2026年9月27日 主日礼拝「それは小さいことなのか」

賛  美  聖歌322「まけや種をあした早く」
      新聖歌332「主はまことのぶどうの木です」
前  奏  黙祷
招  詞  エペソ人への手紙2章4〜5節
讃  美  讃美歌67「よろずのもの」
使徒信条  讃美歌566「我は天地の造り主」
主の祈り  讃美歌564「天にまします」
祈  祷  
交読文   詩篇95篇(新聖歌 交読文29)
讃  美  讃美歌338「主よ、終わりまで」
      「御前に行き、ひざまずき」
聖書朗読  民数記16章1〜11節
説  教  「それは小さなことなのか」
応答賛美  讃美歌534「ほむべきかな」
献  金  「主は今、生きておられる」
感謝祈祷  讃美歌547「いまささぐる」
報  告  
今週の聖句 エペソ人への手紙2章13節
頌  栄  讃美歌541「父、み子、みたまの」
祝  祷
後  奏

本日の聖書箇所

民数記16章1〜11節

説教題

「それは小さなことなのか」

今週の聖句

しかし、かつては遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近い者となりました。

エペソ人への手紙 2章13節

説教「それは小さなことなのか」

民数記16章1〜11節

はじめに

少し前、県外の大学に進学している姉妹が帰省された時、礼拝後に皆さんの前で一つの証しをしてくださいました。
進学先でも教会に通い、礼拝を守っておられるのですが、その教会が途中から無牧になりました。牧師がいない。礼拝では、YouTubeで説教を聞く。そのような経験をする中で、その姉妹はこう話してくださいました。
「牧師がいることは当たり前ではないのだと思いました。生で説教を聞けることは、本当に恵みなのだと分かりました。」
私はその証しを聞きながら、牧師である私が言うのも何ですが、「本当にそうだな」と思いました。

私たちは、何かがいつもそこにあると、それが恵みであることを忘れてしまいます。失って初めて、「これは当たり前ではなかったのだ」と気づくことがあります。
教会があること。日曜日になると普通に礼拝堂に入ることができること。この教会に招かれ、兄弟姉妹とともに礼拝すること。自分の聖書を持ち、聖書を自分の手で開くことができること。祈ることができること。賛美することができること。御言葉を聞くことができること。どれもあまりに身近なので、私たちは、それをいつの間にか「普通のこと」にしてしまいます。
しかし、本当に普通なのでしょうか。

前回、民数記15章の最後を学びました。40節で主はこう言われました。

15章40節    こうしてあなたがたが、わたしのすべての命令を思い起こして、これを行い、あなたがたの神に対して聖なる者となるためである。

主を忘れない。主のことばを覚え、その御声に聞き従い、主に対して聖なる者として歩む。
では、「主に対して聖なる者として歩む」とは、どのような歩みなのでしょうか。
それはこの世、俗世間から全く離れて、仙人のように山奥で暮らすなどして、神にだけ仕えるみたいな、そのような何か特別な宗教的な人になることではありません。「主に対して聖なる者として歩む」とは、「私は主のものとされた者なのだ」と覚え、自分の思いや世の中の考えだけで物事を決めるのではなく、主の御言葉に照らして、何が主に喜ばれることなのかを考え、日々主に従っていく。それが、主に対して聖なる者として歩むということではないでしょうか。

ところが、その直後の16章で、「聖なる者」という言葉が、まったく違う形で出てきます。

16章3節      彼らはモーセとアロンに逆らって結集し、二人に言った。「あなたがたは分を超えている。全会衆残らず聖なる者であって、主がそのうちにおられるのに、なぜ、あなたがたは主の集会の上に立つのか。

前の章で主は、「わたしの命令を覚えて、それを行い、聖なる者となりなさい」と言われました。ところが今度は人間の側が、「私たちはもうみな聖なる者ではないか。主は私たちのただ中にもおられるではないか。」と言うのです。
けれども、考えてみれば、主が民のただ中に住んでくださること自体が恵みでした。罪ある民をご自分のものとして取り分け、聖なる者としてくださったことも恵みでした。本来なら、その恵みを知れば知るほど、「それなら、この主に感謝し、喜んで従いたい。」となるはずです。

