2016年3月6日 主日礼拝「ゲッセマネの祷り」
本日の聖書箇所
マタイの福音書26章31〜56節
説教題
「ゲッセマネの祷り」
今週の聖句
「わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのようになさってください。」
マタイ26章39節
訳してみましょう
1777 Jesus is the best foundation upon which to build a solid life.
(イエスは、完全な人生を築き上げるための最高の基盤です。)
1778 You can’t boast in Jesus while you’re preoccupied with yourself.
(自分自身に心を奪われている間、あなたはイエス様を誇ることができません。)
説教メモ
先週より、主の十字架を経ての復活に焦点を合わせて、聖書からの証しを通して学んできております。本朝はゲッセマネの園でのイエス様の祈りのところを見てまいりましょう。
本日の聖書箇所は、次の3つに分けることができます。
- 弟子たちの躓きの予告
- イエス様のゲッセマネでの祈り
- 弟子たちの裏切り
私たちの心の中には常に「雑音」があり、色々な声が響いています。その雑音の中で語られる神さまの御声、悪魔のささやきがあります。しかも悪魔は、時に聖書のみことばなどを用い、まことしやかに語りかけてきます。自分自身の声も聞こえてきます。それらをどのように聞き分けたら良いのでしょうか。どうしたら私たちを幸いに導いてくださる神さまの御声を聞き分けることができるのでしょうか。そして、神さまの御声にどのようにしたら従うことができるでしょう。そのことを、本朝はイエス様を模範として聖書から見てまいりたいと思います。
1.躓(つまず)きの予告
イエス様は弟子たちが信仰を捨てて、ご自身を裏切ることを予告されています。
剣よ。目をさましてわたしの牧者を攻め、わたしの仲間の者を攻めよ。――万軍の主の御告げ。――牧者を打ち殺せ。そうすれば、羊は散って行き、わたしは、この手を子どもたちに向ける。(ゼカリヤ13:7)
このとおりのことが起こりました。
イエス様は続けて、十字架につけられて後、ご自身がよみがえられてガリラヤに現れることを予告しました。
しかしわたしは、よみがえってから、あなたがたより先に、ガリラヤへ行きます。(マタイ26:32)
ガリラヤで弟子たちと再会するのだとおっしゃっています。
さて、自分は大丈夫だ、と言った弟子「ペテロ」。彼は十二弟子たちのなかでおそらく年長者だったのだと思われます。自らが弟子たちの代表であることも自覚していたのではないでしょうか。そのうえで「他の弟子たちが躓(つまず)いても、私は大丈夫です。」と自信たっぷりに言いました。
すると、ペテロがイエスに答えて言った。「たとい全部の者があなたのゆえにつまずいても、私は決してつまずきません。(マタイ26:33)
それに対してイエス様は答えられました。
イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度、わたしを知らないと言います。」(マタイ26:34)
するとペテロは
「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません。」(マタイ26:35)
と言いました。同時に、他の弟子たちもみな同じように「誓って」言ったことが記されています。
その後、イエス様の一行はゲッセマネの園に祈りに出かけました。ゲッセマネの園に着くと、ペテロとゼベダイの子ふたりを連れて祈りに出て行かれました。そして少し進んでいき祈り始めました。するとイエス様は、悲しみもだえ始めました。
2.ゲッセマネでの祈り
そのとき、イエスは彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、わたしといっしょに目をさましていなさい。」それから、イエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈って言われた。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」(マタイ26:38〜39)
その後、イエス様が待たせておいたペテロたちのところに戻ってみるとどうでしょう。彼らは眠ってしまっていました。
それから、イエスは弟子たちのところに戻って来て、彼らの眠っているのを見つけ、ペテロに言われた。「あなたがたは、そんなに、一時間でも、わたしといっしょに目をさましていることができなかったのか。誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」(マタイ26:40〜41)
