2026年9月24日 木曜日祈祷会「ただ、あなたに目を注ぐのみです」
聖書箇所
歴代誌第二 20章1〜19節
「ただ、あなたに目を注ぐのみです」
今日の箇所は、19章から続けて読むことがとても大切だと思います。
19章でヨシャファテは、預言者エフーから厳しいことばを受けました。アハブと手を組んだことについて叱責されたのです。しかしヨシャファテは、その叱責を受けて終わりではありませんでした。
国中を巡り、人々をもう一度、主に立ち返らせました。裁判官を立て、その人たちにも、「人のためではなく、主のために裁くのだ」と教えました。
つまりヨシャファテは、自分自身も主の前に立ち返り、国全体を主のもとへ立ち返らせようとしていました。
ところが20章1節は、「その後」と始まります。
その後のことであった。モアブ人とアンモン人、および彼らに合流した一部のアンモン人が、ヨシャファテと戦おうとして攻めて来た。
歴代誌第二 20章1節
その後、モアブ人、アンモン人たちの大軍が攻めて来たのです。
ここは少し意外ではないでしょうか。私たちはどこかで、「主に従っているのだから、きっとうまくいくはずだ」と思ってしまうことがあります。
主に従ったのだから、問題は少なくなるはずだ。主に立ち返ったのだから、これからは物事が良い方向へ進んでいくはずだ。
ところが聖書は、必ずしもそうは語りません。
ヨシャファテは主に立ち返りました。民にも主に立ち返るように勧めました。その「後」に、大軍がやって来ました。
この歴代誌を読んだ捕囚からの帰還民たちも、似たような思いを持っていたのではないでしょうか。
彼らは主のもとへ帰って来ました。エルサレムに帰り、神殿を建て直し、もう一度、主の民として歩もうとしていました。
けれども、現実は決して楽ではありませんでした。
国はかつてのような力を持っていません。周囲には不安があります。これからどうなるのか分からない。「主のもとへ帰って来たのに、なぜこんなに苦しいのだろう。」そんな思いを抱く人もいたのではないでしょうか。
そして、それは今の私たちにもよく分かることだと思います。
主を信じていても、苦しいことはあります。主に従おうとしている時にも、思いがけない問題が起こります。そして時には、「どうしたらよいのか分からない」というところまで追い込まれることがあります。
振り返ってみれば、私たちにも実際に、そのような時があったのではないでしょうか。
そして、これから先にも、きっとあるでしょう。
ヨシャファテもそうでした。
ヨシャファテは恐れた。そして心に決めて主を求め、ユダの全土に断食を呼びかけた。
歴代誌第二 20章3節
「ヨシャファテは恐れた」とあります。
信仰があったから恐れなかったのではありません。彼も恐れました。けれども大切なのは、その次です。
「ヨシャファテは恐れた。そして心に決めて主を求め・・・」
恐れた時、彼はどこへ向かったのか。そこが問われています。
恐れた時、人は自分を守ってくれそうなものへ向かいたくなります。力のある人。お金。自分自身の知恵。今すぐ安心を与えてくれそうな何か。
しかしヨシャファテは、主を求めました。そして祈ります。
その祈りの中で、今日特に心に留めたいのが12節です。
攻めて来るこの大群に当たる力は、私たちにはありません。私たちとしては、どうすればよいのか分かりません。ただ、あなたに目を注ぐのみです。」
歴代誌第二 20章12節
これは、とても切実な祈りです。
「私は大丈夫です。」「何とかします。」とは言いません。
「力がありません。」「どうすればよいのか分かりません。」
自分ではもう、どうすることもできない。何か別の手段を考えることさえできない。主に目を向けるしかない。主に助けを求めるしかない。そんなところまで追い込まれているのです。
けれども、これは絶望のことばではありません。
「どうすればよいのか分かりません。」その後に、「ただ、あなたに目を注ぐのみです。」と続きます。
私には分からない。けれども、主には分かっておられる。
私には道が見えない。けれども、主は道をご存じである。
ですから、ほかのものに目を移すのではなく、主に目を注ぐ。「主よ、あなたが何をしてくださるのかを待ちます。」そうして主の前に立つのです。
すると主は、ヤハジエルを通して語られました。
この戦いは、あなたが戦うのではない。堅く立って、あなたがたとともにおられる主の救いを見よ。
歴代誌第二 20章17節
「しっかり立って動かず、あなたがたとともにいる主の救いを見よ。」
このことばを聞くと、出エジプト記14章を思い起こします。
