2026年8月30日 主日礼拝「従順の先にこそ祝福がある」
前 奏 黙祷
招 詞 イザヤ66章1〜2節
讃 美 讃美歌7「主のみいつと」
使徒信条 讃美歌566「我は天地の造り主」
主の祈り 讃美歌564「天にまします」
祈 祷
交読文 詩篇130篇(新聖歌 交読文42)
讃 美 讃美歌188「みかみのことばよ」
「暗闇に光」
聖書朗読 民数記14章39〜45節
説 教 「従順の先にこそ祝福がある」
応答賛美 讃美歌517「われに来よと主は今」
「あなたをたたえ」
献 金 讃美歌547「いまささぐる」
感謝祈祷
報 告
今週の聖句 民数記14章44節
頌 栄 讃美歌541「父、み子、みたまの」
祝 祷
後 奏
本日の聖書箇所
民数記14章39〜45節
説教題
「従順の先にこそ祝福がある」
今週の聖句
しかし、彼らはかまわずに山地の峰の方に上って行った。主の契約の箱とモーセは、宿営の中から動かなかった。
民数記14章44節
説教「従順の先にこそ祝福がある」
民数記14章39〜45節
はじめに
私は今、教会の働きとは別に、印刷用のデータをチェックする仕事をしています。インターネットを通して入稿されたデータを開いて、このまま印刷してよいのか、不具合はないのかを確認し、不備があればお客様に戻して修正を依頼し、OKであれば印刷できる状態に整える仕事です。
皆さんご存知のとおり、私は以前、20年ほど印刷関係の仕事をしていました。ですから、印刷用のデータについては、それなりに経験も知識もあります。
今の印刷会社には、もちろん細かなマニュアルがあります。それだけではありません。入稿データを自動的にチェックする優れたシステムもあります。おそらく今では、AIの技術も様々なところに組み込まれているのでしょう。それでも最後には、人間がデータを開いて確認します。「本当にこれで印刷してよいのか。」最終的には、人の目で確認する作業が必要なのだと思わされます。
ところが、そこでもう一つ問題が起こります。最後に確認する人間が、「私は20年やってきたから分かっている。」「昔からこのやり方でやってきた。」「前もこれで大丈夫だった。」そう言って、自分の経験だけで判断したらどうでしょう。
経験は大切です。経験があるから分かることもあります。しかし、経験が基準そのものになってしまったら、そこにずれが生じます。ある重要とされている部分が省かれてしまうこともあります。実際に私は、そのようなことで何度もペナルティを課せられてしまったことがあります。この「ペナルティを課す」の別の言い方をご存知ですか。「悪いことをした人間に罰を与えること、お仕置きする、制裁する、けじめを付けさせる」「ヤキを入れる」なんて言い方もあるだそうです。いずれにしても、それはとても嫌なことです。
だから不安になったり、分からなくなったら、もう一度マニュアルに戻る。自分はどう思うかではない。以前どうだったかでもない。基準は何と言っているのか。何度もそこへ戻って確認します。
私は、信仰生活にも似たところがあると思います。私たちは信仰生活を続けていく中で、様々な経験をします。祈りが答えられた経験。苦しい時に御言葉によって支えられた経験。信仰によって一歩踏み出し、道が開かれた経験。長年、教会に仕えてきた経験。それらは大切な恵みです。しかし経験が積み重なると、いつの間にか私たちの中に、「信仰というのはこういうものだ。」「こういう時には、こうすればよい。」「クリスチャンなら、こう考えるべきだ。」という、自分なりの「信仰的行動マニュアル」が出来上がることがあります。しかも、それは全く御言葉と関係のないものとは限りません。
最初は、本当に主が語ってくださった御言葉だったかもしれない。その御言葉に従って、その時は本当に祝福されたのかもしれない。しかし、そこに自分の経験や成功体験、感情や解釈が少しずつ重なっていく。するといつの間にか、本来語られた御言葉とは少しずれたものを、「これが信仰だ。」「これが正しい。」と思い込んでしまうことがあります。
ですから私たちには、何度でも、今、生きておられる主の御前に出て、御言葉の前にへりくだることが必要です。「主よ、私は本当に、あなたの御言葉を正しく聞いているでしょうか。」そう問うことです。
