2025年12月28日 主日礼拝「復活の希望は、今を生きる力」

賛  美  新聖歌18「おお御神をほめまつれ」
      新聖歌172「望みも消えゆくまでに」
前奏(黙祷)
招  詞  詩篇37篇3〜6節
讃  美  讃美歌63「いざやともよ」
罪の告白・赦しの宣言
信仰告白  讃美歌566「使徒信条」
主の祈り  讃美歌564「天にまします」
祈  祷  
讃  美  讃美歌280「わが身ののぞみは」
聖書朗読  コリント人への手紙 第一 15章35〜49節
説  教  「復活の希望は、今を生きる力」
讃  美  讃美歌495「イエスよ、この身を」
献  金  讃美歌547「いまささぐる」
感謝祈祷
報  告
今週の聖句 コリント人への手紙 第一 15章38節
頌  栄  讃美歌541「父、み子、みたまの」
祝  祷
後  奏

本日の聖書箇所

コリント人への手紙 第一 15章35〜49節

説教題

「復活の希望は、今を生きる力」

今週の聖句

しかし神は、みこころのままに、それにからだを与え、それぞれの種にそれ⾃⾝のからだをお与えになります。

コリント人への手紙 第一 15章38節

「復活の希望は、今を生きる力」

コリント人への手紙 第一 15章35〜49節

みことばの光でデボーションをされている方はご存知のとおり、今はペテロの手紙を読んでいます。先週はペテロの手紙第二に入ったのですが、その手紙が扱っている内容というのが、イエス・キリストの再臨が必ずあること。そして終わりの日が遅れているのではないかという問題を扱っています。さらにそこには偽教師の存在があり、彼らの誤った教えを攻撃しつつ、ペテロは主の再臨を信じ、敬虔な生活を送るようにと教えています。その中でこのような一文がありました。「愛する、私たちの兄弟パウロも、自分に与えられた知恵にしたがって、あなたがたに書き送ったとおりです。その手紙でパウロは、ほかのすべての手紙でもしているように、このことについて語っています。“その中には理解しにくいところがあります”」。ペテロもパウロが言っていることが良く分からないなんてことがあるのかと思ってしまい、少し吹き出してしまいました。それはともかく、ペテロにしても、パウロにしても、主の再臨、からだのよみがえりについてたくさん質問され、そしていくつもの手紙でその質問に答えたり扱ったりしているとおり、当時の聖徒たちにとって、主の再臨、そしてからだのよみがえりは、自分たちの信仰、人生にとってとても重要な問題であり、とても関心があったことが分かります。私たちにとってはどうでしょうか。先週はクリスマス礼拝を守り、24日にはイヴ礼拝を守りました。救い主イエス・キリストのご降誕は私たちの信仰、人生にとってとても重要な問題であることは確かです。イエス・キリストの十字架は私たちの信仰、人生にとってとても大きな意味があることは自覚しています。しかし、主の復活、主の再臨、そして私たち自身の復活、からだのよみがえりについてはどうでしょうか。私たちの信仰、人生にとって重要な問題、関心事項、実際に大きな意味、影響力となっているでしょうか。

時代の風、偽教師たちの教え

イエス・キリストの復活はあったかもしれない。しかし私たちの復活はないのだ。だから今を思いっ切り楽しもうではないか。今が良ければ良い。やりたいことをやって、今を楽しむのが一番幸せなのだ。それを今を生きる力として精一杯生きようではないか。自称「知恵者(自分は賢いと言う者)」の教え。これは現代の世にも吹いている「時代の風」というものではないでしょうか。コリントの教会はそのような「時代の風」に吹き回され、また風に逆らって立つことを恐れてということもあったでしょうか、世の人々の評価を気にしたりして、いつのまにか影響を受け、むなしい、もったいない信仰生活を送っていました。目に見えない風、その時代の世に何となく吹いている風が、コリントの聖徒の信仰生活、聖徒の人生の土台を揺るがすものとなっていたのです。

