2025年11月23日 主日礼拝「福音の核心に立って生きる幸い」
賛 美 新聖歌316「みことばなる」
新聖歌324「主と主のことばに」
前奏(黙祷)
招 詞 詩篇95篇1〜8節
讃 美 讃美歌4「よろずのくにびと」
罪の告白・赦しの宣言
信仰告白 讃美歌566「使徒信条」
主の祈り 讃美歌564「天にまします」
祈 祷
讃 美 讃美歌249「われつみびとの」
聖書朗読 コリント人への手紙 第一 15章1〜11節
説 教 「福音の核心に立って生きる幸い」
讃 美 讃美歌495「イエスよ、この身を」
献 金 讃美歌547「いまささぐる」
感謝祈祷
報 告
今週の聖句 コリント人への手紙 第一 15章2節
頌 栄 讃美歌541「父、み子、みたまの」
祝 祷
後 奏
本日の聖書箇所
コリント人への手紙 第一 15章1〜11節
説教題
「福音の核心に立って生きる幸い」
今週の聖句
私がどのようなことばで福音を伝えたか、あなたがたがしっかり覚えているなら、この福音によって救われます。そうでなければ、あなたがたが信じたことは無駄になってしまいます。
コリント人への手紙 第一 15章2節
「福音の核心に立って生きる幸い」
コリント人への手紙 第一 15章1〜11節
【ギリシャ語一口メモ】
- 「救われます・σῴζεσθ」(2節)現在形であり、パウロはこの救いが過去の出来事なのではなく、現在も進行していて、繰り返されることだと言っている。
- 「よみがえられた・ἐγήγερται」(4節)現在完了受動態。「起こされた」を意味する。すでになされたこと。そしてずっと継続していること。
- 「多く働いた・ἐκοπίασα】原形の名詞形は「叩くこと、鞭打ち、ひどく殴られること」と、そのような鞭打ちによって「疲れていること、くたびれた状態」を意味する。
それぞれの「救済史」——
「救済史」という言葉をご存知でしょうか。救済史というのは、神が人類を罪から救うために、世界の創造から終末に至るまで計画的に行ってきた実際のお働きを歴史的に捉えたものです。この世の歴史が過去の出来事の変遷やその経過を記述したもので、もちろんそれは実際に起こったことの記録であり、人間の想像による創作ではありません。それと同じように、聖書に記されている救済史、神による救いの歴史、霊的な歴史も、人間の想像による創作ではなく、実際に起こったことの記録です。この救済史、救いの歴史こそ、聖書が初めから終わりまで一貫して「証言」しているものです。そしてその救済史、神による救いの歴史は、イエス・キリストの再臨によってもたらされる救いの完成、神の国の完成に至るまで今も、これからも確実に進んでいるのです。旧約聖書の言語であるヘブル語はおもしろいもので、将来確実に起こることは完了形で記されるのです。たとえばイザヤ書9章6節に「ひとりのみどりごが私たちのために生まれる」とありますが、ヘブル語では「生まれた」となっているのです。そして神のことば(約束・契約)である旧約聖書が、すべてこの完了形で記されていることはとても興味深いところであり、また心に留めておいて良いことだと思います。

その聖書全体が証言する「救済史」ですが、ある先生はこれを大まかに4つの過程に整理しました(図1)。
①創造 ②堕罪 ③救済 ④完成です。世界の創造があり、堕罪があり、そこに神の救いの御手が伸ばされ、神による救済があり、そして完成がある。
この救済史は、そのまま私たちそれぞれにも当てはまるものです。少し時間を割きますので、皆さんそれぞれの「救済史(救いの歴史)」を思い起こし、可能であるならば大まかに書いてみてください。自分が生まれてからこれまで、そしてこれからの救いの歴史です。①創造 ②堕罪 ③救済 ④完成です。

どこに神の救いの御手が伸ばされましたか。そこにイエス・キリストを信じる信仰もきちんと記されているでしょうか。この時イエス様を信じる信仰が与えられたなぁと、十字架の印を書き込んでも良いでしょう。矢印の方向線がジグザグになっている方もいたりしますか(図2)。
そしてゴールとなる完成の部分には何が記されているでしょうか。イエス・キリストの再臨がありますか。神の国の完成がありますか。天の御国に入れられる自分がおられますか。もし記されていないなら、すぐにでも記してください。神のあなたへの約束ですから。そして初めから終わりまで、イエス・キリストの福音、十字架、死、復活、その復活に与って永遠のいのちを生きているのだ、生きて行くのだ、生かされて行くのだという信仰がきちんと見られるでしょうか(図1、図2)。

