2026年9月3日 木曜祈祷会「御名のための宮、王国のための宮殿」

聖書箇所

歴代誌第二 2章

御名のための宮、王国のための宮殿

「誰の王国を建てているのか」

今日は歴代誌第二2章です。
昨日の1章では、ソロモンが神様に「知恵と知識を下さい」と願ったところから学びました。
その願いは本心でした。
けれども、そのソロモンが戦車と騎兵を集めていきました。
そこから私たちは二つのことを考えました。

  • 「私は神様に何を求めているのか。」

そして、

  • 「私は実際には何に頼っているのか。」

今日は、その続きです。
2章1節にはこうあります。

2章1節
ソロモンは、主の御名のための宮と自分の王国のための宮殿を建てることを命じた。

2つの建物が出てきます。
1つは、「主の御名のための宮」
もう1つは、「自分の王国のための宮殿」です。

ソロモンが神殿を建てること自体は、もちろん悪いことではありません。これは父ダビデから引き継いだ大切な使命でした。
ソロモンもそのことをよく理解しています。
5節では、

2章5節
私たちの神は、すべての神々にまさって大いなる神だからです。

と言います。

そして6節では、

2章6節
しかし、だれが主のために宮を建てる力を持っているというのでしょう。天も、天の天も主をお入れできないのです。主のために宮を建てようとする私は何者でしょう。ただ主の前に香をたく者にすぎません。

とまで言っています。立派な信仰告白です。
「こんなに偉大な神様のために、私は何ができるのだろう。私は何者なのだろう。」
ソロモンは本当にそう思っていたのではないでしょうか。
ですから私は、ここで「ソロモンは口だけだった」とは言いたくありません。
前回と同じです。ソロモンは本心から神様を求めていた。本心から神様のために働こうとしていた。
けれども、それでも人の心は少しずつずれていくことがあります。

ここで、皆さんにも少し考えていただきたいと思います。
「私たちが教会ですることで、『これは主のためにしている』と言えることには、どんなことがあるでしょうか。」

礼拝があります。
伝道があります。
奉仕があります。
献金があります。
教会学校も再開したいと願っています。
掃除をしたり、食事を作ったり、誰かを訪ねたり、祈ったり。いろいろあります。

そして私たちは、本当に主のためにしているのだと思います。
ところが、今日の1節を読んでいて、私はこの2つの言葉が気になりました。

  • 「主の御名のための宮」

そして、

  • 「自分の王国のための宮殿」

もちろん、王であるソロモンに宮殿が必要だったこと自体を責めることはできません。
しかし、後のソロモンを知っている私たちは、この二つが並んでいることに、何か考えさせられます。

「主の御名のために」と言いながら、私は誰の王国を建てているのだろう。

これは、そのまま私たち教会に問われることではないでしょうか。
私たちも、本当に教会が建て上げられてほしいと願っています。
救われる人が起こされてほしい。
教会に集う人が増えてほしい。
一人ひとりの信仰が成長してほしい。
子どもたちや若い人たちに信仰が受け継がれてほしい。
それは本心です。

けれども、その本物の願いのすぐ隣に、いつの間にか「自分の王国」が建ち始めることがあります。
「自分の考えどおりになってほしい。」
「自分の働きを認めてもらいたい。」
「自分が始めたことだから、やめたくない。」
「自分のやり方が一番正しい。」
あるいは、教会が成長したときに、
「私たちが頑張ったからだ。」
「このやり方が良かったからだ。」
そんな思いが出てくることもあるかもしれません。

けれども、教会が建て上げられるのは、誰の力によるのでしょう。
パウロはコリント人への手紙第一3章で、

私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です

と言っています。
私たちは植えます。水も注ぎます。
伝道もします。
説教もします。
祈ります。
奉仕します。
いろいろ考えます。
工夫もします。
それは大切です。けれども、私たちにはできないことがあります。
成長させることです。
1人の人を救うことは、私たちにはできません。
人の心を変えることもできません。
1人の信仰を成長させることも、私たちの力ではできません。
それをなさるのは神様です。
イエス様も、「わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます」と言われました。
「あなたがたが、わたしの教会を建てなさい」ではありません。