今日のイスラエルの民は、一見すると、とても信仰的です。罪を認めています。ひどく悲しんでいます。「主が言われた場所へ上って行こう」と言っています。昨日まで恐れていた敵に向かって、今日は勇敢に進んで行きます。
ところがモーセは言います。
14章41節 モーセは言った。「あなたがたはいったいなぜ、主の命令を破ろうとするのか。それは成功しない。」
彼らは主に従っているつもりでした。しかし実際には、もう一度主に逆らっていたのです。
今日私たちは、この御言葉を通して、自分の正しさに従うのではなく、今、生きておられる主の御前にへりくだり、今、生きて語られる主の御言葉に聞き従う。そのことを覚えたいと思います。
そして、従順の先にこそ、主の祝福がある。今、生きておられる主の御声に聞き、その御言葉に従って歩む。その道にこそ、主の祝福がある。そのことをご一緒に受け取りたいと思います。
悔い改めとは、主のもとへ帰ること
14章39節 モーセがこれらのことばを、すべてのイスラエルの子らに告げると、民は嘆き悲しんだ。
民は、自分たちに下された主の裁きを聞きました。「約束の地には入れない。」「向きを変えて荒野へ進まなければならない。」そして「荒野で40年間生活することになる。」自分たちの不信仰、罪、そして失敗が、どれほど大きな結果をもたらしたのかを知ったのです。
それを聞いて、彼らはひどく嘆き悲しみました。本当に悲しかったのでしょう。「あんなことを言わなければよかった。」「なぜ主を信頼できなかったのだろう。」そんな後悔もあったでしょう。
そして翌朝、彼らは早く起きます。
14章40節 翌朝早く、彼らは山地の峰の方に上って行こうとして行った。「われわれはここにいるが、とにかく主が言われた場所へ上って行ってみよう。われわれは罪を犯してしまったのだ。」
「われわれは罪を犯してしまった。」罪を認めています。しかも翌朝、彼らは朝早く起きました。何とかしたい。今度こそ頑張ろう。失敗を取り返そう。そんな思いが伝わってくるようです。
そして実際に行動を始めます。
昨日まで、「そこへ行ったら殺される。」「エジプトに帰った方がいい。」と言っていた人々です。ところが今日は、「行こう。」「今度こそ行こう。」「主が言われた場所へ上って行こう。」と言います。
勇敢です。信仰的にさえ見えます。では、何がいけなかったのでしょうか。
14章41節 モーセは言った。「あなたがたはいったいなぜ、主の命令を破ろうとするのか。それは成功しない。」
昨日、主は、「約束の地へ上れ。」と言われました。
しかし民は、「上りません。」と言いました。
そして今、主は、「向きを変えて荒野へ進め。」と言っておられます。
ところが民は、「いいえ、今度は上ります。」と言ったのです。
昨日と今日で、行動は180度変わりました。
昨日は行かなかった。今日は行く。しかし、その心の中心にあるものは変わっていません。
昨日も主の御言葉を聞かなかった。
今日も主の御言葉を聞いていない。
昨日は、「怖いから行きたくない。」
今日は、「裁きを受けたくないから行きたい。」
どちらも、自分の思いが中心です。
彼らの中では、「主はカナンを与えると言われた。」「だから信仰とは、恐れずカナンへ上ることだ。」という「信仰的行動マニュアル」が出来上がっていたのかもしれません。
確かに、それは主が語られた御言葉から始まっています。しかし、そこに自分たちの後悔や焦り、「何とかして取り返したい。」という思いが入り込んだ。そして、今主が語っておられる御言葉とはずれたもの、また重要な部分が省かれてしまったものを、「これこそ信仰だ。」と思ってしまったのです。
私たちも、自分の中に出来上がった「信仰的行動マニュアル」が、いつの間にかそのようなものになっていないか、気をつけなければなりません。後悔や焦り、経験や成功体験によって、知らないうちにずれたり、重要な部分が省かれてしまうことがあるからです。そして、少しでもそれらを示されたなら、もう一度、基準である御言葉へ戻るのです。
