2026年4月26日 主日礼拝「きよくなりなさい」
前 奏 黙祷
賛 美 新聖歌263「罪咎を赦され」
新聖歌264「われ贖われて」
招 詞 出エジプト記20章2〜6節
讃 美 讃美歌5「こよなくかしこし」
使徒信条 讃美歌566「我は天地の造り主」
主の祈り 讃美歌564「天にまします」
祈 祷
交読文 ヨハネの手紙第一4章(新聖歌 交読文59)
讃 美 讃美歌93「みかみのめぐみを」
聖書朗読 民数記5章1〜10節
説 教 「きよくなりなさい」
讃 美 讃美歌252「主よ、今わが身は」
献 金 讃美歌547「いまささぐる」
感謝祈祷
報 告
今週の聖句 ヨハネの福音書20章21節
頌 栄 讃美歌541「父、み子、みたまの」
祝 祷
後 奏
本日の聖書箇所
民数記5章1〜10節
説教題
「きよくなりなさい」
今週の聖句
すべての汚れたもの、また忌まわしいことや偽りを行う者は、決して都に入れない。入ることができるのは、子羊のいのちの書に記されている者たちだけである。
ヨハネの黙示録 21章27節
説教「きよくなりなさい」
民数記 5章1〜10節
荒野の旅に出る準備は続く
民数記は1章から、神の民であるイスラエルが約束の地を目指すために荒野の旅に出る、そのための準備が記されてきました。そして今日の5章では、その準備の続きとして、汚(けが)れた人々を宿営地から排除するということが、神の命により行われました。
神の御手によりエジプトでの苦しい奴隷状態、また偶像礼拝などの罪から解放され、新しいいのち、希望、喜びが神によって与えられ、そしていよいよ約束の地を目指し、荒野の旅に出て行く神の民イスラエル。その荒野というのは、これまた偶像に満ち溢れ、そしてまことの神を知らず、異教の神々(偶像)に仕える人々が住み、その世界は一見、繁栄と力に満ちた世界。まことに神の民にとっては誘惑が多く、神に与えられ、それによって生きて行く永遠のいのちを再び奪われ、また失ってしまう危険が多い所です。その旅の途中では水がない、食べ物がないと嘆くことも。荒野というところで過去に思いを馳せ、昔は良かったと現状に不満を抱いてしまったり、神によって立てられた権威を認めず、上に立たされた者を妬み、その座から引きずり下ろそうと仲間を集めて密かに企てる者がいたり。時にはともに旅をする仲間と勝利を喜び、時には敗北して悲しみ、対立して孤独を覚えたりもする。時には神の恵みに心から喜び踊り、時には神のさばきに震え上がる。将来の不安、神の約束に対する疑いの思いが湧いて来て、たくさんの失敗をし、神を悲しませてしまう。罪を犯してしまう。繰り返してしまう。しかしそのような経験をする荒野はまた、まことに神と出会う場所でもあるのです。いつもどんな時でも神が遠く離れずにともにいてくださるのですから。そしてイスラエルの民はそのような荒野で、まことの神との出会いを経験するのです。民数記はそれでもご自分の民を諦めない神の深い愛とあわれみ、赦しのストーリーです。何としてもご自身の約束を守ろうとされる神の真実のストーリーです。それはまるで私たちの天の御国を目指す、この地上での人生を守り導かれる神のストーリーと重なります。
汚れ、穢れ
今日の箇所の冒頭では、汚(けが)れた人々を宿営地から排除するように命じられています。その「汚れ」とは何でしょう。罪とは少し違うようです。しかしまったく罪と関係ないかというと、そうでもないようです。
聖書では「汚れた」を意味する語は、物理的(家、器、衣服など)であったり、宗教的に定められたルールに違反することであったり、倫理的な意味であったり、またこれらの意味が重なり合って用いられています。
そしてその汚(けが)れは、読んで字のごとく「よごれ」と関係があります。よごれは洗えば落ちるものです。ひどいよごれであっても、ちょっとしたよごれであっても、それをすぐに洗わずに放っておいたら落ちなくなってしまい、取り返しの付かないことになってしまうように、汚(けが)れにもそのような面があるのです。