パウロはガラテヤ人への手紙の中で読者にこのようなことを問うています。「これだけは、あなたがたに聞いておきたい。あなたがたが御霊を受けたのは(救われたのは)、律法を行ったからですか。それとも信仰をもって聞いたからですか。……あれほどの経験をしたのは、無駄だったのでしょうか。まさか、無駄だったということはないでしょう。あなたがたに御霊を与え、あなたがたの間で力ある(救いの)わざを行われる方は、あなたがたが律法を行ったから、そうなさるのでしょうか。それとも信仰をもって聞いたから、そうなさるのでしょうか」(ガラ34-5)。パウロは「あれほどの経験をしたのは、無駄だったのでしょうか」と言います。「あれほどの経験」は、「あれほどの苦しみ」とも訳せるところです。先ほどの「自分救済史」の救いの部分には、恐らくそれぞれの「あれほどの経験、あれほどの苦しみ」が記されていることでしょう。そこから救い出された時、私たちはどのようにして聖霊が注がれ、信仰が与えられましたか。神に救いを求め、しかし自分の罪がはっきりと示され、そこにイエス・キリストの十字架の福音が目の前に置かれ、それを見つめ、吟味し、それが私を救い得るものだとして依り頼み、そこに聖霊が働かれ、「イエス・キリストは私の救い主です」と告白するに至り、そして救われた。そして「こんな私をも救ってくださったのだ」という、神の愛、あわれみ、神の大きな恵みがあったことも、自分救済史の初めから終わりまでを見つめるならば、おのずとそこに記録されるのではないでしょうか。「神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます(Ⅰコリ1013)。神は私たちが経験する苦しみの中でこそ、真に神を知ることへと導かれるお方です(図1)。
その苦しみに意味があるとすれば、そのような経験でこそ、私たちは神を本当に知るべきほどに知ることを学ぶのではないでしょうか。そしてそれは繰り返されるものなのかもしれません(図2)。

基本的信仰の確認
15章1節 兄弟たち。私があなたがたに宣べ伝えた福音を、改めて知らせます。あなたがたはその福音を受け入れ、その福音によって立っているのです。
15章2節 私がどのようなことばで福音を伝えたか、あなたがたがしっかり覚えているなら、この福音によって救われます。そうでなければ、あなたがたが信じたことは無駄になってしまいます。
今日の箇所でパウロはまず、コリント教会に当初から伝え、コリント教会も受け入れていた基本的信仰を確認するところから始めます。彼らには多くの賜物もあり、神秘的な経験もしていましたが、福音に対する正しい知識と理解が乏しかったのでしょうか、信仰が弱く、また問題も多く、教会全体が救いから離れ、むなしい信仰生活に陥ってしまう可能性がありました。パウロはそのことをとても心配していました。そこでパウロは、キリスト教信仰の本質である福音の核心を、彼らがしっかりつかむことができるように導こうとします。福音の核心というのは、イエス・キリストが死と復活によって罪人の救いを完全に成し遂げ、それが唯一の救いだということです。そしてその唯一の救いとは。来週から今年もアドヴェントに入りますが、神が御子イエス・キリストをこの世に送られ、この時から唯一の救いの、唯一の道(方法・基準)が全人類の目の前にはっきりと置かれたのです。それはイエス・キリストの十字架と復活を信じる者には永遠のいのちを。信じない者には永遠の滅びをというものです。しかしここにも「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるため」(ヨハ316-17)であることを覚えていなければなりません。
この福音の核心は、人間による創作やねつ造ではありません。それはすでに旧約の預言者たちによって様々な形で伝えられてきた内容であり、実際に起きたことなのです。神の救済史です。そして救済史はイエス・キリストの十字架の死によって終わったのではありません。イエス・キリストの復活によってやがて神の国の完成に至るまで、確実に成就して行くのです。預言者のことば、そして使徒(イエス・キリストの復活の証人)の教えを通して、イエス・キリストの福音の核心を確かに信じるならば、私たちは終わりの日に至るまで、人の悪巧みや人を欺く悪賢い策略から出た、どんな教えの風にも、吹き回されたり、もてあそばれたりすることがなく(エペ414)、堅く信仰に立ち続けることができるのです。私たちの救いのゴールは、この世の価値観による幸福、平安で終わるものではないのです。もっとはるかに優れた、素晴らしい救いの完成、神の国、天の御国に永遠に生きることであることを、覚えて、見据えていなければもったいないのです。私たちが信じたことが無駄になってしまうのです。