そして、悔い改めとは、ただ間違ったことの反対をすることではありません。右へ行って失敗したから、今度は左へ行く。それが悔い改めではありません。悔い改めとは、「主のもとへ帰ること」です。「主よ、私は間違いました。」そこで終わらない。「主よ、それでは今、あなたは私に何と語っておられますか。」そこまで行くのです。
以前感動した御言葉だけに戻るのではありません。以前うまくいった信仰体験に戻るのでもありません。御言葉そのものへ戻るのです。そして、静まるのです。今、生きておられる主の御前に静まり、へりくだり、御言葉に耳を傾けるのです。
今、生きて語られる御言葉
ここは誤解しないようにしたいと思います。「今、生きて語られる主の御言葉」と言っても、神の真理が昨日と今日で変わるという意味ではありません。神は変わりません。神の御言葉の真理も変わりません。変わりやすいのは、私たちの方です。
以前、御言葉によって、「恐れないで、一歩踏み出しなさい。」と励まされ、本当に一歩踏み出して祝福されたとします。それは大切な信仰経験です。しかしそこから、「信仰とは、いつでも前へ進むことだ。」という自分なりの原則を作ってしまったらどうでしょう。次に何かが起きた時にも、「前にも進んで祝福された。だから今回も進めばよい。」と思う。
しかし本当に、主は今、「進みなさい。」と言っておられるのでしょうか。
もしかしたら、「今は待ちなさい。」かもしれない。
「今は立ち止まりなさい。」かもしれない。
今日のイスラエルのように、「今は向きを変えなさい。」かもしれない。
信仰とは、いつでも前へ進むことではありません。主が「行け」と言われたら行く。「待て」と言われたら待つ。「戻れ」と言われたら戻る。それが従順です。
だからこそ私たちは、何度でも、生きておられる主の御前に立ち、生きて語られる御言葉に耳を傾けなければなりません。主を信頼して、御言葉の前に自分自身を置くのです。そして、「主よ、私は正しいと思っています。しかし、本当にそうでしょうか。」「あなたの御言葉に、私の経験や感情を重ねてはいないでしょうか。」そうやって自分を吟味する。もしかすると、私たちは主に従っているのではなく、主に自分の正しさを承認してもらおうとしているだけなのではないか。この問いは、私たちが「自分は正しい」と思っている時ほど必要です。
大胆さと従順を取り違えない
昨日まで敵を恐れていた民が、今日は敵に向かって進んで行きます。これだけを見れば、「ついに彼らも信仰に立った。」「なんという大胆な信仰だ。」と言いたくなるかもしれません。
しかしモーセは、「素晴らしい信仰ですね。」とは言いません。「なぜ、あなたがたは主の命令に背くのか。」と言いました。
私たちは時々、無謀さと信仰を取り違えることがあります。極端な例ですが、「私は神様を信じているから、交通事故なんか起こさない。」と言って、信号を無視して車を走らせたらどうでしょう。それを、「なんという大きな信仰でしょう。」と評価するでしょうか。
しません。それは無謀です。
ところが信仰の世界では、ときどき、このような無謀さが「大胆な信仰」と評価されてしまう、笑えないことがあります。
大胆であることと、信仰深いことは同じではありません。
恐れないことと、従順であることも同じではありません。
信仰とは、無謀なほど大胆に、自分が正しいと思うことをやり抜くことではありません。
本当の大胆さとは、主を信頼して、主が語られたことに従うことです。
それは成功しない
41節でモーセは、「それは成功しない。」と言います。なぜでしょう。敵が強いからでしょうか。イスラエルが弱いからでしょうか。
14章42節 「上って行ってはならない。主があなたがたのうちにおられないのだから。」
これです。主がともにおられない。だから成功しない。
少し前に、ヨシュアとカレブは言いました。「彼らを恐れてはならない。主が私たちとともにおられるのだ。」
あの時、敵は強かった。城壁も高かった。民は、「無理だ。」と言いました。しかしヨシュアとカレブは、「主がともにおられる。」と言いました。だから行ける。
ところが今日は逆です。民は、「行ける。」と言う。モーセは、「行くな。」と言う。なぜなら、「主がともにおられないから」です。
