2025年11月2日 主日礼拝「神に与えられた賜物の用い方と目的」
賛 美
前奏(黙祷)
招 詞 詩篇100篇
讃 美 讃美歌67「よろずのもの」
主の祈り 讃美歌564「天にまします」
祈 祷
讃 美 讃美歌339「きみなるイエスよ」
聖書朗読 コリント人への手紙第一 14章1〜12節
説 教 「神に与えられた賜物の用い方と目的」
讃 美 讃美歌448「みめぐみを身にうくれば」
聖餐式 信仰告白 讃美歌566「使徒信条」
讃 美 讃美歌205「わが主よ、今ここにて」
献 金 讃美歌547「いまささぐる」
感謝祈祷
報 告
今週の聖句 コリント人への手紙 第一 14章12節
頌 栄 讃美歌541「父、み子、みたまの」
祝 祷
後 奏
本日の聖書箇所
コリント人への手紙第一 14章1〜12節
説教題
「神に与えられた賜物の用い方と目的」
今週の聖句
同じようにあなたがたも、御霊の賜物を熱心に求めているのですから、教会を成長させるために、それが豊かに与えられるように求めなさい。
コリント人への手紙 第一 14章12節
説教「神に与えられた賜物の用い方と目的」
コリント人への手紙第一 14章1〜12節
「賜物」と「御霊の賜物」の違いってなに?——
12章1節で「さて、兄弟たち。御霊の賜物については、私はあなたがたに知らずにいてほしくありません」と記し、パウロはコリントの教会からの質問状に記されていた質問「異言」について答えています。なぜコリントの聖徒は異言について質問したのでしょうか。「異言は本当に素晴らしい賜物(神からのギフト、良い贈り物)ですよね」などという穏やかな質問ではありませんでした。この異言によって教会の中に分争が起こっていて、「あれは一体何なのですか。異言の賜物を見せびらかし、自分は優れていると威張り、他人を見下し、教会を混乱させ、私たちを悲しませ、つまずかせているあの人たちをどうにかしてください」という、罪が赦され、神から多くの恵みをいただいている教会には到底似つかわしくない激しい訴えだったのです。異言の問題を扱う前にパウロは、それぞれに恵みによって与えられている賜物の素晴らしさ、どのような賜物であっても、それは神から神の愛と知恵、意図、みこころによってそれぞれに分け与えられたものであり「高価で尊い」のだということ。教会ではそれぞれ皆の賜物が必要であり、それぞれ皆の賜物によってキリストのからだである教会は成長して行くのだということを述べて励ましてきました。そしていよいよ、本当は良いものであるはずの異言の賜物がどうして悩みの種となっているのか。異言の問題の本質に触れていきます。ここのパウロの教えから、手紙の読者である私たちもまた、自分に与えられている賜物の用い方と目的、賜物を与えられた神の御旨を知ることができるでしょう。
ところで、パウロは「賜物」と「御霊の賜物」、2つの言い方をしています。ギリシャ語で賜物は「χάρισμα(恵みの受け身形)」、御霊の賜物は「πνευματικός」と、はっきりと区別しています。このことについて少し考えてみたいと思います。
「賜物」というのは、才能や手腕など、役に立つ良いもののことです。それはこの世のすべての人に与えられているのです。もちろん、与えられるのはすべての人の創造主であり父である神です。神を信じていない人にも、神に逆らう人にさえも与えられており、備えられているものです。その賜物に、神の霊、神の心、神の息(ギリシャ語ではどれもπνευμα)を注ぎ、つまり私たちを本当に生かす神のいのち、神の愛を注ぎ、それによって用いるならば、賜物(χάρισμα)は御霊の賜物(πνευματικός)に変化するのです。「τικός」というのは「〜的」と訳せるようで、つまり賜物は「御霊的賜物」にトランスフォームするのです。
この世の愛を注ぎ、この世の愛で用いるのではありません。世の中には善い行いや人道的な活動のために身を投じる素晴らしい人たちがいますが、しかし聖書が語り、神が人間に求めている愛は、イエス・キリストを通して人間にはっきりと示された神の愛のことです。この世に降られ、罪の世で生きられたイエス・キリストの御姿、生き様に見る神の愛のことです。ご自分のためではなく、弱く貧しい者を助け、人に仕えられるのではなく人に仕え、最終的には罪人を救うためにご自分のいのちまでも差し出された愛のことです。そしてこの愛は、当然イエス・キリストを信じることなしには本当には知ることができないのです。知っていなければ当然自分に与えられている賜物に注ぐことができないのです。この愛なしに、それがどんなに良い賜物(才能や手腕など、役に立つ良いもの)だとしても、やはりどこかでこの世的で完全ではないのです。自己中心的な思いや、自分の利益を追求するなどといったことが見え隠れしてしまうのです。それは結局自分自身を建て上げることになり、本当に隣人を建て上げることにはならないのです。この世は誰かが生きるためには誰かが死ななければならない世だからです。神の愛を知らずして、どうして誰かのために自分が死ねるでしょうか。
