2026年6月28日 主日礼拝「主の手は短くない」

前  奏  黙祷
讃  美  新聖歌337「愛する主よ」
      新聖歌421「ここに主は在して」
招  詞  哀歌3章19〜24節
讃  美  讃美歌164「小羊をば」
使徒信条  讃美歌566「我は天地の造り主」
主の祈り  讃美歌564「天にまします」
祈  祷  
交読文   詩篇103篇(新聖歌 交読文32)
讃  美  讃美歌56「七日の旅路」
      プレイズ「御前に集い」
聖書朗読  民数記11章10〜23節
説  教  「主の手は短くない」
讃  美  讃美歌294「御恵み豊けき」
      新聖歌162「ハレルヤ、ハレルヤ」
献  金  讃美歌547「いまささぐる」
感謝祈祷
報  告  
今週の聖句 民数記11章23節
頌  栄  讃美歌541「父、み子、みたまの」
祝  祷
後  奏

本日の聖書箇所

民数記11章10〜23節

説教題

「主の手は短くない」

今週の聖句

「この主の手が短いというのか。わたしのことばが実現するかどうかは、今に分かる。」

民数記11章23節

説教「主の手は短くない」

民数記11章10〜23節

はじめに

皆さんは、「乳飲み子」と聞くと、どのような姿を思い浮かべられるでしょうか。
乳飲み子とは、母乳やミルクを飲んで育つ時期の赤ちゃんのことです。そこには、純粋で、かわいらしく、守ってあげなければならない存在というイメージがあります。しかし同時に、赤ちゃんを育てるということは、常に手がかかり、思い通りにならず、予測できない大変さを伴うものでもあります。
赤ちゃんは泣きます。夜中でも泣きます。理由が分からなくても泣きます。お腹が空いたのか、眠いのか、暑いのか、寒いのか、抱いてほしいのか、こちらがどれだけ考えても分からないことがあります。そして、親は自分の時間も、体力も、睡眠も削りながら、その小さないのちを腕の中に抱き、養い、守っていきます。

ところで、赤ちゃんには性格の原型というものが見られるそうです。それは環境や育て方によるものではなく、生まれつき備わっている「気質」と呼ばれます。アメリカの心理学者は、赤ちゃんの気質は、一般的に3つのタイプに分類されるという調査結果を公表しています。それによると、

  • 育てやすいタイプ(イージー)…わりと穏やかで、あまり敏感すぎず、新しいことにもあまり抵抗がないタイプ。泣くときは泣くものの、抱っこしてあやしたり、おっぱいを飲んだりすればご機嫌になり、よく笑い、好奇心旺盛。育てるのにあまり苦労しないタイプ。このタイプは全体の約40%を占めるそうです。
  • 気難しいタイプ(ディフィカルト)…イージーと正反対のタイプ。ちょっとした物音などにも敏感で、あまり寝ない。一度泣くとなかなか泣き止まない。かんしゃくを起こしやすい。こだわりが強く、気難しいところもあるので、親からすると育てにくいと感じることも。このタイプは全体の約10%を占めるそうです。
  • 順応が遅い子(スロースタータ−)…とてもおっとりしていて、様々な事が他の子と比べてゆっくりのペースで進むタイプ。何かをする時にも時間をかけることが必要だったり、こだわりや抵抗が強かったりして、慣れるまでに時間がかかることがある。その子なりのペースを見守ってあげることが大切。このタイプは全体の約15%を占めるそうです。

残りの約35%は、3つのタイプが混合した「平均的な子」だということです。ご自分、あるいはご自分の伴侶やお子さんはどのタイプに当てはまるでしょうか。
いずれにしても、どの子であっても、その子を育てるということは、ただかわいいというだけでは済みません。そこには大きな労苦があります。忍耐が必要です。自分を犠牲にする愛が必要です。

そして聖書は、信仰の成長過程にある者を「乳飲み子」にたとえることがあります。パウロも、信仰においてまだ幼い人々を乳飲み子のように語りました。私たち自身も、信仰の歩みの中で、神の前に、また教会の中で乳飲み子のような者であったことがあります。いや、今もなお、そうかもしれません。神と教会に養われ、抱きかかえられ、忍耐深く導かれている者たちです。

今日の民数記11章10節から23節には、まさにそのような「乳飲み子」のようなイスラエルの民を抱えたモーセの苦しみが描かれています。そして、その重荷に耐えきれなくなったモーセに対して、主がどのように答えられたのかが記されています。