ところがコラたちは、その恵みを、主に感謝し、喜んで主に従うためではなく、「自分たちももっと認められてよい。もっと上に立ってよい」という思いを正当化するために用い始めました。主からいただいた恵みが、自分を大きくするための根拠に変わってしまったのです。

今日の9節を、新改訳2017はこう訳しています。

16章9節      あなたがたは、何か不足があるのか。

つまり、「それでは足りないのか。」という問いです。原文は、「それはあなたがたにとって小さすぎるのか」とも訳すことのできる表現です。
ですから今日は、この9節の言葉を、「それは小さなことなのか。」という問いとして受け止めたいと思います。

では、「それ」とは何なのでしょうか。
「それ」は、私たちに与えられている恵みです。
救われていること。赦されていること。祈ることができること。御言葉を聞けること。この教会に招かれ、ともに礼拝できること。そして何より、主が私たちをご自分の近くに置いてくださっていること。

「あなたがたにとって、それは小さなことなのか。」

今日は、この問いを心に置きながら、御言葉を聞いていきたいと思います。

Ⅰ 恵みが小さく見えると、自分が大きくなる

まず、コラたちが何を言っているのかを、もう少し丁寧に見たいと思います。

「全会衆残らず聖なる者であって、主がそのうちにおられる。」これは、まったくのでたらめではありません。むしろ、真理が含まれています。
イスラエルは主によって選ばれ、ご自分のものとして取り分けられ、主は幕屋を通して彼らのただ中に住んでおられました。ですからコラたちは、おそらくこういう意味で言っているのです。
「モーセ、アロン。主が選んでおられるのは、あなたがただけではないでしょう。私たちだって主の民です。聖なる者です。主は私たちの間にもおられます。それなのに、なぜあなたがたが主の集会の上に(私たちの上に)立つのですか。」

一見すると、もっともらしく聞こえます。そしてコラたちは、一つの真理を自分たちのために握りました。
自分たちは主によって聖なる民とされ、罪ある民でありながら受け入れられ、主ご自身がそのただ中に住んでくださっている。これは大きな恵みです。しかし、その真理を、主に感謝し、へりくだって従うためではなく、「自分たちももっと認められてよい。もっと上に立ってよい」という思いを正当化するために使ってしまいました。
ここが恐ろしいのです。

聖書をまったく知らない人だけが、主に逆らうのではないのだと思わされます。
御言葉を知りながら、その御言葉によって自分の心を照らすのではなく、自分の考えを支えるために用いる。
自分に都合のよい御言葉だけを握り、自分のしたいことを正当化するために使うことができてしまう。
「神は愛だから。」
「神は赦してくださるから。」
「神はすべてのことを働かせて益としてくださるから。」
「私たちは恵みによって救われているから。」
どれも本当です。どれも真理です。けれども、
「だから私は好きなようにしてよい。」
「だから従わなくても、最後には何とかしてくださる。」
となったら、それは御言葉に聞いているのではありません。自分のしたいことを正当化するために、御言葉を利用しているのです。

信仰とは、自分を支えてくれる言葉や真理を、聖書の中から探し出すことではありません。
もちろん、御言葉は私たちを支え、慰め、励ましてくださいます。しかし、時には私たちの心を刺すものです。

ヘブル人への手紙4章12節にあるように、「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、私たちの心の思いや意図までも明らかにし」ます。私たちの間違いを示し、私たちを立ち止まらせ、悔い改めを求め、自分では見えていなかった心の奥を照らします。

真理そのものが、その時々で別のものに変わるということではありません。
しかし同じ御言葉が、ある時には慰めとして迫り、ある時には警告として、「ここを変えなさい。」と、今の私に語りかけてくる。何年も前に読んだ御言葉が、ある日、初めて聞いたかのように心に迫ることがあります。
それは真理が変わったのでしょうか。
いいえ、私たちの状況が変わったからです。私たち自身が変わったからです。そして何より、生ける神が、私たちのうちに住んでくださる聖霊によって、書かれた生きた御言葉を、今の私たちの心に照らし、今も生きて語りかけてくださるからです。
ですから、聖書を開く時には、「主よ。今日、この御言葉を通して、あなたは私に何を語っておられるのでしょうか。主よ、お語りください。しもべは聞いております。」そう求めながら、へりくだって御言葉に聞くのです。