パウロは12章31節で「よりすぐれた賜物を熱心に求めなさい」と勧めます。私たちが熱心に求めるべき、よりすぐれた賜物。それは自分にすでに与えられている賜物に神の霊、神の息(πνευμα)をフーッとかけ、神の愛を吹きつけ、それで完全に覆い、トランスフォームし、そして用いて行く御霊の賜物(πνευματικός)のことです。ですからどうしても神の愛を知らなければなりません。神の愛を熱心に求めなければなりません。なぜなら、私たちが知る神の愛は、まだまだほんの一部分だからです。広くて深い海のような神の愛に対して、私たちが知っているのは海辺の砂浜に打ち寄せては返す波しか見ていないからです。
パウロはまず愛を追い求めることを命じます。なぜならば、いかなる賜物であっても、本当の愛、イエス・キリストに見る完全な愛がなければ、神が私たちに与えられ備えられている賜物は本当の価値を失ってしまうからです。そのような賜物は無意味であり、いやそれ以上に人や教会に害を及ぼすものになってしまうのです。私たちに賜物を与えられ、そして御子イエス・キリストのいのちをもって私たちを愛し、救ってくださり、私たちを信じて「あなたが必要だ」として教会に召してくださった神を失望させ、悲しませることになってしまう。私たちは神と神の恵みに対する感謝、尊敬、神への愛をどのようにあらわしていったら良いのでしょうか。「私たちが御子イエス・キリストの名を信じ、キリストが命じられたとおりに互いに愛し合うこと、それが神の命令(お望み、御旨)です」(Ⅰヨハ323)。
預言と異言
14章1節 愛を追い求めなさい。また、御霊の賜物、特に預言することを熱心に求めなさい。
パウロは勧めます。「愛を追い求めなさい。また、それから、さらに、霊的な賜物を熱心に求めなさい。特に、預言の賜物を熱心に求めなさい」と。
パウロはまず、愛を追い求めることを命じます。この「追い求めなさい・διώκετε」というギリシャ語は、例えば猟犬が獲物を見つけると全力で熱烈に追うようにして追い求めなさいというものです。神の愛を全力で追い続けなさい、どこまでも限りなくあきらめずに追求し続けなさいということです。そうして熱心に「賜物」を愛によって「御霊の賜物」にして行きなさいと命じるのです。そして御霊の賜物の中でも特に「預言の賜物」を熱心に求めなさい。あなたは預言の賜物を得ようと熱心に努力しなさいと命じられるのです。追い求めることにも、熱心に求めることにも、「求め続ける」ことが命じられています。
パウロが霊的な賜物の中で、特に預言の賜物を熱心に求めるべきとする理由は何でしょうか。それは2節以下に記されています。
14章2節 異言で語る人は、人に向かって語るのではなく、神に向かって語ります。だれも理解できませんが、御霊によって奥義を語るのです。
1節で預言を強調した後で、コリント教会で問題となっていた異言についての検討がされます。
ところで、聖書を見ると、どうやら異言には2種類あるようです。パウロは13章1節でも「人の異言(人の舌・ことば)」と「御使いの異言(御使いの舌・ことば)」と言っています。人の異言というのは、世界各国の言語、あるいは方言を指します。ペンテコステの日に降った異言。それは言語を学んで習得したわけではない弟子たちが突然「他国のことばで話しだし」、各国から集まっていた群衆はそれを聞いて驚き合いました。これは御霊のみわざによって語られたのでした。それはすべての国の民族に福音を伝えるために、すべての国の人が福音を聞いて理解できるように御霊が行われた特別なみわざでした。しかし14章2節で言われている「異言」とは、それとは明らかに異なっているようです。人に向かって語るのではないもの。そしてだれもそれを理解できないとあるからです。コリント教会で問題となっていた異言は、「御使いの異言(御使いの舌・ことば)」によって語るものでした。
