選ばれたことは、真にただ恵みによるのです。感謝なのです。恵みを数えましょう。感謝を書き記しましょう。そこには父なる神と、主イエス・キリストによる恵みが満ち満ちていて、それこそ広い空に書いたなら、こんなにも広い空もたちまち狭くなるでしょう。世界中の海水をインクにして主の恵みを、主が私のためにしてくださったことを1つ1つ書いていったら、海の水もたちまち尽き果てるでしょう。
1章3節 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたにありますように。
「恵み」というのは、私たちに対する神からの無償のプレゼントです。そして厳密に言うなら、それはイエス・キリストを通して与えられるものです。「平安がありますように」というのは、ヘブル語の「シャローム」であり、日常の普通のあいさつです。ただし、シャロームには英語の「平安」が意味する以上の意味合いがあります。ただ争いがない状態のことではありません。神からの祝福がある状態のことを言います。「祝福」とは何だったでしょう。「神が膝を折られる」でしたね。そこには神との平和がある。争いがない。そして神の赦しがある。完全な赦しがあって、通り良き管のように神の祝福が、恵みが勢いよく流れ込んでくる。そしてその人はとりわけ霊的に豊かに栄えるのです。栄えて発展するのです。「私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたにありますように」。素晴らしい、教会にふさわしいあいさつですね。
パウロの感謝
4節からはパウロの感謝が述べられて行きます。ここの感謝は、この後パウロがコリントの人たちを厳しく批判しているところから、パウロの皮肉なのではないかと言われる方もいますが、私はそうは思いません。本当に皮肉だとしたら、パウロは相当性格が悪いです。あのパウロの感謝です。自分を罪人のかしらと呼ぶパウロの感謝です。誰が皮肉を込めて感謝など言えるでしょうか。
1章4節 私は、キリスト・イエスにあってあなたがたに与えられた神の恵みのゆえに、あなたがたのことをいつも私の神に感謝しています。
パウロは神に何を感謝しているのでしょうか。
欠点を挙げればきりがなかったにもかかわらず、それでもコリントのクリスチャン共同体は、偶像と罪に満ちた世にあって神に用いられ、彼らがそこで、それでも神によって聖められ、用いられ、彼らを通して福音が宣べ伝えられており、全世界で彼らの信仰が語り伝えられていることを感謝するのです。また、神と神の教会、そして主イエス・キリストを愛するゆえに、教会内部の争い、仲違い、性的乱れ、秩序の乱れを悲しみ、罪を悲しみ、その解決をパウロに求めて手紙が託された。その愛に感謝するのです。すべて神の恵みによるもの。
1章5節 あなたがたはすべての点で、あらゆることばとあらゆる知識において、キリストにあって豊かな者とされました。
「ことば」とは真理を語ること。「知識」とはその真理をしっかり理解することができるための知識、教え、知恵のことです。
そしてパウロは別のところで、それらは「聖霊を通して与えられている」と言っています。聖霊は助け主。私たちにすべてのことを教え、イエス様が教えてくださったすべてのことを思い起こさせてくださるお方。私たちは父なる神が主イエス・キリストを通して注いでくださった聖霊によって、あらゆる事の中に、神について、イエス・キリストについて、救いについて、人生について、また自然の中に満ちている神の恵みにいたるまで、すべて良いものを見いだすことができるのです。そして神への感謝に溢れる。そのような私たちの姿、生き様を世の人々は見るのです。それが福音の証しとなるのです。あの人たちは何なのだろうと。「悲しんでいるようでも、いつも喜んでいる。貧しいようでも、多くの人を富ませ、何も持っていないようでも、すべてのものを持っているではないか」と。
1章6節 キリストについての証しが、あなたがたの中で確かなものとなったからです。
この証しが、コリント人の中で確かになったのです。その恵みを、パウロは神に感謝しています。本当にこんな私が、と思われるでしょうか。しかし私たちの証しが用いられるのは、私たちの証しが世の人々の間で確かなものとされるのは、私たちの努力によるものではなく、神の恵みによるのです。聖霊によるのです。聖霊を通して与えられる「ことば」と「知識」。真理のことばとその真理をしっかり理解することができるための知識、教え、知恵によって変えられたパウロの生き様がコリントに住む人たちを変え、コリント教会を生み出したように、コリント教会の人たちの生き様、変えられた私たちの生き様を通して、世の人々の生き様が変えられて来た。教会に1人2人と罪人が悔い改めて、救いを求めて、私たちのように生きたいと願って加えられてきている。こんな私のように生きたいと願う人がいるだろうかと思われますか。私も先に救われておられた皆さんの姿を羨ましく思って教会に来た1人です。すべて神の恵みです。ここにパウロの私たちに対する慰めがあるのではないでしょうか。「ですからあなたは、私たちの主を証しすることを恥じてはいけません」(Ⅱテモ18)。