問題は、敵が大きいか小さいかではありません。自分が強いか弱いかでもありません。勇気があるかないかでもない。「主がともにおられるかどうか」なのです。
私は今、主について行っているだろうか
私たちは何かをしようとする時、「これは正しいことだから。」と思います。
教会のためだから。伝道のためだから。家族のためだから。あの人のためだから。聖書的だから。
もちろん、正しいことを行うことは大切です。しかし、「私は正しいことをしているか。」という問いだけでは足りません。もう一つ問わなければなりません。
「私は今、主について行っているだろうか。」
言い換えるなら、
「主よ、今、あなたは私に何を求めておられますか。私は本当に、あなたの御言葉に聞き従っているでしょうか。」と、生きておられる主の御前で問うことではないでしょうか。
これはまず、私自身が問われることです。牧師として、誰かに何かを語らなければならないことがあります。「これは言わなければならない。」「これは正さなければならない。」そう思うことがあります。しかし、その時こそ、私は一度、主の御前で静まらなければならないと思わされます。私が語ろうとしていることは、本当に主の御心なのか。それとも、私の経験なのか。私の常識なのか。私の感情なのか。あるいは、自分が傷つけられたことから出てくる思いなのか。私は主のために語ろうとしているのか。それとも、主のためと言いながら、自分の正しさを通そうとしているのか。
これは私自身、何度でも主の前で問わなければならないことです。そして皆さんも、それぞれの生活の中で、ご自分のこととして考えてみていただきたいのです。
契約の箱は動かなかった
14章44節 しかし、彼らはかまわずに山地の峰の方に上って行った。主の契約の箱とモーセは、宿営の中から動かなかった。
私は、この場面が今日の箇所の頂点だと思います。
民は進んで行きます。昨日まで恐れていた人々が、今日は勇敢に山へ向かう。「今度こそ行こう。」「今度こそ信じよう。」「約束の地を取りに行こう。」人間の目から見れば、前進です。
ところが後ろを見ると、モーセが来ていない。
そして、契約の箱も動いていない。
契約の箱は、主の契約と臨在を民に示すものでした。またイスラエルは、ここまで雲に導かれて旅をしてきました。雲が上れば出発し、雲がとどまっている間は宿営にとどまる。昼は雲の柱、夜は火の柱。主が先に立ち、その後を民が進んできたのです。今日の箇所は、この時、雲が具体的にどうなっていたかまでは語っていません。しかし、本文が言っていることだけで十分です。
「契約の箱とモーセは動かなかった。」
本来イスラエルは、「主が動かれた。だから私たちも動く。」という民でした。ところが今は逆です。「私たちが動く。主もきっとついて来てくださるだろう。」となってしまった。ここに信仰の大きな取り違え、ズレがあります。
信仰とは、「私が決めた道に、主について来ていただくこと」ではありません。「主が進まれる道に、私たちがついて行くこと」です。
彼らは約束の地へ向かっています。しかし、『その地を与え、祝福すると約束してくださった主を置いて行ってしまった』のです。
目的地は正しい。しかし、主について行っていない。これは何と恐ろしいことでしょう。
私たちも、「神様のために。」と言いながら、主より先へ行ってしまうことがあります。教会のために働いている。奉仕している。伝道している。家族のために頑張っている。それは本当に良いことです。少しも悪いことではありません。けれども、良いことをしているからこそ、かえって立ち止まって問わなければならないことがあります。
「主よ、私は今、あなたについて行っているでしょうか。」
「私の計画を祝福してください。」と祈る前に、「主よ、私はあなたについて行っているでしょうか。」と問う。走り出す前に、静まるのです。
主を第一にすることは、日常に現れる
従順というのは、大きな決断をする時だけのものではありません。日常の小さな選択に現れます。何を第一にするのか。誰を第一にするのか。そこに現れます。
