2026年10月22日 木曜日祈祷会「ことばが激しいわけ」

聖書箇所

ヨブ記6章

「ことばが激しいわけ」

はじめに ― その言葉の背後にあるもの

今日は、ヨブ記6章を学びます。
昨日の5章では、エリファズの言葉を通して、苦しんでいる人にどのように向き合うべきかを考えました。
エリファズは、ヨブを慰めるためにやって来ました。ヨブを愛していたのでしょう。しかし、ヨブの苦しみを聞いているうちに、黙っていられなくなりました。そして、神について自分が知っていること、正しいと信じていることを語り始めました。

ところが、語っているうちに、ヨブを慰めることよりも、ヨブの考え方を正すことに熱心になってしまったのではないか。そのようなことを考えました。
そして今日の6章では、その言葉を聞いたヨブが答えます。
この6章を読むと、エリファズの言葉が、ヨブにどのように届いたのかが分かります。
そして同時に、私たち自身の弱さについても考えさせられるのです。

Ⅰ.私の苦しみを分かってほしい(1〜13節)

まず、1節から13節です。

ああ、私の苦悶の重さが量られ、私の破滅が、ともに秤にかけられたらよいのに。
きっと海の砂よりも重いだろう。だから、私のことばは激しかったのだ。
ヨブ記 6章2~3節


2節、3節でヨブは、自分の苦悩と災難を秤にかけて量ることができたなら、その重さは海の砂よりも重いだろうと語ります。
そして、自分の言葉が激しくなっているのは、そのためなのだと言うのです。
ヨブは、自分の言葉が激しいことを否定しません。自分でも分かっているのです。
しかし、それには理由がある。自分が今、どれほど苦しんでいるのか、どれほど重いものを背負っているのか、それを分かってほしいと訴えているのです。

私たちは、人の激しい言葉を聞くと、ついその言葉に反応してしまいます。
どうしてそんなことを言うのか。そんな言い方をしてはいけない。もっと冷静に考えなければならない。
確かに、言葉には責任があります。苦しんでいるからといって、何を言ってもよいわけではありません。
しかし、その人がなぜそのような言葉を語るのか、私たちは本当に知っているのでしょうか。

人には、外からは見えない苦しみがあります。
誰にも言えない悲しみがあるかもしれません。大きな責任を背負い、押しつぶされそうになっているのかもしれません。過去の失敗を悔やみ、今もそのことで苦しんでいるのかもしれません。
あるいは、自分の弱さを人に知られることが怖くて、つい強い言葉を語ってしまうこともあるでしょう。
もちろん、すべての激しい言葉の背後に、そうした事情があるとは限りません。
しかし、私たちは、その人の言葉を聞いていても、その人の心の叫びを聞いていないことがあるのではないでしょうか。

続く8節から、ヨブは再び死を願います。

ああ、私の願いがかなえられ、私が望むものを神が下さるとよいのに。
神が望むままに私を砕き、御手を伸ばして私を絶たれるのであれば、
それはなおも私にとって慰めであり、容赦ない激痛の中でも、私は小躍りして喜ぶ。
私は聖なる方のことばを、拒んだことはない。
ヨブ記 6章8~10節

ヨブは、神が自分を打ち砕き、いのちを絶ってくださることを願っています。そこまで追い詰められていたのです。
しかし、10節でヨブは、自分は聖なる方のことばを否まなかったと語ります。
ヨブは、神を捨てたわけではありません。神を信じていないのではないのです。
11節から13節を読むと分かります。

私にどんな力があるのだろうか。私が待たなければならないとは。どんな終わりがあるのだろうか。耐え忍ばなければならないとは。
私の力は石の力なのか。私の肉は青銅なのか。
私のうちには何の助けもないではないか。すぐれた知性は、私から取り払われている。
ヨブ記 6章11~13節

ヨブには、もう苦しみに耐える力が残されていないのです。
自分の力は石のように強いのか。自分のからだは青銅でできているのか。そんなはずはない、と言うのです。

私たちも同じではないでしょうか。
神を信じていても、もう耐えられないと思うことがあります。
神を愛していても、立ち上がる力さえ失ってしまうことがあります。
信仰があるからといって、どんな苦しみにも平然と耐えられるわけではありません。
私たちは、弱い者なのです。
そして、その弱さを分かってほしいと、ヨブは訴えているのです。

Ⅱ.落胆している者には、友からの友情を(14〜23節)