さらに、イエス様は同じように二度目の祈りをされるために進まれていきました。
イエスは二度目に離れて行き、祈って言われた。「わが父よ。どうしても飲まずには済まされぬ杯でしたら、どうぞみこころのとおりをなさってください。」イエスが戻って来て、ご覧になると、彼らはまたも眠っていた。目をあけていることができなかったのである。(マタイ26:42〜43)
そしてイエス様は、またも同じことをくり返して三度目の祈りをされに進んで行きました。
イエスは、またも彼らを置いて行かれ、もう一度同じことをくり返して三度目の祈りをされた。それから、イエスは弟子たちのところに来て言われた。「まだ眠って休んでいるのですか。見なさい。時が来ました。人の子は罪人たちの手に渡されるのです。立ちなさい。さあ、行くのです。見なさい。わたしを裏切る者が近づきました。」(マタイ26:44〜46)
ルカの福音書22章には並行記事がありますので、少し見てみましょう。41〜43節はマタイの福音書と同じですが、44章をご覧ください。
イエスは、苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた。(ルカ22:44)
これは「血汗症」と呼ばれるものです。血汗症とは、死の危機などの極度のストレスによって引き起こされる、皮膚から血液が滲み出る非常に稀な症状です。イエス様はこれほどまでに苦しまれ、祈られたのです。みなさんはこのような祈りをされたことがあるでしょうか。
イエス様は神の子ですから、ご自分が十字架に架けられ、人類すべての罪を贖うためにこの地上に来られたことは十分に承知していたと思います。しかし、人間としてこの地上にこられたイエス様は、最後の場面でやはり苦しむのです。
私たちは自分自身の願いを祈りの中で神さまに申し上げます。それは正しいことです。しかし、それだけで終わってしまってはならないのです。それは「神さまのみこころを求める」ことです。イエス様も血の汗を流しながら、苦しみもだえ、そのように祈られました。もしかしたら、神さまのみこころを求めて祈るということは、時に苦しみもだえることがあるかもしれません。
「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」(ルカ22:42)
私たちの祈りは、小さなことの積み重ねが必要です。その積み重ねの結果、私たちの大きな問題、人生にかかわる大きな問題や試練をも、神さまにすべてを委ねることができるようになるのです。いきなり大きなことを委ねることはできません。そのように、神さまは私たちを訓練なさいます。整えてくださいます。自分の力ではありません。ですから、たとえ大きな事を神さまに委ねることができたとしても、それは決して私たち人間が誇れることではありません。神さまがそのように導いてくださったのです。主がともにおられ、支えてくださり、それが可能となったのですから、神さまに栄光を帰するべきでしょう。
さて、ペテロとゼベダイの子ふたりは、他の弟子たちよりもイエス様の近くで祈っていました。しかし弟子たちは誘惑に陥り、3回も繰り返し眠ってしまいました。
誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。(マタイ26:41)
イエス様はすべてご存知で、弟子たちをそのように励まされたのですが、弟子たちは3回も眠りこけてしまいました。弟子たちは相当に疲れていました。皆さんも本当に疲れたとき、目をさましていることは難しいと感じるでしょう。ですから、弟子たちがこのように眠ってしまったことは理解できると思います。
イエス様の一大事が目の前に迫っていました。しかし肉体の疲れに負け、3回も同じ失敗をして(眠りこけて)しまいました。もしかしたら、イエス様の危機をあまり理解していなかったのかもしれません。
3.弟子たちの裏切り
イエスがまだ話しておられるうちに、見よ、十二弟子のひとりであるユダがやって来た。剣や棒を手にした大ぜいの群衆もいっしょであった。群衆はみな、祭司長、民の長老たちから差し向けられたものであった。イエスを裏切る者は、彼らと合図を決めて、「私が口づけをするのが、その人だ。その人をつかまえるのだ。」と言っておいた。それで、彼はすぐにイエスに近づき、「先生。お元気で。」と言って、口づけした。イエスは彼に、「友よ。何のために来たのですか。」と言われた。そのとき、群衆が来て、イエスに手をかけて捕えた。(マタイ26:47~50)