たとえば、日曜日の礼拝もそうでしょう。もちろん、病気があります。仕事があります。介護があります。家庭の事情があります。どうしても礼拝に集えないことがあります。そのような方を責めようというのではありません。
問いたいのは、私たちの心です。「今日は自分のしたいことがあるから、主は後でいい。」「今日はこれを優先したいから、礼拝はまた今度でいい。」そうやって、主よりも自分のしたいことを優先する心はないでしょうか。私たちは、「主を愛しています。」「神様を第一にしています。」と言います。では、その愛はどこに現れるのでしょう。
礼拝とは。主の日に、主の御前に集まる。日常の様々な活動をいったん止めて、休む。主の御前で静まる。目も、耳も、心も、そして私たち自身のすべてを主に向けて、御言葉に聞く。自分自身を吟味する。罪を示されたなら悔い改める。キリストの赦しを受ける。そして、自分の中に出来上がっていた「信仰的行動マニュアル」のずれを、もう一度御言葉によって正していただく。新しい力をいただいて立ち上がり、また主とともに歩き始める。礼拝とは、そのように私たちの向きを、もう一度主へと向け直していただく時でもあるのではないでしょうか。だからこそ、私たちは毎週の礼拝を大切にするのです。
従順の先にこそ、主の祝福がある
14章45節 山地に住んでいたアマレク人とカナン人は、下って来て彼らを討ち、ホルマまで彼らを追い散らした。
民は敗北しました。
勇気はありました。行動もしました。けれども敗北した。なぜでしょう。
主がともにおられなかったからです。
ここで今日、私たちが覚えたいことがあります。
それは「従順の先にこそ、主の祝福があります。」ということです。
それは、「神様に従えば、お金持ちになる。」ということではありません。「神様に従えば、病気にならない。」ということでもありません。「信仰があれば、何もかもうまくいく。」ということでもない。なぜならば、従順の道は、主とともに歩む道だからです。主がともにいてくださる。それこそが祝福だからです。
そして主がともにいてくださるなら、恐れる必要はありません。「わたしは生きている」と、ご自身のいのちにかけて語られた主です。その主は、ご自分の約束を決して忘れず、必ず成就してくださいます。
「乳と蜜の流れる地」は、天を見上げて生きる地
ところで、これまで何度も、「乳と蜜の流れる地」という言葉を聞いてきました。
カナンは、主がイスラエルに与えると約束された良い地です。水があり、小麦、大麦、ぶどう、いちじく、ざくろ、オリーブなどが実る豊かな土地でした。
しかし申命記11章は、エジプトとカナンの違いを語っています。
エジプトにはナイル川がありました。しかしカナンには、国土全体を潤すナイル川のような大河がありません。乾季には雨が少なく、雨季に降る雨によって大地が潤され、作物が育ちます。ですから申命記はカナンについて、「天から降る雨で水を得る地」と語ります。
そして主は、イスラエルが主を愛し、心を尽くし、いのちを尽くして仕えるなら、初めの雨と後の雨を与えると約束されました。
つまりカナンとは、神様がいなくても勝手に豊かになれる土地ではありませんでした。天を見上げて生きる土地だったのです。雨をくださる主を信頼して生きる土地だった。主の恵みを受けながら生きる土地だったのです。
ですから、「乳と蜜の流れる地」という祝福だけを求めて、『祝福をくださる主を置いて行ってはならない』のです。
今日のイスラエルは、乳と蜜の流れる地へ向かっています。祝福を取りに行こうとしている。しかし、契約の箱は動いていない。祝福をくださる主を置いて、祝福だけを取りに行こうとしている。それでは、本当の祝福にはなりません。
主がおられる荒野
そして、ここが大切です。
今、主がイスラエルに命じておられる道は、カナンではありません。荒野です。人間の目から見れば、後退です。目の前には乳と蜜の流れる地がある。それなのに主は、「向きを変えて荒野へ進め。」と言われる。
従順の道が、荒野へ向かう道であることもあるのです。ですから、従順の先に祝福があるというのは、「従えば、すぐに楽な道が開かれる。」という意味ではありません。試練があるかもしれない。涙があるかもしれない。自分の願いを手放さなければならないこともある。