そこでパウロは復活をあれこれと理解しにくいところも多々ありながらも、何とか分かってもらおう、理解し、納得し、信じ受け入れられるようにと論証してきたわけなのですが、ここでコリントの聖徒たちの中から別の疑問が起こりました。

復活に対する質問

「死者はどのようにしてよみがえるのか。どのようなからだで来るのか」。当時の人々が、正しく葬られることなく死んだ場合などについて、どのように復活できるのかと疑問を抱いたようです。この疑問を呈したのは、おそらく聖餐式、愛餐会で隅っこに追いやられていた奴隷などの貧しく弱い立場の人たちだったのでしょう。ある程度、経済的にも立場的にも恵まれている人たちは、今を楽しんで生きる力があったでしょうから、なかなか自分たちの復活、からだのよみがえりに対しては切実に求める思いが持てなかったのかもしれません。しかし奴隷などの貧しく、社会的にも弱い立場の人たちは、丁寧に葬られることがなかったし、丁寧に葬ってやれることもできなかったのでしょう。主人から厳しい労働を課せられ、一生懸命主人に仕えながらも主人に迫害され、奴隷の仲間や、それがたとえ肉親であっても、病気になってしまったり、疲れ果てて倒れ、となりで死んでしまったとしても、労働から離れることができない。手を休め、駆け寄って、悲しんで、憐れんで、労をねぎらい、丁寧に葬ってやることも許されない。そして明日は我が身。そのような世の中の最底辺のような人たちがイエス・キリストを救い主と信じ、そしてもし復活があるのならば信じたい。そう飢え渇きをもって次の世でのまことの救い、この世の労苦や苦難が報われることを求めるのは当然でしょう。誰がその求めを馬鹿馬鹿しいと笑うことができるでしょうか。世の時代の風は、宗教は弱い者がすがるものだと言って馬鹿にします。それの何が悪いのですか。弱い者こそ強い。それが信仰でしょう。神のまことの救いは、救い主イエス・キリストが貧しい両親のもとに、暗くて汚い家畜小屋にお生まれになったように、そのようなところに与えられるのです。差し伸べられるのです。イエス様も言われました。「金持ちが天の御国に入るのは難しいことだ。らくだが針の穴を通るほうが易しい」と。

しかしやはりたとえ金持ちであったり、社会的に恵まれた立場にある人たちであったりしても、あることをきっかけにして霊的に貧しくされ、そこからまことの救いを求めてイエス・キリストを信じ、そして救われて、コリントの教会に連なる人たちもいたわけですから、そういった人たちの中にもまことの救い、自分の復活、からだのよみがえりを魂の飢え渇きをもって求める人たちもいたことと思います。

ちなみに、古代ギリシャでは主に土葬と火葬の二つの方法が一般的でした。火葬した場合、骨だけとなり体はありません。土葬の場合も、復活信仰のあるユダヤ人とは違う方法で埋葬していました。復活信仰のあるユダヤ人は死体に香油などを塗り、布を巻いて岩に掘られた墓に大事に寝かされましたが、古代ギリシャ社会では、遺体は木棺や石棺を使わずに、地面を掘っただけのシンプルな墓に直接埋葬されました。肉体は朽ちて土に帰り、骨だけになってしまうけれども…。そういったところにも、「死者はどのようにしてよみがえるのか。どのようなからだで来るのか」というシンプルな疑問が起こったのでしょう。シンプルで幼子のような疑問ですが、疑問が起こるということは、それだけ関心があるということです。関心がなければ疑問も持ちません。それはどうでも良いと考えているということです。皆さんは「死者はどのようにしてよみがえるのか。どのようなからだで来るのか」というシンプルな疑問を持ったことがありますか。

