2026年10月14日 水曜日祈祷会「ユダ王国の滅亡と安息の預言」

聖書箇所

歴代誌第二 36章

ユダ王国の滅亡と安息の預言

はじめに 歴代誌を振り返って

今日は歴代誌第二の最後、36章を学びます。そして、これで歴代誌第一、第二の学びも終わることになります。

これまで、私たちはイスラエルの長い歴史を見てきました。ダビデが王となり、その子ソロモンが神殿を建てました。主の栄光が神殿に満ち、民は喜びをもって主を礼拝しました。
しかし、その後、王国は分裂し、ユダの国にも様々な王たちが現れました。
主を求め、信仰によって歩んだ王もいました。反対に、主から離れ、自分の力に頼り、偶像を拝む王もいました。
私たちは、その一人ひとりの歩みを通して、大切なことを教えられてきました。
例えば、アサ王は、大軍を前にして主に拠り頼みました。しかし、その後、困難に直面した時には、主ではなく人間の力に頼ろうとしました。
ヨシャファテ王は、敵の大軍が迫った時、「私たちは、どうすればよいのか分かりません。ただ、あなたに目を注ぐのみです」と祈りました。
ヒゼキヤ王は、礼拝を回復し、民が喜んで主に仕えるよう導きました。そして、その忠実な歩みの後に、アッシリアという大きな危機を経験しました。
さらに、先週学んだヨシヤ王は、失われていた律法の書を発見し、その御言葉に心を痛め、主の前にへりくだりました。そして、民を導いて過越のいけにえをささげました。
このように歴代誌には、信仰の模範となる王たちの姿が記されていました。

しかし同時に、どんなに優れた王であっても、完全ではありませんでした。信仰深い王にも弱さがあり、失敗がありました。そして、次の世代にその信仰が受け継がれるとも限りませんでした。

こうして、歴代誌の最後の章、36章にたどり着くのです。

Ⅰ.主のあわれみを退けた民(1〜16節)

36章には、ユダ王国最後の四人の王が登場します。
エホアハズ、エホヤキム、エホヤキン、そしてゼデキヤです。
かつては主の祝福を受け、繁栄していたユダの国でした。しかし今や、エジプトやバビロンといった大国に翻弄されています。
王が即位しても、間もなく外国の王によって退けられ、別の王が立てられる。そのようなことが繰り返されます。
そして聖書は、彼らが「主の目に悪であることを行った」と繰り返し記しています。
最後の王ゼデキヤについては、さらに詳しく語られています。
12節には、彼が主の目に悪を行い、預言者エレミヤの前にへりくだらなかったとあります。
また13節では、「うなじを固くし、心を頑なにして、イスラエルの神、主に立ち返らなかった」と記されています。
さらに14節を見ると、問題は王だけではありませんでした。祭司の長たちも、民も、不信の罪を重ねていたのです。
そして15節には、こう記されています。

彼らの父祖の神、主は、彼らのもとに早くからたびたび使者を遣わされた。それは、ご自分の民と、ご自分の住まいをあわれまれたからである。
歴代誌 第二 36章15節

ここは、今日、特に心に留めたい御言葉です。
なぜ主は、何度も預言者を遣わされたのでしょうか。
それは、主が彼らをあわれんでおられたからです。
主は、罪を犯した民をすぐに滅ぼされたのではありませんでした。繰り返し、繰り返し、語りかけてくださったのです。
立ち返るように。主を求めるように。主の御言葉に聞き従うように。
考えてみれば、私たちがこれまで歴代誌で学んできたのも、そのような神の姿ではなかったでしょうか。
主から離れた王や民に対して、主は預言者を遣わされました。時には困難を通して、自分たちの歩みを振り返らせ、立ち返る機会を与えてくださいました。
しかし、16節には、民が神の使者たちを嘲り、その言葉を侮り、預言者たちを笑いものにしたとあります。
そしてついに、主の激しい怒りが彼らに下り、「もはや癒やされることがないまでになった」のです。
ここには、恐ろしい人間の頑なさがあります。
神が語りかけておられるのに、聞こうとしない。神が立ち返るように招いておられるのに、立ち返ろうとしない。
しかし、その頑なさは、決して昔のイスラエルの民だけの問題ではありません。
私たちも、御言葉を聞いていながら、心を閉ざしてしまうことがあるのではないでしょうか。
自分にとって都合の良い御言葉には喜んで耳を傾けます。しかし、自分の罪を指摘されたり、考え方や生き方を改めるように迫られたりすると、なかなか受け入れようとしない。
それでも主は、私たちに御言葉を語りかけてくださいます。
なぜでしょうか。
私たちをあわれんでおられるからです。
御言葉によって罪を示されることも、主のあわれみなのです。
私たちが自分の罪に気づき、主の前にへりくだり、立ち返ることができるように、主は語りかけてくださるのです。
ですから、主が語りかけてくださる時、その御声を軽んじることのない者でありたいと思います。