乳飲み子のような民を抱えるモーセ

11章10節には、こうあります。
11章10節    モーセは、民がその家族ごとに、それぞれ自分の天幕の入り口で泣くのを聞いた。主の怒りは激しく燃え上がった。このことは、モーセにとって辛いことであった。

民は泣いていました。肉が食べたい。エジプトの食べ物が懐かしい。どうして私たちはエジプトから出て来たのか。そう言って、家族ごとに天幕の入り口で泣いていたのです。
それは、単なる悲しみの涙ではありませんでした。主の恵みに対する不満でした。神の救いを軽んじる涙でした。エジプトの奴隷であった日々を美化し、今与えられている神の恵みを見失った涙でした。
そのため、主の怒りは激しく燃え上がりました。そして、そのことはモーセにとって辛いことでした。

ここで「辛い」と訳されている言葉について、新改訳聖書の欄外注には「モーセの目に悪であった」とあります。つまり、モーセはただ民をかわいそうに思ったというよりも、この状況を受け入れがたいものとして見ていたのです。モーセの中に、不服、不満、苦しみ、怒りのような感情が湧き上がっていたのです。
そこでモーセは、主に向かって訴えます。

11章11節    それで、モーセは主に言った。「なぜ、あなたはしもべを苦しめられるのですか。なぜ、私はあなたのご好意を受けられないのですか。なぜ、この民全体の重荷を私に負わされるのですか。

モーセの口から、「なぜ」という言葉が繰り返されます。これは、信仰のない人の言葉ではありません。神に召され、神に用いられ、神の奇しいみわざを見てきたモーセの言葉です。しかし、そのモーセでさえ、限界に達したのです。

モーセは思い起こしていたのかもしれません。かつて出エジプト記3章で、主はモーセを召されました。エジプトで奴隷となって苦しんでいるイスラエルの民のもとへ行き、彼らを導き出し、約束の地へ連れて行くように命じられました。
その時、モーセは言いました。「私は、いったい何者なのでしょう。ファラオのもとに行き、イスラエルの子らをエジプトから導き出さなければならないとは。」すると主は言われました。「わたしが、あなたとともにいる。これが、あなたのためのしるしである。このわたしがあなたを遣わすのだ」(出312)と。

モーセは、その約束によって歩み始めました。自分の力ではできない。しかし主がともにおられるなら進むことができる。そう信じて、民を導いてきました。
ところが今、民は主の恵みを忘れ、救いを忘れ、エジプトを懐かしみ、肉が食べたいと泣き叫んでいます。モーセは神と民との間に立たされ、民の罪に対する主の怒りを聞き、民のわがままも耳で聞かなければなりませんでした。
そして、ついに言うのです。

11章14節    私一人で、この民全体を負うことはできません。私には重すぎます。
11章15節    私をこのように扱われるのなら、お願いです、どうか私を殺してください。これ以上、私を悲惨な目にあわせないでください。」

これは、非常に激しい言葉です。モーセは、もう生きているよりも死んだほうがましだと感じるほどに追い詰められていました。民を導くという使命が、あまりにも重く感じられたのです。

ここでモーセは、自分の立場を「乳母」のように表現しています。

11章12節    私がこのすべての民をはらんだのでしょうか。私が彼らを産んだのでしょうか。それなのになぜ、あなたは私に、『乳母が乳飲み子を抱きかかえるように、彼らをあなたの胸に抱き、わたしが彼らの父祖たちに誓った地に連れて行け』と言われるのですか。

乳母とは、自分が産んだ子ではない子を預かり、抱き、養い、しつけ、育てる人です。モーセは言っているのです。「この民を生んだのは私ではありません。彼らを造られたのはあなたではありませんか。それなのに、なぜ私一人がこの民全体を抱えなければならないのですか」と。
これは、モーセの正直な叫びでした。

私たちにも、このモーセの叫びが分かる時があるのではないでしょうか。
家庭の中で、職場の中で、あるいは教会の中で、誰かを支えなければならない。忍耐しなければならない。赦さなければならない。導かなければならない。祈らなければならない。けれども相手は思い通りには変わらない。感謝されるどころか、不満を言われる。こちらの労苦など少しも分かってもらえない。