もちろん汚れには、単なるよごれ以上の意味がありました。汚れというのは旧約聖書においては最も重要な共通認識の1つでした。レビ記11〜15章にはその意味の説明がなされていますが、これは西欧人にとっては理解しがたいものだと言われています。しかし私たち日本人にとっては、もしかしたら馴染みのある共通認識かもしれません。日本語には「穢(けが)れ」という語があります。その意味を辞書で調べると驚きます。「穢れとは、神道や日本の古くからの観念で、死、病気、出産、血などに関連する不浄な状態や、気力が涸れた状態(気枯れ)を指す。神事や社会参加から一時的に隔離されますが、一定期間やみそぎ、祓え(おはらい)によって正常な状態に復帰できるとされている」。まさに神が定められた汚れとそのきよめの方法が記されているレビ記11〜15章がそのまま用いられているようです。レビ記にはお祓いこそ定められていませんが、すぐに祭司に申告すること、そして汚れた者は一定期間隔離されることや、汚れた衣服などをすぐに洗うことなどが定められており、また祭司による儀式的な行為によってきよくされる(正常な状態に復帰できる、神との交わり、そして神の民との交わりが回復される)ことが約束されています。私は教会に招かれる以前は、普通にお祓いなど受けていましたから、穢れの概念だとか、穢れを祓い清めるだとか言う考えに、良いのか悪いのかは分かりませんが、あまり抵抗がありません。世の人々も交通安全や運気上昇、様々な災いから守られるように、盛んにお祓いを受けているようですから、そのように穢れだとか清めだとかになじみ深い日本人にこそ、聖書が言う汚れ、きよめというのは伝わりやすい福音になり得るように思うのですが、いかがでしょうか。お祓いは普段の生活の中で身の上に被り積もった埃のような表面的な汚れ、罪を祓い清める(白木の棒に神垂〈しで〉と呼ばれる紙をつけたものを左右左と振ることで埃のような表面的な汚れを払う)ことによって神と隣人との関係を正常な状態に復帰させるというものですが、まことのお祓いは、イエス・キリストのただ一度だけ十字架で流された血潮によって、外側ばかりではなく内側までも完全に洗い清め、そして実際的に神と隣人との関係を正常な状態に復帰させるというものです。
宿営の外に追い出せ
それにしても、主は2〜3節でとても厳しいことを言われます。ツァラアトに冒された者、漏出を病む者、死体によって身を汚している者をすべて、男でも女でも、祭司であっても宿営の外に追い出せと命じるのです。そしてその理由もはっきりと言われています。それは「わたしがそのただ中に住んでいる宿営を汚してはならない」ということです。
ツァラアトに冒された者と漏出を病む者は、神が人間に与えられた律法によって汚れたものと規定されていました。ツァラアトというのは、最初は大したことがない小さな斑点ように見えるのですが、それが徐々に全身に広がって行くものです。これは罪が小さなことから始まって人を破滅に導く特性と似ています。またこの病気は、自分から取りに行ったものではないでしょう。不慮の事故のようなものかもしれない。汚れたくて汚れたのではない。しかし神は宿営の外に追い出せと言われる。これは現代人の私たちにしてみれば、とても冷酷に見えるかもしれません。しかし、少し前までコロナ対策で隔離措置が取られていたのと同じように、未知の病に対して宿営の外に追い出し、伝染を防ぐ必要があったのです。そして罪もまた、創世記の最初では未知の存在でした。未知のものがどこからともなく密かにこの世界に入り込んできて、それがまさしく伝染病のように世界に蔓延してしまったのだと聖書は言っています。罪は未知の存在であり恐るべき伝染力があるもの。それを神の宿営の外に追い出せと主は命じ、それに従うように言われるのです。神の民全体を守るための神による予防措置でしょう。
また漏出を病む者。これは性病です。これももらい事故だ、自分は被害者だと主張するかもしれない。そして漏出(性病)には空気感染とか飛沫感染などのような伝染性はないのですが、もっと深い性的な接触によって伝染するものです。性に関係するものですから、人に隠そうとする、バレないようにするというような罪が潜んでいるという、そのような罪の秘匿性を象徴しています。荒野において、異教の偶像の神々の前での淫らな行い、性的な宗教行為に魅了され、あるいは異教の民に誘われ、惑わされ、神の聖なる共同体から1人離れ、密かにそのようなことをしてしまった。その結果、病気をもらってしまった。これは罪を妥協し、ずっと隠しているなら、知らないうちにその影響力は増大して行き、自分自身はもちろんのこと、神の共同体全体にも悪い影響を与えてしまうであろうという厳しい警告です。