コラたちは、「主は私たちの中にもおられる。」と言いました。
しかし、本当に問わなければならなかったのは、「では、その主は何と言っているのか。」と、へりくだって聞くことでした。

そして彼らには、すでに大きな恵みが与えられていました。
コラはレビ族、その中でもケハテ族に属していました。民数記4章によれば、幕屋が移動する時、アロンとその子らが聖なる器具を覆い、その後、ケハテ族が契約の箱をはじめとする最も聖なるものを運びました。イスラエルの誰にでも任されていた奉仕ではありません。大変な光栄でした。

しかし、そこには明確な境界線もありました。彼らは聖なるものに直接触れてはならず、覆われる前に見てもなりませんでした。そうすれば死ぬ、と命じられていました。
「近づけられていた。けれども、何をしてもよいわけではなかった。」
そこには聖なる神がお定めになった、「ここまで」という境界がありました。
そして、その境界には意味がありました。

道路に最高速度が定められているのは、自由を奪うためではありません。事故を防ぎ、命を守るためです。
もちろん、神の聖さを交通規則と同じに考えることはできません。
しかし民数記4章で主は、「彼らが生きて、死なないため」に、この境界を守らせなさいと命じておられます。
神の「ここまで」は、ただ私たちを窮屈にするためではありません。私たちを守り、生かすためでもあるのです。

ところがコラたちは、その与えられた恵みでは足りなくなりました。
3節で彼らは、モーセとアロンに向かって、「あなたがたは分を超えている。」と言いました。ところが7節でモーセは、その同じ言葉を返します。「レビの子たちよ。あなたがたが分を超えているのだ。」
そして9節です。

16章9節      あなたがたは、何か不足があるのか。イスラエルの神が、あなたがたをイスラエルの会衆から分けて、主の幕屋の奉仕をするように、また会衆の前に立って彼らに仕えるように、ご自分に近寄せてくださったのだ。

「それでは足りないのか。主があなたがたを会衆から分け、幕屋の奉仕を任せ、会衆に仕える者とし、ご自分に近寄せてくださった。」
原文の響きを生かして言うなら、「それは、あなたがたにとって小さなことなのか。」という問いです。

彼らには何もなかったのではありません。
むしろ、たくさん与えられていました。問題は、その恵みが小さく見えるようになったことです。
最初は恵みだった。彼らは最初は、何という光栄な務めだろうと思ったかもしれません。ところが、いつの間にか当たり前になった。
当たり前になると、小さく見える。小さく見えると、他の人に与えられているものが大きく見える。「あの人にはある。」「自分にはない。」そこから比較が始まり、不満が生まれ、自分を大きくし始めます。

「自分を大きくする。」それは、単に偉そうにすることではありません。高慢になることです。
自分の考えを絶対にする。自分の願いが通って当然だと思う。自分にはもっと与えられて当然だと思う。そして、自分が最後の判断者になっていく。主よりも、自分の思いを上に置いていく。

私たちにも、この芽はないでしょうか。
祈ることができる。御言葉を聞くことができる。この教会に招かれ、礼拝することができる。兄弟姉妹がいる。生ける主が今日も御言葉を通して語ってくださる。それがいつの間にか、「なくても何とかなるもの」になっていないでしょうか。

祈らなくても一日は過ぎます。聖書を開かなくても仕事はできます。
礼拝を休んでも一週間無事に過ごせてしまうかもしれません。
しかしそうやって少しずつ、神と交わること、主の御声を聞くこと、主を礼拝することが、私たちの中で小さくなり、神の聖さも、権威も、威厳も、小さく扱われていく。いつの間にか、「主がどうおっしゃるか。」よりも、「私はどうしたいか。」の方が大きくなり、「私はどうしたいか。」によって生きるようになってしまう。