イエス様はユダが何をしに近づかれたのかをご存知でした。これから起こることはすべて知っていました。しかし、ユダが最後の最後にユダが改心することを、大きな犯罪を思いとどまることを願われておりました。ここに主の人としての優しさがあります。ユダは非常にまじめな人間でした。それ故に一行の財布を預かっていました。そのユダがイエス様を裏切ったのです。
誰かがその悪い役割を担わなければなりませんでした。それが「ユダ」だったのです。ユダの裏切りがあってはじめて、イエス様の十字架がありました。その一面において、ユダの役割というのは大切だったのです。神としての主は、「すべてこうなることは、預言者たちの書が実現するためなのだ」ということを十分に承知していました。
すると、イエスといっしょにいた者のひとりが、手を伸ばして剣を抜き、大祭司のしもべに撃ってかかり、その耳を切り落とした。(マタイ26:51)
ヨハネの福音書には、耳を切り落とされた者の名が記されています。
シモン・ペテロは、剣を持っていたが、それを抜き、大祭司のしもべを撃ち、右の耳を切り落とした。そのしもべの名はマルコスであった。(ヨハネ18:10)
イエス様は、たとえ大変な不利な状況の中でも、剣を抜くことを望まれませんでした。
そのとき、イエスは彼に言われた。「剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。それとも、わたしが父にお願いして、十二軍団よりも多くの御使いを、今わたしの配下に置いていただくことができないとでも思うのですか。だが、そのようなことをすれば、こうならなければならないと書いてある聖書が、どうして実現されましょう。」そのとき、イエスは群衆に言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってわたしをつかまえに来たのですか。わたしは毎日、宮ですわって教えていたのに、あなたがたは、わたしを捕えなかったのです。しかし、すべてこうなったのは、預言者たちの書が実現するためです。」そのとき、弟子たちはみな、イエスを見捨てて、逃げてしまった。(マタイ26:53~56)
イエス様が予告されたとおり、弟子たちはみな、イエス様を見捨てて逃げてしまいました。
イエス様はペテロや他の弟子たちがご自身を見捨てて逃げてしまうことをご存知でした。少し前の場面では次のように予告しておられます。
イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたはみな、今夜、わたしのゆえにつまずきます。『わたしが羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散り散りになる。』と書いてあるからです。しかしわたしは、よみがえってから、あなたがたより先に、ガリラヤへ行きます。(マタイ26:31~32)
弟子たちがみなイエス様を捨てて逃げてしまうことと同時に、ご自身がよみがえられた後にガリラヤに行かれ、そこで弟子たちと再会を果たすことをも予告しておられます。実際にそれは実現されました。
「ガリラヤ」。
そこはある時は、十二人の使徒たちが様々な訓練をされたところでした。
ある時は、嵐のガリラヤ湖の上で、主に叱られたこともありました。風に向かって一晩中舟をこぎ続けたこともありました。
そんな思い出のあるガリラヤで、イエス様は弟子たちを待っているとおっしゃいました。それは、そこで弟子たちがもう一度立ち直るためです。三度主を知らないと否んだペテロを立ち直らせたのもそこ、ガリラヤでした。
幸いなことに、ペテロをはじめ、弟子たちはみなそこで立ち直りました。彼らの信仰は、「ガリラヤ」で立ち直ったのです。
私たちは、たとえ躓いても、たとえ失敗しても、主イエス様は私たちにとっての「ガリラヤ」で待っておられます。私たちにとって「ガリラヤ」とはどこでしょうか。私たちが再び力づけられ、励まされ、信仰を回復していただけるガリラヤはどこでしょうか。私たちも何度も何度も躓きます。倒れます。そのような状況の中で、私たちは私たちのガリラヤで主とお会いするのです。
私たちは決して、裏切った弟子たちを責めたり笑ったりすることはできないでしょう。私たちはみな弱い者なのです。失敗だらけの者たちです。しかし、そんな私たちのすべてをご存知の主イエス様が、やがて私たちの信仰を回復してくださる主イエス様が私たちにとっての「ガリラヤ」で待っておられます。
失敗もあるでしょう。挫折もあるでしょう。しかし、イエス様がそこで待っておられます。