その時、私たちも心の中で言うのです。
「なぜ私なのですか。」
「なぜ私ばかりが負わなければならないのですか。」
「無駄だ、無意味だ」
「もう私には重すぎます。」

本当に民を負っておられたのは誰か

しかし、ここで大切なことがあります。
主は、モーセに「あなた一人で負いなさい」とは言っておられなかったということです。主は、モーセを召された時、「わたしがあなたとともにいる」と約束されました。つまり、民を本当に負っておられたのは、モーセ一人ではありませんでした。神ご自身が、モーセとともにその民を負っておられたのです。いや、もっと言えば、モーセもまた神に負われていた一人、乳飲み子の一人でした。

民を抱きかかえ、養い、導いてこられたのは、本当は主ご自身でした。エジプトから救い出し、葦の海を渡らせ、荒野でマナを与え、雲と火の柱によって導いてこられたのは主です。罪深く、わがままで、つぶやき続ける民。色々な気質を持つ乳飲み子たち。それでも諦めずに、見捨てずに、なお愛して抱えてこられたのは主でした。

そして、このモーセの苦しみの姿に、私たちはやがて来られる救い主イエス・キリストの姿を重ねて見ることができます。
主イエスは、罪人である私たちの間に来てくださいました。癒やし、教え、伝え、ご自分を拒む者たちのために祈り、とりなしてくださいました。そして十字架の上で、「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです」と祈られました。
また、十字架の上で主イエスは叫ばれました。「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」
主イエスは、私たちの罪の重荷を負われました。私たちが負いきれない罪、負いきれない裁き、負いきれない苦しみを、ただお一人で負ってくださいました。

モーセは限界の中で叫びました。しかしキリストは、私たちを救うために、十字架の苦しみを最後まで負い抜いてくださいました。だからこそ私たちは、負いきれない重荷を覚える時、このお方にすがり、このお方の御前に正直に出てよいのです。取り繕わなくてよいのです。「もう無理です」「私には重すぎます」と祈れるのです。祈ってよいのです。なぜなら、信仰とは、苦しくないふりをすることではありません。限界がないように振る舞うことでもありません。限界を覚える時にこそ、「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」(マタ1128)と言われる、主の御前に出ることです。自分の弱さを隠さず、主に訴えることです。主に助けを、救い主に救いを求めることです。

主は重荷を分かち合う者を備えられる

そして主は、モーセの訴えを退けられませんでした。

11章16節    主はモーセに言われた。「イスラエルの長老たちのうちから、民の長老で、あなたが民のつかさと認める者七十人をわたしのために集めよ。そして、彼らを会見の天幕に連れて来て、そこであなたのそばに立たせよ。

主は、モーセを責め立てるのではなく、実際の助けを備えてくださいました。モーセ一人で重荷を負うのではなく、70人の長老たちがともに重荷を負うようにされたのです。
主はさらに言われます。

11章17節    わたしは降りて行って、そこであなたと語り、あなたの上にある霊から一部を取って彼らの上に置く。それで彼らも民の重荷をあなたとともに負い、あなたがたった一人で負うことはなくなる。

ここに、主のあわれみがあります。
主はモーセのところまで、モーセの弱さのところまで降りてこられるのです。主は「もっと頑張れ」とは言われませんでした。「指導者なのだから弱音を吐くな」とも言われませんでした。主は、モーセの限界をご存じでした。そして、重荷を分かち合う者たちを立ててくださいました。

実はこれまでにも、イスラエルには様々な組織が整えられてきました。出エジプト記18章では、モーセ一人に集中していた裁きの働きを分担するため、千人の長、百人の長、五十人の長、十人の長が立てられました。また民数記1章、2章では、各部族にかしらが立てられ、秩序ある共同体が形成されました。しかし組織があるだけでは、人の心までは変わりません。彼らは依然として不平を言い、つぶやき、責任を他人に押し付ける乳飲み子のような状態でした。そこで主は、行政的な組織だけではなく、霊的な責任をともに担う長老たちを立てられたのです。

これは教会にも通じることです。教会は一人の人がすべてを背負う場所ではありません。牧師だけが祈るのでもありません。役員だけが奉仕するのでもありません。教会はキリストをかしらとする一つのからだです。一人ひとりが賜物を与えられ、一人ひとりが祈り、一人ひとりが仕え、一人ひとりが福音宣教の責任を担う群れです。
思えば主イエスも同じでした。主は十二弟子を選ばれました。さらに七十人を遣わされました。すべてをご自分一人でなさろうとはされませんでした。弟子たちを育て、働きを分かち与え、ともに担わせられたのです。
神の民の共同体とは、本来そのようなものなのです。もちろん、神は時にリーダーを立てられます。しかし、その人にすべての重荷を背負わせるためではありません。共同体全体が、主の前に成熟していくためです。乳飲み子のように養われるだけでなく、やがて他の人を支える者へと成長していくためです。