しかし今日、何よりも主が皆さんに問いかけておられるのは、そこからもう一歩先です。

「あなたに与えられている恵みは、そんなにも小さなものなのか。」

祈ることができる。御言葉を通して、生ける主の御声を聞くことができる。今日も守られ、与えられた一日を生きることができる。この教会に招かれ、兄弟姉妹とともに主を礼拝することができる。そして、聖なる神を「父よ」と呼び、その御前に生きることができる。私たちにとって、それは本当に小さなことなのでしょうか。

Ⅱ 主が、あなたを近づけてくださった

では、コラたちにとって、本当は決して小さなことではなかったものは何でしょうか。

16章9節      あなたがたは何か不足があるのか。イスラエルの神が、あなたがたをイスラエルの会衆から分けて、主の幕屋の奉仕をするように、また会衆の前に立って彼らに仕えるように、ご自分に近寄せてくださったのだ。

「ご自分に近寄せてくださった。」ここが、今日の中心です。
ケハテ族には、「ここまで」という境界がありました。しかし、境界があるということは、主から遠ざけられていたということでしょうか。むしろ反対です。主は彼らを取り分け、ご自分の近くに置いてくださったのです。聖なる神の近くで仕える。これは、とてつもない恵みです。

そしてここで私たちは、「神と交わることができる」ということを、あらためて考えたいと思います。
私たちは、祈ることに慣れています。「天の父なる神様。」と、ごく自然に呼びかけます。
しかし考えてみてください。天地を造られ、すべてを知り、完全に聖なる神です。その聖なる神の御前に、罪ある私たちが出て、「父よ。」と呼ぶ。これは当たり前のことではありません。
また、喜びも、悲しみも、失敗も、怒りも、恐れも、神の御前に持って行くことができる。そして神は聞いてくださる。
祈れるということは、小さなことではありません。

聖書を持っていることも同じです。
神は、ご自分がどのようなお方なのかを御言葉によって知らせてくださいました。何を愛しておられ、何を悲しまれ、私たちをどれほど愛し、どのように救ってくださったのか。
そして、その御言葉は過去の記録として置かれているだけではありません。今日も、生きて私たちに語りかけます。「恐れるな。」「わたしはあなたとともにいる。」と支えられる時もあれば、「あなたは本当に、それでよいのか。」「赦しなさい。」「悔い改めなさい。」「わたしに従いなさい。」と迫ってくる時もあります。生きた神が、生きた御言葉を通して、今を生きている私たちに語ってくださる。これは、小さなことでしょうか。

礼拝もそうです。
毎週、この教会へ招かれ、兄弟姉妹とともに賛美し、祈り、御言葉に聞くことができる。それがいつまでも与えられる保証はありません。最初に紹介した姉妹は、環境が変わった時に、それまで普通に与えられていたものの価値に気づきました。けれども、できることなら私たちは、失ってからではなく、今、「主よ、これは恵みでした。」と気づきたいのです。

そして私たちには、何よりも大きな恵みがあります。

【エペソ人への手紙】
2章13節      しかし、かつては遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスの血によって近い者となりました。

かつては遠かった。私たちは罪によって神から離れ、自分の力では、その隔たりを越えることができませんでした。しかし、キリストが十字架にかかってくださった。その血によって、遠かった者が近い者とされた。

私たちは、自分で神に近づいたのではありません。
立派になったからでも、十分に聖くなったからでもない。
主が近づけてくださったのです。キリストによって。あの十字架によって。

それが、福音です。良い知らせです。喜びの知らせです。
本来なら遠くにいるしかなかった者が、「近くに来なさい」と招かれている。
罪を赦され、神を父と呼び、その御前に出ることができる。
それはもう、喜び踊るほどの知らせではないでしょうか。
神と交わることができるというのは、単なる信仰生活の習慣ではありません。救われた者に与えられた、驚くべき特権です。大きな喜びです。恵みです。