死体に触れる者も汚れた者とされています。そして同じように宿営の外に追い出すようにと命じられています。これをどのように考えれば良いのでしょうか。死体に触れる者は1週間汚れると律法の中で神によって定められています。だとしたら、私たちは肉親や大切な方の葬儀に出席できないのでしょうか。そうではなく、これは主にすべてをささげることの必要性を印象づけるものです。イエス様もその必要性を印象づけるためにこのように言われました。「『主よ。まず行って父を葬ることをお許しください。』ところが、イエスは彼に言われた。『わたしに従って来なさい。死人たちに、彼ら自身の死人たちを葬らせなさい』」と(マタ821-22)。イエス様は冷たいようですが、これも主にすべてをささげることの必要性を印象づけるために語られたたとえのようなものです。何ものであっても、主よりも大切なもの、主よりも愛するものがあってはならないのです。主は言われます。「わたしは、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出したあなたの神、主である。あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない。あなたは自分のために偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、いかなる形をも造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたみの神。わたしを憎む者には父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼす」。十戒の最初にある禁止事項です。しかし主は、それに続く祝福も約束されています。「(しかし)わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施す」(出202-6)と。主を第一とする時に、私たちの思いや悩みや疑いを超えた素晴らしい主の祝福が約束されているということです。
このように、汚れた者を神の宿営から排除するという、荒野の旅への出発準備が命じられ、神の民はその命令を直ちに実行しました。
それにしても、共同体を守るためとはいえ、宿営から追い出されてしまう人がかわいそうなように思ってしまいます。しかしここでしっかりと覚えておくべきことは、宿営の外に追い出される彼らは、決して主に嫌われているのではないということです。主は決して彼らを諦めていないのです。宿営の中にいる者たちと変わらずに愛しておられるのです。ただ宿営の中に臨在される主の聖さが保たれるために、一定の期間隔離されたのです。
そして聖なる神は汚れを許さず寄せ付けないだけではなく、きよめることがおできになる方です。自分の汚れを告白し、汚れを神に差し出し、きよさを求めるならば、神はすべてをきよくしてくださいます。一定期間、それは即座であるかもしれませんし、1週間、1ヵ月、1年かもしれません。その間も神はその人を見放すことはせず、絶えずきよめの御手をのべられ、取り扱われ、神の最善「よし」とされる時にきよくされるのです。そして「きよい」と認められたものは宿営に戻ることが許されました。
隣人に対する罪の解決
5節からは、他人(隣人)に対するいかなる罪をもきちんと処理すべきことが命じられます。ここで注目に値するのは、隣人に対する罪というのは、主の信頼を裏切るものであると言われていることです。それはつまり、人に対するいかなる罪であっても、それは主に罪を犯すことと同じだということです。もしかしたら私たちは、神の前に罪を犯すことについてはもの凄く警戒しながらも、人に対する罪は軽く見がちなのかもしれません。私たちはいとも簡単に人を非難してしまいます。馬鹿にしたり、憎たらしく思ったり、怒ったり。しかし誰かを馬鹿にするなら、それは主を馬鹿にすること。憎たらしく思うなら、それは主を憎たらしく思うこと。誰か怒るなら、それは主を怒ること。それに聖書は、悪口や噂話のような些細なことのように思える罪を、殺人と同じ罪に数えているのです。私たちは人と人との間に埋もれる小さな問題も、神がご自分に逆らう大きな罪と見なされるということを知る必要があります。そしてそれを本当に恐れ、警戒しなければなりません。
私たちは一人ひとりが聖霊を注がれ、神が内に臨在される神の宿営とされている者たちです。また教会も、神がそこに臨在される神の宿営、共同体です。聖なる神がおられる聖なる所に、いかなる汚れ、罪があってはならないのです。1点の染みもあってはならない。神が全き聖であるからです。汚れ、罪があるままで聖なる神に近付くならば、以前に民数記から学んだように、その人は殺されてしまうのです。本来、神はそれほど聖いお方なのです。そしてそれは共同体にとっても非常に危険でした。いかなる汚れ、罪があるならば、神がそこに住むことができなくなる可能性があるからです。神が出て行ってしまい、ともにいてくださらないことになってしまうからです。自分はこれまで神に守られてようやく生きてこられた者だという自覚があるならば。また、私たちの教会も神の愛とあわれみ、そしてただ恵みによってここまで守られてきたことを覚えるならば、これからも守られ導かれて行くことを願うならば、神がともにおられないことがどんなに危険なことかお分かりでしょう。