1節は別の訳(新共同訳)では「きょうだいたち、私はここでもう一度、あなたがたに福音を知らせます。私があなたがたに告げ知らせ、あなたがたが受け入れ、よりどころとし、これによって救われる福音を、どんな言葉で告げたかを知らせます。もっとも、あなたがたが無駄に(一時の感情や熱意だけで)信じたのではなく、(良く吟味し、受け入れ、そして)今もしっかりと覚えていればの話ですが」となっています。
パウロは「兄弟たち。私があなたがたのところに行ったとき、私は、すぐれたことばや知恵を用いて神の奥義を宣べ伝えることはしませんでした。なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリストのほかには、何も知るまいと決心していたからです」(21-2)という決心によって、イエス・キリストの、しかも十字架につけられ死なれ、そして復活された福音だけを真っ直ぐに語りました。彼らはそれを聞き、それを吟味し、福音を受け入れ、自分を救うことができるものとして依り頼み、アーメン(私はその上にしっかりと立ちます)と告白し救われたのです。そしてパウロは「あなたがたがしっかり覚えているなら、この福音によって救われます」と言います。パウロはここで「救われます」と現在形で記し、この救いが過去の出来事なのではなく、現在も進行していて、繰り返されることだと言っています。そして救われる条件として「あなたがたがそれをしっかり覚えているなら」としています。「覚えているなら」という語も、「しっかりつかんで離さない」ことを意味しています。
福音の内容
パウロは3節から、パウロが彼らに伝えた福音の核心を改めて伝えます。
15章3節 私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、
15章4節 また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと、
これこそ福音の核心です。私たちに伝えられ、私たちが信じ、私たちがしっかりつかんで、決して離してはならない信仰です。また私たちが宣べ伝えるべき証言です。パウロはこの福音の核心(中心的な内容)を整理して3つのことを語ります。それはパウロが復活のイエス・キリストと出会い、その後アラビアの荒野での3年間、聖書のみことばと真剣に向き合い、自分の人生(救済史)に一つ一つそれを重ね合わせるようにして確認していったものでした。聖霊に導かれ、まさに目からウロコが落ちるようにして、「あぁ、それは本当だったのだ」と確かめたものでした。私たちも先ほどの「自分救済史」に重ね合わせ、改めて確認すると良いでしょう。
「キリストは、聖書(神の救済史)に書いてあるとおり、私たちの罪のために死なれたこと」。パウロの言う聖書は旧約聖書のことです。パウロはイザヤ書52〜53章を念頭に置いていたのかもしれません。それは「苦難のしもべ」として救い主イエス・キリストが記されているところです。私たち罪人が当然受けるべき罰を、イエス・キリストが十字架でその身に負ってくださり、本当に苦しまれ、そして死んでくださった。そのおかげで私たちの罪が赦され、神の怒りが完全に宥められ、神に赦され、神との関係が完全に修復された。2度と神にさばかれることはない。もし「私たちがさばかれるとすれば、それは、この世とともにさばきを下されることがないように(必ず天の御国に至ることができるように)、主によって懲らしめられる(軌道修正される=図2)、ということなのです(1132)。
「キリストが葬られたこと」。キリストがポンテオ・ピラトという人が歴史上に存在していた時代に、確かに死なれたことは、私たちの罪のために苦しまれ死なれたことの否定できない歴史的事実となりました。その記録は使徒たちによって記録されたのみならず、当時の絶対的権威であったローマによっても記録されたことでしょう。