しかし考えてみてください。「主がおられる荒野と、主がおられないカナンなら、どちらが祝福でしょうか。」
主がおられる荒野です。
荒野であっても、そこに、ご自身のいのちにかけて約束を守られる主がともにいてくださるなら、そこは祝福の道です。
大切なのは、そこが荒野かカナンかではありません。主がともにおられるかどうかなのです。
従順の道は、いつも楽な道ではありません。時には、「どうしてこちらへ行かなければならないのだろう。」「ずいぶん遠回りをしているように感じる。」そんなもどかしさを覚えることもあるでしょう。しかし、「主とともに歩む回り道は、主を置いて行く近道よりも、はるかに確かな道」です。なぜなら、その道を主ご自身が、約束の成就へと導いてくださるからです。
完全に従順であられたキリスト
ここまで御言葉を聞いてくると、私たちは自分自身を見ないわけにはいきません。私たちは本当に、主に従ってきただろうか。「行きなさい。」と言われているのに、怖くて行かなかったことがある。「待ちなさい。」と言われているのに、待てなかったことがある。「赦しなさい。」と言われているのに、赦したくなかったことがある。「愛しなさい。」と言われているのに、自分の正しさを主張してきたことがある。
イスラエルは、「行け。」と言われた時に行かず、「行くな。」と言われた時に行きました。
私たちも同じです。だからこそ、私たちにはイエス・キリストが必要です。
イエス様は、御父の御心に完全に従われました。ゲツセマネで、ご自分の願いではなく、御父の御心がなされるように祈られました。
そしてピリピ人への手紙2章8節には、「自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。」とあります。
十字架への道は、楽な道ではありませんでした。苦しみの道でした。涙の道でした。しかしキリストは御父に従われました。そして、「それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。」と続きます。
キリストは十字架にまで従われた。そして復活された。高く上げられた。今、神の右の座についておられます。ここに、「従順の先にこそ祝福がある」ということの、最も完全な姿を見ることができます。
しかし、イエス様は単に、「わたしのように従いなさい。」という模範を示すためだけに来られたのではありません。もしそれだけなら、今日の説教を聞いた私たちは、「もっと頑張って従わなければ。」と、ただ重い荷物を背負って帰ることになります。
福音は、そうではありません。福音は喜びです。
私たちが完全に従えなかったからこそ、キリストが私たちのために完全に従ってくださったのです。私たちが従順だったから救われるのではありません。不従順だった私たちの罪を、キリストが十字架で負ってくださった。だから赦されます。だから、やり直すことができます。
自分で取り返さなくてよい
今日の御言葉を聞いて、「私は間違っていた。」と思わされることがあるでしょうか。自分の正しさで誰かを裁いていた。主より自分のしたいことを優先していた。御言葉より、自分の経験を信頼していた。主のために戦っているつもりで、自分の正しさのために戦っていた。自分で作った「信仰的行動マニュアル」に従って、主より先に歩いていた。
もしそう気づかされたなら、今日のイスラエルと同じ間違いを、もう一度しないでください。「分かりました。今度こそ私が頑張ります。」「失敗した分を取り返します。」そう言って、自分だけで山へ駆け上がらなくてよいのです。
自分で取り返さなくてよい
まず、静まりましょう。主のもとへ帰ればよいのです。今、生きておられる主の御前に帰りましょう。御言葉の前にへりくだりましょう。「主よ、私は間違いました。」と告白しましょう。そして、「主よ、それでは今、あなたは私に何と語っておられますか。」と聞きましょう。
主は、悔い改めて帰る者を拒まれません。キリストの十字架によって赦してくださいます。聖霊によって、もう一度歩ませてくださいます。私たちは、「従わなければ祝福をもらえないから。」と恐れて従うのではありません。すでに愛してくださった主を愛するから、従うのです。御子さえ惜しまず与えてくださった主を大切にしたいから、従うのです。