また、小さな染みのような汚れ、またほんの小さな罪であっても、それをきちんと処理しておかないと、神の民がお互いに対する尊敬と信頼をなくし、一致を危うくしてしまいます。「千丈の堤(せんじょうのつつみ)も蟻の一穴(ありのいっけつ)より」です。どれほど強固で大きな城や堤防であっても、アリが掘るような小さな穴(わずかな欠陥や手抜かり)が原因で、最終的に全体が崩壊してしまう。わずかな不注意や油断が、将来的に大きな失敗や惨事を招く可能性がある。ですから私たちは、恐れ震える心で罪を遠ざけ、罪だと気付いたならばすぐに告白し、主に申告し、そして自分を主に正しく取り扱っていただかなければならないのです。ほころびがあるままでは、どうして危険な荒野の旅を成し遂げることができるでしょうか。神の民の宿営は、神が命じられた通りに、神の幕屋を中心に、秩序正しく整列して、神の臨在を守りつつ、皆が協力して荒野の旅を進んで行かなければならないのです。
あなたはきよいか?
ところで、皆さんは今、きよいですか。染みや埃が1つもありませんか。1つも罪を犯していない人がいるでしょうか。埃だらけの部屋を誰にも見られたくないように、私たちは他人には見せられない醜い自分を知っています。また私たち教会としても、完全に聖いでしょうか。そうではないでしょう。
今日の箇所から見るならば、きよくない罪人が、きよい神とともにいることはできません。きよくない教会に神の臨在はありません。しかし神は、私たちを愛するが故に、私たちとともにいてくださるために、罪や汚れの問題を解決できるように道を開いてくださいました。
5章7節 自分が行った罪を告白しなければならない。その人は償いとして総額を弁償し、それにその五分の一を加えて、償いの責めを果たすべき相手に支払わなければならない。
すでに少し触れましたが、まず自分が犯した罪をすぐに告白することです。そして悔い改めるのです。さらに悔い改めたならば、その悔い改めによって私たちの生き方に実際の変化が起こらなければなりません。私たちは罪を犯しても神の御前で悔い改めの祈りさえすれば赦されると考え、罪を軽々しく考えてはならないのです。私たちの悔い改めは口先だけのものであってはならないのです。悔い改めには人生の変化が伴うべきなのです。イスラエルの民は罪の告白をしました。そして損害を与えた隣人に対してきちんと償いをしました。神は完全に償うことができる定めまでも備えてくださいました。もし損害を与えた相手がいなければ、償いを受ける権利のある親類に償う。その親類さえもいなければ、祭司に償うようにと、完全にその人が償うことができる道をも定めてくださいました。そして贖いのいけにえまで行いました。イスラエルの民は、このように悔い改めにふさわしい実を結んだのです。私たちも本当に悔い改めたのなら、それにふさわしい実を結ばなければ嘘でしょう。誰かを傷つけたなら全力で償う。誰かを憎んでしまったら、全力で愛する。人生の変化が伴わなければ、罪の告白と悔い改めは嘘だということです。主に対する偽証罪となってしまいます。
悔い改めにふさわしい実。それは「御霊の実」でしょう。御霊の実は何でしょうか。愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。これらはイエス・キリストを信じ、信仰を告白した者が聖霊に満たされることにより、その人の内にあった罪が変化したものです。罪の実である淫らな行い、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、遊興、そういった神の国を相続できない類の罪の実が、罪を告白し悔い改めるならば、すべての汚れや罪がきよめられ、御霊の実に変えられるのです。その御霊の実によって実際に生きる。生き方が変えられる。それがきよくされるということではないでしょうか。
きよくなりなさい