モーセは民に言った。「恐れてはならない。しっかり立って、今日あなたがたのために行われる主の救いを見なさい。」
出エジプト記 14章13節
イスラエルの民がエジプトを出た時、前には紅海、後ろからはエジプトの軍隊が迫ってきました。逃げる道がありません。
あの時もまさに、「どうすればよいのか分かりません」という状況でした。
その民にモーセは語ります。恐れてはならない。しっかり立って、今日あなたがたのために行われる主の救いを見なさい。」
そして主は、海の中に道を開かれました。
人間にはどうすることもできなかったところに、主が道を造られたのです。
歴代誌第二20章でも同じです。「堅く立って、あなたがたとともにおられる主の救いを見よ。」
これは、「あなたが何とかしなさい」ということばではありません。
「もう駄目だ」と崩れ落ちなくてよい。
「恐れるな。おじけるな。」そこに立っていなさい。
なぜなら、「主があなたがたとともにいる」からです。
主は時に、私たちには考えられない仕方で道を開いてくださることがあります。
人の力ではどうにもならないような危機の中で、思いがけない助けが与えられることもあります。紅海のように、後になって、「これは主がしてくださったことだ」としか言いようのない出来事を見ることもあります。
もちろん、いつも私たちが願った時に、願った方法で、奇跡的な解決が与えられるとは限りません。けれども確かなことは、救いは主から来るということです。
だから、聖書は主から目を離さないようにと教える。
そして私たちは、主から目を離さないのです。
そして18節、19節を見ると、ヨシャファテと民はひれ伏して主を礼拝し、レビ人たちは大声で主を賛美し始めました。
まだ敵はいます。戦いも始まっていません。何一つ、目に見える状況は変わっていません。それでも彼らは礼拝しました。
もちろん、主の御言葉を信じたからでしょう。「この戦いはあなたがたの戦いではなく、神の戦いである。」その御言葉に信頼したからこそ、礼拝し、賛美したのです。
けれども私は、もう一つ思わされます。
彼らには、礼拝し、賛美することしかできなかったのではないでしょうか。
いや、むしろ、主に依り頼むしかなかった。だから主を礼拝した。
御言葉を信じ切ることのできる強い人たちが、余裕をもって賛美した、というだけではないと思います。恐れはまだあったかもしれません。明日、本当にどうなるのかという不安もあったかもしれません。けれども、だからこそ礼拝した。だからこそ賛美した。語られた御言葉にもう一度心を向け、主に目を注ぎ続けた。その礼拝と賛美そのものが、「主よ、私たちはあなたに依り頼みます」という信仰の姿だったのではないでしょうか。
「ただ、あなたに目を注ぐのみです。」
これは一度主を見る、ということではないのかもしれません。
恐れが押し寄せてくるたびに、もう一度主を見る。
不安になったら、もう一度御言葉に戻る。
そして礼拝し、賛美しながら、「主よ、私の目をあなたから離さないでください」と主に依り頼み続ける。
それもまた、信仰なのだと思います。
私たちにも、これから先、「どうしたらよいのか分からない」という時が来るでしょう。
その時、主を見上げる者でありたいと思います。
そして、これは、「もっと強い信仰を持って、頑張って主を見上げましょう」という話ではありません。
私たちには、主を見上げることのできる確かな理由があります。
主イエスは、私たちの罪のために十字架で死んで、それで終わったのではありません。三日目によみがえられました。今も生きておられます。
そして聖書は、よみがえられたキリストが神の右におられ、私たちのためにとりなしてくださっている、と語っています。
ですから、「主はここにもおられる。」「主は私を見捨てておられない。」そう信じることができます。
私たちが主をしっかりつかんでいるからではありません。生きておられる主が、私たちをとらえていてくださるからです。
だから、いつか、「どうしたらよいのか分かりません」と言うしかない時が来ても、「ただ、あなたに目を注ぐのみです」と祈る者でありたいと思います。
恐れの中でも、もう一度主を見上げる。御言葉に耳を傾ける。礼拝し、賛美しながら、主に心を向け続ける。
そして、主がなさる救いを信じたい。これまでの恵みを感謝したい。これから主が何をしてくださるのかを、心から期待して待つ者でありたいと思います。
そして何よりも、そのように主を見上げることのできる者として、すでに主に招かれ、主に支えられていることを感謝したいと思います。
【「みことばの光」より、祈り】
次の聖日礼拝を主の前にひれ伏して、感謝の心からささげられるように。