1章7節 その結果、あなたがたはどんな賜物にも欠けることがなく、熱心に私たちの主イエス・キリストの現れを待ち望むようになっています。
その結果、これらすべての結果、あなたがたはどんな霊の賜物にも欠けることがない。新改訳では省略されていますが、賜物とは霊の賜物のことです。賜物とは「カリスマ」。「カリス・恵み」の受け身形です。神が恵みによって私たちに与えてくださった霊的プレゼントは何でしょうか。御霊の実です。愛です。その愛の実の具体的なものとして、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制。御霊の実によって生きる人生、生き様。「悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、貧しいようでも、多くの人を富ませ、何も持っていないようでも、すべてのものを持っています」(Ⅱコリ610)。そしてそのような彼らは、また私たちは、最後まで、どんなことがあろうとも主を信じ、信仰に堅く立ち、主の再臨を待ち望む者たちとなっていた、なっているのです。神の恵みによって。
1章8節 主はあなたがたを最後まで堅く保って、私たちの主イエス・キリストの日に責められるところがない者としてくださいます。
1章9節 神は真実です。その神に召されて、あなたがたは神の御子、私たちの主イエス・キリストとの交わりに入れられたのです。
神の真実によって召し集められた教会
神は真実なお方。コリントの教会の人たちがどのような状態にあっても、彼らに対する愛、対応は決して変わらないお方です。このような真実な神が、コリントのクリスチャンを「召し」によって「私たちの主イエス・キリストとの交わり(教会)」に入れてくださったのです。そして彼らを恵みによって聖め、聖徒としてくださいました。聖徒の「徒」というのは、「ともがら」です。一緒に事をする仲間のことです。また弟子のことです。聖い神にある仲間、イエス・キリストの弟子、福音宣教のために用いられる者たちとしてくださったのです。そしてその通りのことをしてくださいました。
同じように、「神の教会。いたるところで私たちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人」、私たちもまた、真実な神によって召され、「私たちの主イエス・キリストとの交わり(教会)」に入れられた者たちです。聖い神にある仲間、イエス・キリストの弟子、福音宣教のために用いられる者たちとしてくださったのです。私たちがクリスチャンとなったのは、神の召しによるのであり、すべてが恵みです。「恵み・カリス」という語が形を変えると「理由」となります。恵みとは神の理由です。私たちの召しには神の理由がちゃんとあるのです。私たちの内に何か見いだしてくださり、それをご自身のものとしてくださり、用いてくださるのです。福音宣教のために。そしてその働き、つまり私たちの人生はキリストの日、終わりの日まで必ず守られ導かれて行くことでしょう。
キリストが教会の中心
最後に、私は今日の箇所で救い主の御名が繰り返し強調されていることに気づかされました。ギリシア語本文を見ると、1〜9節までの中で9回も主の御名が記されています。
キリストが絶対的にすべての中心であるということでしょう。私たちの中心であり、教会の中心であるということでしょう。当たり前のことですが、このことをしっかりと覚えたいところです。そうでないと、この世が言う「教会(日常会話の中でのギリシア語で、世間に良くあるような集まりの意味)」と変わらなくなってしまうのです。ただの趣味のサークルになってしまうのです。私たちの中心、土台、要石は救い主イエス・キリストであることを、ここにしっかりと覚えたいと思います。
そしてこのイエス・キリストを通して、神の恵みが注がれていることを覚えたいと思います。コリントの聖徒たちも、私たちも、以前は神にのろわれて当然の偶像礼拝者たちでした。しかし神は、ご自身に逆らいながら生きていた罪人を、イエス・キリストにあって召し、恵みを注いでキリストにあって聖め、キリストとともに永遠の御国に住まういのちを与えられたのです。そして、この世にある間も主とともに歩んで主を証しすることができるために、それぞれに賜物を豊かに与えられたのです。
神に感謝しなければならないことは尽きないのです。神のその恵みを改めて思い出しましょう。その恵みを思わずに、世の日常のことだけに振り回されて、日常のことだけに感謝しているのでは、大きな試練や困難にぶつかったときには神に感謝するどころか、神を恨むようになってしまいます。罪人をあわれんでくださった神の恵みを1つ1つ覚え、どんな状況でも神に感謝する私たちでいたいと願います。現実には問題が山積し、どんなに苦しく絶望的でも、神の恵みを思い出して神に感謝しましょう。そしてますます神を愛し、神の愛に応えたいと願う者とされてまいりたいと願います。