パウロは、復活がどのようにして可能なのかというコリントの聖徒の問いに対して、「植物」と「人と動物」、「天体」のたとえを用いて答えます。

種とからだ

植物のたとえの中で、「種」というのは死ななければならない「からだ」のたとえです。ちなみに「からだ」と訳されているギリシャ語は「肉体の体」の他に、「実体」という意味を持つ語です。

植物のたとえのポイントは、復活には連続性と不連続性があるということです。少し難しいですが、種が地に落ちた後に芽を出し、花を咲かせ、実を結び、そしてまた種ができます。後にできた種は元の種とは違います。しかし「実体」は同じです。実体は同じ種です。地に落ちて蒔かれる種はそれ自体としては終わりを迎えますが、その種と同じ実体が後に現れるのです。あるいは同じいのちが変化して、違った形となるけれども、種は同じ種。

ここでの「種」というのは死ななければならない「からだ」の“たとえ”です。種と同じように、神は死ぬからだとは異なる新しいからだを与えてくださるということです。しかも死ぬからだとは異なる新しいからだというのは、以前のからだとは全く異なる栄光のからだです。しかしその実体は同じなのです。栄光のからだと聞くと、どことなく霊的な方向に傾いてしまいがちですが、そうではなく、栄光のからだというのは、肉体のからだ、そして実体を伴ったものです。それは、復活の初穂であられるイエス様の復活のからだを見ると明らかでしょう。

栄光のからだ

キリストの復活は霊の復活などではなく、からだと実体と伴った復活でした。その最大の確かな証拠は、主イエス様ご自身のことばです。弟子たちは、復活の主イエス様に出会ったとき、霊を見ているのだと思いました。その時イエス様はこう言われました。「わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。霊なら肉や骨はありません。見て分かるように、わたしにはあります」。そう言われてから、イエス様は弟子たちに手と足を見せられました。弟子たちが喜びのあまりまだ信じられずに不思議がっていると、イエス様は「ここに何か食べ物がありますか」と言われ、そこで焼いた魚を一切れ差し出すと、イエス様はそれを取って、弟子たちの前で食べました(ルカ2439-43)。

私たちはこの復活の主の姿から何を知ることができるでしょうか。復活の体は、この地上の体の連続でも継続でもありませんが、しかし少なくとも地上で持っていた人格と個性は継続して持っているのです。復活のキリストは十字架で死なれたキリストと同一のお方でした。

また、イエス様は「私は、その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じない」と言ったトマスの要求どおり、「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい」と言われた後で、「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」という勧めをされました(ヨハネ2025-27)。この対話は、イエス・キリストが十字架の「傷跡」を残したまま復活されたことを表しています。栄光のからだが与えられても、その人の「傷跡」は残るということです。

重ねるようにして申し上げますが、聖書の復活信仰にとって本当に重要なことは、聖書はあくまでも「体」の復活を説いているのであって、決してギリシャの思想に見られるような霊魂不滅を説いているのではないということです。同時に聖書は、未来にある復活に現在的な意味があるということも重要なこととして説いているのです。死後の復活は今の人生とは別物ではなく、今の生き方も重要であるということを聖書は説いているのです。