従順とは、神を愛することです。神を大切にすることです。神を第一にすることです。生きた御言葉に耳を傾けることです。そして間違ったなら、また主のもとへ帰ることです。
おわりに
私たちの前にも、これから様々な道があります。以前うまくいった方法があるかもしれません。長い信仰生活の中で身につけた経験もあるでしょう。「これは絶対に正しい。」と思うこともあるでしょう。しかし、そんな時こそ、走り出す前に、静まりましょう。自分の経験だけで進まない。自分の正しさだけで進まない。自分で作った「信仰的行動マニュアル」だけで進まない。今、生きておられる主の御前に出ましょう。御言葉の前にへりくだりましょう。そして、「主よ、私は本当に、あなたについて行っているでしょうか。」と問いましょう。
信仰とは、私が決めた道に、主について来ていただくことではありません。主が進まれる道に、私たちがついて行くことです。
その道が、時には荒野へ向かっているように見えることもあるでしょう。後退しているように見えることもある。遠回りに思えることもある。しかし、その道に主がともにいてくださるなら、大丈夫です。主とともに歩む回り道は、主を置いて行く近道よりも、はるかに確かな道です。なぜなら、祝福とは、主から何かをいただくことだけではないからです。主ご自身が、私たちの祝福だからです。
そして、その道を私たちより先に歩いてくださった方がおられます。イエス・キリストです。十字架にまで従われ、死を打ち破って復活され、今も生きておられる主です。その主が、今日も私たちを招いてくださっています。
間違えたなら、帰りましょう。自分で取り返さなくてよい。
主の御前に静まりましょう。キリストの赦しをいただきましょう。そして、もう一度、主とともに歩き始めましょう。自分の正しさではなく、今、生きて語られる主の御言葉に従いましょう。
従順の先にこそ、主の祝福があります。
なぜなら、そこは主とともに歩む道だからです。
「わたしは生きている」と、ご自身のいのちにかけて語られる主が、今日も私たちを招いておられます。その御声に聞き従い、主とともに歩んでいこうではありませんか。
【祈り】
愛する天の父なる神様。今日も御言葉を通して、私たちに語りかけてくださり、ありがとうございます。
主よ、私たちは、自分ではあなたに従っているつもりでいながら、自分の正しさ、自分の経験、自分の考えに従って歩んでしまうことがあります。あなたについて行くのではなく、自分が決めた道に、あなたについて来ていただこうとしてしまう私たちを、どうぞお赦しください。「私は正しい」と思う時ほど、あなたの御前にへりくだることができますように。
自分の思いに御言葉を合わせるのではなく、御言葉の前に自分自身を置き、「主よ、私は本当に、あなたについて行っているでしょうか。」と問い続ける者としてください。
主よ、私たちは何度も間違えます。行くべき時に恐れ、立ち止まるべき時に先走り、あなたよりも自分を第一にしてしまいます。けれども、そのような私たちのために、御子イエス・キリストが十字架にまで従ってくださったことを感謝します。私たちの不従順の罪を十字架によって赦し、復活によって新しいいのちを与えてくださったことを感謝します。
間違えた時、自分の力で取り返そうとするのではなく、あなたのもとへ帰らせてください。今、生きておられるあなたの御前に帰り、御言葉に聞き、聖霊に満たされて、もう一度あなたとともに歩ませてください。たとえその道が荒野のように見える時にも、あなたがともにいてくださるなら、そこにこそ祝福があることを信じさせてください。
主よ、私たちの願いは、あなたから祝福だけをいただくことではありません。
あなたご自身を愛し、あなたを第一とし、あなたとともに歩むことです。
今も私たちを御許へと招いてくださる主の御声に、素直に聞き従うことができますように。
私たちの救い主、イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。
アーメン。