「キリストが聖書に書いてあるとおりに、3日目によみがえられたこと」。ここの聖書も旧約聖書です。旧約聖書に通じていたパウロは、その中にキリストの復活の預言に目が開かれたのです。具体的には示されていませんが、たとえば代表的なところとして詩篇16篇、ホセア書6章、ヨナ書が新約聖書のあちらこちらで引用されています。また「よみがえられた」というギリシャ語は、現在完了受動態で記されており、イエス・キリストの復活は神の御手によってすでになされたこと、そしてそれはずっと継続していることを示しています(図1、2)。


イエス・キリストの十字架の死と復活は、「聖書の示すとおり」なのです。つまりイエス・キリストの十字架の死と復活は、人間の創作によるねつ造ではなく事実であり、神の救済史において、あらかじめ神が用意された救いの計画の成就であり、約束の成就なのです。核心なのです。そしてやはりその福音の核心の中に、何としてもあなたを救いたい、幸せにしたいという神の深い真実の愛とあわれみ、恵みを見いだすべきでしょう。イエス・キリストの十字架の苦しみ、そして死で終わってしまっていたならば、もしかしたら私たちは神の怒りという理解で終わってしまっていたかもしれません。しかし神はイエス・キリストを死で終わらせず復活させられたことにより、ご自身の深い真実の愛、何があろうとも決して変わったり取り消されたりすることのない愛とあわれみをはっきりと示してくださっておられるのです(図2)。私たちは何があっても私たちを愛し続けてくださる神の愛に応え、信じて依り頼み、このイエス・キリストの十字架の死と復活という福音の核心にしっかりと立ち続けなければなりません。しがみついて離してはならないのです。無駄にしてはいけないからです。
復活の証人
イエス・キリストの復活には、使徒をはじめ多くの証人がいました。大多数は当時まだ大多数が生きており、イエス・キリストの復活の証言をしていました。またすでに眠った人、死んだ人も何人かいました。その死の原因は、迫害によってでしょう。ステパノのように、イエス・キリストの復活を証言したことによって殺されてしまった人たち。しかし彼らは迫害されながらも、強い反対をされながらも証言を止めませんでした。止めることができませんでした。イエス・キリストの復活が紛れもない事実だったからです。偽証のために命を捨てたり、命を危険にさらしたりすることのできる人はいないでしょう。それこそがイエス・キリストの復活が紛れもない事実であることの証拠です。
パウロ自身の証言
15章8節 そして最後に、月足らずで生まれた者のような私にも現れてくださいました。
15章9節 私は使徒の中では最も小さい者であり、神の教会を迫害したのですから、使徒と呼ばれるに値しない者です。
パウロは最後に自分をイエス・キリストの十字架の死と復活の証人として立てます。
これはあくまでも当時の考えとしてですが、当時は早産の子は正常な人間ではないと見られていました。つまりパウロは、自分こそが早産の子どものように無価値な者であることを告白しているのです。またパウロは、自分こそが「罪人のかしら」であることを認め、告白しています。パウロは復活のイエス・キリストに出会う以前は教会を迫害していたことを認めています。ステパノをはじめ、「すでに何人か眠った人」を、直接ではなかったかもしれませんが、キリスト者殺害計画に加担していた。そのような自分を使徒の中で「最も小さい者」だと言っています。これは「小さい(little)」の最上級(little<less<least)で、これが名詞になると「最低」となります。自分は「最低人間だ」とパウロは言うのです。
そのようなパウロでしたが、復活のイエス・キリストと出会い、荒野で聖書のみことばと自分の人生に向き合い、つまり自分の「救済史」を振り返り、神の恵みの大きさに気づかされ、悟らされました。救済史の救いの所に、罪から救い出された所に、イエス・キリストの十字架の福音の核心、十字架の死と復活をはっきりと見いだしたのです。
15章10節 ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは無駄にはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。働いたのは私ではなく、私とともにあった神の恵みなのですが。
パウロは自分の罪、弱さを通して神の恵みの大きさを悟らされました。それによってパウロは、かつては教会に対する大迫害者だった「最低人間」である自分が、異邦人宣教の使徒として使命を受けたのは、もう神の恵み以外にほかならないと、疑いもなく確信できたのです。