「わたしが、わたしの教会を建てます。」

以前の礼拝でも、この御言葉から、教会が建て上げられる土台には、愛される資格のない者が愛され、赦されるはずのない者が赦されたという恵みがあることを確認しました。
ですから、もし教会に人が与えられたなら、恵みです。
1人の人が救われたなら、恵みです。
誰かの信仰が成長したなら、恵みです。
困難の中でも教会が守られたなら、それも恵みです。
ところが、自分たちで教会を成長させなければならないと思い始めると、どうなるでしょう。
人を動かしたくなります。
結果を出したくなります。
数字が気になります。
思うように動いてくれない人に腹を立てます。
そして、場合によっては、「主のためだから。」「教会のためだから。」という言葉で、人に重荷を負わせてしまうことがあります。

今日の2章を読んでいて、もう一つ気になったのはそこでした。
ソロモンは神殿を建てるために、イスラエルにいる寄留者を数えます。その数は15万3,600人でした。
そのうち7万人を荷物運びに、8万人を山で石を切り出す者に、3,600人を監督者にしました。
今日の「みことばの光」の解説にも、ソロモンはヒラムの協力と、国内の寄留者を調べることによって「神殿の建設のための労働力を確保した」とあります。
もちろん、この箇所だけから「ソロモンは罪を犯した」と断定することはできません。
けれども、私たち自身に問うことはできると思います。

主のための働きを進めるために、主が愛しておられる人を疲れさせてはいないだろうか。

立派な神殿が完成する。けれども、その陰で誰かが苦しんでいる。
教会の活動は盛んになる。けれども、奉仕している人が疲れ果てている。
もしそうだとしたら、「主のためだから仕方がない」でよいのでしょうか。

ここで、ソロモン自身の言葉に戻りたいと思います。

6節です。

私は何者でしょう。

これは大切な言葉ですね。私は何者でしょう。
教会は私のものではありません。
働きも私のものではありません。
一緒に奉仕する兄弟姉妹も私のものではありません。
そして、結果も私のものではありません。
すべて主のものです。
そう考えると、私たちは結果を握らなくてもよくなります。
人を自分の思いどおりに動かさなくてもよくなります。
私たちがしなければならないのは、教会を自分の力で大きくすることではありません。
主から委ねられたところで、忠実に植えること。忠実に水を注ぐこと。
そして、「成長させてくださるのは神様です」と、お任せすることです。

最後に、今日も2つのことを考えてみたいと思います。

1つは、「私は『主のために』と言いながら、自分の思い、自分の評価、自分のやり方を大きくしようとしていないだろうか。」
もう1つは、「神様がなさることまで、自分がしなければならないと思って、背負い込んでいることはないだろうか。」

昨日は、「私は何を求めているのか。そして、何に頼っているのか。」と考えました。
今日は、「私は誰のためにしているのか。そして、誰の王国を建てているのか。」と考えたいと思います。

私たちが建てたいのは、自分の王国ではありません。主の教会です。
けれども、その教会さえ、最終的に建ててくださるのは私たちではありません。主ご自身です。
ですから、安心して主に仕えたいと思います。
そして、もし主が教会を建て上げてくださったなら、「私たちがやりました」ではなく、「ただ神様の恵みでした」と、一緒に主をほめたたえる教会でありたいと思います。

お祈りしましょう。
「主よ、この教会はあなたの教会です。私たちは時に、『主のために』と言いながら、自分の王国を建てようとしてしまいます。どうか私たちの心を探ってください。また、あなたにしかできないことまで自分で背負い、人を動かし、結果を作り出そうとしてしまう私たちを赦してください。私たちは植え、水を注ぎます。しかし、成長させてくださるのはあなたです。あなたがご自分の教会を建ててくださることを信じて、私たちに委ねられたことに忠実に仕えさせてください。そして、与えられるすべての実を、ただあなたの恵みとして喜び、あなたの御名だけをほめたたえる教会としてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。

長野聖書教会の話題やお知らせをお届けします。

コメントを残す