神の御前に出られる。神を父と呼べる。御声を聞くことができる。神とともに歩むことができる。
皆さん。それは、私たちにとって小さなことでしょうか。
いいえ。決して小さなことではありません。
ところが、恵みに慣れると、その大きさが見えなくなります。
最初はうれしかった。感動した。光栄だった。それが、いつの間にか当たり前になる。
そして、「あなたがたは、何か不足があるのか。」という問いの前に、私たちは立ち止まらされます。

コラたちは、すでに主の近くに置かれていたのに、さらに祭司職まで求めました。
10節でモーセは、「それなのに、あなたがたは祭司の職まで要求するのか。」と言います。
「主がここまでしてくださった。それでも足りないのか。」という問いです。

私たちも、何が足りないかを数え始めれば、きりがありません。
けれども、「私は何を持っていないか。」ではなく、「私はすでに、何を与えていただいているのか。」と見たいのです。
救われている。赦されている。愛されている。祈ることができる。御言葉を聞くことができる。この教会に招かれ、礼拝できる。そしてキリストによって、神の近くに置いていただいている。
これが見えると、感謝が戻ってきます。「もっと、もっと。」ではなく、「主よ、ありがとうございます。」となります。

そして、そこから一つの自由が生まれます。
自分を大きくしなくてもよい、という自由です。
求めすぎて疲れなくてもよい、という自由です。
余計な重荷を背負わなくてもよい、という自由です。

Ⅲ だから、自分を大きくする必要はない

もう一度3節からを見てください。
コラたちはモーセに言いました。「なぜ、あなたがたは主の集会の上に立つのか。」その言葉を聞いたモーセは、「ひれ伏した。」何とも印象的です。
「なぜあなたは上に立つのか。」と言われた人が、その場で低くなったのです。

この時、モーセが何を祈ったのか、どれだけの時間ひれ伏したのかは記されていません。しかし、その後の言葉から、一つのことは分かります。モーセは、自分で最後の判決を下そうとはしませんでした。5節で、「主が知らせてくださる。主が、だれがご自分のものであるかを知らせてくださる。主がお選びになった者をご自分に近づけられる。」と言います。つまり、「私が決めるのではない。主がお決めになる。」ということです。
ここに、モーセの信仰があります。
そして、神が定められた境界に対するわきまえがあります。
誰が主なのか。誰が最後に判断されるのか。そこを越えない。
もちろん、モーセも人間です。この後15節には、「モーセは激しく怒った」とあります。怒らなかったのではありません。しかし、その怒りによって、自分が神の場所に座らなかった。主の前に持って行ったのです。

私たちは、誰かに何かを言われた時、「私は間違っていない。」「悪いのはあの人だ。」と思うことがあります。
実際、その通りの時もあるかもしれません。けれども、その時、見えなくなりやすい一番大切な一面があります。
「あの人がどうするのか。」だけではありません。「では、私はどうするのか。」ということです。
相手が間違っていたとしても、だから私は何をしてもよいわけではありません。
「主よ、あの人はどうなのでしょうか。」だけではなく、「主よ、私は今、あなたの前でどう歩むべきでしょうか。」と問う。
「私の中にも、高慢はないでしょうか。」「私は今、自分を大きくしようとしていないでしょうか。」「あなたが座るべき場所に、私が座ろうとしていないでしょうか。」そう主の前で問うのです。

必要なことを何も言ってはいけない、という意味ではありません。正すべきことを正す時もあります。モーセも、この後、コラたちに厳しいことを言います。しかし、自分が神にはならない。これが大切です。

考えてみれば、コラたちにも、本当は自分を大きくする必要などありませんでした。主はすでに彼らを選び分け、大切な務めを与え、ご自分の近くに置いておられました。誰かの場所を奪い、誰かを引き下ろし、自分たちの価値や正しさを証明しなくてもよかった。

私たちも同じです。人に認められれば、うれしい。評価されれば、励みになります。
しかし、人の評価がなければ、自分の価値がなくなるわけではありません。
主が知っていてくださる。
主が愛してくださっている。
主がキリストによって、自分を近い者としてくださった。
それで十分なのです。

