2026年10月28日 水曜日祈祷会「神の代弁者となってはならない」
聖書箇所
ヨブ記11章
「神の代弁者となってはならない」—神の知恵を知るということ
はじめに ― 苦しんでいる人に、何を語るのか
今日は、ヨブ記11章を学びます。
これまで私たちは、ヨブの苦しみと、三人の友人たちの言葉を見てきました。
友人たちは、ヨブを慰めるためにやって来ました。ヨブを愛していたのでしょう。何とか立ち直ってほしい、神様を信頼してほしい。そのような思いがあったのだと思います。
しかし、ヨブが苦しみを訴えれば訴えるほど、友人たちは、その言葉を受け入れられなくなっていきました。
前の10章で、ヨブは神様に向かって激しく訴えました。そして20節では、死ぬ前にほんの少しでも安らぎを得たい、少しでも明るくなりたいと願っています。それほどまでに、ヨブは追い詰められていたのです。
そのヨブに対して、三人目の友人ツォファルが語り始めます。
今日は、その言葉を通して、神様について語る私たち自身の姿を考えたいと思います。
Ⅰ.あなたの無駄話(1〜6節)
まず、1節から6節です。
ツォファルは、ヨブに向かって厳しい言葉を投げかけます。
3節では、ヨブの言葉を「あなたの無駄話」と言っています。
ヨブは、自分の子どもたちを失い、財産を失い、健康を失いました。そして、なぜ自分がこれほどの苦しみに遭わなければならないのか、神様に向かって叫んでいました。
しかし、ツォファルには、その叫びが無駄話に聞こえたのです。
そして、5節、6節では、神様がヨブに語りかけ、神の知恵を教えてくださればよいのに、と言います。
さらに6節の最後です。
知れ。神があなたのために、あなたの咎を忘れてくださることを。
ヨブ記 11章6節
一見すると、神様の赦しとあわれみを語っているように聞こえます。
しかし、これは、ヨブが自分の罪にふさわしい罰を、まだ十分に受けていないという意味です。神様は、あなたの罪の一部を見逃してくださっている。あなたは本当なら、もっと厳しい罰を受けても当然なのだ、と言っているのです。何という厳しい言葉でしょうか。
ツォファルは、ヨブを正しい道に戻したいと思っていたのかもしれません。しかし、その言葉の背後には、ヨブがこれほど苦しんでいるのだから、何か重大な罪を犯したに違いないという決めつけがあります。
私たちは、どうでしょうか。もし自分が大きな苦しみの中にいるとき、同じことを言われたら、どう思うでしょう。
もちろん、私たちは皆、神様の前に罪人です。そのことは認めます。自分の中にも、悔い改めなければならない罪があることを知っています。
しかし、だからといって、今、自分が苦しんでいるのは、その罪に対する神様の罰なのだと、他の人から決めつけられたら、どうでしょうか。私の苦しみを分かってくれないのか。私が私のことを何も分かっていないと思っているのか。他にかける言葉はないのか。そんな悲しみや、悔しさを覚えるのではないでしょうか。
私たちは、ヨブ記1章、2章を読んでいます。ヨブが神様を恐れ、悪から遠ざかる人であったことを知っています。しかし、ツォファルはそれを知りません。知らないにもかかわらず、自分の理解によってヨブの苦しみの原因を決めつけてしまったのです。
Ⅱ.神の知恵を、どこまで知っているのか(7〜12節)
続く7節から12節で、ツォファルは神様の偉大さを語ります。
あなたは神の深さを見極められるだろうか。全能者の極みを見出せるだろうか。
ヨブ記 11章7節
神様の知恵は、人間の理解をはるかに超えています。天よりも高く、よみよりも深く、地よりも長く、海よりも広い。
素晴らしい言葉だと思います。私たちは、この言葉にアーメンと言うことができます。神様の知恵は、私たちの理解をはるかに超えているのです。
しかし、ここに一つの問題があります。
神様の知恵は人間には測り知れないと語っているツォファル自身が、神様のなさっていることを、すべて理解しているかのように語っているのです。
「神様の知恵は測り知れない。だから、ヨブ、あなたには分からないのだ。」
しかし、ツォファル自身には分かっていたのでしょうか。ヨブがなぜ苦しんでいるのか。神様がヨブをどのようにご覧になっているのか。神様がヨブに何をなさろうとしておられるのか。ツォファルにも分かっていなかったはずです。それなのに、神様の代わりに、ヨブの苦しみの意味を説明しようとしました。
ここに、私たちも気をつけなければならないことがあります。
私たちは聖書を読み、神様について学びます。御言葉を通して、神様がどのようなお方なのかを知ることができます。そして、その御言葉を人に伝えることは大切です。
しかし、聖書を通して神様について知っていることと、神様が今、その人の人生において何をなさっているのかを知っていることは、同じではありません。