死後の復活は今の人生と別物ではない

パウロは6章13節で、復活を通して不品行を犯してはならない理由を説明しました。今日の箇所の直前の15章33-34節では、目を覚まして正しい生活を送り、罪を犯してはならないという倫理的な勧めを与えました。このように、復活は現在の状況や現在のからだと断絶されているのではなく、現在のからだとの連続性があるのだということです。この連続性があるというところにこそ、今、この世にあって時代の風に吹き回されることなく、時代の波(ムーブメント)に流されることなく、それらに惑わされることなく道徳的に正しく生きて行くことができる力、私たちの人生における究極的な土台となるのです。今が良ければそれで良い。今が幸せならそれで良い。そのように自由奔放に生きた結果、もし明日いのちが取られ、そして終わりの日に多くの「傷」「汚点」「罪」を持ったままよみがえらされ、「それ自身のからだ」実体をもって主の御前に出たらどうなるでしょうか。確かに主は十字架と復活によって、すべての罪を赦してくださいました。私たちの罪の身代わりとなり、神に罰せられ、悩み苦しまれ、それによって私たちの一切の罪は赦されています。しかし、多くの「傷」「汚点」「罪」を持ったままよみがえらされ、「それ自身のからだ」実体をもって主の御前に立ち、釘後の残る手を見て、そしてその手を広げておられる主の愛とあわれみ、恵みに満ちた眼差しに見つめられたらどうでしょうか。恥じ入るでしょうか。地上での自由奔放な人生を後悔するでしょうか。イエス・キリストはアダムとは異なり、罪を犯すことがなく、死んでもよみがえられて、死に勝利されたことにより、人に罪と死をもたらすのではなく、人にまことのいのちを与え、人を生かす方となられました。あくまでも主は私たちを永遠に生かしてくださるお方です。私たちはこのお方とともに、このお方の栄光、光の中で永遠に生きて行くことになるのですが、私たちはどのような思いで永遠に生きていきたいと思うでしょうか。負い目をもって生きて行きたいですか。それとも「良くやった、忠実なしもべよ」と褒められ、喜びと誇りをもって、主と顔と顔を合わせて生きて行きたいですか。

信仰者にとって死は勝利の時

すべての人間のこのからだは、罪に満ちた世にふさわしいもので、限りがあり、老いて、衰えていって、そのいのちを終える時が来れば朽ちるものです。このからだは老いていき、必ず死を迎えます。人間の肉体は、罪の結果である死の力の下にあるので、弱くなり、滅んでいくことを誰もが避けられません。それでも人間は、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと悩みながら生きているのです。今の幸せを求めて、時間も労力も惜しみなく割いて生きているのです。どんなに努力しても、空しく死の時に近づいていくのです。死に敗北するようです。

しかし、イエス・キリストを信じる者にとって、近づいて来る死の時は、死に対する勝利の時となります。神は哀れな人間に、イエス・キリストを通して救いを与え、復活して栄光ある新しいからだを与えてくださいます。その新しいからだは、朽ちることがなく、永遠のものです。そしてまた、イエス・キリストを信じる者にとって、近づいて来る死の時は、この世での使命を終えたということになります。この世での労苦からの解放。それは永遠のいのちの始まりとなるのです。復活させられる時には、神の国にふさわしい、栄光に満ちた朽ちないからだが与えられるのです。そしてこの頭に、恵みによって用意されている栄冠を受けるのです。私たちはこのような神からの報いが約束されている復活を信じるので、老いていく日々でも主もみわざと天の御国に入れられる日を楽しみにできるのです。また、この世にあって誠実に生きていく力が与えられるのです。神からその恵みを受けた者として、どのように生きて行くべきでしょうか。神がイエス・キリストのいのちと引き替えに私たちに与えてくださったこのいのちを、滅びていく空しいもののために費やすのではなく、主に倣い、永遠にいたるもののために生きたいと願われないでしょうか。

御霊のからだ

15章44節    血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。

確かに私たちは、最初の人アダムの子孫として、血肉のからだで蒔かれました。淫らな行い、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、遊興、そういった類のものの中に生まれ、そして生きて来ました。しかし、そのような中で苦しみ、悩み、悲しみ、魂の飢え渇きを持って救いを求めた時、神は救いの御腕、イエス・キリストの十字架を差し出してくださいました。私たちはこのイエス・キリストの十字架にすがり、罪の赦しを求め、罪の奴隷から解放され、そして救われた者たちです。その時に流した喜び、感動、感謝の涙を覚えておられるでしょうか。時代の風、世の波(ムーブメント)に流され、いつの間にか最初の愛から離れてしまっていないでしょうか。私たちはイエス・キリストから目を離してはなりません。イエス・キリストを見上げ、イエス・キリストに倣い、御霊の人に変えられて行き、聖化され、やがて栄化されるのです。労苦があるかもしれません。しかしイエス・キリストを見上げ、イエス・キリストに倣うためのその労苦は、御霊の実を結ぶための労苦となります。愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制の花を咲かせ、やがてたくさんの実を結び、そして種となります。私たちの「実体」となって行くのです。そのからだ、実体をもってよみがえらされたいと私たちは願うのです。