Ⅰペテロ2章9節には、こうあります。「しかし、あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなたがたが告げ知らせるためです。」
今や、キリストにあって救われた私たちは、未だ乳飲み子のようかもしれませんが、主は私たち皆を、王である祭司、聖なる国民、つまり神のものとして特別に世から取り分けられた民としてくださっています。皆が主に特別に愛され、選ばれ、召されています。皆が、神の恵みを証しする者とされています。ですから私たちは、互いに重荷を負い合う者でありたいのです。誰か一人に任せきりにするのではなく、共に祈り、共に仕え、共に養われてさらに成長し、共に主の働きを担う群れでありたいのです。

モーセもまた恵みを見失っていた

さて、主はモーセに対して、長老たちを備えられただけではありません。肉を求めて泣き叫ぶ民に対しても、答えを与えられました。
主は言われます。「明日に備えて身を聖別しなさい。あなたがたは肉を食べられる。」
民は肉を求めました。エジプトが良かったと泣きました。そこで主は、肉を与えると言われます。しかし、それは単純な祝福ではありませんでした。
主は言われます。「あなたがたが食べるのは、ほんの一日や二日や五日や十日や二十日ではなく、一か月もであって、ついには、あなたがたの鼻から出て来て、吐き気をもよおすほどになる。」
これは、民の欲望が満たされるという意味では祝福のように見えます。しかし実際には、主をないがしろにした罪に対する裁きでした。

ここで私たちは、よく覚えなければなりません。欲しいものが手に入ることが、必ずしも祝福とは限りません。願いが叶うことが、必ずしも神に喜ばれているしるしとは限りません。人間の欲望がそのまま満たされることは、時に神の懲らしめとなることがあります。
イスラエルの民の問題は、肉が欲しかったこと自体だけではありません。彼らは、主をないがしろにしたのです。自分たちのうちにおられる主を軽んじ、主の恵みを忘れ、エジプトの奴隷であった過去を美化しました。

神は、毎朝マナを与えておられました。荒野で生きるために必要な恵みを、朝ごとに与えておられました。しかし彼らは、その恵みに満足できなくなっていました。

しかしここで考えたいのです。神の栄光を見失っていたのは、つぶやく民だけだったのでしょうか。実はモーセ自身もまた、神の恵みを見失っていました。
主は、「肉を与える。」と言われました。ところがモーセは、「徒歩の男子だけでも六十万人います。」「羊や牛を全部ほふっても足りないでしょう。」「海の魚を全部集めても足りないでしょう。」と言ったのです。

考えてみると不思議です。モーセほど神の奇跡を最前線で見てきた人はいません。十の災いを見ました。葦の海が分かれるのを見ました。岩から水が出るのを見ました。マナが降るのを見ました。そして以前には、主がうずらを与えられたことも経験しています。
それなのに今、モーセの目には、60万人の民しか見えていません。荒野の現実しか見えていません。自分の重荷しか見えていません。そして何よりも、「毎朝与えられていたマナ」の中に現されている神の栄光を見ることができなくなっていました。

イスラエルの民はマナに飽きていました。しかしモーセもまた、マナを当たり前のものとして見てしまっていたのです。
本来マナは毎朝の奇跡でした。朝ごとの恵みでした。朝ごとの約束でした。朝ごとに新しくされるあわれみでした。哀歌3章22節、23節にこうあります。「実に、私たちは滅びうせなかった。主のあわれみが尽きないからだ。それは朝ごとに新しい。」

人は恵みに慣れてしまいます。昨日もあった。今日もある。明日もあるだろう。
そう思い始めると感謝が消えていきます。そして神の大きさよりも問題の大きさが見えるようになるのです。

私たちも同じではないでしょうか。朝ごとに与えられている恵みがあります。今日も生かされていること。みことばが与えられていること。祈ることができること。礼拝に招かれていること。罪赦され、神の子とされていること。けれども、私たちはその恵みに慣れてしまうことがあります。