続く14節です。

落胆している者には、友からの友情を。さもないと、全能者への恐れを捨てるだろう。
ヨブ記 6章14節

ここで「友情」と訳されているヘブル語は、「ヘセド」です。
慈しみ、真実な愛、決して変わらない愛、相手を見捨てない忠実な愛を表す言葉です。
苦しんでいる人が求めているのは、いつも正しいことを教えてくれる人とは限りません。
自分の弱さを知っても、離れていかない友。うまく言葉にできない思いにも、耳を傾けてくれる友。
そのような友を求めることがあるのです。
ところが、ヨブの友人たちはどうだったでしょうか。
15節から20節で、ヨブは友人たちを、干上がってしまう川にたとえています。
水があるはずだと思って旅人たちがやって来ます。長い旅の途中で、水を求めてやって来るのです。ところが、そこに水はありません。暑さによって、川は干上がっていたのです。
どれほど失望したことでしょうか。
ヨブにとって、友人たちは、そのような存在になってしまったのです。
自分が最も苦しい時に、慰めてほしい時に、友人たちが来てくれた。どれほど心強かったでしょうか。
しかし、その友人たちが語り始めると、ヨブは慰められるどころか、さらに苦しむことになってしまいました。

今や、あなたがたはそのようになった。あなたがたは恐ろしいことを見ておびえている。
ヨブ記 6章21節

これは興味深い言葉だと思います。
ヨブのあまりにも悲惨な姿を見て、友人たちも恐ろしくなったのかもしれません。
ここで少し、私はエリファズのことも考えてみたいと思いました。

Ⅲ.エリファズにも弱さがあったのではないか(24〜30節)

昨日の5章27節で、エリファズは言いました。

さあ、私たちが調べ上げたことはこのとおりだ。これを聞き、自分自身でこれを知れ。
ヨブ記 5章27節

エリファズは、自分たちが調べ上げたことは確かなことなのだから、それを聞いて理解するようにと語りました。
彼は自分の考えが正しいと強く確信していました。
しかし、なぜ彼は、それほどまでに確信をもって語ったのでしょうか。
もしかすると、エリファズにも守ろうとしていたものがあったのかもしれません。
それは、自分が長年信じてきた、神の正義についての理解です。
神は正しいお方である。正しい者を祝福し、悪を行う者を罰せられる。
その理解には、聖書の教える真理が含まれています。
しかし、目の前にいるヨブはどうでしょうか。
神を恐れ、悪から遠ざかって生きてきたはずのヨブが、これほど激しく苦しんでいるのです。
もしヨブが罪を犯していないのに苦しんでいるとしたら、エリファズがこれまで信じてきた考え方では説明がつきません。
だから、ヨブには何か問題があるはずだ。何か間違っているはずだ。そのように考えたのかもしれません。
もしそうだとすれば、エリファズはヨブを助けようとしながら、同時に、自分の確信を守ろうとしていたのではないでしょうか。
もちろん、エリファズの心の中について、聖書はそこまで詳しく記していません。ですから、これは一つの可能性です。
しかし、私たちにも、そのような弱さがあることは確かだと思います。
自分が長年信じてきたこと。大切にしてきた考え方。自分が正しいと信じて歩んできた道。
それが間違っているかもしれないと指摘された時、私たちはどうするでしょうか。
素直に耳を傾けることができるでしょうか。
それとも、何とか自分の正しさを証明しようとするでしょうか。
時には、自分の間違いを認めることが、これまでの自分のすべてを否定することのように感じられるのかもしれません。
そして、相手を正そうとしているつもりが、実は自分自身を守ろうとしている。
そのようなことが、私たちにもあるのではないでしょうか。

「みことばの光」では、「ことばが激しいわけ」というタイトルが付いています。
これは、「ヨブのことばが激しいわけ」という意味で付けられたものだと思います。
同時に、「エリファズのことばが激しいわけ」という意味で捉え、そして考えることができるのではないでしょうか。

神は正しいお方であっても、神についての私たちの理解が、いつも正しいとは限りません。
私たちの理解には限界があります。
自分が正しいと信じていることに固執するあまり、目の前にいる人の苦しみが見えなくなってしまうことがあるのです。

私に教えよ。そうすれば、私は黙ろう。私がどのように迷い出たのか、私に悟らせよ。
ヨブ記 6章24節

24節で、ヨブは、間違っているところがあるなら教えてほしいと語っています。
ヨブは、正しい言葉を拒んでいるのではありません。
しかし、26節では、絶望している者の言葉を、目に見えないただ通り過ぎていく風と見なすつもりか。その苦しみから切り離して私を責めるのかと訴えています。