一般的に「御使いの異言」の内容というのは、「神の奥義(=福音)」を語るというよりは、「心の秘密」を神に向かって語ることを言っています。誰にも分からないことを、ただ神との個人的な交わりの中で神に向かって語るのです。そしてその異言の内容は、おもに人間の側から神にささげる祈り、もしくは賛美と解釈することができると思います。それはとても素晴らしいことではないでしょうか。14章4節でも言われているとおり、そのように異言で語る人は自分自身を成長させるからです。ますます神への愛、感謝、尊敬が増し加えられ、自分自身が建て上げられていくからです。
しかしパウロはここでは批判的なのです。どうやらコリントの教会の礼拝では、公の祈りでも異言で長く祈ることにこだわる人たちが一定数いたようです。例えば礼拝の中の司会者の祈りや献金の祈りも、誰も理解できないギリシャ語で長々と祈られたり、言語ばかりではなく、祈る人だけが理解していて、他の誰も理解できないような信仰理解や感謝や賛美を長々と祈られたりしたならば、皆さんはどう思われるでしょうか。あの人は褒められたいのか、崇められたいのか。一緒に礼拝している自分たちがなおざりにされているなどと思ってしまわないでしょうか。パウロは「あなたがたが感謝するのはけっこうですが、そのことでほかの人が育てられるわけではありません」(1417)と注意を与えています。
一方、「御霊の賜物、特に預言することを熱心に求めなさい」とパウロが命じる「預言」は、聞く相手を育て、また教会を成長させます。
14章3節 しかし預言する人は、人を育てることばや勧めや慰めを、人に向かって話します。
14章4節 異言で語る人は自らを成長させますが、預言する人は教会を成長させます。
14章5節 私は、あなたがたがみな異言で語ることを願いますが、それ以上に願うのは、あなたがたが預言することです。異言で語る人がその解き明かしをして教会の成長に役立つのでないかぎり、預言する人のほうがまさっています。
パウロはコリントの聖徒たちが全員、異言で語ること、つまり神との個人的な交わりの中で神の霊に満たされて、神への祈り、感謝、賛美に満たされ、自分自身を成長させることを願っています。しかしそれ以上に願うのは、全員が預言することでした。
ここで言われる「預言」は、つまり「説教」です。御霊に従って神の働きとメッセージを伝え、理解を助け、それに従うよう力づけ、励まして促すものです。また勧め、慰め、警告として伝えられることもあるもの。しかし預言者というのは、旧約聖書の預言者を見ると分かるとおりに、ただみことばを調べ、語れば良いというものではないのです。聖霊に満たされ、また普通の人では経験しないようなことを実際に経験させられ、それを通して神を知り、神のご計画、神のみこころ、本当の神の愛を知らされて行く。まず自らが神に取り扱われ、悔い改めを迫られ、その経験をもとに人々に分かるように伝えなければならない。それが預言の賜物が与えられた預言者の役目です。そしてまた私たちは全員、預言者として神に召されています。モーセは言ったではありませんか。「主の民がみな、預言者となればよいのに」と。この言葉にはモーセの様々な思いが込められてはいますが、ここでは「皆が神の愛を本当に知り、様々な実際的な経験を通して神の愛を本当に知らされて行き、成長した大人になり、人を育てることばや勧めや慰めを、人に向かって話す人になって欲しい」というパウロの願い、いや神の願いにつなげておきましょう。
しかしここでパウロが言いたいことは、全員が文字通りの預言者になりなさいということではありません。全員が同じ器官だったらからだは成り立たないと語ったばかりです。あなたがたそれぞれにすでに与えられ、備えられている異なった賜物を、それぞれが神の愛によって御霊の賜物へと昇華しなさいということです。自らを建て上げるためではなく、人を建て上げ、教会を建て上げる賜物へと高めて用いなさいということです。だからこそ、神の愛を全力で追い続けなさい、どこまでも限りなくあきらめずに追求し続けなさいというのです。そうして熱心に賜物を本物の御霊の賜物にして行きなさいと命じられるのです。異言のように、自分の賜物をただの自己満足や自己アピールのために用いるのではなく、また、自分だけが分かる形で用いるのではなく、相手の益となるために、相手が理解できるように愛をもって、時には自分を殺してあなたの賜物を用いなさいということです。その結果、自分も相手も成長し、教会が成長することになるのです。
解き明かしのない異言の欠陥