主は私たちに「きよくなりなさい」と求められます。約束の地を目指し、荒野の旅に出る神の民の共同体である宿営が汚れないために、一見冷酷なまでに厳しく求められた神は、私たちに対してもきよくあることを厳しく求められるお方です。埃のように汚れがいつの間にか身の上に降り積もっていたり、いつの間にか小さな染みができていたりするなら、主は何度でも「きよくなりなさい」と私たちに求められます。
しかし新約時代の現代において、神はご自身の厳しい求めを満たすために何をされたでしょう。そうです。神の御子を宿営の外に引き出し、十字架につけられたのです。それゆえに、この主イエス・キリストの十字架によって、主イエス・キリストが流された血潮によって私たちの汚れ、罪は洗われてきよい者とされ、その確かな保証として主イエス・キリストはよみがえられました。このイエス・キリストによるきよめの犠牲なしには、だれも宿営の中に入ることができず、主の恵みの御座に近づき主を礼拝することはできず、主と主の民との交わりの中に入ることはできないのです。しかし今、いや今朝も、私たちは主を礼拝し、主と主の民との交わりの中に入れられています。私たちはキリストにあって、いっさいの罪が赦され、新しく生まれたきよい神の民として歩む者とされています。恵みです。ですからなおのこと罪赦された私たちは、もう何をしても構わないとは考えずに、日々、私たちの内にある汚れ、罪に敏感になり、どんな小さな汚れや罪であってもそれに気付いたならば、すぐにそれを告白し、悔い改めなければなりません。それを放っておいたり妥協したりするならば、知らず知らずのうちにその影響力は増大してしまいます。1点の染み、汚れや罪は個人だけではない、神の民の共同体にまで大きな影響を及ぼします。個人でも共同体でも、そのいのちを奪ってしまうものになります。
「きよくなりなさい」。私たちの主はそう仰り、ツァラアトの人々や、長血の婦人を癒やし、死人に触ってよみがえらせました。「きよくなりなさい」と、神ご自身が私たちを招き、私たちに近づいてくださるのです。
「きよくなりなさい」。主はそのように招いてくださいます。しかしそれは、私たちの失敗を問いただすためのものではありません。失敗した者を再び立ちあがらせるための主の愛による招きです。
よみがえられたイエス様は、あの大きな失敗をしたペテロに対して、彼の失敗を問いただすのではなく、ご自身への愛だけを確認されました。その時ペテロは主を裏切った過去の過ちと正面から向き合わざるを得なかったでしょう。しかしそうすることによって、彼を押しつぶしていた罪責感は完全に取り除かれました。ペテロは復活されたイエス様と語り合いながら、自分に対する深い愛と赦しを味わい、再び立ち上がることができました。
「きよくなりなさい」。イエス様は失敗した私たちを見捨てるのではなく、愛をもって近づいてくださり、内にある染み、汚れ、罪。心の傷や罪責感を癒やし、信仰を回復させてくださいます。信仰の道で失敗した経験によって、もし自分を責めているところがあるならば、イエス様に赦しを求めましょう。きよめていただくことを求めましょう。そこで私たちはイエス様の無条件的な赦しを経験するでしょう。心の傷が癒やされ、染み、汚れが洗われることを経験するでしょう。そうしてイエス様は私たちを回復させ、回復させるだけでなく、新しい使命をも与えてくださいます。そして人生の変化が現れます。
自分の罪、失敗によって神から遠ざけられた経験がおありでしょうか。自分の罪、失敗によって神の民の共同体から肉体的にも、霊的にも離れてしまった経験がおありでしょうか。荒野に放り出されてしまったような経験がおありでしょうか。私にはあります。絶望のあまり聖書をゴミ箱に捨ててしまったほどです。しかし荒野は神と出会う場所でもあります。そのような状態から一定期間を過ごし、神によって赦され、きよめられ、神と神の共同体の交わりの中に戻された時、どうされましたか。新たな献身の思い、主を愛する思いが与えられたのではないでしょうか。そのように、主は私たち1人ひとりを愛してくださり、きよめてくださり、そして新しい使命をも与えてくださいます。その主にあって、主が復活されたように私たちは再び立ち上がり、約束の地を目指してここから新たな一歩を踏み出して行くのです。主は今も生きておられます。ですから何度でも何度でも、私たちをきよめてくださいます。私たちの汚れをきよめ、罪を赦し、傷を癒やし、新しい使命の機会を与えてくださる。そして神の子どもとして活き活きと生かしてくださる。私たちはいつも私たちの弱さを抱かれるイエス様のうちで、イエス様とともに歩んでまいりましょう。