そして、ないものばかりを見るようになります。足りないものばかり数えるようになります。主がすでに与えてくださっている恵みを忘れ、目の前の不満だけが大きく見えてしまうのです。
その時、私たちの心にもつぶやきが生まれます。
「なぜ、こんな所に導かれたのか。」
「昔のほうが良かった。」
「うして私ばかりが。」

しかし、そのような私たちに、主はもう一度問われるのです。
「わたしの手が短いというのか。」

主の手は短くない

11章23節    主はモーセに答えられた。「この主の手が短いというのか。わたしのことばが実現するかどうかは、今に分かる。」

ここが、今日の箇所の頂点です。

主は、「モーセよ、おまえは問題ばかり見ている。」と言われたのです。「60万人を見るな。」「荒野を見るな。」「自分の限界を見るな。」「わたしを見なさい。」と言われたのです。

主の手は短くありません。エジプトから救い出した時も。海を分けた時も。マナを降らせた時も。そして今も。主の手は短くないのです。
神は、出エジプトの時にエジプトを打ち、葦の海を分け、荒野でマナを降らせたお方です。神は、罪と死の力を打ち破り、御子イエス・キリストを死者の中からよみがえらせたお方です。その主の手が、私たちの問題にだけ届かないということがあるでしょうか。主の手は短くないのです。

私たちもまた、人生の中で様々な重荷を負います。家庭の問題。健康の問題。仕事の問題。教会の課題。人間関係。将来への不安。隣人への宣教や伝道もそうです。

その時、私たちは「どうして。「なぜ。」「無理です。」と叫びます。モーセのように「私には重すぎます。」と言います。
しかし主は今日も語られます。「この主の手が短いというのか。わたしのことばが実現するかどうかは、今に分かる」と。主がここまで仰るのです。

私の問題よりも主は大きい。私の限界よりも主は大きい。私の重荷よりも主は大きい。だから私たちは、問題ではなく主を見るのです。現実ではなく、主の約束を見るのです。自分の力ではなく、主の御力を見るのです。
そして私たちは、重荷を抱えたまま、弱さを抱えたまま、信仰によって主の御前に出るのです。

思えば、荒野において、本当に重荷を負われたのは主でした。モーセではありません。私たちでもありません。主ご自身です。
そしてその主の姿を、私たちはイエス・キリストの十字架に見るのです。主イエス・キリストは私たちの罪を負われました。私たちの負いきれない重荷を負われました。乳飲み子のような私たちのために、諦めずに、なお愛し、とりなし続けておられます。だから私たちは、安心して、主にすがることができます。主の御手にすがることができます。主の御手は短くないからです。

私たちは主に見放されることはありません。主の御腕は、私たちに向かって四六時中差し伸べられています。その御手にすがりましょう。その御腕に抱かれましょう。私たちが抱えきれない重荷も、主は抱えることがおできになります。

今日も主は語られます。「この主の手が短いというのか。わたしのことばが実現するかどうかは、今に分かる。」と。
この主のみことば、約束を信じ、主の恵みを忘れず、朝ごとに与えられるマナの中に神の栄光、すばらしさを見ながら、ともに約束の地を目指して、荒野に住む人々に福音を宣べ伝えつつ、歩んでまいりましょう。

【祈り】
天の父なる神様。あなたの御名を賛美いたします。
私たちはイスラエルの民のように、与えられている恵みを忘れ、ないものばかりを見てしまいます。またモーセのように、与えられた使命や重荷の大きさに圧倒され、「なぜですか」とあなたに訴えることがあります。私たちの目は、しばしば問題に向き、あなたの御力と恵みから離れてしまいます。どうかお赦しください。
主よ、私たちにも朝ごとにマナが与えられています。朝ごとに新しいあわれみが注がれています。それにもかかわらず、私たちはその恵みを当たり前のものとしてしまいます。求めようとしないことまでしてしまいます。
どうか私たちの目を開き、日々与えられている恵みの中に、あなたの栄光を見ることができますように。
また、それぞれが負っている重荷を、あなたの御前に正直に差し出すことができますように。
一人で抱え込むのではなく、互いに重荷を負い合い、キリストのからだである教会として歩ませてください。
そして何よりも、「この主の手が短いというのか」と語られたあなたのことばを信じる信仰を与えてください。
私たちの限界を超えて働かれる主を見上げながら、信仰と希望と愛をもって歩むことができますように。
私たちの救い主、主イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。
アーメン。

長野聖書教会の話題やお知らせをお届けします。

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