続けてパウロは6節から、異言の賜物のように愛がなく、相手に関心もなく、それによって誰にも理解されない自己満足によって賜物を用いることは、人の信仰の成長にまったく役立たないどころか、自分にとっても、他人にとっても危険極まりない恐ろしいことであることを教えるために、続けて異言を例にあげて説明します。
異言が問題となる理由は、つまりは声を出しても全く意味が分からないという点にあるのではないでしょうか。その内容がいかに重要なものであっても、相手に伝わらなければまるで意味がないということではないでしょうか。
14章6節 ですから、兄弟たち。私があなたがたのところに行って異言で語るとしても、啓示か知識か預言か教えによって語るのでなければ、あなたがたに何の益になるでしょう。
パウロがコリントに来て、自分を建て上げるためだけの異言だけを語った場合を想定すれば、その異言の無益さは明らかです。
パウロは自分に与えられている賜物を認識していたことでしょう。生まれ育った環境、受けた教育、経験を通して知らされたこと、イエス・キリストから直接受けた奥義。それらをコリントに来て、異言として神に向かって誰からも理解してもらえない言葉で祈ったり、感謝したり、賛美したりしても、コリントの人々には何の役にも立たないことを知っていました。それでは自分だけが建て上げられ、人々は自分を非難し、妬み、人々をつまずかせてしまうことが予想できていたのでしょう。しかし預言することは違います。預言は自分が預言者として経験し教えられたこと、神のみことばによる啓示、知識、教えを語り、相手の徳を高め、勧めをなし、慰めを与えるために、人に向かって話すものです。そして人が聞いて理解できるように一生懸命努力や工夫をして話すものでしょう。私がそのようにしてはじめて、あなたがたコリントの教会に益をもたらすことになる、建て上げることになるのではないですかと問いかけ、異言をはじめとするあなたがたそれぞれに与えられている賜物についても考えてみるようにと促しています。
また、異言のように自己満足で人に伝わらない賜物がもたらす危険にはこのようなものもあります。
14章7節 笛や竪琴など、いのちのない楽器でも、変化のある音を出さなければ、何を吹いているのか、何を弾いているのか、どうして分かるでしょうか。
逆に言えば、いのちのない楽器でも、奏でる人が心を込めて、人に伝わるように感情や愛を込めて演奏するならば、必ず相手に伝わるものがあるということでしょう。その音楽、賛美を聞いた人は慰められ、励まされ、それが礼拝の中で奏でられるものであるならば、神の愛が迫り、その愛によって再び力を得るということもあるでしょう。神学生の頃、コーラスの授業で教わったことがあります。それは「言葉を大切にして発する」ということでした。「主」と賛美する時も、だらしなく「主」と賛美するのではなく、心から主を仰ぎ、主と認め、大切に「主」と賛美するのだと。そうして主の偉大さが伝わり、栄光があらわされるのだと。私たちの賛美も、言葉に込められている意味や思いを大切にして、人に伝わるように賛美するならば、賛美はすばらしい伝道、あるいは説教になるのです。聞く人の信仰を建て上げるものになるのではないでしょうか。その逆も然りです。
14章8節 また、ラッパがはっきりしない音を出したら、だれが戦いの準備をするでしょう。
「ラッパ」「戦い」と聞くと私たちはハッとするのではないでしょうか。「世の終わりのラッパ」を思い起こすのではないでしょうか。ラッパは攻撃や退却の合図を知らせる楽器です。それなのに、はっきりしない音を出したら、今戦うべきなのか、今退却すべきなのかが分からず、とても危険です。相手を死なせ、滅ぼしてしまうことになります。そしてここにラッパを吹く者、つまり預言者として召されている私たちに対する警告も含まれています。
「さて、その人が、剣がその地に来るのを見て角笛を吹き鳴らし、民に警告を与えた場合、角笛の音を聞いた者が警告を聞き入れないなら、剣が来てその者を討ち取るときに、その血の責任はその者の頭上にある。角笛の音を聞きながら警告を聞き入れなければ、その血の責任は彼自身にある。しかし、警告を聞き入れていれば、その者は自分のいのちを救う。しかし、見張り(預言者、私たちキリスト者)が、剣の来るのを見ながら角笛を吹き鳴らさず、そのため民が警告されず、剣が来て彼らの中の一人を討ち取った場合、その者は自分の咎のゆえに討ち取られるが、わたしはその血の責任を見張りに問う。』(エゼ333-6)ラッパを吹き鳴らさず、福音を伝えず、警告を与えず、自分だけが助かって神の御前に立つ時、神は血の責任を私たちに問われるのです。