ことばで私を責めるつもりか。絶望している者のことばを、風と見なすつもりか。
ヨブ記 6章26節

ヨブが求めていたのは、自分を論破する言葉ではありません。
自分の苦しみを理解し、自分自身に向き合ってくれる友だったのです。

ここで、私たちは考えさせられます。
ヨブには、ヨブの弱さがありました。
そして、エリファズにも、エリファズの弱さがあったのかもしれません。
立場は違っても、どちらも弱い人間です。
そして、どちらも神のあわれみを必要としているのです。

Ⅳ.私たちには、弱さをご存じの友がいる

では、私たちはどうしたらよいのでしょうか。
誰もが弱さを持っています。
誰にも言えない悲しみもあります。
隠しておきたい失敗もあります。
自分が間違っていたと認めることが、どうしてもできない時もあります。

そのような私たちに、聖書は何と語っているでしょうか。
ヘブル人への手紙4章15節、16節を思い起こしたいと思います。

私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。
ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。
ヘブル人への手紙 4章15~16節

私たちの大祭司イエス・キリストは、私たちの弱さに同情できないお方ではありません。
そして、あわれみを受け、恵みをいただくために、大胆に恵みの御座に近づくようにと招いてくださっています。
何と幸いなことでしょうか。
私たちには、自分の弱さをすべて打ち明けることのできるお方がいるのです。
主イエスの前では、強い人間を演じる必要はありません。自分の正しさを証明し続ける必要もありません。
苦しい時には、苦しいと訴えることができます。
もう耐えられない時には、もう耐えられないと叫ぶことができます。
「怖い」「悲しい」「私にはもう力がありません」そのように祈ることができるのです。
また、自分の罪や間違いを隠し続ける必要もありません。
「主よ、私は間違っていました。どうか赦してください。私をあわれんでください。」そのように、正直に告白することができるのです。
なぜでしょうか。
主イエスは、私たちの罪のために十字架にかかり、私たちを救うためにご自身を与えてくださったお方だからです。
主は、私たちの弱さをご存じです。そして、私たちの罪の重さもご存じです。
その罪を赦すために、十字架にかかってくださったのです。
自分の間違いを認めても、主の愛を失うわけではありません。
むしろ、自分の正しさにしがみつくことをやめて、主のあわれみにすがることができるのです。

私たちには、主イエスという友がおられます。
主は、私たちが助けを必要とする時に、干上がってしまう川のようなお方ではありません。
私たちの弱さを知りながら、なお愛してくださるお方です。
そして、このお方のあわれみを知る時、私たちもまた、少しずつ変えられていくのではないでしょうか。

おわりに ― 慰められた者が、慰める者へ

最後に、コリント人への手紙第二1章3節、4節を思い起こしたいと思います。

私たちの主イエス・キリストの父である神、あわれみ深い父、あらゆる慰めに満ちた神がほめたたえられますように。
神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。それで私たちも、自分たちが神から受ける慰めによって、あらゆる苦しみの中にある人たちを慰めることができます。
コリント人への手紙 第二 1章3~4節

パウロは、神を「あらゆる慰めに満ちた神」と呼んでいます。
そして、神が私たちをあらゆる苦難の中で慰めてくださるのは、私たちもその慰めによって、苦難の中にある人々を慰めることができるためだと語っています。
私たちは皆、主の慰めを必要としています。
苦しみの中で激しい言葉を語ってしまう時もあります。
自分の弱さを隠そうとして、自分の正しさにしがみつき、ことばが激しくなってしまう時もあります。
しかし、主は、そのような私たちをあわれみ、ご自身のもとへ招いてくださいます。
そして、主から慰めをいただいた私たちは、今度は、隣にいる人の苦しみにも目を向けることができるようになるのではないでしょうか。
相手の言葉を正そうとする前に、その言葉の背後にある苦しみに思いを向ける。
自分の正しさを主張する前に、相手の言葉に耳を傾ける。
そして、相手が間違っている時にも、ただ責めるのではなく、愛をもって真実を語る。
それは、間違いを見過ごすことではありません。
しかし、その人もまた、主のあわれみを必要としている一人の人間であることを忘れないのです。
私たち自身が、主のあわれみなしには生きられない者だからです。

ヨブは、苦しみの中で友のヘセドを求めました。
そして、私たちには、尽きることのない愛をもって私たちを愛してくださる主イエスがおられます。
まず、私たち自身が、この主の御前に出て、心の内を打ち明けたいと思います。
弱さも、恐れも、悲しみも、罪も、主の御前に差し出したいと思います。
そして、主のあわれみと慰めを受けた私たちが、その慰めを、今度は誰かに分かち合う者とされていきたいと思います。

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