「自分救済史」を振り返り、そこでイエス・キリストの十字架の福音の核心に立つ時、神の大きな恵みを知り、その確信と恵みによって私たちはパウロのように残りの人生を活き活きと目的をもって生きることが出来るでしょう。私のような最低人間に神は救いの御手を伸ばしてくださり、そこでイエス様が出会ってくださり、罪赦され、今、神を礼拝することができる者、神に祈ることができる者、神と親しく交わることができる幸いな者とされている。そして神の国、天の御国に至ることができる者とされている。また、「自分救済史」を振り返るなら、イエス・キリストに出会う以前も、様々な危険、滅びから守られていたことを知るのではないでしょうか(図1)。本当に神の愛と恵みが注がれていたことに気づかされるのではないでしょうか。パウロがガラテヤ書で告白しているように「神が母の胎にあるときから私を選び出し、恵みをもって召してくださっていた」(ガラ115)としか考えられない大きな恵み。神が私をずっと前から覚えていてくださっていた。しっかりつかんで離さないでいてくださっていた。それで今がある。それで未来がある。その確信に満ちた人生が、どれほど祝福され、素晴らしく喜ばしいことであるかを、私たちは日に日に知らされて行くことになるでしょう。福音の核心を「しっかり覚えている」ならばですが(図2)。
15章11節 とにかく、私にせよ、ほかの人たちにせよ、私たちはこのように宣べ伝えているのであり、あなたがたはこのように信じたのです。
パウロは11節で本筋に戻り、キリストの死と復活についての信仰が、教会全体の共通の信仰告白であり、キリストの教会が、キリストの教会たらしめる核心であることを確認します。コリント教会に「目を覚ませ。信仰によってもう一度起きあがれ、復活しろ」と言っているようにも聞こえます。
この福音によってあなたがたは「救われる」
改めて15章2節を見てみましょう。
15章2節 私がどのようなことばで福音を伝えたか、あなたがたがしっかり覚えているなら、この福音によって救われます。そうでなければ、あなたがたが信じたことは無駄になってしまいます。
先にも触れましたが、パウロはここで「救われます」と言って、実は私たちが「救われる過程にある」ことを語っています。つまり、私たちの救いは未だ完成しておらず、完全に救いが成し遂げられるイエス・キリストの再臨、終末、終わりの日に向かって生きているということです。
ある先生はこう言われました。「私たちは難破船の中にいて、溺れて死んでしまう危機的な状況から救出され、救命ボートに乗り、あるいはしがみついて、陸地(かの岸)へと向かう人たちのようである」と。途中、穏やかな日もあれば、苦難が襲う日もあるでしょう。波に翻弄され、流されてしまう危険、諦めてしまいそうになる時もあるでしょう(図2)。ですから、福音の核心をしっかりつかんで離してはならないことは、真にいのちに関わる重要問題なのです。私たちは今一度、自分救済史のゴールに向かう中で何を握りしめているかを振り返らなければなりません。為す術もなく波に押され、あてもなく流されていないでしょうか。あるいは、全く異なる福音のようなものについて行ったり、しがみついたりしていないか、自分をよく確かめなければなりません。そして「自分救済史」を振り返り、その全体を覆う神の愛とあわれみ、恵みに目を留め覚え、福音の核心を今一度しっかり握り直し、救いの完成に至る「自分救済史」のゴールを目指して行きましょう。そして救われた者たちの群れである教会としても、恵みによって救ってくださった神に感謝し、礼拝を守り、神の栄光をあらわしてまいりましょう。そして神が愛しつかんで離さない世の人々に、福音の核心を、そしてイエス・キリスト以外に救いはないことを、確信をもって伝えてまいりましょう。

最後に、これで締めくくって良いものか少し迷いましたが、どうしても説教準備の中で頭から離れなかった歌の歌詞をご紹介させていただきます。それは昔好きだったDREAMS COME TRUEの歌の歌詞です。その中にこうあります。少し福音的に要約しますが、「何度でも、何度でも、何度でも立ち上がり呼ぶよ。君の名前、声が涸れるままで。悔しくて苦しくて、頑張ってもどうしようないない時も、きみを思い出すよ。落ち込んで、やる気ももう底をついて、頑張れない時も、君を思い出すよ。1万回だめでへとへとになっても、1万1回目は何か変わるかもしれない。1万回だめで望みなくなっても、1万1回目は来る。君を呼ぶ声、力にしていくよ、何度も。明日がその1万1回目かもしれない」(図2)。