14章10節 世界には、おそらく非常に多くの種類のことばがあるでしょうが、意味のないことばは一つもありません。
14章11節 それで、もし私がそのことばの意味を知らなければ、私はそれを話す人にとって外国人であり、それを話す人も私には外国人となるでしょう。
コリントの町には多くの国々から人々が来ていたので、コリントの聖徒は言葉の通じない外国人たちに慣れてしまっていました。そして「外国人」と訳されていますが、本来の意味は「野蛮人」です。言葉が通じないせいで、お互いがお互いを「野蛮人」と見下していたのです。素晴らしい福音を語っても、言葉や価値観が通じないからと言って相手に寄り添わず、諦めて何とか伝えようと努力もしないなら、ただの野蛮人で片付けられてしまう。私たちも相手を野蛮人で片付けてしまう。良くないですね。
相手の益となり、相手が建て上げられるために、大切なことを相手に伝えるにはどうしたら良いのでしょうか。自分を低くし、相手を愛し、相手に関心をもって、相手の益のために、心を込めて、霊を注いで、御霊で満たして、イエス・キリストを通して知らされ経験した神の愛ですべてを覆い、諦めずに相手の益を図り、相手を建て上げるために、与えられ備えられているそれぞれの賜物をもって神と隣人に仕えて行くのです。そうすれば伝わるのです。そうすれば救われるのです。伝えられる側もまた、愛によって受け取らなければなりません。相手が伝えようとしてくれているのに、愛なく、関心なく、相手の心を知ろうともせずに人の親切や忠告などを拒否してはならないのです。
教会を成長させるために
14章12節 同じようにあなたがたも、御霊の賜物を熱心に求めているのですから、教会を成長させるために、それが豊かに与えられるように求めなさい。
神はご自分の民に恵みによって賜物を与えられました。その賜物をもって人に仕え、人に益を得させることを願っておられます。神との関係の回復、救い、永遠のいのちを得させることを願っておられます。与えられ、備えられている才能や手腕など、役に立つ良い物をもちながら、それを使用せずに放っておいてはならないのです。「宝の持ち腐れ」です。また、与えられた賜物をもって人に仕える時にも、あなたの益のためである、あなたを愛し、心から大切に思っているという自分の思いや愛を、相手に理解してもらえるように用いなければなりません。そうでなければ、せっかくの良い賜物をもっての奉仕も、相手を傷つけ損なうことになってしまうからです。それもまた「宝の持ち腐れ」です。
そしてまた、愛に偽りがあってはならないことは言うまでもないでしょう。偽善であってはならないのです。それはやはり、パリサイ人のようであり、人をさばくものであり、自分だけを高くするだけのものとなってしまいます。相手を建て上げるどころか、つまずかせることになり、教会が立て上げられるどころか、教会を倒れさせるものとなってしまいます。
「あなたがたも、御霊の賜物を熱心に求めているのですから、教会を成長させるために、それが豊かに与えられるように求めなさい。求め続けなさい」。
あなたの賜物は何でしょうか。あなたは何に召されているのでしょうか。そのことを教会を成長させるために追い求めましょう。熱心に求め続けましょう。神は必ず良い贈り物を与えてくださっています。神からの良い贈り物は、それを受けた人に楽しみと益をもたらすものです。そして神は賜物を与えてくださり、それを通して教会と兄弟姉妹に益を与えようとされました。私たち教会がそれぞれに与えられている賜物を活かして用いる時、教会は喜びと楽しみと益にあふれるようになります。自分も賜物を用いることに喜びを見いだします。賜物を用いて愛を実践していくなら、私たちは多くの良い実を結んで行きます。御霊の実を結ばせて行きます。その実が本当に自分に与えられている御霊の賜物かどうかを判断する材料となるでしょう。
神が与えてくださった賜物で、私たちは良い実を結べているかを振り返ってみましょう。賜物を正しく用いて、兄弟姉妹が神の愛をさらに知り、神と隣人に喜んで仕えることができるように、お互いに助け合っていきましょう。そして教会が健全に成長して行き、この世の終わりの時にあって、倒れずに、倒されずに、神のわざ、御霊のわざ、福音を力強く伝えて行けるように力を尽くしてまいりましょう。