Ⅱ.人が忘れても、主の御言葉は成就する(17〜21節)

さて、17節から、ついにユダ王国の滅亡が記されます。
バビロンの王が攻めてきました。多くの人々が殺され、生き残った者たちは捕囚としてバビロンに連れて行かれました。
神殿は焼かれ、エルサレムの城壁は崩され、宮殿も破壊されました。
歴代誌を最初から学んできた私たちにとって、これは本当に悲しい結末です。
あれほど栄光に満ちていたソロモンの神殿が、焼かれてしまったのです。
主の御名が置かれ、主の民が集まり、賛美と祈りをささげていた場所が失われてしまいました。
そして民は、約束の地から追い出されてしまいました。
しかし、21節には、非常に印象的なことが記されています。

これは、エレミヤによって告げられた主のことばが成就して、この地が安息を取り戻すためであった。その荒廃の全期間が七十年を満たすまで、この地は安息を得た。
歴代誌 第二 36章21節

これは、どういうことでしょうか。
かつて主は、イスラエルの民に、7年ごとに土地を休ませるよう命じておられました。
レビ記25章に記されている安息年の規定です。
6年間は畑を耕し、作物を収穫する。しかし、7年目には土地を休ませる。
それは単に、土地の生産力を回復させるための制度ではありませんでした。
主は「土地はわたしのものである」と語っておられます。
土地も、そこに実る作物も、民の生活も、すべて主の御手の中にあるのです。
一年間、畑を耕さずに生活するというのは、簡単なことではなかったでしょう。
「本当に食べていけるのだろうか。」
「来年の生活はどうなるのだろうか。」
そうした心配があったはずです。
だからこそ安息年は、主に信頼することを教えるものでもありました。
自分たちが休んでも、主は養ってくださる。自分の力によってではなく、主の恵みによって生かされている。
そのことを覚えるためでもあったのです。
しかし、イスラエルの民は、その安息を大切にしてきませんでした。
そしてレビ記26章では、民が主に背き続けるならば、土地は荒れ果て、民がそこに住まなくなった時に、土地が安息を得ると警告されていました。
まさに、そのことが起こったのです。
民が土地を休ませなかった。主に信頼して生きることをしなかった。
そしてついに、自分たちがその土地に住むことさえできなくなってしまったのです。
何という皮肉でしょうか。
主の恵みに信頼して安息を受け取るはずだった民が、主に背き続けた結果、土地から追い出され、その土地だけが安息を得たのです。
ここに私たちは、人間の不従順がもたらす深刻な結果を見ることになります。
しかし、21節が語っていることは、それだけではありません。
もう一つ、大切なことがあります。
それは、人間がどれほど主に背いても、主の御言葉は決して失われないということです
民は、主の御言葉を軽んじました。預言者たちの言葉を侮りました。
しかし、彼らがどれほど御言葉を軽んじても、その御言葉が無効になることはありませんでした。
主が語られたことは、そのとおりに実現したのです。
そして、ここで思い出したいのが、エレミヤを通して語られたもう一つの約束です。
エレミヤ書29章10節で、主は、バビロンでの七十年が満ちる時、民を顧み、彼らをこの場所に連れ戻すと約束しておられました。
つまり主は、裁きについて語られただけではありません。
裁きの向こうにある回復についても、すでに語っておられたのです。
主の御言葉は、裁きについても真実でした。そして、回復の約束についても真実だったのです。

Ⅲ.それでも、主の約束は終わらない(22〜23節)