私たちは、神様の御言葉を語ることはできます。しかし、神様が明らかにしておられないことまで、神様の代わりに断定することはできません。「あなたが苦しんでいるのは、神様があなたにこのことを教えようとしておられるからだ。」「あなたが悔い改めれば、きっと問題は解決する。」私たちは、時にそのようなことを言いたくなるかもしれません。しかし、本当にそうだと分かっているのでしょうか。
もちろん、神様が苦しみを通して私たちを教え、整えてくださることはあります。けれども、今この人が苦しんでいる理由について、私たちは知らないことがあるのです。むしろ、神様の知恵が測り知れないことを本当に知っているなら、私たちはもっと謙遜になるはずです。
「神様は正しいお方です。しかし、なぜあなたがこのような苦しみに遭っているのか、私には分かりません。」そう正直に認めることも、信仰による大切な応答ではないでしょうか。
Ⅲ.希望を語る言葉が、人を苦しめるとき(13〜20節)
続く13節から、ツォファルはヨブに希望を語り始めます。
心を正し、悪を遠ざけ、神様に立ち返るなら、再び安心して暮らせるようになる。
あなたの一生は真昼よりも輝き、闇も朝のようになる。
望みがあるので、あなたは安らぎ、守られて安らかに休む。
横になっても、あなたを脅かす者はいない。多くの者があなたの好意を求める。
ヨブ記 11章17~19節
17節では、人生が真昼よりも明るくなると語ります。
18〜19節では、希望を持ち、安心して休むことができると語っています。
何と素晴らしい言葉でしょうか。
しかし、ここで思い起こしたいのは、前の10章でヨブが願っていたことです。
私はわずかでも明るくふるまいたいのです。
ヨブ記 10章20節
ヨブは、せめて少しでも明るくなりたいと願っていました。そのヨブに対して、ツォファルは、人生が真昼よりも明るくなると語っているのです。
けれども、その言葉には条件がありました。あなたが心を正し、悪を遠ざけるなら、そうなるというのです。つまり、今のヨブに希望が見えないのは、ヨブ自身が正しく歩んでいないからだということになります。希望に満ちた言葉が、かえってヨブを責める言葉になってしまっているのです。
私たちも、苦しんでいる人に希望を語りたくなります。神様を信じていれば大丈夫。祈っていれば、きっと良くなる。神様は必ず助けてくださる。もちろん、私たちは神様の助けを信じています。しかし、その助けが、いつ、どのような形で与えられるのか、私たちには分かりません。
また、悔い改めは大切です。しかし、悔い改めれば、必ず病気が治る、必ず経済的な問題が解決する、必ず苦しみがなくなると約束されているわけではありません。私たちは、神様が約束しておられることと、自分がそうなってほしいと願っていることを、区別しなければならないのです。
そして何よりも、今、苦しんでいるその人が、何を必要としているのかを考えたいと思います。
おわりに ― 神の御前に、ともに立つ
ヨブ記の最後、42章7節で、神様は三人の友人たちをお叱りになります。彼らは、神様について確かなことを語らなかったと言われるのです。
友人たちは、神様を否定したわけではありません。むしろ神様の正しさを一生懸命に語りました。しかし、神様の正しさを守ろうとするあまり、自分たちが神様のすべてを理解しているかのように語ってしまいました。そして、苦しんでいるヨブを、さらに苦しめてしまったのです。
私たちは、この三人の友人たちを、ただ間違った人たちとして見るのではなく、自分自身の姿を重ねて考えたいと思います。
私たちも、神様について知っていることがあります。しかし、知らないこともたくさんあります。
そして、私たち自身も弱い者です。間違えることもあります。人を傷つけてしまうこともあります。だからこそ、まず私たち自身が神様の御前にへりくだり、御言葉によって教えられ、取り扱われる必要があるのです。
そして、苦しんでいる人の前では、その人の苦しみをすべて説明できなくてもよいのではないでしょうか。その人の言葉を聞き、一緒に悲しみ、一緒に神様の御前に立つことができます。何を言えばよいのか分からないときには、無理に答えを出さなくてもよいのです。
何よりも、私たちの主イエス・キリストは、疲れた人、重荷を負っている人をご自分のもとに招いてくださるお方です。主は、苦しむ者に対して、すべての問題を解決してから来なさいとは言われません。重荷を負っている、その人をご自分のもとに招いてくださるのです。私たちも、その主のあわれみに生かされています。
ですから、神様の御心をすべて知っている者としてではなく、私たち自身も神様のあわれみを必要としている者として、人に向き合いたいと思います。
神様について知っていることを語るだけでなく、その神様の御前で、どのように人を愛するのか。
今日のヨブ記11章は、そのことを私たちに問いかけているのではないでしょうか。