神はまことに恵み深いお方です。あわれみに満ちたお方です。「しかし、愛する人たち、あなたがたはこの一つのことを見落としてはいけません。……主は、ある人たちが遅れていると思っているように、約束したことを遅らせているのではなく、あなたがたに対して忍耐しておられるのです。だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです」(Ⅱペテ38-9)。

「あたながた」とは私たちのことです。ここではイエス・キリストを信じない者たちではなく、私たちのために忍耐され、遅らせていると言われているです。だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのだと言われているのです。ですから私たちは次の主のみことばに聞きましょう。「自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊に蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです」(ガラ68)。「忍耐をもって善を行い、栄光と誉れと朽ちないものを求める者には、永遠のいのちを与え、利己的な思いから真理に従わず、不義に従う者には、怒りと憤りをくだされます」(ロマ27-8)。

キリストは、万物をご自分に従わせることさえできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自分の栄光に輝くからだと同じ姿に変えてくださいます(ピリ321)。それは神の約束ですから本当です。たとえ今、罪に悩まされ、罪に苦しめられていたとしても、神は全能なる御力によって、主と同じ栄光に輝くからだと同じ姿に変えてくださいます。本当に感謝なことです。しかし、そこにはイエス・キリストの十字架が立てられていることを忘れてはなりません。私たちのまことの救いは、ただ十字架の恵みと信仰によるのです。私たちは明日、いのちが取られ、明日の時点でのからだ、実体をもってよみがえらされても、主の御前で何も恥じることのない生き方をしなければなりません。ですから主の愛と恵みに応えて生きたいといつも願うのです。ですから、地にあるからだの部分、すなわち、淫らな行い、汚れ、情欲、悪い欲、そして貪欲を殺してしまうのです。イエス・キリストの十字架につけて殺してしまうのです。貪欲は偶像礼拝です。これらのために、神の怒りが不従順の子らの上に下るのです。私たちも以前は、そのようなものの中に生き、そのような歩みをしていました。しかし今は、イエス・キリストの十字架と復活によって贖われ、古い人をその行いとともに脱ぎ捨て、新しい人、イエス・キリストを着せていただいているのです。今、イエス・キリストの愛と赦しで包み覆われているのです。そして、着せられた服が日に日に体に馴染んで行くように、私たちは日に日に新しくされ続け、キリストに似た者とされ、私たちの実体がキリストに似た者にされて行くのです。聖化され、栄化されるのです。

私たちは顔に汗を流して糧を得、ついには大地に帰る者たちです。しかし、イエス・キリストを信じる私たちの国籍は天にあります。本当に帰る所は天にあります。そしてそこから主イエス・キリストが救い主として再び来られるのを、私たちは信じて待ち望んでいます。その時には、私たちは栄光のからだをもってよみがえらされます。そしてその時には、イエス・キリストと同じ「御霊のからだ(実体)」をもってよみがえらされたいものです。そして主の御前で、「よくやった。忠実なしもべよ」と褒められ、労苦がねぎらわれ、何の恥じもなく、喜びと感謝の涙を思いっ切り流せる者でありたいと願います。そして主とともに、主との完全な平和な関係の中で永遠に幸いに生きる者となりたいと願います。その時を確かに待ち望みながら、それを確かな希望とし、今を正しく生きる力にして、今日からも歩んでまいりましょう。

2025年最後の主日礼拝に今日のみことばが与えられたことに感謝します。2026年の歩みが、復活の希望によって、ますます祝福されたものとなりますように祈ります。

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