そして、自分を大きくしなくてもよいというのは、自分を小さく卑下して生きなさい、ということでもありません。むしろ、主が自分に任せてくださったものを喜んで担い、主にしか負えない重荷は、主にお返しすることです。
自分の価値を証明し続ける重荷。すべての人を自分で裁く重荷。自分に任されていないところまで背負う重荷。それらまで抱え込まなくてよい。
主がお定めになった「ここまで」は、私たちを守るためでもあるからです。民数記4章で主が言われた、「彼らが生きて、死なないため」に、の境界線です。

そして主の境界の中には、自由があります。安心があります。「私は、主が私に任せてくださったところで、主に忠実であればよい。」そう言うことができます。

そこで、もう一度9節の言葉を聞きたいのです。

「あなたがたは、何か不足があるのか。」

主があなたを知り、愛し、赦し、ご自分の近くに置いてくださっている。
原文の響きを借りるなら、「それは、あなたにとって小さなことなのか。」

いいえ。小さくありません。
だから、人より上に立たなくてもよい。自分が正しいと証明し続けなくてもよい。誰かに勝たなくてもよい。主が自分に与えてくださった場所で、与えてくださった賜物をもって、喜んで主に仕える。それでよいのです。
大きいお方、偉大なお方、仰ぐべきお方は、私たちではありません。主です。

おわりに

最初に、県外へ進学した姉妹の証しをお話ししました。環境が変わった時に、「牧師がいることは当たり前ではなかった。生で説教を聞けることは、本当に恵みだった。」と気づかされた。その証しは、今日の御言葉を、私たちの身近なところへ引き寄せてくれます。

いつもあるから、当たり前に思っている。
いつもあるから、小さく見えている。
しかし今日、主は私たちにも問われます。

「あなたがたは、何か不足があるのか。」
「それは、あなたがたにとって小さなことなのか。」

できることなら私たちは、失ってからではなく、今、気づきたいのです。
今日、聖書を開くことができる。祈ることができる。この教会に招かれ、ともに礼拝できる。兄弟姉妹がいる。生きた御言葉を聞くことができる。
そして、それらすべての土台には、もっと大きな恵みがあります。
かつて遠かった私たちが、キリストの血によって近い者とされた。神に愛され、罪を赦され、神を「父よ」と呼び、その御前に出ることができる。
それは、私たちにとって小さなことなのでしょうか。
いいえ。決して小さなことではありません。何という恵みでしょうか。

私たちは、足りないものを数えることには熱心です。
けれども今日、もう一度、すでに与えられているものを見たいと思います。
「主よ、こんなにも与えてくださっていたのですね。」
「こんなにも近くに置いてくださっていたのですね。」
それが見えると、感謝が戻ってきます。そして感謝が戻る時、自分を大きくする必要はなくなります。そんな必要はないのです。
主が知っていてくださる。主が愛してくださっている。主がキリストによって、ご自分の近くに置いてくださっている。

ですから今日、「主よ、これは小さなことではありませんでした。」と、もう一度告白したいと思います。
「祈れることも。御言葉を聞けることも。この教会でともに礼拝できることも。そして何より、罪を赦され、主の近くに置いていただいていることも。すべて、あなたからいただいた大きな恵みでした。」と、告白したいのです。

これから私たちは、「ほむべきかな」と賛美します。
ほめたたえられるべきなのは、私たちではありません。
私たちを救い、赦し、遠かった者を近い者としてくださった主です。
この主を、驚きと感謝をもって、心からほめたたえたいと思います。

【祈り】
天の父なる神様。
あなたからいただいている恵みを、当たり前のように受け取り、小さなもののように見てしまう私たちを赦してください。
キリストによって罪を赦され、あなたの近くに置いていただいていることが、どれほど大きな恵みであるか、もう一度私たちの目を開いてください。
生きた御言葉にへりくだって聞き、自分を大きくするのではなく、あなたが与えてくださった場所で、感謝と喜びをもってあなたに仕える者としてください。
主イエス・キリストのお名前によってお祈りします。
アーメン。

長野聖書教会の話題やお知らせをお届けします。

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