そして、いよいよ歴代誌の最後、22節と23節です。
ここに、思いがけない出来事が記されています。
ペルシアの王クロスの第一年、主はクロスの霊を奮い立たせ、ユダヤ人たちがエルサレムに帰り、神殿を再建することを許す布告を出させたのです。
注目したいのは、22節にも、21節と同じように、エレミヤを通して語られた主の言葉が成就するため、と記されていることです。
21節では、裁きの御言葉が成就しました。
そして22節では、回復の御言葉が成就したのです。
主は、裁きについても、回復についても、ご自分が語られたことを忘れておられませんでした。
考えてみてください。
ユダの王たちは、次々と失敗しました。民は主に背きました。エルサレムは滅び、神殿も失われました。
人間の目には、すべてが終わってしまったように見えたことでしょう。
しかし、主の働きは終わっていませんでした。
しかも主は、イスラエルの王ではなく、異邦人であるペルシアの王を用いられたのです。
主は、私たちの思いも及ばない方法で、ご自分の約束を実現されるお方なのです。
そして23節の最後には、実に印象的な言葉が記されています。
「上って行くがよい。」
歴代誌は、この言葉で終わります。
ここで、少し考えてみたいのです。
歴代誌は、いったい誰に向かって書かれたのでしょうか。
それは、バビロン捕囚の後、約束の地に帰ってきた民、そしてその後の世代に向けて書かれた書物でした。
彼らは、かつてのダビデやソロモンの時代のような栄光を知りませんでした。
国は弱く、生活も決して豊かではありません。かつてのような独立した王国もありませんでした。
そうした人々に向かって、歴代誌は語りかけるのです。
主は、あなたがたの父祖に真実であられた。主を求める者に恵みを与え、主に背く者には繰り返し警告を与えられた。
そして、民が主に背いてすべてを失ってしまった後にも、主はご自分の約束を忘れず、再び道を開いてくださった。
だから、あなたがたも、この主に信頼して歩みなさい。
主を求めなさい。御言葉に聞き従いなさい。主を礼拝しなさい。
そのような励ましが、歴代誌全体を通して語られているのではないでしょうか。

そして、これは現代の私たちにとっても大切なことです。
私たちの歩みも、決して失敗のないものではありません。
時には主の御言葉よりも、自分の考えを優先してしまうことがあります。主に信頼するよりも、自分の力で何とかしようとすることがあります。
また、自分の失敗や、置かれた状況によって、もう希望がないと思うこともあるかもしれません。
しかし、私たちの希望は、自分自身の正しさや、強さにあるのではありません。
私たちの希望は、真実であられる主ご自身にあるのです。
そして私たちは、その神の真実を、イエス・キリストにおいて、いっそう明らかに見ることができます。
歴代誌に登場した王たちは、どれほど優れた王であっても、完全ではありませんでした。
しかし神は、ついにダビデの子孫として、まことの王であるイエス・キリストを遣わしてくださいました。
イエス様は、父なる神に完全に従われ、私たちの罪のために十字架にかかり、そして死からよみがえられました。
人間の不従順と罪によって失われたものを、主はキリストによって回復する道を開いてくださったのです。
ですから、私たちは、自分自身の不完全さを見つめて絶望するのではなく、キリストを見上げて歩むことができます。
主のあわれみによって御言葉を聞き、悔い改め、そして主の約束に信頼して、今日も歩んでいくことができるのです。

おわりに

今日で、歴代誌の学びが終わります。
振り返ってみると、ここには実に多くの人々の歩みが記されていました。
主に信頼して歩んだ人々もいました。主から離れてしまった人々もいました。
しかし、そのすべての歴史を通して変わることがなかったのは、主ご自身の真実でした。
主は、あわれみをもって語りかけ続けられました。
主は、ご自分の御言葉を必ず成就されました。
そして、すべてが終わったと思われるところから、なお新しい道を開いてくださいました。
歴代誌は「上って行くがよい」という言葉で終わります。
歴代誌を読み終えた私たちも、ここで歩みを止めるのではありません。
主の御言葉を心に留め、主に信頼して、それぞれに与えられた場所へと遣わされていくのです。
これまで学んできたことを、ただ過去の王たちの物語として終わらせるのではなく、私たち自身の信仰の歩みに生かしていきたいと思います。
私たちは不真実であっても、主は真実であられます。
そして、主の約束は決して終わることがありません。
その主に、これからも信頼して歩んでまいりましょう。

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